鮫島くんのおっぱい

とびらの

はじまりのはじまり

 薄い氷を、ランニングシューズで踏みつぶす。それは意図してそうしたわけではなかったが、足下で鳴るパリパリという音は小気味が良い。
 梨太はふっと笑みをこぼした。一時間、こうして走り続けて疲れ果てた体に力が戻る。ラストスパートをかけ、寮の入り口まで一気に駆け抜けた。

「ぶはっ」

 腹の中から、空気を押し出す。火照った体に冷気が心地よい。凍てつく冬の酸素はこれ以上もなく清浄で、神聖ですらあった。
 浅い呼吸を整えながら伸びをすると、一気に汗が噴き出してくる。真っ赤に上気した頬を手の甲で拭った。

「お疲れ。栗林博士。昨日より二分早いわよ」

 ねぎらいの声に振り向くと、金髪の長身女性がそこにいた。ナスティア博士――この海洋生物研究所でともに働く、同僚である。
 タオルを投げてよこしてくれるのを受け取って、梨太はいたずらっぽく微笑んだ。

「タイム計ってたの? いいよそんなの。別に、アスリート目指してるわけじゃないんだから」

「あら、大事なことよ。自分の成長を目に見える形で出すってのは。テストと違って正解不正解があるわけじゃないんだし。目的のない体力づくりなんて、自分との戦いでしょ。モチベーション維持に記録は欠かせないわ」

「もう四年も続けてるんだよ、今更」

 そう言って、トレーニングウェアを脱いでしまう。

 芝港水族園、そして海洋研究所所員の朝は早い。

 冬はまだ真っ暗闇のうちから起き出して、生物たちの様子を確認し、場合によっては早急に医療行為を行う。それがすんだら、いったんはやることがない。
 ヒマをしているらしい、海獣医ナスティアは、所員寮へと戻る梨太の後ろを延々ついて歩いた。

「タフねえ、栗林博士。このあと研究業務について、夜はウェイトトレーニングしてるんでしょ」

 コツコツと、ヒールの音。梨太は背中で相槌を打った。なぜか不満げにナスティアが続ける。

「……時間がもったいないと思わないの? あなた、自分がどれだけモテるか知らないわけ。これ以上自分磨きしてたって時間の無駄でしかないでしょうに」

 べらべらと、やけに饒舌な同僚。梨太は足を止め、振り向いた。

「無駄じゃないよ。必要だからやってるんだ」

 琥珀色の瞳が、強く輝く。ナスティアは思わず身じろぎした。

 二十四歳になった青年。八年前、ネットスクールで出会ったとき、この男は小さな子供であり、少女にしか見えなかった。直接対面した本人は、背丈は伸びてもやはり幼くけなげであった。
 だが今は――
 ナスティアと同じ、視線の高さ。顔立ちこそ高校生から変わらない愛らしさで、彼はにっこり、笑った。

「このへんはナスティアの言うとおりごもっともだよね。人間、目的がなきゃ何年もストイックに努力なんてできない。しかも僕、どーやっても筋肉膨らまないみたいでさあ。なっかなかビジュアル変わらなくって、鍛えてる実感わかないんだよねえ」

 なにやら愚痴っぽいことを言う。
 なんとも返答しがたいナスティアに、梨太はにこやかに言った。

「必要なんだよ。でないと一次書類審査で受け付けてもらえない」
「……えっ?」

 唐突な言葉に、キョトンとする。それにかまわず、梨太は続けた。

「二十歳以上、自然科学系の大学卒業、博士号取得、実務経験。特殊な技術。有象無象のライバルに負けない個性的なスキルと、協調性や精神力、そして体力。……どれもこれも、四年前の僕にはなかった。やっとだよ、本当に。やっと――」

 梨太は足を踏み出し、たたずむナスティアの正面にたった。鼻先が触れるほど近づいて、

「ナスティア、身長、何センチ?」
「……百六十六よ」
「ふむ。ヒールは、五センチってとこかな」

 そうよとうなずくと、梨太はにっこり破顔した。ふふっと明るい笑い声。

「ちょびっと、だけ、僕の方が高いね」

 そうして上機嫌なまま、小走りにその場を後にした。


 軽い足取りで、寮へと戻る。簡単にシャワーを浴びて本職業務用に白衣を羽織ると、長めの前髪を撫でつけて、その精悍な眉を鏡に映した。

 たしかに、自称する通り彼の姿は四年前と大差はない。
 それでも、その差が表す意味こそ大きなものだった。

 平均を少し下回っていた背丈が平均並になり、少女じみた少年だったのが、中性的な男になった。
 髪を掻き上げる手首はしっかりと太く、走り込んだ下半身は安定しグラつかない。自分のことで手一杯だった少年が、自分の食い扶持を稼げるようになった。
 少しばかり余裕ができて、他人を救えるようになっていた。

 自室の壁に、ちょうど百七十センチの高さで印のついた板が立てかけられていた。その横に並んで、鏡に映して確認する。ほんの少し、頭骨がはみ出す。

「……よしっ」

 デスクに置かれた、浅く焼けた肌色に、研究と労働で傷だらけの男の手。その手のひらの下に、エアメールの封書があった。印刷用紙に英語の一文。


 ――宇宙飛行士訓練生応募要項――


 凍てつくような真冬の早朝。
 まだ薄暗い空は、まるでこれから宵へと暮れていくかのようでもある。
 だが梨太は、これが夜明けの前兆であることを知っている。琥珀色の瞳に、青みがかった黒の空を映して、梨太はまっすぐに天空を見上げていた。

 胸元にさがる、サメの牙を握りしめ、丸みのある唇で、ささやく。

「――会いに行くからね」

 強くて優しい声だった。

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