鮫島くんのおっぱい

とびらの

鮫島くん、ナンパされる

「こんにちは」
 と、声をかけてきたのは、自分の知らない男だった。
 俯いていた顔を上げて見る。

 自分の使いで席を離れた梨太ではない。
 あの可愛らしい栗色の髪よりも明るい頭髪を、左右非対称の形に刈り込んだ地球人である。
 その後ろに、もうひとり、黒髪の男。こちらのほうが体重はありそうだ。
 うまく鍛えれば伸びそうな筋肉の質感をしているが、いかんせん姿勢が悪い。やけに細身のズボンも動作性が悪そうだし、なにより腰元に巻いた鎖のようなものがジャラジャラと騒々しい音を立てている。その先には財布と思しき長方形の革袋。どうやら鎖は、うっかり財布を落とさないようにぶら下げているものらしい。
 物忘れが激しいのだろうか。これらの気質、なにもかも騎士には向いていない。

 手前の金髪男がにっこり笑い、こちらに身を屈めて接近している。

「……こんにちは」
 とりあえず挨拶を返してみる。

 二十歳を数年過ぎた年頃だろうか、雄体時の自分と比べても背が高い。顔を合わせたとたん、彼は穏和に垂れた目を見開いて、
「うわっ。間近で見たらまじで、すっげぇ美人」
 そういって、楽しそうに笑う。

 いったい何の用だろう、彼は無言でじっと男を見上げた。

 もしかして梨太の知り合いかと思い至り、自分が使いに出したショップを指さして案内しようとする。が、次に男が言ったのは完全に想定外のものだった。

「あれって彼氏? もうほっといて俺らと行かない?」
 奇妙な提案に驚く。

「どうして?」

 男は肩をすくめ、さらに顔を近づけてきた。吐息がかかるほど顔を寄せて、
「一目惚れって奴かな。さすがに男連れは気が咎めたけど、なんか気まずそうにしてたから。めんどくさくない?
こっちのやつは大丈夫、クルマだけこいつのだから乗せてもらうけど、途中で気をきかせてくれるから。彼氏クンがアイスなんか買ってる間に、こそっと抜けちゃおうよ」
「……やっぱり、よくわからないのだけど」
「あれ、結構天然ちゃん? 可愛いなあ」
 男ふたりは嬉しそうに笑った。

 職業軍人となって十年余り。さすがに、全く鈍感なわけではない。雌体化した自分が女性として口説かれているのだと理解はできていた。ただ、内容そのものがどうにもピンとこないのだ。癖のある聞き取りづらいイントネーションで的外れなことを言ってくる男を、扱いかねてじっと見上げる。

 一度、視線を梨太のほうへやってみた。ちょうど店員が氷菓子を持って彼に手渡そうとしている。梨太は支払いをしているらしい、こちらに背を向けたままだった。
 その後姿をみつめたまま、男たちに答えを返す。

「別に、喧嘩をしてたわけではない。おまえは自分の連れていた女性と帰った方がいいと思う」
 男の眉が跳ね上がる。
「ん、何の話? 俺はコイツと、男二人で」
「柱状の展示フロアで右隣にいた。イルカショーの間に後ろの席。二人とも女性を連れていた」
 告げてやると、あはははっと軽く笑い出す。
「なぁんだ、君も、俺のこと気にして覚えてくれてたの?」
「数秒間以上の視線を感じたら相手の位置と顔を確認し、覚えるようにしている」

 鮫島の言葉はまるっきり軍人としての威嚇であったが、男には伝わらなかったようだ。
 軽く首を傾げると、なんら気にすることもなくさらに続ける。

「誤解だよ、隣にいたのはココに入る前に出会って、ちょっといっしょに歩いてみただけで、もう別れたから」
「そうそう。俺のほうはライン交換したけども、コイツは間違いなくフリーだぜ」
 黒髪のほうが援護してくる。

「これで結構、一途な奴だから、付き合ってみなよ。
コイツ、大学でも超モテで、クリスマスなんか争奪戦。でも、その取り巻き連中のなかに君より美人はいなかったね。お似合いだよ? いいじゃん。お互いパートナーのランクアップってことで」

「ランクアップだと?」
 驚き、顔を引いて、視界に男の全身を入れてみた。

 年は確かに、梨太よりも少し上だろう。
 長身に薄い肩。バランスの悪い体幹のため、骨盤が傾いている。染料を塗っているのだろう、不自然な黄色い髪を複雑な形に跳ねさせて、香料のにおいが鼻についた。顔面の骨格は左右対称に近く、細い鼻に薄い唇。斜めに下がった目だけがやたらと大きい。ほんのわずか、下顎の形が歪んでいた。微妙に歯並びが悪く、片噛みのクセがあるらしい。あまり堅いものを食べないのかもしれない。偏った食生活の人間だ。

 大学、というと、地球では梨太のようにとても頭のいい人間がいくところだと認識している。この男も、リタと同じくらい頭がいい? そうは見えないし、たとえそうだとしても、他の部分がなにもかも足りない。

 思わず、首が傾いだ。
「……どこが?」
「っな、このっ――」
 男の顔色が変わった。
 柔和に垂れていた目に暴力的な色が差す。

 その変化を察し、素早く立ち上がった。どんな攻撃にも反撃できるよう、軸足を引き、正面から対峙して――


「っととと、おまたせっ!!」
 その中央に、梨太が強引に乱入してきた。両手に持っていたソフトクリームを二つ、男ふたりに押しつけて、

「どーもすみません、このひと外国人で、日本語ちょっと不自由だから、失礼なこと言いませんでしたか?」
「あ?」
「はいこれお詫びにあげる! バニラとチョコどっちがいい? お好きなほうをどうぞどうぞ。どっちが好き? どっちにします?」
「え。バニラ」
「オレはチョコ」
 はいどうぞとそれぞれ手渡され、反射的に受け取った男二人が目をしばたたせる。

 梨太はかまわずまくし立てた。
「ごめんなさいね、悪気はぜんぜんないんですよ。ははは、それで今夜彼女日本から帰っちゃうから、今日は楽しい思い出だけにしてあげたいのです。勘弁してやってください。それじゃっ」

 キレよく敬礼のような所作をして、鮫島の背中を押して走り出す。後ろで男達が抗議の声を上げるよりも早く、二人は遊具の陰へと抜けて、その場を退散した。



 移動距離は十数メートル程度、男の視界から消えた位置で、鮫島は身を翻した。背中を押していた梨太がつんのめる。鮫島は腰に手を当てて、梨太を見下ろす。

「……何のつもりだ。嘘ばかり言って」
「とっさに逃げやすそうな言葉並べただけだよ」
「逃げる必要もなかった。あんな軟弱な、優男ふたり」
「だからそんなの相手に喧嘩しないでよ、惑星最強の英雄さんが。何言われたか知らないけどただのナンパでしょ。あれくらいあしらえないとキリがないって、鮫島くん、可愛いんだから」

 鮫島がシャックリをしたような顔で言葉を失った。

「ああいうのはサクっと躱すのがイチバン。もうちょっとほとぼりを冷まして――」
 梨太は、自販機の陰に身を隠しながらあたりを見渡す。
 すぐそばに、観覧車の受付があった。ゆっくりと回転するワゴンはすいており、行列もない。手元のチケットと料金を確認する。

「……ちょうどだ。鮫島くん、アレに乗ろう」
 了承を得ずに勝手に向かうと、彼はすこし戸惑ってから、それでも黙ってついてきた。


 遊園地の象徴的アトラクションである、芝港大観覧車「ホワイトクルーソー」。
園のスケールの割には大きなものだった。一周三十分。頂上あたりからは海が見えるという。
 ワゴンの中に入るとすぐに、蒸せるほどの熱気が二人を包んだ。アクリル窓から差し込む夕日がシートを染めている。一枚は格子窓になっていたが、対に抜ける窓などがなく、風があるぶん外の方が涼しいくらいだ。
「あちゃぁ、冷房がない。暑いね。失敗したかな」
 とりあえず向かい合わせに座った席でいう。鮫島は黙って、一度頷き、すぐに首を振った。
 また、無言の時間がやってきた。
 ゴウン、ゴウン、ゴウン。静寂の中、機械の稼働する鈍い音だけがよく聞こえる。会話があれば聞き取ることなどなかっただろうが。

 ちょうど海が見え始めたときだった。

「……リタには、礼を言うべきなのだろうか」

 鮫島がつぶやいた。梨太はすぐに理解する。

「ああいう強引っぽいのほど、ナンパするのに慣れてて、フラレるのにも慣れてるから、普通に断ればすんなり引き下がるよ。逆に変な対応するとムキになるからさ。
あ、それとももしかして、付いていきたかった?」

「まさか」
 鮫島は即答した。その反応は予想通りだったが、
「タイプじゃない」
 続いた言葉は、奇妙な言い回しだと思った。

 鮫島は視線を梨太の後ろへやり、続いて自分の背後を振り返った。ごうんごうんと騒音を立て、少しずつ高度を増していくワゴン。眼下の景色を指さして、

「リタ、そちら側からは、建物しか見えないのでは?」
「そうだね。海は僕の背中だね」

 頷いたが、それで鮫島が席を交代しようかと提案してくれるわけではない。彼はただ、ほんの少し、隅に寄った。その分だけ、ほんの少し、シートの空きスペースが増える。

 梨太は無言で、そちら側へと移動した。
 並んで腰掛ける。

 ごうん、ごうん、視界が持ち上がり、堤防の果てに青色の水面が覗く。芝港の海だった。

 海を見るのは初めてだと、鮫島は言った。朝からとても楽しみにしていた。
 だが実際に目の当たりにできたこの瞬間とき、彼はそちらを見ていなかった。

 膝に置かれた自分の手をぎゅっと握る、少年の手を見つめていた。

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