鮫島くんのおっぱい
鮫島くんモーニングフィーバー!
夜が明けた。
さわやかな朝。快晴の日差しが窓に差し込み、部屋を明るく照らし出す。
雀の声はやがて蝉の合唱へうつりかわり、壁掛け時計の針は9の数字を指し示した。
その三時間ばかり前にようやっと眠りに落ち、一時間前に起きた梨太は、白む天井を見上げて放心していた。後頭部が痺れている。ずっと寝返りも打たずにいたせいだろか。
異様に重い目をこじ開けて、梨太は首ごと隣を向いた。十時間前とおおよそ同じ安らかな寝顔の、ラトキア騎士団長殿がそこにいる。くうくう、可愛らしい寝息もそのままで。
「……案の定、ものすごくいやらしい夢を見ました」
その声にも何の反応も示さない鮫島。
梨太はタオルケットを引き剥がした。明るい日差しのもと、剥き出しになった麗人をじっくり視姦する。
小さな頭蓋、すんなりとした体躯。狭いベッドからつま先がはみ出しそうな長い足。
目算、身長一七五センチ。細長い印象は背丈による対比のせいであり、決して痩せこけているわけではない。梨太より体重がある可能性は高い。
横向きで眠る、鮫島の手首を持って開く。ころん、と簡単に仰向けにすることが出来た。
奥二重の瞼が閉ざされて、すっきりしたクレヴァスから生える睫は、天井にむかってまっすぐ伸びていた。
唇が赤いのは、皮膚が薄いせいだろう。
長い首は果てしなく白く、鎖骨に向かって垂直に伸びている。喉仏らしい膨らみはない。
昨夜、ひとつだけ梨太によって解かれた寝間着のボタン。
鎖骨の少し下までが解放されていたが、そこに、乳房の谷間などはいっさい見あたらない。小気味がいいほどに平面である。
梨太は一度立ち上がり、鮫島の胴を跨いだ。体重はのせずに馬乗りになって、三秒、停止。
一度馬乗りから降り、鮫島のつま先のほうへ移動する。鮫島の足の下へと手を忍び入れ――
――膝の裏を抱えて持ち上げた。
「……おお」
思わず明るい声がでた。
「すげ。……超やわらかい股関節」
そのまま前に押すと、何の抵抗もなく簡単に倒れていく。
彼のクッションの無い胸にぺったりと太股全部が張り付いた。
「おお。さすが」
ぱっと、手を離す。すると今度は左右に割れて、鎹の形にきれいに倒れた。肉感的な腿の長い脚が、これまた何の抵抗もなく、ベッド上に開かれる。
「大人でもこんなんなるんだ。赤ん坊みたい。……親戚の子が昔、こうやって足をぱかーってして寝てたっけなあ」
懐かしい記憶だった。さわやかなお兄さんの笑顔のまま、梨太はヨイショとのしかかった。
開かれた足の間に体を押し入れる。前屈みになり、腹から胸まですべての体重を仰臥する彼に預けた。所在のない腕で鮫島の肩を抱き、軽く、揺さぶってみる。
「あー。いいなあ」
梨太はつぶやいた。心の声をそのまま口に出す。
「……このフィット感、いいなあこれうちに欲しいなあ……」
体重移動でベッドがきしむ。呆けた頭で首をのばし、
「……唇の位置がぴったりだ……」
そこにある唇を吸おうと、顔を傾ける。
――そのぼやけた視界に、青色が見えた。
白いかんばせに、漆黒の髪。瞼のふたが開かれて、そこから深海色の珠が現れている。
目覚めたばかりの鮫島は、梨太のように目元を萎れさせてなどいなかった。普段は横長の怜悧な双眸は今まんまるに見開かれ、焦点をまっすぐ梨太に合わせる。ぱちくり、瞬き。
ああ久しぶりにこの瞳を見た――そんな気がして、梨太は軽く右手を挙げた。左手は彼の肩をつかみ揺さぶりながら。
「おはようさめじまくん」
「ひ」
寝起き、彼の第一声はそのような音だった。
ひっく、とシャックリを二度。視線が錯綜し、自分の体勢と乱れた着衣、そのようにした男の存在を理解する。彼の表情が変わったのはその後。そして、鮫島は叫んだ。
キャァという、わかりやすい婦女子の悲鳴だった。
まず世界が反転した。鮫島が身を跳ね起こした勢いそのまま梨太はベッドを転がり落ち、足首を捕まれて投げ飛ばされる。ドアに背中からぶつかってひっくり返る、その顔面に枕が二つ飛んできた。
「うぶふっ!」
一瞬呼吸が止まる。反射的に閉じた目を再度ひらいたとき、視界にあったのはタオルケット。ベッドシーツ。次々に頭にかぶさってくる大きな布をひっぺがし、立ち上がろうと身を起こしたところに、飛んできたのはマットレス。
「うおわああっ!?」
子供の体重ほどもある塊が顎を打つ。
脳しんとうを起こしたところに、なんだかわからない小物がポカポカ飛んできた。
「わ! わっわああっごめんなさいごめんない!」
鮫島が、手当たり次第ちかくにあるものを投げつけている。痛いと悲鳴を上げるまもなくどんどん物が飛んできて、梨太は目を開けることも出来ない。頭を抱えながら、悲鳴だけをどうにか叫んだ。
「すみませんまじすみません、寝ぼけてましたごめんなさ――」
少しだけ間が空いた。ようやく開くことが出来た瞼に、映ったのは宙に浮くベッド。頭上に持ち上げて仁王立ちになっている鮫島――
「ちょ! いや待っ――うそだろおおおおおっ!」
梨太は身を翻し、部屋を飛び出した。階段に足を乗せたところで、ベッドが背中に直撃。体中を覆う布のおかげで痛みはなかったものの、足を滑らせ、階段を転がり落ち、一階玄関前に尻餅をついた。
もみくちゃになったところに頭上から雑貨がどんどん降ってくる。いちいちおもしろいくらいヒットして、あっという間に梨太はボロ雑巾になって倒れ伏した。トドメとばかりに大量の洋服が降下。布の山に埋葬されて、暗転した視界のなか、ガクリと脱力する。
――栗林少年、享年十九歳、自室家具により圧死。ちーん。――
そんな脳内モノローグを自前で流す。
と――
突如、ぐいと腕を引かれた。つぶれたカマクラのような布の山から救出してくれたのは鮫島だった。
彼は眉を寄せ、赤面していた。下を向いて、ぼそぼそと。
「……ごめん。ねぼけた」
「……あ、あ……はい」
呆然と見上げる。
時間にして、一分足らず。彼は存外簡単に冷静さを取り戻し、いつもの温厚な人格をあらわしていた。それでもどこか不満げに唇をとがらして、視線を逸らしたまま文句を言う。
「でも、リタだって悪い。起き抜けにあんなことをされてたらびっくりする。ああいうのは嫌だ。もうやめてほしい」
「はい。はい。はい。……すみませんごめんなさい。二度としません。てか僕もほんとなんかおかしくなってて、頭溶けてましたすみません……」
「……怪我はないか?」
「無いと思います。あってもいいです。すみませんでした」
全力で低姿勢になる梨太を、鮫島は恨めしそうに睨んだ。潤んだ瞳がまだ何か言いたそうにしていたが、己の語彙になかったらしい。小さく嘆息し、ひっくりかえったベッドを室内へ運び込んでいった。
梨太はとりあえず、体にまとわりつく布をはがしていく。完全に腰が抜けていた。壁によりかかりながら、なんとか身を起こし、頬をたたいて気を入れる。
深呼吸二回。脈と鼓動を数える。背筋を伸ばし目を見開いて、よし、と気合いの声一発。
「もう大丈夫。梨太君はできる子」
自己洗脳の言葉を吐いて、抱えた洋服の束を部屋へ戻そうと階段を見上げた。
ちょうど、鮫島が部屋から出てきた。ベッドの設置を終え小物を回収にきたのかと思ったが、彼は手ぶらのまま階段を下りきり、梨太の横をすぎていく。再度謝りながら彼を追いかけて、どんどん歩いていくのを呼び止める。
「鮫島くん?」
と、振り向いた彼は真っ赤に紅潮していた。
やけに険しい目つきで叫ぶ。
「――トイレっ……!」
言い捨てて、木製の扉を強く閉めた。梨太はしばし愕然と、安普請のトイレの扉を見つめて――その場にずるずると座り込む。
扉が開き、それが梨太の額を思い切り打ったのはさほど長い時間の後ではない。頭を抱えて突っ伏す梨太に、鮫島のくちが「ごめん」の形に動き、すぐに違う言葉を紡ぐ。
「前から、言おうと思ってたけどっ、俺が服を脱ぐときに、いちいちその扉の前にいるのはやめろ! 俺だって、扉の向こうなんか見えない。痛い目にあっても自業自得なんだからな」
しっかり叱られて、梨太は素直に土下座した。
トーストにハムとチーズを乗せただけのものをモグモグ噛みながら、梨太は上目遣いに鮫島の様子をうかがっていた。
押し黙り、無表情で咀嚼している彼は、明らかに今朝の珍事を引きずっている。
温厚で、そして大人である鮫島。こんなふうに不機嫌を長引かせているのははじめてのことだ。「怒った鮫島くん」の扱いに困って、梨太はとにかく平身低頭謝罪した。もう怒ってはいないと言質を得たものの、やはり態度は頑ななままだった。
おそらくは――彼もまた、自分の感情と態度を扱いかねているのではないだろうか。食事を終えても席を立たず、なにやらもじもじと身をよじる。
心ではもう許しており、仲直りをしたいのにきっかけがわからない――そういう気配をひしひしと感じ、梨太はタイミングを見計らって。
「……あの。今日、これからさ……」
鮫島は顔を上げない。
それでも梨太は言った。
「いろいろ考えたんだけど。こんなの、どうかなって」
言いながら、テーブルに置いていたスマホを操作し、画面を呼び出す。
鮫島は目を細め、表示された画面を読み上げた。
「みず……すい、ぞく。やかた」
「水族館。魚とか、あとエビやカニやペンギンとか、とにかく海の生き物がいろいろと、視界一杯の水槽で飼われているんだ。そういうものを見て、少しだけど触って体験することもできる。海水浴ってのもいいけどさ、海ってなんですかっていうのは、安全ロープ手前までの塩水に腰まで浸かってイモ洗い、よりも、こういう所のほうが理解できるかもしれないよ」
「海……ぺんぎん?」
彼は画面を見つめ、ただそうとだけつぶやいた。
美しい青の背景に巨大な魚の写真がある。珊瑚礁に彩られ、イルカやアシカのショーの写真とスケジュールがあった。眼球がきょろきょろと忙しく動き回り、その一枚一枚をたどっていく。画面をすべて視線で読み上げて、やがて鮫島はそうっと視線を梨太へと戻した。
「これから、僕とデートをしませんか」
「……でぇと?」
「そう。デート」
鮫島はしばらく、梨太の言葉を理解しかねるように眉を寄せて黙り込んでいた。
「行ってくれる?」
鮫島は俯いて、なにか小刻みに揺れた。そして言い放つ。
「今日のデート、全部お前のおごり」
もちろん最初からそのつもりだ――という言葉を飲み込んで、梨太は笑った。
「かしこまりました」
鮫島は小さく安堵の息をはいた。
それからまた興味深そうにスマホの画面にかじりつき、怜悧な双眸をキラキラさせる。深海色の瞳のなかに、館内図が写りこんでいた。そのすべての表記が読めたわけではないだろう。だがある一点を見つめて、呟く。
「地球の俺に会えるんだ……」
梨太はほほ笑み、うなずいた。
さわやかな朝。快晴の日差しが窓に差し込み、部屋を明るく照らし出す。
雀の声はやがて蝉の合唱へうつりかわり、壁掛け時計の針は9の数字を指し示した。
その三時間ばかり前にようやっと眠りに落ち、一時間前に起きた梨太は、白む天井を見上げて放心していた。後頭部が痺れている。ずっと寝返りも打たずにいたせいだろか。
異様に重い目をこじ開けて、梨太は首ごと隣を向いた。十時間前とおおよそ同じ安らかな寝顔の、ラトキア騎士団長殿がそこにいる。くうくう、可愛らしい寝息もそのままで。
「……案の定、ものすごくいやらしい夢を見ました」
その声にも何の反応も示さない鮫島。
梨太はタオルケットを引き剥がした。明るい日差しのもと、剥き出しになった麗人をじっくり視姦する。
小さな頭蓋、すんなりとした体躯。狭いベッドからつま先がはみ出しそうな長い足。
目算、身長一七五センチ。細長い印象は背丈による対比のせいであり、決して痩せこけているわけではない。梨太より体重がある可能性は高い。
横向きで眠る、鮫島の手首を持って開く。ころん、と簡単に仰向けにすることが出来た。
奥二重の瞼が閉ざされて、すっきりしたクレヴァスから生える睫は、天井にむかってまっすぐ伸びていた。
唇が赤いのは、皮膚が薄いせいだろう。
長い首は果てしなく白く、鎖骨に向かって垂直に伸びている。喉仏らしい膨らみはない。
昨夜、ひとつだけ梨太によって解かれた寝間着のボタン。
鎖骨の少し下までが解放されていたが、そこに、乳房の谷間などはいっさい見あたらない。小気味がいいほどに平面である。
梨太は一度立ち上がり、鮫島の胴を跨いだ。体重はのせずに馬乗りになって、三秒、停止。
一度馬乗りから降り、鮫島のつま先のほうへ移動する。鮫島の足の下へと手を忍び入れ――
――膝の裏を抱えて持ち上げた。
「……おお」
思わず明るい声がでた。
「すげ。……超やわらかい股関節」
そのまま前に押すと、何の抵抗もなく簡単に倒れていく。
彼のクッションの無い胸にぺったりと太股全部が張り付いた。
「おお。さすが」
ぱっと、手を離す。すると今度は左右に割れて、鎹の形にきれいに倒れた。肉感的な腿の長い脚が、これまた何の抵抗もなく、ベッド上に開かれる。
「大人でもこんなんなるんだ。赤ん坊みたい。……親戚の子が昔、こうやって足をぱかーってして寝てたっけなあ」
懐かしい記憶だった。さわやかなお兄さんの笑顔のまま、梨太はヨイショとのしかかった。
開かれた足の間に体を押し入れる。前屈みになり、腹から胸まですべての体重を仰臥する彼に預けた。所在のない腕で鮫島の肩を抱き、軽く、揺さぶってみる。
「あー。いいなあ」
梨太はつぶやいた。心の声をそのまま口に出す。
「……このフィット感、いいなあこれうちに欲しいなあ……」
体重移動でベッドがきしむ。呆けた頭で首をのばし、
「……唇の位置がぴったりだ……」
そこにある唇を吸おうと、顔を傾ける。
――そのぼやけた視界に、青色が見えた。
白いかんばせに、漆黒の髪。瞼のふたが開かれて、そこから深海色の珠が現れている。
目覚めたばかりの鮫島は、梨太のように目元を萎れさせてなどいなかった。普段は横長の怜悧な双眸は今まんまるに見開かれ、焦点をまっすぐ梨太に合わせる。ぱちくり、瞬き。
ああ久しぶりにこの瞳を見た――そんな気がして、梨太は軽く右手を挙げた。左手は彼の肩をつかみ揺さぶりながら。
「おはようさめじまくん」
「ひ」
寝起き、彼の第一声はそのような音だった。
ひっく、とシャックリを二度。視線が錯綜し、自分の体勢と乱れた着衣、そのようにした男の存在を理解する。彼の表情が変わったのはその後。そして、鮫島は叫んだ。
キャァという、わかりやすい婦女子の悲鳴だった。
まず世界が反転した。鮫島が身を跳ね起こした勢いそのまま梨太はベッドを転がり落ち、足首を捕まれて投げ飛ばされる。ドアに背中からぶつかってひっくり返る、その顔面に枕が二つ飛んできた。
「うぶふっ!」
一瞬呼吸が止まる。反射的に閉じた目を再度ひらいたとき、視界にあったのはタオルケット。ベッドシーツ。次々に頭にかぶさってくる大きな布をひっぺがし、立ち上がろうと身を起こしたところに、飛んできたのはマットレス。
「うおわああっ!?」
子供の体重ほどもある塊が顎を打つ。
脳しんとうを起こしたところに、なんだかわからない小物がポカポカ飛んできた。
「わ! わっわああっごめんなさいごめんない!」
鮫島が、手当たり次第ちかくにあるものを投げつけている。痛いと悲鳴を上げるまもなくどんどん物が飛んできて、梨太は目を開けることも出来ない。頭を抱えながら、悲鳴だけをどうにか叫んだ。
「すみませんまじすみません、寝ぼけてましたごめんなさ――」
少しだけ間が空いた。ようやく開くことが出来た瞼に、映ったのは宙に浮くベッド。頭上に持ち上げて仁王立ちになっている鮫島――
「ちょ! いや待っ――うそだろおおおおおっ!」
梨太は身を翻し、部屋を飛び出した。階段に足を乗せたところで、ベッドが背中に直撃。体中を覆う布のおかげで痛みはなかったものの、足を滑らせ、階段を転がり落ち、一階玄関前に尻餅をついた。
もみくちゃになったところに頭上から雑貨がどんどん降ってくる。いちいちおもしろいくらいヒットして、あっという間に梨太はボロ雑巾になって倒れ伏した。トドメとばかりに大量の洋服が降下。布の山に埋葬されて、暗転した視界のなか、ガクリと脱力する。
――栗林少年、享年十九歳、自室家具により圧死。ちーん。――
そんな脳内モノローグを自前で流す。
と――
突如、ぐいと腕を引かれた。つぶれたカマクラのような布の山から救出してくれたのは鮫島だった。
彼は眉を寄せ、赤面していた。下を向いて、ぼそぼそと。
「……ごめん。ねぼけた」
「……あ、あ……はい」
呆然と見上げる。
時間にして、一分足らず。彼は存外簡単に冷静さを取り戻し、いつもの温厚な人格をあらわしていた。それでもどこか不満げに唇をとがらして、視線を逸らしたまま文句を言う。
「でも、リタだって悪い。起き抜けにあんなことをされてたらびっくりする。ああいうのは嫌だ。もうやめてほしい」
「はい。はい。はい。……すみませんごめんなさい。二度としません。てか僕もほんとなんかおかしくなってて、頭溶けてましたすみません……」
「……怪我はないか?」
「無いと思います。あってもいいです。すみませんでした」
全力で低姿勢になる梨太を、鮫島は恨めしそうに睨んだ。潤んだ瞳がまだ何か言いたそうにしていたが、己の語彙になかったらしい。小さく嘆息し、ひっくりかえったベッドを室内へ運び込んでいった。
梨太はとりあえず、体にまとわりつく布をはがしていく。完全に腰が抜けていた。壁によりかかりながら、なんとか身を起こし、頬をたたいて気を入れる。
深呼吸二回。脈と鼓動を数える。背筋を伸ばし目を見開いて、よし、と気合いの声一発。
「もう大丈夫。梨太君はできる子」
自己洗脳の言葉を吐いて、抱えた洋服の束を部屋へ戻そうと階段を見上げた。
ちょうど、鮫島が部屋から出てきた。ベッドの設置を終え小物を回収にきたのかと思ったが、彼は手ぶらのまま階段を下りきり、梨太の横をすぎていく。再度謝りながら彼を追いかけて、どんどん歩いていくのを呼び止める。
「鮫島くん?」
と、振り向いた彼は真っ赤に紅潮していた。
やけに険しい目つきで叫ぶ。
「――トイレっ……!」
言い捨てて、木製の扉を強く閉めた。梨太はしばし愕然と、安普請のトイレの扉を見つめて――その場にずるずると座り込む。
扉が開き、それが梨太の額を思い切り打ったのはさほど長い時間の後ではない。頭を抱えて突っ伏す梨太に、鮫島のくちが「ごめん」の形に動き、すぐに違う言葉を紡ぐ。
「前から、言おうと思ってたけどっ、俺が服を脱ぐときに、いちいちその扉の前にいるのはやめろ! 俺だって、扉の向こうなんか見えない。痛い目にあっても自業自得なんだからな」
しっかり叱られて、梨太は素直に土下座した。
トーストにハムとチーズを乗せただけのものをモグモグ噛みながら、梨太は上目遣いに鮫島の様子をうかがっていた。
押し黙り、無表情で咀嚼している彼は、明らかに今朝の珍事を引きずっている。
温厚で、そして大人である鮫島。こんなふうに不機嫌を長引かせているのははじめてのことだ。「怒った鮫島くん」の扱いに困って、梨太はとにかく平身低頭謝罪した。もう怒ってはいないと言質を得たものの、やはり態度は頑ななままだった。
おそらくは――彼もまた、自分の感情と態度を扱いかねているのではないだろうか。食事を終えても席を立たず、なにやらもじもじと身をよじる。
心ではもう許しており、仲直りをしたいのにきっかけがわからない――そういう気配をひしひしと感じ、梨太はタイミングを見計らって。
「……あの。今日、これからさ……」
鮫島は顔を上げない。
それでも梨太は言った。
「いろいろ考えたんだけど。こんなの、どうかなって」
言いながら、テーブルに置いていたスマホを操作し、画面を呼び出す。
鮫島は目を細め、表示された画面を読み上げた。
「みず……すい、ぞく。やかた」
「水族館。魚とか、あとエビやカニやペンギンとか、とにかく海の生き物がいろいろと、視界一杯の水槽で飼われているんだ。そういうものを見て、少しだけど触って体験することもできる。海水浴ってのもいいけどさ、海ってなんですかっていうのは、安全ロープ手前までの塩水に腰まで浸かってイモ洗い、よりも、こういう所のほうが理解できるかもしれないよ」
「海……ぺんぎん?」
彼は画面を見つめ、ただそうとだけつぶやいた。
美しい青の背景に巨大な魚の写真がある。珊瑚礁に彩られ、イルカやアシカのショーの写真とスケジュールがあった。眼球がきょろきょろと忙しく動き回り、その一枚一枚をたどっていく。画面をすべて視線で読み上げて、やがて鮫島はそうっと視線を梨太へと戻した。
「これから、僕とデートをしませんか」
「……でぇと?」
「そう。デート」
鮫島はしばらく、梨太の言葉を理解しかねるように眉を寄せて黙り込んでいた。
「行ってくれる?」
鮫島は俯いて、なにか小刻みに揺れた。そして言い放つ。
「今日のデート、全部お前のおごり」
もちろん最初からそのつもりだ――という言葉を飲み込んで、梨太は笑った。
「かしこまりました」
鮫島は小さく安堵の息をはいた。
それからまた興味深そうにスマホの画面にかじりつき、怜悧な双眸をキラキラさせる。深海色の瞳のなかに、館内図が写りこんでいた。そのすべての表記が読めたわけではないだろう。だがある一点を見つめて、呟く。
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