鮫島くんのおっぱい
梨太君のごちそう
自分用の簡単な昼食と同時進行でシチューを煮込みながら、梨太はまだ怒っていた。
味見をし、コショウが足りないなと理解しながら、思考とは全く違う言葉を口にする。
「……大事にしてやる」
黒胡椒をひとふり。お玉でグリグリ混ぜながら、さらにつぶやく。
「……優しくしてやる」
もう一度味見。胸中でヨシとうなずき、唇はまた別の言葉を紡いだ。
「冗談じゃないよ。鮫島くんも、鮫島くんだ。ヒトをなんだと思ってんだ。三年前のシゴトの報酬? それで、キスもイヤなやつ相手に身をひさぐって、それじゃただの売春でしょ。馬鹿にしてんのか。岩浪なにがし言うおっさんと一緒にすんなよ」
つぶやきに、オーブンレンジの調理完了メロディが重なった。ローストビーフの状態だけを確認し、余熱で蒸していく。
ぶちぶち。サラダ用のレタスを力任せに引きちぎる。
「星帝皇后だか将軍だかなんだか知らないけど、騎士団長を枕営業なんかさせてんじゃねーよ。こっちだって、上からの命令でちんこが勃つかボケ。勃てろって言われて勃つもんじゃないんだよああいうのは。今勃っちゃダメって時に勃つことはまれによくあるけども」
ボウルにぽいぽいと投げ込まれたレタスの山。
すととととと。キュウリを輪切りにしながら、さらにつぶやく。
「そういうの嫌いだって何べんも言ったじゃんよ。嫌だよホント。僕は、イヤなの我慢して寝っ転がってる美人の体を好き勝手したくて、鮫島くんに近づいたわけじゃないんだから。僕は、ただ」
そこで一度ピタリと止まった。
淡々と吐き捨て続けていた独白。自分の思考を垂れ流していただけの言葉が、なぜか、その後が続かない。
僕は、ただ。ただ――
ああ、そうだ、と思い出す。
「……喜んで寝っ転がった美人を、もっと喜ばせたくて――あの人に触りたいだけなんだ」
嘆息する。
それはもしかしたら、鮫島と殴りあって勝つよりも、ずっと難しいのかもしれない。
使用済みの調理器具を洗いながら、深々と嘆息した。
「……今度のラスボスは……強いな」
閉じた瞼のなかで、黒髪の麗人が穏やかにほほ笑んでいた。
ドアベルが鳴り、ほとんど間髪入れずに玄関の扉が開かれたのは、夜の八時に近づいた頃だった。その物音を聞いて、梨太は飛びつくように玄関口まで出迎える。
「おかえり!」
鮫島はぎょっとして身をこわばらせた。反射的に小さく片手を振って、ほほえむ。
「ただいま」
揺れる、白い手が、血と泥で汚れていた。それに気がつきすぐ背中に隠したのを梨太は見逃さなかった。
「もうご飯支度できてるから、さくっとシャワーだけ行っておいでよ。着替えあるよね?」
頷くのだけ見て取って、梨太は再び部屋へ戻る。やがて鮫島が洗面所へ消えたのを察して、料理を暖めにかかった。
梨太の言葉に素直に従って、本当に「さくっと」で風呂場を出てきた鮫島を出迎えたのは、満面の笑顔の梨太と食卓のごちそうだった。おおっ、と声を上げる彼。
大皿で、ムール貝とエビの踊る海鮮パエリア。ホワイトシチューにサラダ、ローストビーフ。
平常は一切気にしない盛り付けの美しさも追求し、ずらっと並べた自作手料理を見て、梨太はふと、世界三大珍味で自分を出迎えたあの中年男を思い出してしまった。男というのはみな、かくも単純である。
しかし鮫島の反応は、自分とは比べ物にならないほどに素直であった。頬が紅潮し、深海色の瞳がきらきら輝いている。
「なんだか、すごい。お祭りみたいだな」
「あはは。貴族の、騎士団長さんからそう見えたら幸い」
「美味しそう」
忌憚のない感想をくれる鮫島に、梨太は後ろ頭を掻いた。
「あと飲み物に、こんなものもあったりして」
にこやかに言いつつ、冷蔵庫から酒瓶を取り出す。日本酒である。法律遵守を心がける梨太は、日本でこの買い物をしたのは初めてだった。
「馴染みの酒屋さんに頼んで持ってきてもらったんだ。洋食にも合う飲みやすい冷酒をって丸投げしたらこれが届いた。なにかの金賞とったとかなんとか」
グラスを二つ出してくるのを見て、鮫島が目を丸くした。
「……リタも飲めるのか?」
「十八から飲める国で、少しだけね。ほとんど初飲酒。だからお付き合いで一杯だけにしときます」
鮫島はうれしそうに笑った。その心理もまた、岩浪に通じるのかもしれない。
他人と一緒に酒を飲むと、仲良くなれるような気がするのだ。
彼のグラスに注いだあと、手酌をしようとしたところを奪われて、鮫島は梨太に酒を注いだ。
静かな乾杯をして、唇を濡らす程度になめてみる。なんとなくフルーツのような香り。いちどきで半分ほど飲み干した鮫島は、ワインに似ていると評した。
酒を入れてから、いただきますの儀式。鮫島が手を組んだ。
「――なんと幸福なことでしょう。大切な人が今一緒にいるこの時間は」
その言葉は、梨太が発した。
不思議そうに顔を上げる鮫島。気にせず続ける。
「しかも一生懸命作ったものを、美味しいと食べてくれたら、どれだけ幸せなことでしょう。機会を与えてくれた人たちと、あなたに感謝を伝えます。ありがとう――」
「……ありがとう」
鮫島も、続けてつぶやいた。
ラトキア人がこの地球で話す日本語は、語学によって拾得されたものではない。彼らの脳内に埋め込まれた装置により、その語意、語感が、自動的に変換されて放言されるものである。
ラトキア語には、敬語というものがない。ただその深意は語調に現れる。それを、日本の敬語に変換して鮫島の口から出てきている。
パエリアを口に入れた瞬間、鮫島は満面の笑みを浮かべた。美味しい、ありがたいという気持ちをそのまま顔色に映し出す。彼の反応は、いつだって素直だ。
鮫島は平常、まったく敬語を使わなかった。学校の教師、鯨将軍に対しても丁寧語を聞いたことがない。
だが、祈りの言葉にはそれが確かに感じられた。定型文だというその言葉に、間違いなく、彼は心を込めていたのだ。
「……こういうとこ、僕、ラトキアのひとって好きだな」
唐突な呟きに、鮫島は小首をかしげた。相槌を待たずに梨太は、話を続ける。
「日本は、無宗教国家っていわれててさ。世界でも珍しいくらい信仰心の薄い国民性なんだ。一応、仏壇を前に祈るけどさ。でも大半の人はそこで、神様仏様じゃなく、死んでしまった大切な人を悼むんだよね」
とろみのあるタレをこぼさずに、きれいな箸使いでもってローストビーフを口に入れる鮫島。かしこまってお上品にしているわけではないのに丁寧な印象が強い。食べ物を大切に咀嚼する。
梨太の見たところ、これはラトキア人全般の作法であるようだった。
「ココロの中に神様がいないってのを、外国人から強く批判されたことがある。神は、ただしく生きるための指標でもあるから。……でも、これ、僕なりの持論なんだけど」
と、前置きをしてから。
「……人様。世間様。――鮫島くん、聞き取れた?」
彼は眉を上げた。沈黙したままであるが、それは肯定だ。梨太もうなずく。
「人様に恥ずかしい、世間様に顔向けが出来ない――そんな言い方が、日本にはある。これさ、ちゃんとした語意が、どこの国の言葉にも直訳できないんだよ。他人は、他人。そこに噂が広まることを恐れはしても、なんというかな、敬称をつけるような感覚はないんだよねえ」
「……よく、わからない」
「神様のかわりに、人間を賛歌してるってことだよ。それは食事の挨拶にもっとも現れてる。イタダキマスとゴチソウサマ。こんな言葉、世界のどこにもないんだ」
鮫島は一度箸をとめ、さらに不思議そうな顔をした。
「……食事の前後に挨拶するのは、いろんな国で見てきたけど」
「しない国が大多数だよ。あってもたいていが、神様へのお祈りでしょ。あるいはタダの号令。英語なんかひどいよ、レッツ・イートだもの」
言われてみれば思い当たったらしい、鮫島は再び沈黙した。
「日本語の、いただきますって言う言葉にはいくつか意味があって。八百万の神様へのお祈り、食材になった生き物へのお礼――そして最後に、食べさせていただきます、っていう謙譲の言葉。食べる前に、作った人へお礼を言う。当たり前の、すごく簡単な話なのに、不思議とほんとに世界で珍しいんだよね。こういう挨拶をするのってさ」
つまんだ料理を口に入れる。
梨太は毎日自炊をしている。他人の料理を食べる機会は少ないが、たまの外食ではいつも思う。
自分も作るからこそ知っている、その労力。自炊をするさいのレシピだって先人の試行錯誤によって生まれたものだ。創作センスのない梨太には、既存のレシピ書籍は師匠であり、飢えから救う命の恩人だった。
ありがたい。心からそう思う。
「ゴチソウサマ、は、純粋に、作ってくれた人へのお礼そのものだ。ご馳走様でございました。馳せ走り回って食材を寄せ調理してくれた、その努力に頭を下げてる。――これは、ほんとに日本だけなんだよ。世界中のどこにもない。せいぜい美味しかったとしか言わないんだ。
僕は世界のどこでだって適当に生きていける自信があるけど、こういう人間賛歌や食文化は、日本ってすばらしいってホント思うんだよ――」
「……それ、ラトキアでも言う。同じ意味で、ありがとうって」
「そうそれ!」
梨太は思わず大きな声を出した。
「だから僕、ラトキア人って好きだ。日本人に近い。いや、他のとこで全然違うのはわかってるよ。でも物の考え方っていうかさ。なかでも、人間と、食事への気持ちが一緒なら、それってすごく仲良くしやすい大事な要素だと思うんだよ。だから――」
「……だから?」
促されて、梨太は声を落とした。
「だから……。鮫島くんと、ご飯を食べるのは、すごく楽しい。……それだけで、十分、なのです」
鮫島は、やはり不思議そうな顔をした。
口元をもごもごさせて、勢いで酒をあおる。一瞬だけピリリ、舌と喉への熱い刺激。それをエールにして、梨太は、口にしたくないことをきちんと話した。
味見をし、コショウが足りないなと理解しながら、思考とは全く違う言葉を口にする。
「……大事にしてやる」
黒胡椒をひとふり。お玉でグリグリ混ぜながら、さらにつぶやく。
「……優しくしてやる」
もう一度味見。胸中でヨシとうなずき、唇はまた別の言葉を紡いだ。
「冗談じゃないよ。鮫島くんも、鮫島くんだ。ヒトをなんだと思ってんだ。三年前のシゴトの報酬? それで、キスもイヤなやつ相手に身をひさぐって、それじゃただの売春でしょ。馬鹿にしてんのか。岩浪なにがし言うおっさんと一緒にすんなよ」
つぶやきに、オーブンレンジの調理完了メロディが重なった。ローストビーフの状態だけを確認し、余熱で蒸していく。
ぶちぶち。サラダ用のレタスを力任せに引きちぎる。
「星帝皇后だか将軍だかなんだか知らないけど、騎士団長を枕営業なんかさせてんじゃねーよ。こっちだって、上からの命令でちんこが勃つかボケ。勃てろって言われて勃つもんじゃないんだよああいうのは。今勃っちゃダメって時に勃つことはまれによくあるけども」
ボウルにぽいぽいと投げ込まれたレタスの山。
すととととと。キュウリを輪切りにしながら、さらにつぶやく。
「そういうの嫌いだって何べんも言ったじゃんよ。嫌だよホント。僕は、イヤなの我慢して寝っ転がってる美人の体を好き勝手したくて、鮫島くんに近づいたわけじゃないんだから。僕は、ただ」
そこで一度ピタリと止まった。
淡々と吐き捨て続けていた独白。自分の思考を垂れ流していただけの言葉が、なぜか、その後が続かない。
僕は、ただ。ただ――
ああ、そうだ、と思い出す。
「……喜んで寝っ転がった美人を、もっと喜ばせたくて――あの人に触りたいだけなんだ」
嘆息する。
それはもしかしたら、鮫島と殴りあって勝つよりも、ずっと難しいのかもしれない。
使用済みの調理器具を洗いながら、深々と嘆息した。
「……今度のラスボスは……強いな」
閉じた瞼のなかで、黒髪の麗人が穏やかにほほ笑んでいた。
ドアベルが鳴り、ほとんど間髪入れずに玄関の扉が開かれたのは、夜の八時に近づいた頃だった。その物音を聞いて、梨太は飛びつくように玄関口まで出迎える。
「おかえり!」
鮫島はぎょっとして身をこわばらせた。反射的に小さく片手を振って、ほほえむ。
「ただいま」
揺れる、白い手が、血と泥で汚れていた。それに気がつきすぐ背中に隠したのを梨太は見逃さなかった。
「もうご飯支度できてるから、さくっとシャワーだけ行っておいでよ。着替えあるよね?」
頷くのだけ見て取って、梨太は再び部屋へ戻る。やがて鮫島が洗面所へ消えたのを察して、料理を暖めにかかった。
梨太の言葉に素直に従って、本当に「さくっと」で風呂場を出てきた鮫島を出迎えたのは、満面の笑顔の梨太と食卓のごちそうだった。おおっ、と声を上げる彼。
大皿で、ムール貝とエビの踊る海鮮パエリア。ホワイトシチューにサラダ、ローストビーフ。
平常は一切気にしない盛り付けの美しさも追求し、ずらっと並べた自作手料理を見て、梨太はふと、世界三大珍味で自分を出迎えたあの中年男を思い出してしまった。男というのはみな、かくも単純である。
しかし鮫島の反応は、自分とは比べ物にならないほどに素直であった。頬が紅潮し、深海色の瞳がきらきら輝いている。
「なんだか、すごい。お祭りみたいだな」
「あはは。貴族の、騎士団長さんからそう見えたら幸い」
「美味しそう」
忌憚のない感想をくれる鮫島に、梨太は後ろ頭を掻いた。
「あと飲み物に、こんなものもあったりして」
にこやかに言いつつ、冷蔵庫から酒瓶を取り出す。日本酒である。法律遵守を心がける梨太は、日本でこの買い物をしたのは初めてだった。
「馴染みの酒屋さんに頼んで持ってきてもらったんだ。洋食にも合う飲みやすい冷酒をって丸投げしたらこれが届いた。なにかの金賞とったとかなんとか」
グラスを二つ出してくるのを見て、鮫島が目を丸くした。
「……リタも飲めるのか?」
「十八から飲める国で、少しだけね。ほとんど初飲酒。だからお付き合いで一杯だけにしときます」
鮫島はうれしそうに笑った。その心理もまた、岩浪に通じるのかもしれない。
他人と一緒に酒を飲むと、仲良くなれるような気がするのだ。
彼のグラスに注いだあと、手酌をしようとしたところを奪われて、鮫島は梨太に酒を注いだ。
静かな乾杯をして、唇を濡らす程度になめてみる。なんとなくフルーツのような香り。いちどきで半分ほど飲み干した鮫島は、ワインに似ていると評した。
酒を入れてから、いただきますの儀式。鮫島が手を組んだ。
「――なんと幸福なことでしょう。大切な人が今一緒にいるこの時間は」
その言葉は、梨太が発した。
不思議そうに顔を上げる鮫島。気にせず続ける。
「しかも一生懸命作ったものを、美味しいと食べてくれたら、どれだけ幸せなことでしょう。機会を与えてくれた人たちと、あなたに感謝を伝えます。ありがとう――」
「……ありがとう」
鮫島も、続けてつぶやいた。
ラトキア人がこの地球で話す日本語は、語学によって拾得されたものではない。彼らの脳内に埋め込まれた装置により、その語意、語感が、自動的に変換されて放言されるものである。
ラトキア語には、敬語というものがない。ただその深意は語調に現れる。それを、日本の敬語に変換して鮫島の口から出てきている。
パエリアを口に入れた瞬間、鮫島は満面の笑みを浮かべた。美味しい、ありがたいという気持ちをそのまま顔色に映し出す。彼の反応は、いつだって素直だ。
鮫島は平常、まったく敬語を使わなかった。学校の教師、鯨将軍に対しても丁寧語を聞いたことがない。
だが、祈りの言葉にはそれが確かに感じられた。定型文だというその言葉に、間違いなく、彼は心を込めていたのだ。
「……こういうとこ、僕、ラトキアのひとって好きだな」
唐突な呟きに、鮫島は小首をかしげた。相槌を待たずに梨太は、話を続ける。
「日本は、無宗教国家っていわれててさ。世界でも珍しいくらい信仰心の薄い国民性なんだ。一応、仏壇を前に祈るけどさ。でも大半の人はそこで、神様仏様じゃなく、死んでしまった大切な人を悼むんだよね」
とろみのあるタレをこぼさずに、きれいな箸使いでもってローストビーフを口に入れる鮫島。かしこまってお上品にしているわけではないのに丁寧な印象が強い。食べ物を大切に咀嚼する。
梨太の見たところ、これはラトキア人全般の作法であるようだった。
「ココロの中に神様がいないってのを、外国人から強く批判されたことがある。神は、ただしく生きるための指標でもあるから。……でも、これ、僕なりの持論なんだけど」
と、前置きをしてから。
「……人様。世間様。――鮫島くん、聞き取れた?」
彼は眉を上げた。沈黙したままであるが、それは肯定だ。梨太もうなずく。
「人様に恥ずかしい、世間様に顔向けが出来ない――そんな言い方が、日本にはある。これさ、ちゃんとした語意が、どこの国の言葉にも直訳できないんだよ。他人は、他人。そこに噂が広まることを恐れはしても、なんというかな、敬称をつけるような感覚はないんだよねえ」
「……よく、わからない」
「神様のかわりに、人間を賛歌してるってことだよ。それは食事の挨拶にもっとも現れてる。イタダキマスとゴチソウサマ。こんな言葉、世界のどこにもないんだ」
鮫島は一度箸をとめ、さらに不思議そうな顔をした。
「……食事の前後に挨拶するのは、いろんな国で見てきたけど」
「しない国が大多数だよ。あってもたいていが、神様へのお祈りでしょ。あるいはタダの号令。英語なんかひどいよ、レッツ・イートだもの」
言われてみれば思い当たったらしい、鮫島は再び沈黙した。
「日本語の、いただきますって言う言葉にはいくつか意味があって。八百万の神様へのお祈り、食材になった生き物へのお礼――そして最後に、食べさせていただきます、っていう謙譲の言葉。食べる前に、作った人へお礼を言う。当たり前の、すごく簡単な話なのに、不思議とほんとに世界で珍しいんだよね。こういう挨拶をするのってさ」
つまんだ料理を口に入れる。
梨太は毎日自炊をしている。他人の料理を食べる機会は少ないが、たまの外食ではいつも思う。
自分も作るからこそ知っている、その労力。自炊をするさいのレシピだって先人の試行錯誤によって生まれたものだ。創作センスのない梨太には、既存のレシピ書籍は師匠であり、飢えから救う命の恩人だった。
ありがたい。心からそう思う。
「ゴチソウサマ、は、純粋に、作ってくれた人へのお礼そのものだ。ご馳走様でございました。馳せ走り回って食材を寄せ調理してくれた、その努力に頭を下げてる。――これは、ほんとに日本だけなんだよ。世界中のどこにもない。せいぜい美味しかったとしか言わないんだ。
僕は世界のどこでだって適当に生きていける自信があるけど、こういう人間賛歌や食文化は、日本ってすばらしいってホント思うんだよ――」
「……それ、ラトキアでも言う。同じ意味で、ありがとうって」
「そうそれ!」
梨太は思わず大きな声を出した。
「だから僕、ラトキア人って好きだ。日本人に近い。いや、他のとこで全然違うのはわかってるよ。でも物の考え方っていうかさ。なかでも、人間と、食事への気持ちが一緒なら、それってすごく仲良くしやすい大事な要素だと思うんだよ。だから――」
「……だから?」
促されて、梨太は声を落とした。
「だから……。鮫島くんと、ご飯を食べるのは、すごく楽しい。……それだけで、十分、なのです」
鮫島は、やはり不思議そうな顔をした。
口元をもごもごさせて、勢いで酒をあおる。一瞬だけピリリ、舌と喉への熱い刺激。それをエールにして、梨太は、口にしたくないことをきちんと話した。
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