鮫島くんのおっぱい

とびらの

梨太君のコミュニティ

 スタッフルームから二度扉をくぐると、受付周辺用の備品倉庫にたどり着いた。

 秋以降から配られるという、オルカの箸置き。丸いフォルムにデフォルメされた全身図は、タチウオのボールペンとは比べ物にならないほど可愛らしい。どうして一番混雑する夏休み時期にこれを配らなかったのかと聞くと、ほっといても来る時期だからこそだという、性格の悪い返事があった。

「かわいいー……」
 率直すぎる鮫島のつぶやきに、ナスティアも苦笑い。

「喜んでもらえてうれしいわ。いい子ね。もっと可愛いものを見せてあげましょうか?」
「ちょっと、ナスティア」
 梨太の咎める口調に、金髪美女は負けはしない。

「何か問題でも? 『こどもたち』の健康状態は良好よ。それにあなたのシゴトでしょ、リタ」
「……だからこそだよ。また、明日にでも顔だすから、今日はお客様させてよ。彼女はこの道に何の興味もない素人だ。貴重な時間使わせて、僕らのオタクトークなんか聞かせられないよ」
 鮫島がかすかに眉をしかめた。

 彼の表情の変化は小さく、常にわかりにくい。梨太はたぐいまれなる観察眼で持ってその感情を把握しているが、今回に限ってはなぜか、ナスティアのほうが先に気が付いた。
 赤い唇にいじわるな笑みを浮かべて。

「……リタ。なんだかんだ言っても、あなたってまだまだコドモね。それともいっぱしの男だからかしら。女心がわかっていないわ」
「何の話さ」
 むっ、と不機嫌な顔を剥けるリタ。はるか年上の美女はクスクス笑う。

「たしかに、興味のない男の仕事の愚痴ほどウザったいものはないけれども、興味のある男の仕事の話なら、女はぜひ聞かせてほしいものなのよ。カッコイイところもカッコワルイところも、両方ね」
「……。別に、あれは僕の成果じゃないし。まだ成功の結果も出てない」
「そういう一番モヤモヤする時期にこそ、共感させてほしいのにね。ねえ、そうでしょ御嬢さん?」

 突然矛先を向けられて、鮫島が目をぱちくりさせた。何を言ってるのかわからない、と返事が来るかと思いきや、意外にも、顛末をすべて理解していたらしい。
「除け者のようにされるよりは、煩いほどの愚痴を聞いていたいと思う。リタが嫌でなければだけど」
 言葉を失う梨太。ナスティアはいよいよ嬉しそうに高笑いを上げると、鮫島の背中を叩き、一度スタッフルームへと誘導した。

 順路のほうまで出て、向かいにある別の扉まで引いていく。梨太は黙って、二人の女の背中を追った。
 完全なるスタッフ専用通路である。ナスティアはそこをどんどん進んだ。やけに明るい、細長い廊下。途中いくつもの扉があり、ひょいとスタッフが顔を出す。
 さらに一枚、鉄の扉。
 その奥に進むほど、いきなり開けた空間に出た。

 オフィスのような、明るい大部屋。デスクの代わりにいくつもの水槽がずらりと並んでいる。そこには水族館の作業装束ではなく、スーツや白衣を着た者がほとんどだった。
「……ここは?」
「芝港海洋生物研究所よ」
 鮫島の問いに、ナスティアが答えた。

 梨太が補足する。
「先に言ってたろ、表の水族館はあくまで客寄せの展示。ここが、この施設の本業である研究所なんだ。
繁殖とか、元気がない魚の療養とか、死因の検証とか。もうひとつ向こうの部屋では、水質管理だとかも、いろいろやってる」
「新種の検証もやってるわよ。ココで、あたしたちによって名前を与えられた生き物はたくさんいるんだから」
 聞いた鮫島はキョロキョロと顔を巡らせながらも、いまいちよくわかっていないようだった。観光施設と研究所の表裏一体のシステムを理解するのには、言語よりも文化の壁があるらしい。

「トニーヴィチェ博士、お疲れ様です――あっ、栗林さん。いらっしゃい」
 スーツの男が、きさくに声をかけてきた。まだ若い男性スタッフである。使い込んだ白衣を見るに、水族館ではなく、研究員なのだろう。梨太はぺこりと頭を下げて、愛想のいい笑みを浮かべた。

「吉原さん、おひさしぶり」
「はい、おひさしぶりですね。去年のスカイプ以来ですか? お会いできてうれしいです。『ドロップス』簡易版の販促動画、ネットで見ましたよ。イイカンジですね」
「えっ本当? まだ露語のままだったでしょう」
「もちろんナスティア博士に助けてもらいましたよ。でもニュアンスがねえ。日本語版はいつアップするんですか。こないだのイベントで流してたんでしょ」
「あー、ちょっと今は再編集、スタッフクレジットの部分を修正中なんだ。修正前のでよかったら、吉原さん宛にメールしますよ」
「おお、本当ですか!? 楽しみにしてますからね俺」
 と、はしゃいだ声をあげてすぐに、後ろの鮫島に気がついたらしい。慌てて頭を下げる。
「あっ、失礼。こちらもドロップスチームの?」
 梨太は苦笑した。

「いや全然。ごめんなさい、今日は友達と遊びに来ただけなの。彼女に奥を見せてもいいかな」
「え、まあ、栗林さん自身と、博士がいいなら。……つか、え。彼女? へえ?」

 目を白黒させる研究員に、鮫島は無言で頭を傾けた。肯定とも、会釈とも判断しがたい所作に、研究員の戸惑いがよけいに強まる。
 ナスティアも、彼にかまう気概は無いらしい。さっさとラボの奥まで突き進むと、鉄の扉をノックをした。遠慮なく開く。
「ふたりとも、いらっしゃい」
 ナスティアに続き、二人は階段を進む。その突き当たりにまた一枚の扉。最後の一段は白濁水の浅い桶になっていた。靴裏を消毒し、ドアノブをひらく。

 視界が一気に開放的になった。遙かに高い天井、人工的な植物と岩肌のレプリカ。虫のオブジェまである。まるで屋外のような景色に、足下には池――ではない、巨大なプールになっている。

 そこに、六頭のラッコがくつろいで過ごしていた。

「わ!」
 鮫島が大きな声を上げた。

 まんまるの頭部に、まんまるの瞳。
 いかつい爪を持ち近くで見ると意外とデカいが、それを感じさせない、問答無用の愛くるしさ。突然の珍客にもなんら反応するでもなく、ラッコ達は腹を上に出しのんびり遊泳する定番スタイルで出迎えてくれた。
 女の子だったら間違いなくここで甲高い声を上げる――鮫島はどんな反応をするのだろうかと、顔を伺ってみる。

 彼は、呆然としていた。
 そして、ぼそりとつぶやく。

「リタ。……かわいい」
「うん」
「リタ。かわいい。……リタ」
「うん」
「かわいい……」
 なぜか不安げに繰り返すのだった。

 あんたが一番かわいいよという言葉が喉まで出かけたのをやっとの思いで押さえ込み、くつくつと湧いてくる笑いを腹の中にしまい込む。
 うっかり笑ってしまうことで、鮫島が恥じいり、こういった素直な反応を抑えるようになってほしくなかった。

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