鮫島くんのおっぱい

とびらの

さよなら地球

 鯨が悲鳴を上げたのは、梨太が職場と友人知人親戚、税務署、市役所や携帯電話会社に至るまで電話をかけまくり、だいたいの「失踪」の支度が済んでからのことである。

 元々、日本を出る準備をしていたのが幸い。しかしさすがに、不動産の権利関係は簡単にはいかず、梨太は右耳で弁護士と会話しながら、左耳で、鯨のクレームを聞き流していた。

「は!? なに? なんだって? ばか、なにいってんの。だめよ。無理! どうして?」

 クレームと言ってもこの程度で、聞く必要はない。梨太はいったん電話を切ると、すぐにまた、別のところへ電話をかける。

「――おかあさん。ごめんなさい」

 鯨は一度、口をつぐんだ。

「ご迷惑をおかけします。少なからぬ手間を、お願いすると思います。……長らくお世話になりました。さようなら」

「……リタ君。正気か」

 鯨の声音は、なぜか、心配性の母親のようであった。

「君はこの地球で、この町でこれまで賢明に生きてきたのだろう。それを全部捨てるつもり?」

「いやあ、もともと外国にいって、場合によっちゃ永住する覚悟だったし。それに、故郷を巣立つのは捨てるってことじゃないでしょ」

「そりゃあ……いや、違う、じゃなくてっ、そもそもなんでわたしが連れてってやるとか一言も言ってないのに勝手に進めようとしてるのよ!?」

 梨太は振り返った。スマホを床へ置き、立ち上がる。

「だって鯨さん、僕が欲しいんでしょう」

 鯨よりも、ほんの少しだけ高くなった背丈。裸足の彼女と視線を合わせ、梨太はまっすぐ、言葉を突き刺した。

「具体的に、なにをさせようってのかはわかんないけど、なにか僕にやらせたくて迎えにきたんでしょう。
 ……逮捕された騎士団長を、釈放するための情報収集に来ただなんて、うっすい嘘。そんなことのために、星帝皇后であり『ただの女』が、私財はたいて一人でくる理由がどこにあるんだよ。それこそくじらくんで聞けばいいだろうに」

「そ、それは……」

「どうせまたちょろちょろと身辺調査もしてんでしょ、僕の帰宅にあわせて偶然侵入なんてご都合主義、あり得ないは言わないけども、そんな奇跡頼みで動くようなひとじゃないよね、あなたはさ」

「……。すまぬ」

「で、僕が現在独身フリーってくらいは調べてるよね? そして、鮫島くんのことを、忘れていないってことも」

 鯨は首を振った。

「さすがに、心の内までは調べようがいないよ」

 つまり、それ以外のことは調べつくしたということだ。梨太は確信を込めて、胸を張る。

「僕、役に立つよ」

 鯨が目を細める。

「……きっと、あなたと、鮫島くんの助けになる。だから……僕を、ラトキアへ連れて行ってください」

 梨太は身を屈め、フローリングに膝をついた。そのまま体を丸め、額を床へ押し当てる。

「お願いします」

 鯨は静かに、それを見つめていた。天空色の瞳が、高みから見下ろす。豊かな胸元で腕を組み、彼女は告げる。

「……リタ君。たしかに、このわたしが地球へきたのは調書のためだけではない。だが、君を迎えに来たというのは自惚れだ」

 梨太は顔を上げた。鯨の言葉は真実であるようだった。

「わたしがこの星に来たのは、完全に別件なのだよ。個人的に……この星に、この日本に来てみたかっただけなのだ」

 梨太は目をギラリと強く輝かせた。傲然と胸を張る星帝皇后に向かって、ボソリとひとこと。

「……チーズたっぷりのミートボールスパゲティ」

 呟いた言葉に、ぴくりと、鯨の眉が動いた。さらに言葉を追加する。

「りんごとはちみつのカレーライス。ニンニク醤油のからあげ。ふわっふわ卵の親子丼」

「う? ううっ」

「おあげさんから甘いツユがじゅわっとあふれ出すきつねうどん。ごはんの親友ショウガ焼き」

「ううっ――」

「外はかりっと中はふわとろ揚げたこやき、砂糖醤油タレであぶった芋餅、おでんの主役はほくほく大根」

「ううううう」

「今言ったやつくらいなら作れます。他にも、料理名がわかればスマホでレシピググりますし。僕、変な冒険しないから、大抵忠実に再現できるでしょう」

「う……む、ううう」

「日本の飲食店の入れ替わりは激しいですよ。かつて騎士たちに聞いたオススメの店、今でも同じところにあるとは限らないんじゃないですか。なんならもっとオススメのところに連れて行ってあげてもいいですよ。ていうかメニューブック読めるんですかね」

 鯨は口元を大きくゆがませ、不敵な笑みを浮かべた。

「ふ……ふふ。ラトキア軍の総大将であり、皇后であり、武成王の末裔であるこのわたしを、そんな庶民の食い物で釣ろうというのか? 本当におまえという男は、厚顔なことよ」

「あ、スキヤキですか? 海外だと生卵が出てこないんだよね」

「……作れる?」

 梨太がうなずくと、鯨はすぐに相好を崩した。強張らせていた口元を、笑みの形に持ち上げて、彼女は笑った。
 少女のような顔で、高らかに笑い続けていた。


 それから――梨太は、出立の準備に丸一日の時間を要した。作成した書類はやまのごとし。社会人が一人、なるべく誰にも迷惑をかけずに失踪するのは簡単ではないのだ。

「……抜かりないねえ、君は」

 半眼になって、鯨。そういう彼女は、自分なりに日本観光を堪能していた。
 食べ歩きはもちろん、あちこち観光へも出かけたらしい。当初凛々しい軍服姿であった彼女は、全身の衣装を様変わりさせている。

 はやりのギャルファッションに和服帯をつけキモカワイイマスコットのキーホルダーをぶらさげて、浜名湖と印字された木刀をウナギ型のリュックに差し込んで、上から奇妙なパーカーをかぶっていた。
 パーカーの胸元にある印字を、梨太は真顔で読み上げた。

「……『ハマグリ剥いちゃいました』。どこに売ってるのそれ」

「以前、虎から紹介された店だ。地球ではこれがおしゃれだからと」

「大きくお間違えです、将軍」

「聞いたのは五年前だからな。流行はもう過ぎてしまったか」

「そう言う問題じゃないって」

 一応つっこみはするが、無理矢理脱がしてやるほど親切ではない。本人が恥だと思っていないのだし、梨太が口を出すことじゃないだろう。
 そして荷物の最終確認。季節の洋服、医薬品とサプリメント。念のための携行食糧。衣服は四季のものを最低限。

「……この箱やらパックやらは何だ?」

「酵母と麹菌。それと紫外線で育つバイオ大豆。僕、海外経験も多いから白いご飯ナシの食卓も一応過ごせるんだけどさ。できれば醤油と味噌汁は欲しいよね」

「うん?」

「それから種と冷凍魚卵。もちろんラトキアの生態系壊すような使い方はしないですからね、そこはご安心を。できればクマムシとダイオウグソクムシを連れ込んでみたかったけど」

「全くわからないけど君の本気度は伝わった」

 また大きな嘆息、のち、彼女はやわらかな笑みを浮かべた。
 もはや梨太の渡航に抵抗する様子はもはやない。それは食べ物に釣られたからだけでないことは明白だった。
 いまだ、彼女の目的は語られはしないが――

(僕の価値っていったら、生体環境学科学者の知識とノウハウ、小賢しいアタマの回転くらいのもんなんだよなあ)

 それだって、惑星の要人が銀河をわたって迎えにくるほどでないと自覚していた。だがほかに思い当たるものがない。

(まあいい、なにかの役に立てればそのぶん、追い返される確率は減るんだ。積極的にアピールしていかないとね)

 すでに通信は解約してしまったスマートフォンも、充電器と一緒に放り込む。とりあえず使い捨てバッテリーの数だけは、アプリの使用やデータ閲覧はできるだろう。ラトキアで充電やデータの移し替えができればなおいいのだが。
 大きなトランク、登山用の巨大なリュック、そして身軽になれるメッセンジャーバッグに必需品だけを詰め込んで。

「……よし」

 梨太は立ち上がった。

「準備オッケー。いきましょう、鯨さん」

「本当にいいのか」

 鯨は最後の確認を行った。すべてを見透かすような天空色の瞳を細めて、

「何度も言うが、わたしは君の生活を保証などしない。ラトキアについたところで、穏やかな生活ができると思うなよ」

「わかってますって」

「……きっと、今の地球で暮らすよりもずっと、君は苦労をする。二十四年かけて作ってきたすべてをなげうって、まったく見知らぬ土地の、誰も味方のいない社会へ飛び込むのだ」

「誰も、じゃない。鮫島くんがいる」

「……鮫の、今の気持ちはわたしにもわからない。あれは星帝になることを了承したのだ。君の存在は、きっともう、過去のこととして清算されている……」

「だけどあなたは、彼に会わせてくれるんでしょう?」

 鯨は肩をすくめた。

「ラトキアでは、自殺志願者にはその権利を認めている。一応、説得はするが、それでも死にたいというならいっそ安楽死を提供しているんだ。あちこちで勝手にしなれては、街が汚れるからな」

 にひひ、と、梨太は笑った。

「生きるも死ぬも自己責任、その概念、僕は好きだなあ。ラトキアでうまくやっていけそうだ」

 そうして、彼らは出立した。

 四人乗りだという、軽自動車サイズのエア・ライドは自動操縦機能までついているらしい。鯨は前席シートにふんぞりかえってリラックス、後部シートの梨太は、ずっと街を見おろしていた。騎士たちのものにはなかったミラーステルスバリアに包まれて、霞ヶ丘上空をのんびり飛行する。

 十年――この街で、梨太は暮らした。

 親のいない少年を、この街の大人たちは優しく暖かく、包み込んでくれた。
 十年という年月で、霞ヶ丘市はほんのすこしだけビルの数を増やしたが、上空から見おろす限り、やはり田舎である。閑静な住宅地に整然とした田畑。ぬるい冬の風にまじる、やさしい土と緑の香り。公園で遊ぶ子供たち。
 ここちよい不便さのなかにある、穏やかな生活。

「あ、霞ヶ丘高校」

 梨太は呟いた。その裏山は五年前から開拓の手がはいり、閑静な高級住宅地になった。ちいさな駅は住人用に本数を増し、周囲に店舗も増えたらしい。

「……懐かしい、霞西中学。僕、二年生の時にあそこへ転校してきたんです」

 相づち程度に顔を向ける鯨。
 彼女がほとんど聞き流していることを知りつつも、梨太はおしゃべりを止められない。
 独り言のように、街を、半生を、語り続ける。

「十四歳の時に、あの一軒家にひとり、引っ越してきて。……そこのホームセンターで家具を買って。買った後で、配達サービスがないって初めて知って――」

 困り果てていたところを、受付の社員が店長と相談し、親切で軽トラックを出してくれた。

「玄関先でベッドと格闘してたら、ご近所さんが寄ってたかって手伝ってくれたんだ。ついでに、余ってたものだからって、食器とか洋服とか、食べ物まで持ってきてくれてさ」

 東に向かって続く線路をたどれば、市役所ちかくの、霞本駅に。新幹線に乗り換えれば、日本のどこにだって続いている。

「こんなに海が近いってのは、住み始めてから知ったんだ。砂浜がとてもきれいだった。生まれたとこは、海はすぐ近くだったけど、磯の崖っぷちで、真夏でも冷たい海だったから――」

 なにもかも故郷と違う街。
 だけど、海の色は同じ、空をうつした青色だ。海は大陸に遮られても、空で果てしなくつながっている。梨太の生まれ育った北の地にも、あるいはこの地球のどこにでも。

 どの国に住んでいたって、そこは梨太の故郷であった。

(さようなら、霞ヶ丘)
(さようなら、北見信吾)

 十四歳当時、その世界はとても狭かった。隣町で別世界に来たような心持ちだった。
 もっとずっと、遠いと思っていた。縁が切れたと思っていた。生まれ変わったようなつもりでいた。
 だがこうして、ほんの少し高いところから見おろせば、大地は果てしなくつながっている。

 陸路がとぎれ海を隔てようと、言語や文化が変わろうとも、人と人はつながっている。友情をはぐくみ、愛しあうことすら簡単にできる。


(さようなら、地球――)


 大きな故郷に、梨太は目を閉じ、別れを告げた。

 冷凍睡眠カプセルで、ゆっくりと体温を奪われる。しばらくはそれを感じていたが、やがて梨太は、柔らかな眠気に浸っていった。

 次に、目を覚ましたのは二百時間ほどのち――


 そこはもう、惑星ラトキアであった。


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