鮫島くんのおっぱい

とびらの

鮫島くんの目的

(……わけがわからない……)
 わからないなりに、つまるところやっぱり手を出してはいけないらしい。

 とりあえずそう理解して、梨太はもくもくと「客人」の寝室の支度を始めた。

 二階にある、二つの部屋。
 施工主である新婚夫婦は、まだ宿ってもいない子供との生活を想定し、この小さな家を建てた。
 築六年となった現実、一部屋は、梨太が私室として使っている。もう一つの部屋は物置――だが、あまり物のない家なので、ほとんど使われていない。

 申し訳程度に置かれた家具の、がらんとしたフローリングに布団を運び込む。エアコンは無いが大きな窓からの夜風は涼しく、冷風機をつなげばそれなりに快適な寝室になってくれた。
 そうでなければ風呂上りそうそう、大汗をかくところである。交代で入浴にいった鮫島も、これなら不満はないだろう。

 梨太は自室へ戻ると、飛びつくようにしてベッドに転がり込んだ。

「がまん。がまん。がまん……」

 体の中でくすぶる熱を、枕のなかにぶち込む。ぎゅうっと全力で抱きしめると、高反発枕がひょうたんの形に歪む。

「がまん、がまん、大丈夫梨太君は我慢できる強い子大丈夫……」
 つぶやき、自分を洗脳していく。枕の曲線を撫で、はあ、と嘆息。ついでに心の声が漏れだした。

「……鮫島くんのおっぱい……」

 と。扉の方へ寝返りを打った、その視線の先に、鮫島が立っていた。

「……」
「…………」

 完全に視線を合わせて。梨太は枕を抱いたまま上目遣いに彼をみる。風呂上がりの濡れた髪に、いつものラトキアの民族服だ。
 寝間着にするため貫頭衣は外していたが、薄手の生地は長そで長ズボンはやはり、素肌をすべて覆い隠している。
 戸口に立ったまま赤面している青年。梨太は幼い顔立ちに紳士の微笑みをうつし、朗らかな声で、確認した。

「いつから居た?」
「五分くらい前かな……」
「そこそこ見てるね」
「うん」

 頷く鮫島。

 そして、部屋の中へ進入してきた。ベッドサイドに、身を屈めて囁いてくる。
「もう寝るのか、リタ」
 時計の針は十一時の枠に傾いていた。そういうつもりではなかったが、所在なくて頷く。

「じゃあ、俺も髪を乾かして、一階の電気を消してくる。少し待っていて」
「待っていてって、いやあの……君の部屋は、隣に作ったよ。お布団あっちに用意したから」

 鮫島はほほえみ、なにかを視線だけで語った。そのままきびすを返す。
 梨太はあわてて身を起こした。ベッドから転げ落ちる寸前で体勢を直し、ひどく格好悪い姿勢のまま叫ぶ。

「鮫島くん!」

 ドアノブに手をかけていた鮫島が振り向く。見つめてくるのを、梨太は苦労して見つめ返した。痺れる視線とはまさにこのこと。うわずった声で続ける――

(……負けるもんかっ!)

 下肢にまで及ぶ震えを膝をたたいて押さえ込み、梨太は半ばひっくり返った声で言う。

「君の部屋は、あっちっ!」

 指先を壁に向けて突きつける。鮫島の顔面がそれを追って動いた。そんな所作が悶絶するほどに可愛らしく、そこから視線を逸らすという苦行を乗り越えるため、梨太はタオルケットに全身を潜らせた。頭の先までさなぎになって、体を丸めて縮こまる。鮫島が至近距離に近づく気配がする。体温を感じるほどすぐそばで、囁かれたその声は、どこか不安げに揺れていた。

「……リタ……俺はどこにいればいい?」

 えっ、と驚いて、タオルケットをずり下げる。視界いっぱいに、鮫島の美しい顔があった。深海色の瞳が凝視する。彼はいつもそうして、他人の目をまっすぐに見つめてくる人間だった。
 その視線が、どこか寂しげな気がした。

「……な、なにが? だから、隣の」
「それをリタが望んでいないことくらいわかる。リタは嘘をつくのが下手だ」

 意味が分からない。この違和感は、彼にピアスがないせいだろうか。日本語が通じていない――

「俺の言葉が不自由なせいか? お前の望みがわからない。ちゃんと言ってくれないか。どうすれば、リタは喜んでくれるんだ」

 それとも、もしかして――自分のほうがなにか、大きな勘違いをしている?

「さ……鮫島くん……」
「うん」
「君は……今、女性、なの?」

 前にも同じことを質問した。前と同じように彼は答えた。
「ラトキア人の定義としては、違う。雌体化している男というだけ」
「……でも……もう長い間、ずっとその姿だって、聞いた。いつからそんな……?」

 鮫島が首をかしげる。

「実は、俺にもよくわからない」
「へ……?」
「本当に気が付いたらこうなっていた。なんだか今回の雌体化期間は長いな、と。そうして周期を繰り返すうちだんだん伸びて行った。いつのまにか、雄体化期間よりも長く。いつのまにか、だ」
「そ……それは、彼氏が出来たからじゃないの」
「えっ? 違う」
 存外、彼は簡単に即答した。

 そしてなぜか機嫌を損ねたらしい。ぶっきらぼうに言い捨てる。
「俺を女にしようなんて、そんな変人はお前くらいのものだ」
 それでは結局のところ、なんにも疑問が解決していない。梨太はしばらく懊悩し、半ば呆然と、言葉を垂れ流す。

「じゃあなんで、そうなっちゃったの?」
「ん。たぶんだけど、リタが喜ぶかと思って」
 解答は即座に開示された。

 きょとんとし、言葉をなくす梨太。鮫島はもう一度、同じ言葉を繰り返した。

「リタが喜ぶかと思って。……もしまた会えるなら、雌体化しているときに会いたかった。雄体優位では、雌体化している日数が少なくて、なかなかタイミングが合わない。……長引けばいいなと、思っていたから」

 漆黒のまつげがゆっくりと閉ざされる。深海色の瞳が瞼の奥に隠されて、やがてまた、ゆっくりと開かれた。
 やや不機嫌にしかめられていた眉は、すでに柔らかく垂れていた。細められた目元に朱がさして、バラ色の唇にかすかなほほえみが浮かぶ。

「ラトキア人の体は、自分に正直にできている。思うように性別が変わる。そういう生き物なんだ。それだけの話」

 それだけ、淡々と言ってから、ふと、自分の胸元に手を当てて、

「胸は、思ってたより、膨らまなかった。残念ながら」
「そ、そう、だね」
 と、無意識にひどく失礼な相槌を打ってしまう。

 だが鮫島はそういったことを気にしていないようだった。やはり本来は男性であるからなのか。彼自身「女らしくない」ことにコンプレックスは持たないらしい。全くだ、などと軽く答えて笑っている。

 それなのに、自分に求めた。実際に変化した。それは梨太のために、梨太を喜ばせるために?
 なにかがおかしい。ちゃんと確認をしなくてはいけない。

「さ、鮫島くん……は、遊びに来たんだよね?」
 頷く鮫島。
「……僕に、何かされたいって、思ってるわけじゃないんだよね……」
 鮫島は首をかしげた。奇妙な反応だった。彼なりに、自分の言葉が足りないことを自覚したらしい。

 彼が言葉を模索し、推敲したのは、時間にして数秒程度だろうか。永遠に感じられた沈黙のあと、彼は実に淡々と、端的にこう言った。

「何かされたいわけじゃないけど、リタを喜ばせたい。そう思って、そのために地球に来た。
 具体的な手段が他に考え付かなかった。俺は軍人だからな。戦う敵がいないと、他に何の役にも立てない」
 美しい顔に陰りは無い。それこそ軍人である彼は、いつだって実直に、人の質問に答えるサガがある。彼はただ率直に事実だけを述べていた。

「やっぱり俺は人間的に欠陥しているのだろうな。雑談すら、俺が楽しいばかりで、リタを楽しませることが出来なかった。日常生活でもリタの世話になりっぱなしで邪魔にしかなれなかった」
「そっ、そんなことはないよっ」
「お世辞はいい。自分の能力と欠陥を把握するのは、軍人の基本だ。その結果を前提に戦略を組む。俺は自分の価値を知っているし、良くも悪くも、それを利用することに躊躇はないよ」
 なにかムズカシイ言い回しに、梨太は混乱した。理解できなかった。

 喜ぶべきなのか悲しむべきなのかもわからない。ただ彼の微笑みを見つめると、自分の胸が苦しくなる。切なくて、泣きたくなってくる。
 鮫島自身はどうあれ、やはりとても悲しい発言のように梨太には思えた。二十歳そこらの女性のいうセリフではない。

 ましてこんなにも綺麗なのに。たとえ言葉が不自由でも、浮世離れしていても、家事や気遣いが出来なくても、妊娠や結婚に至らなくても、彼はこんなに美しい姿態なのに――

「それしかないなら、それを使うしかない。……リタを喜ばせたい。そのために俺はこの地球に来たんだ」

 梨太は体を跳ね上げた。半ばひっくり返った声で、叫ぶ。
「そんなの、そばにいてくれるだけで十分だよ!」
 鮫島は目を丸くした。

 何故か梨太のほうが涙ぐみ、息まで乱れていた。少年の必死の訴えに、騎士団長は何を思ったのだろうか。丸くなっていた瞳を細め、ほんのわずか、笑った。

 微笑む唇が近づく。そのままそっと、梨太のこめかみあたりに口づけをした。
 反射的に閉ざされた瞼を指で撫で、鮫島はふふっと小さな笑い声を漏らした。

「じゃあ、髪を乾かして、一階の電気を消して、枕を持ってくる」

 今度こそ速やかに退室していく、その後ろ姿を、梨太は片方の目だけで追いかけた。右の目はまだずっしりと重く、にかわを塗られたようで、いつまでたっても開くことができなかった。

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