鮫島くんのおっぱい
梨太君の全力疾走
路地を抜け、住宅地の屋根を見上げる。自宅はもちろん、その周りの家々に、鮫島の姿はなかった。
背の高いマンションに進入し、階段を駆け上る。最上階から町を見回して、視界すべてを注視した。それでも彼は見つからない。
階段を降りたところに、住人らしい中年男と遭遇した。見知らぬ少年に身を引く男へ、挨拶をすることもせず、梨太は荒々しく質問をぶつけた。
「あのっ――二十歳くらいで、背の高い、白い服を着た綺麗な女性を見かけませんでしたか? 今日っ――」
「い、え? いや……ちょっとわかんないけど」
答えてくれたのに礼も言わず、きびすを返して走り出す。
霞ヶ丘は、小さな町だ。マンションから五分ほど全力疾走すれば、町の中心に位置する商店街が見えてきた。
初めて鮫島と出会った――体育祭の途中、彼を追って入り、犬居に攻撃され、そして天から降ってきた彼に踏みつけられた、その場所である。
鮫島にも土地勘のあるところに違いない。梨太は商店街へ駆けこんだ。
日除けの天井があるとはいえ、吹き抜けのアーケードはひどく蒸す。
梨太はすぐそばの、打ち水をしていた売り子を捕まえた。人見知りらしい、ぎょっと身を引く女に距離をつめ、叫ぶように尋ねた。
「あの、人を捜しているんです。今日、でなければ昨夜にでも、二十歳くらいの――」
売り子は首を振った。梨太は舌打ちし、そのままそこを走り去る。
鮫島が寄りそうな食堂やテキ屋にも声をかけたが、彼の姿を見たものは居なかった。小さな商店街を巡って、梨太はふと、鮫島がおそらく無一文だったと思い出す。金が必要な商店街に来てもできることがない。
「くそっ――」
思考がうまく回ってない。どうしてこんなにもうまくいかないんだろう。
「ちくしょう。くそっ――未熟者……」
天を仰いでうめく。
こんなにも自分のおろかさに懊悩したことはなかった。どうすればいいのかわからない。それでも走らずにはいられなかった。
「ちくしょう――」
汗を拭い、商店街の来た道を戻る。
あとはどこへ行こう。夜でもにぎやかな場所で尋ねれば、答えが返ってくるかもしれない。彼の姿は相当人目を引くはずだ。
その発想に、梨太はぞっとした。人目を引く美女が、金も持たずに繁華街で夜を過ごす?
梨太は首を振った。鮫島はただの女ではない。酔っぱらいの狼藉ものごときに後れをとる人ではない――そこまで考え、もう一度首を振る。
彼は強い。野営にもなれている。軍人である。一晩の徹夜や絶食に倒れるわけがない――だから何だ。だからって、女性をそのように扱ってよいというのは、あの青い騎士達と同じ発想じゃないか。
自分は違う、そう思って、彼に鍵を投げたはずなのに。
「ちくしょう……」
顔面から流れ落ちる塩辛い液体をぐいと拭って、梨太は再び駆け出そうとした。と――
「あの……」
女性の声がかかった。商店街の入り口まで戻ってきたところである。
最初に声をかけた、あの打ち水をしていた売り子だ。
梨太よりも三つほど年上だろうか、可愛らしい声をした小柄な女。呼吸を整えるため、黙ったままたたずむ梨太に、彼女はおずおずといったふうに言葉を続ける。
「さっき、言ってた、探してる女性って、外国のひと、ですよね? 黒髪で日本人っぽいけど、目が少し青くて色の白い……」
「……でも、あなた、さっきは知らないって」
恨みがましく梨太がいうと、彼女は慌てて手を振った。
「ごめんなさい、知らない訳じゃなくて、ほら、昨日の夜から今日にかけてっておっしゃったから。あの、私が見たのはそれよりもっと前、八月にはいってすぐのころなんですけど」
「僕は今、彼女の居所を探してるんだ」
「は、はい。だけどもしかしたらお役に立てるかもしれないから」
彼女は手に持ったカレンダーを見せてきた。『霞ヶ丘観光協会』と大きく宣伝が書かれている。そこで梨太は、彼女の後ろにある店舗が本屋であることに今気がついた。高校生の時はよく参考書を買いに来た店である。店員であろう、女の制服エプロンには「山石」と名札がぶら下がっていた。
「これ、同じものがうちの店頭にかけられてるんです。以前いらしたとき、わかりやすい日本語の本と、料理の本がほしいと声をかけられました。話している言葉は流暢だったんだけど、読み書きはほとんどできないということで、表紙を見ても内容がよくわからないから案内してほしいと」
どうやらダイニングテーブルにあったものは、この女性が選別したものらしい。
「……それで?」
梨太が促すと、店員はカレンダーをめくってみせる。
「お会計中、これを見て、いい景色だなとつぶやいたのが聞こえて……。それから私に、風景画用の画材を買える店を聞いてこられたんです。商店街のなかの文具店を紹介しました」
「画材……」
つぶやき、梨太は記憶を巡らせた。そういえば確かに、彼の鞄に、かつて見せてもらったスケッチブックはなかった。
梨太はカレンダーの景色を凝視した。どこかで見た覚えがあった。紺碧の空に映える緑の並木、白い建造物。鳥瞰写真は、梨太のよく知る風景だった。そして鮫島にとっても、数少ない、なじみのある場所。
記憶を呼び覚ますと同時に、三年前、自分自身が言った言葉を思い出す。
――身一つで異国の地に放り出された異邦人が、潜入して短期間暮らすには最適な、居心地のいい場所で――
そう言ったとき、鮫島もすぐそばで聞いていた。
あっ、と大きな声を発する。駆け出しながら、店員のほうを振り向いて、
「ありがとう!」
叫ぶ。その晴れやかな顔に向けて、彼女は小さく手を振った。
梨太の母校。
私立霞ヶ丘高校は、地方都市のはずれ、閑静な住宅地のすぐそばにあった。梨太の自宅から徒歩二十分。小さなローカル駅から徒歩十分。
警備がザルなのは男子校であるせいだろうか。
梨太は自分の背よりずっと低い校門を登って、夏休み中の校舎へ進入していった。部活動にはそれなりに熱心な高校ではあったが、この日、運動場は静まりかえっていた。
ほんの二年前まで毎日通っていた母校でも、卒業したあとでは空き巣に入るような居心地の悪さがある。
梨太はしばらく、息を整えながら敷地内を巡った。
あの細長いシルエットを見つけることはかなわない。思い切って、天を仰ぎ、声を上げた。
「さめじまくーん!」
静かな学びやに、梨太の声が響く。かまわずにもう一度。
「さめじまくーん! いるー? いたら返事をしてー!」
吸い込んだ空気が暑い。真夏のアスファルトで熱された酸素は梨太の喉を焼いたが、同時に体にエネルギーを与えてくれた。ため込んだ熱量を吐き出す。
「さめじまくーん! お願い、返事を……出てきてよ! ここは広くて、僕は……僕の力だけじゃ、君を捜せないよ」
もう一度、息を吸う。
「……お願い。鮫島くん! 出てきて――助けてよ……!」
俯いた拍子に汗が落ちる。乾いた地面に落ちた汗はすぐに蒸発し、霧散する。
梨太の声に、返事はない。なんの物音もせず、足音もしない――着地音もなにもないまま。
顔を上げた、梨太の目の前に彼は現れた。
背の高いマンションに進入し、階段を駆け上る。最上階から町を見回して、視界すべてを注視した。それでも彼は見つからない。
階段を降りたところに、住人らしい中年男と遭遇した。見知らぬ少年に身を引く男へ、挨拶をすることもせず、梨太は荒々しく質問をぶつけた。
「あのっ――二十歳くらいで、背の高い、白い服を着た綺麗な女性を見かけませんでしたか? 今日っ――」
「い、え? いや……ちょっとわかんないけど」
答えてくれたのに礼も言わず、きびすを返して走り出す。
霞ヶ丘は、小さな町だ。マンションから五分ほど全力疾走すれば、町の中心に位置する商店街が見えてきた。
初めて鮫島と出会った――体育祭の途中、彼を追って入り、犬居に攻撃され、そして天から降ってきた彼に踏みつけられた、その場所である。
鮫島にも土地勘のあるところに違いない。梨太は商店街へ駆けこんだ。
日除けの天井があるとはいえ、吹き抜けのアーケードはひどく蒸す。
梨太はすぐそばの、打ち水をしていた売り子を捕まえた。人見知りらしい、ぎょっと身を引く女に距離をつめ、叫ぶように尋ねた。
「あの、人を捜しているんです。今日、でなければ昨夜にでも、二十歳くらいの――」
売り子は首を振った。梨太は舌打ちし、そのままそこを走り去る。
鮫島が寄りそうな食堂やテキ屋にも声をかけたが、彼の姿を見たものは居なかった。小さな商店街を巡って、梨太はふと、鮫島がおそらく無一文だったと思い出す。金が必要な商店街に来てもできることがない。
「くそっ――」
思考がうまく回ってない。どうしてこんなにもうまくいかないんだろう。
「ちくしょう。くそっ――未熟者……」
天を仰いでうめく。
こんなにも自分のおろかさに懊悩したことはなかった。どうすればいいのかわからない。それでも走らずにはいられなかった。
「ちくしょう――」
汗を拭い、商店街の来た道を戻る。
あとはどこへ行こう。夜でもにぎやかな場所で尋ねれば、答えが返ってくるかもしれない。彼の姿は相当人目を引くはずだ。
その発想に、梨太はぞっとした。人目を引く美女が、金も持たずに繁華街で夜を過ごす?
梨太は首を振った。鮫島はただの女ではない。酔っぱらいの狼藉ものごときに後れをとる人ではない――そこまで考え、もう一度首を振る。
彼は強い。野営にもなれている。軍人である。一晩の徹夜や絶食に倒れるわけがない――だから何だ。だからって、女性をそのように扱ってよいというのは、あの青い騎士達と同じ発想じゃないか。
自分は違う、そう思って、彼に鍵を投げたはずなのに。
「ちくしょう……」
顔面から流れ落ちる塩辛い液体をぐいと拭って、梨太は再び駆け出そうとした。と――
「あの……」
女性の声がかかった。商店街の入り口まで戻ってきたところである。
最初に声をかけた、あの打ち水をしていた売り子だ。
梨太よりも三つほど年上だろうか、可愛らしい声をした小柄な女。呼吸を整えるため、黙ったままたたずむ梨太に、彼女はおずおずといったふうに言葉を続ける。
「さっき、言ってた、探してる女性って、外国のひと、ですよね? 黒髪で日本人っぽいけど、目が少し青くて色の白い……」
「……でも、あなた、さっきは知らないって」
恨みがましく梨太がいうと、彼女は慌てて手を振った。
「ごめんなさい、知らない訳じゃなくて、ほら、昨日の夜から今日にかけてっておっしゃったから。あの、私が見たのはそれよりもっと前、八月にはいってすぐのころなんですけど」
「僕は今、彼女の居所を探してるんだ」
「は、はい。だけどもしかしたらお役に立てるかもしれないから」
彼女は手に持ったカレンダーを見せてきた。『霞ヶ丘観光協会』と大きく宣伝が書かれている。そこで梨太は、彼女の後ろにある店舗が本屋であることに今気がついた。高校生の時はよく参考書を買いに来た店である。店員であろう、女の制服エプロンには「山石」と名札がぶら下がっていた。
「これ、同じものがうちの店頭にかけられてるんです。以前いらしたとき、わかりやすい日本語の本と、料理の本がほしいと声をかけられました。話している言葉は流暢だったんだけど、読み書きはほとんどできないということで、表紙を見ても内容がよくわからないから案内してほしいと」
どうやらダイニングテーブルにあったものは、この女性が選別したものらしい。
「……それで?」
梨太が促すと、店員はカレンダーをめくってみせる。
「お会計中、これを見て、いい景色だなとつぶやいたのが聞こえて……。それから私に、風景画用の画材を買える店を聞いてこられたんです。商店街のなかの文具店を紹介しました」
「画材……」
つぶやき、梨太は記憶を巡らせた。そういえば確かに、彼の鞄に、かつて見せてもらったスケッチブックはなかった。
梨太はカレンダーの景色を凝視した。どこかで見た覚えがあった。紺碧の空に映える緑の並木、白い建造物。鳥瞰写真は、梨太のよく知る風景だった。そして鮫島にとっても、数少ない、なじみのある場所。
記憶を呼び覚ますと同時に、三年前、自分自身が言った言葉を思い出す。
――身一つで異国の地に放り出された異邦人が、潜入して短期間暮らすには最適な、居心地のいい場所で――
そう言ったとき、鮫島もすぐそばで聞いていた。
あっ、と大きな声を発する。駆け出しながら、店員のほうを振り向いて、
「ありがとう!」
叫ぶ。その晴れやかな顔に向けて、彼女は小さく手を振った。
梨太の母校。
私立霞ヶ丘高校は、地方都市のはずれ、閑静な住宅地のすぐそばにあった。梨太の自宅から徒歩二十分。小さなローカル駅から徒歩十分。
警備がザルなのは男子校であるせいだろうか。
梨太は自分の背よりずっと低い校門を登って、夏休み中の校舎へ進入していった。部活動にはそれなりに熱心な高校ではあったが、この日、運動場は静まりかえっていた。
ほんの二年前まで毎日通っていた母校でも、卒業したあとでは空き巣に入るような居心地の悪さがある。
梨太はしばらく、息を整えながら敷地内を巡った。
あの細長いシルエットを見つけることはかなわない。思い切って、天を仰ぎ、声を上げた。
「さめじまくーん!」
静かな学びやに、梨太の声が響く。かまわずにもう一度。
「さめじまくーん! いるー? いたら返事をしてー!」
吸い込んだ空気が暑い。真夏のアスファルトで熱された酸素は梨太の喉を焼いたが、同時に体にエネルギーを与えてくれた。ため込んだ熱量を吐き出す。
「さめじまくーん! お願い、返事を……出てきてよ! ここは広くて、僕は……僕の力だけじゃ、君を捜せないよ」
もう一度、息を吸う。
「……お願い。鮫島くん! 出てきて――助けてよ……!」
俯いた拍子に汗が落ちる。乾いた地面に落ちた汗はすぐに蒸発し、霧散する。
梨太の声に、返事はない。なんの物音もせず、足音もしない――着地音もなにもないまま。
顔を上げた、梨太の目の前に彼は現れた。
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