鮫島くんのおっぱい

とびらの

ふたりの夜

 背を向けた向こう側で、扉が開き、そして閉まる。
 安普請の床板がかすかにきしむ、人間の歩く音。

 普段はまったく聞き取れない鮫島の足音が、やけに大きく鼓膜を震わせる。さほど大きな部屋でもない。三歩の距離はほんの一秒きりで詰められた。

 少年用の小さなベッドの端、大人ひとりの体重を乗せた膝が食い込み、ぎしりと鈍い音を立てる。くるまっていたタオルケットがそうっとめくられ、むき出しになった背中に、やけどするほど熱い人間の体温が触れる。

 鮫島は長身を掛け布のなかに差し入れると、ヘッドに置かれたリモコンで、部屋の照明を落とした。梨太が使っている枕のすぐ横に、客用の枕が置かれる気配。しかし鮫島はそれを使用せず、梨太の後ろ髪を鼻先に触れさせて、梨太と同じ枕に頭をゆだねた。

 狭いベッドに大人が二人。

 梨太はあらかじめ、壁ぎりぎりまで体を寄せていた。それでも鮫島の長い手足とともに収まるにはシングルベッドは狭すぎた。領地争いは、鮫島がその腕で梨太を抱きすくめることであっさりと決着した。少年の尖った肩胛骨が、なにかの柔肉に沈む甘い感触がした。

 ごくり、と、唾を飲み下す音が、聞こえてしまったのではないか――そんな危惧をしながらも、それよりずっと深刻な身体の変化に戦慄く。
 体をこわばらせ、微動だにする事もできない。

 鮫島の手はちょうど梨太の胸のあたりに置かれていた。しばらく彼はそうしていたが、やがて居心地の悪さを感じたらしい。撫でるように手を移動させ、肩をつかみ、二の腕をさすり、結局は梨太の臍の真上で落ち着いた。

 彼の手には何か、麻酔薬でも塗られているのだろうか。彼が触れたところが痺れ、弛緩していた。腹筋が眠気を覚えるだなんて梨太は聞いたこともなかった。
 それをいま、まさに自分が体感している。

 ごくり――今度こそ聞かれしまったに違いない、喉の音を、梨太はもう隠すのをやめた。
 うわずった声で囁く。

「……鮫島くん。あの……あのさ」

 ん、と短い相づちが聞こえる。そんな小さな声でさえ耳朶が震える。二枚の寝間着越しに感じる彼の体温は、梨太の知る誰よりも熱く、湿っていた。

「……僕……普段の言動さ……キャラでやってるわけじゃ、ないから」

 続けた言葉に返事はない。鮫島の無言は、続きを促す相槌である。梨太はそのまま続けた。

「……実際その、そんな、誠実な恋愛しかしませんっていうことはなくて。……君のことも、最初はそうで」

 煮え切らないような言葉を、鮫島は黙って聞いてくれる。いつだって彼はそうして、他人の言葉を本気で受け止める。梨太は目をきつくつぶった。

「最初は……ほんとに、男子校アルアルでさ。誰でも、なんでもいいから、おっぱいが見たいなんていうテンションだけで、噂に聞いた君のあとをつけた。
 ……あの日より前からずっと好きだったとか、そういうことが言えたら格好いいんだろうけど、ぜんぜんそんなきれいなエピソードもなくって。
 性欲っていうか、好奇心だけで追いかけて……宇宙人だってわかって、今度はそこに知識欲が加わって。ずっと興味本位で、僕はあの仕事をやってたんだ。
 ……最後に命懸けて戦ったのだって、別に……君の為じゃなかった。気まぐれ、みたいなもんだよ」

 ぴったりと合わさった体。体温と湿度が寝間着を浸食していく。彼の体を背骨が舐め上げる。背中から前へと巻き付いた、視界に入らないはずの鮫島の指、その五指すべての在処がわかった。親指はあばらに、人差し指はそのフチに、中指は梨太のもっともウエストの細い位置、薬指はもっとも皮膚の薄いところ。小指はそこに重なっている。

「僕は、もともと、そんな人間なんだ。
……女の子にも、そんなに、優しくないよ。惚れっぽいくせに、大事にしようなんて思ったことないもん。
ラトキアのひとは、みんな虎ちゃんみたいに真面目なんだろ? 僕は違う。たいした誠意もなく、なんの責任もとれないくせにその日だけ楽しければいいと考えてる。見た目でよく草食系なんて誤解されるけど、そのへんほんと、ふつうの男なんだから。……君だって男の体は解ってるんだろ? それともラトキア人にそういうのはないのかな――いや、とにかくその――」

 梨太は言葉を続けた。

「……君は、美人だ。本当に、すごくきれいだ。ラトキアの人たちはなんだか妙に悪く言うけど、僕の理想にぴったりで、世界の誰よりもかわいいよ。きれいで、色っぽくて――触りたい。……抱きたい。……三年、たって、僕は少し大人になれたと思うけど――それでも――いざこんなに近くに来られたら、頭が、十六歳に戻ってしまいそう、だから。だから……」

 吐きだす、言葉と同時に、梨太は己の腹にある手を捕まえた。

 想定以上に、自分の手が熱く汗ばんでいたことに今更気づいて焦る。それでももう、その手を離すことなんてできなかった。細い指先をつまみあげ、浮かんだ隙間に指を忍ばせる。鮫島の長い指に絡ませ、梨太は自分でも怖いくらいの握力で、彼の手のひらを緊縛した。

「……お願い、鮫島くん。逃げて」

 捕まえて置いて、そんな白々しいことを口にする。

 梨太は身をよじり、正面から向かい合って、鮫島の体を思い切り抱きしめた。ぎゅっと引き寄せる腕の骨が、彼の細い腰に食い込む。もしかして痛みを与えたかもしれない、そう思いやることはできたのに、腕の力を緩めることができない。

 女の体だった。堅い筋肉や骨の感触などどこにもなかった。果てしなく柔らかな肉に己の骨格を埋め込んで、梨太はそこに性差を実感した。
 理屈ではない。数字ではない。厳密に、生物学的にどう分類されるかなどもうどうでもよかった。自分の感性をそのまま信用する。

 自分は男で、彼は女だった。

「大事にしたいんだよ」
 ふつうの女ならばもう、逃げ出すことのできない男の力で抱きしめて、英雄の抵抗を期待する。

 夜が明けてしまうのではないかと言うほどに、永い時間。
 それは梨太がそう感じただけで、きっと数秒も経ってはいないのだろう。
 体温が混じり合い皮膚の境界線もわからなくなるころ、梨太はずっと瞑っていた瞼を開いた。目の前に、鮫島の鎖骨がある。顎を動かすと、彼の胸を覆う寝間着の布地がこすれた。
 そのくすぐったさにまたなにか眠気を覚える唇で、梨太はかすれた声で囁く――

「大事にするからね……」
 ゆっくりと、腕の力をゆるめる。それでもそこにいる彼の寝間着のボタンをひとつ、摘んで開いた。


 あけたままのカーテンから、町の灯りが差し込んでいる。月明かりよりも強い街路灯は白い壁面に反射して、部屋全体に薄明かりをもたらしていた。瞑り続け闇になれた視力で、真珠玉のように白い鮫島の顔を見下ろす。
 至近距離でみたラトキアの女は、息を呑むほどに美しく端正であった。もしかするとずっと、自分は精巧な人形相手に懸想をしていたのではないかと怖くなる。梨太は耳を澄ませ、彼の呼吸の音を聞いた。
 結果、鮫島は人形などではない。たしかに生きた人間だとわかった。だがその呼吸音は、梨太が期待したものとは少しだけ違っていて――

 閉ざされた瞼を、漆黒の長いまつげが縁取る。かすかに開いたバラ色の唇から、規則正しい穏やかな吐息が漏れていた。それは決して大きな音ではない。
 静寂の中、この距離でこそ聞き取れる、小さな小さな、鮫島の寝息であった。

「――くぅ。くぅ」

 梨太は勢いよく身を起こし、タオルケットをはねとばして、全身全霊腹の底からなる大きな声で絶叫した。

「寝るなあああああああっ!」

 夜の静寂の室内を梨太の悲鳴がつんざいた。大音量は石膏ボードの壁がたわむ勢いでぶつかりこだまして、延々と反響を繰り返す。

 それは梨太が自分で自分の声をうるさいと思うほどの騒ぎであったが、それでも鮫島は安らかな寝顔のまま、微動だにせず熟睡していた。

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