鮫島くんのおっぱい
梨太君の危機・三回目
見知らぬ男だった。年は、四十には届いていないだろう。大柄で、ダークグレーのスーツ姿。
梨太は疑問符を浮かべた。今日はビジネスデーだ。ここに居るのだから、発表者にせよ来客にせよ、関係者なのだろう。しかし事前に交流会などあるわけでなし、面識はなかった。
(けど、どこかでみたような……?)
とりあえず、肩に置かれた手が気になる。
「……お疲れ様です」
声をかけてみる。男はにっこりと、分厚い笑みを顔面に張り付けた。
そして、明るい声を上げる。
「残念! 食堂は三時で終了だ。もうこの時間は、ホテルの喫茶のほうまで行くか、それとも会場を出て、牛丼屋かな!」
ビリビリと鼓膜が震えるほど大きな声とともに、真っ白な歯を剥いて笑う。
「……あ、ああ。そうなんですか。どうも、教えていただいて……」
お礼に深々と頭を下げた――ふりをして、さりげなく肩の手を外して距離を取る。
男の笑みは変わらない。そして、立ち去りもしなかった。
(……なんだこいつ)
梨太は、男を強く警戒した。
男の笑顔は決して、嫌味なものではなかった。しかしなにか迫力がある。癖のある髪をダークブラウンに染め、高級感と遊び心のあるスーツを着こなした伊達男。梨太は第一印象で、キャバクラのマネージャーみたいだなと適当な感想を抱いた。
友人も似たような印象をもったのだろうか、ぽかんと半分口を開け、突然現れた年上の男を見上げていた。
胸を張り、仰ぐほど背筋を伸ばした男は、頭半分背の低い梨太を見下ろして、
「発表お疲れ! 君が栗林梨太君。この『ドロップス』の開発代表者だね? はじめまして!」
と、両手を広げて見せた。
……まさか、ハグをしようというのだろうか。この日本で?
梨太は右手を差し出した。穏やかな笑みを浮かべて丁寧に。
「はい、僕が栗林です。はじめまして。ええと、すみません、お待たせをしたでしょうか?」
「いやいやアポなんか取っていないよ。私が突然やってきたのだからなにも詫びなくていい」
男はなにか恩着せがましい言い方で手を振ると、梨太の手を握り、一度だけシェイクさせる。そして己の胸に抱き寄せた。強引にハグをし、梨太の背中を優しくたたく。
後ろで、友人が凍りつく気配がする。
梨太はとりあえず同じように返すだけはして、速やかに体をはなした。
なんだかわからないが、とにかく距離を取りたい。梨太は愛想笑いを浮かべつつ、急いでいる風を装って退散しようとする。
男に背を向けたとたん、友人が、あっと大きな声を上げた。
「岩浪! どっかで見たと思った、『イニシアチブスクール』の岩浪継嗣だ!」
梨太は再び、男のほうを振り向いた。
「……岩浪……イニシアチブ?」
男は相変わらず分厚い笑みを張り付けたまま、待ってましたとばかりに、胸元からなにかを取り出した。名刺ではない、ハガキサイズのカードだった。光沢のある頑丈な紙に、彼の身分が印字されている。
梨太は読み上げた。
「……少年救済学院、NPO法人『イニシアチブ』代表……岩浪継嗣、さん。あ。イニシアチブスクールっていうとあの」
「そう、水準以上の学力があるのに関わらず特殊な事情により学校にいけない少年達のフリースクール。要するにそこの校長先生、それがボクさ。何度かテレビに出たこともあるから、ちょっと知られちゃってるかな? よろしく梨太君」
そういって、なぜかまた大きな笑い声をあげた。
梨太は改めてカードをみた。やたらと自己主張が激しいが、やはりそれは名刺であったらしい。岩浪の名前が紙面の七割を占めつつ、下方には団体の思想概要や『イニシアチブスクール』のHPアドレス、QRコードが載せられていた。
なるほど、なんとなく見た記憶があるはずだ。
家庭の貧困や虐待、天涯孤独などにより、学校にいけない子供は、この日本にも少なくない。『イニシアチブ』とはそういった少年たちを積極的に集め、無償で教育と社会進出幇助を行っている慈善事業団である。
その代表である岩浪継嗣、彼自身は、とある大企業の社長令息であり、重要役員が本業だ。
岩浪は独身を貫き、私財までスクールに献上している聖人君子。国から表彰まで受けており、それなりの有名人ではある。
梨太はあまり、興味がなかった。本当に善人なのか、それとも本社のイメージアップや税金対策なのかは知らないが、それもまたどうでもいい。
なんとなく、くるりとカードをひっくり返す。片面印刷の、つるりとした光沢のある白面になにか数字が書かれてある。『1142』。
とりあえず梨太は面を上げた。
「フリースクールでありながら、すごい有名大学進学率なんですよね。平均偏差値がうちより高いって、母校で話題になってましたよ。その秘訣など、気になってました」
「秘訣? ははは、そんな大したものはないよ。うちの学生たちは皆、孤児だったり、他の学校には通えない事情がある。それでいてもともとの向学心がある。イニシアチブスクールから落ちたら道はない、という状況が、彼らの集中力を維持させているのだろう」
「なるほど」
梨太は我ながら薄い反応で、笑みを浮かべてうなずいた。
「意欲と努力、というやつですね。結局はそれがモノを言うと僕も思います。励みにさせてもらいます。
……それで、今日はどういったご用向きで……」
「ああ、もちろん君に話があってきたのだよ梨太君!」
岩浪は大柄な体躯を屈めた。
梨太に顔を近づけて、ささやいてくる。
「私の仕事と君の仕事、両方にとても有益な話だ。こんなざわついたところで立ち話もなんだから、静かなところへいかないか? 上に、私の部屋がある」
「はっ?」
思わず、梨太は素っ頓狂な声を上げた。
ほとんど素で首を振って、
「いや、だって、今日はもう電源落としちゃいましたから。えと、明日は一般客が入るから混雑するとは思うけど、少し早めに来てもらったら、時間を取りますので」
「いやいや、ボクが話したいのは、『ドロップス』のことじゃないんだよ」
笑う、岩浪。梨太は眉をひそめた。
なにか、ピリピリと肌に刺さるものがある。この男は不気味だ。
梨太の不機嫌は、後ろの友人にも伝わったらしい。困惑していた。梨太は再び、岩浪へと向き直って。
「……では、なおさら、明日に。さっきも話してたけど、僕たちお腹ペコペコなので、失礼します――」
去ろうとした肩が掴まれた。強く引き戻されて、梨太は背中から倒れ込むようにして岩浪に支えられた。
「おっと、危ない」
まるで助けたようなことをつぶやく男。心配そうな顔つきで、梨太の腕と腰をつかんで拘束する。梨太は反射的に肘を振りそうになったが、すんでのところでとどめた。
岩浪の、やけに大きく熱く、湿った手が腹部をじわりと浸食し温める。
梨太は男を睨みあげた。
「僕に何の用ですか?」
「人払いをしたほうがいい」
「……このままどうぞ」
「いいのかい? 一緒にいるのは、友人だろう。君が、十四になって以降の」
梨太の目が見開かれる。
琥珀色の瞳が揺れ、男の顔を凝視した。身をこわばらせた梨太の様子に、友人はすぐに気が付いてしまった。
「あっ、あのっ、栗坊、俺――先、帰るわ。じゃ、また明日」
手足をばたつかせると、荷物を持って駆け出す。
梨太は彼を追わなかった。
ただ黙って、己の腹を灼く男の手を睨みつけ、奥歯を鳴らした。
梨太は疑問符を浮かべた。今日はビジネスデーだ。ここに居るのだから、発表者にせよ来客にせよ、関係者なのだろう。しかし事前に交流会などあるわけでなし、面識はなかった。
(けど、どこかでみたような……?)
とりあえず、肩に置かれた手が気になる。
「……お疲れ様です」
声をかけてみる。男はにっこりと、分厚い笑みを顔面に張り付けた。
そして、明るい声を上げる。
「残念! 食堂は三時で終了だ。もうこの時間は、ホテルの喫茶のほうまで行くか、それとも会場を出て、牛丼屋かな!」
ビリビリと鼓膜が震えるほど大きな声とともに、真っ白な歯を剥いて笑う。
「……あ、ああ。そうなんですか。どうも、教えていただいて……」
お礼に深々と頭を下げた――ふりをして、さりげなく肩の手を外して距離を取る。
男の笑みは変わらない。そして、立ち去りもしなかった。
(……なんだこいつ)
梨太は、男を強く警戒した。
男の笑顔は決して、嫌味なものではなかった。しかしなにか迫力がある。癖のある髪をダークブラウンに染め、高級感と遊び心のあるスーツを着こなした伊達男。梨太は第一印象で、キャバクラのマネージャーみたいだなと適当な感想を抱いた。
友人も似たような印象をもったのだろうか、ぽかんと半分口を開け、突然現れた年上の男を見上げていた。
胸を張り、仰ぐほど背筋を伸ばした男は、頭半分背の低い梨太を見下ろして、
「発表お疲れ! 君が栗林梨太君。この『ドロップス』の開発代表者だね? はじめまして!」
と、両手を広げて見せた。
……まさか、ハグをしようというのだろうか。この日本で?
梨太は右手を差し出した。穏やかな笑みを浮かべて丁寧に。
「はい、僕が栗林です。はじめまして。ええと、すみません、お待たせをしたでしょうか?」
「いやいやアポなんか取っていないよ。私が突然やってきたのだからなにも詫びなくていい」
男はなにか恩着せがましい言い方で手を振ると、梨太の手を握り、一度だけシェイクさせる。そして己の胸に抱き寄せた。強引にハグをし、梨太の背中を優しくたたく。
後ろで、友人が凍りつく気配がする。
梨太はとりあえず同じように返すだけはして、速やかに体をはなした。
なんだかわからないが、とにかく距離を取りたい。梨太は愛想笑いを浮かべつつ、急いでいる風を装って退散しようとする。
男に背を向けたとたん、友人が、あっと大きな声を上げた。
「岩浪! どっかで見たと思った、『イニシアチブスクール』の岩浪継嗣だ!」
梨太は再び、男のほうを振り向いた。
「……岩浪……イニシアチブ?」
男は相変わらず分厚い笑みを張り付けたまま、待ってましたとばかりに、胸元からなにかを取り出した。名刺ではない、ハガキサイズのカードだった。光沢のある頑丈な紙に、彼の身分が印字されている。
梨太は読み上げた。
「……少年救済学院、NPO法人『イニシアチブ』代表……岩浪継嗣、さん。あ。イニシアチブスクールっていうとあの」
「そう、水準以上の学力があるのに関わらず特殊な事情により学校にいけない少年達のフリースクール。要するにそこの校長先生、それがボクさ。何度かテレビに出たこともあるから、ちょっと知られちゃってるかな? よろしく梨太君」
そういって、なぜかまた大きな笑い声をあげた。
梨太は改めてカードをみた。やたらと自己主張が激しいが、やはりそれは名刺であったらしい。岩浪の名前が紙面の七割を占めつつ、下方には団体の思想概要や『イニシアチブスクール』のHPアドレス、QRコードが載せられていた。
なるほど、なんとなく見た記憶があるはずだ。
家庭の貧困や虐待、天涯孤独などにより、学校にいけない子供は、この日本にも少なくない。『イニシアチブ』とはそういった少年たちを積極的に集め、無償で教育と社会進出幇助を行っている慈善事業団である。
その代表である岩浪継嗣、彼自身は、とある大企業の社長令息であり、重要役員が本業だ。
岩浪は独身を貫き、私財までスクールに献上している聖人君子。国から表彰まで受けており、それなりの有名人ではある。
梨太はあまり、興味がなかった。本当に善人なのか、それとも本社のイメージアップや税金対策なのかは知らないが、それもまたどうでもいい。
なんとなく、くるりとカードをひっくり返す。片面印刷の、つるりとした光沢のある白面になにか数字が書かれてある。『1142』。
とりあえず梨太は面を上げた。
「フリースクールでありながら、すごい有名大学進学率なんですよね。平均偏差値がうちより高いって、母校で話題になってましたよ。その秘訣など、気になってました」
「秘訣? ははは、そんな大したものはないよ。うちの学生たちは皆、孤児だったり、他の学校には通えない事情がある。それでいてもともとの向学心がある。イニシアチブスクールから落ちたら道はない、という状況が、彼らの集中力を維持させているのだろう」
「なるほど」
梨太は我ながら薄い反応で、笑みを浮かべてうなずいた。
「意欲と努力、というやつですね。結局はそれがモノを言うと僕も思います。励みにさせてもらいます。
……それで、今日はどういったご用向きで……」
「ああ、もちろん君に話があってきたのだよ梨太君!」
岩浪は大柄な体躯を屈めた。
梨太に顔を近づけて、ささやいてくる。
「私の仕事と君の仕事、両方にとても有益な話だ。こんなざわついたところで立ち話もなんだから、静かなところへいかないか? 上に、私の部屋がある」
「はっ?」
思わず、梨太は素っ頓狂な声を上げた。
ほとんど素で首を振って、
「いや、だって、今日はもう電源落としちゃいましたから。えと、明日は一般客が入るから混雑するとは思うけど、少し早めに来てもらったら、時間を取りますので」
「いやいや、ボクが話したいのは、『ドロップス』のことじゃないんだよ」
笑う、岩浪。梨太は眉をひそめた。
なにか、ピリピリと肌に刺さるものがある。この男は不気味だ。
梨太の不機嫌は、後ろの友人にも伝わったらしい。困惑していた。梨太は再び、岩浪へと向き直って。
「……では、なおさら、明日に。さっきも話してたけど、僕たちお腹ペコペコなので、失礼します――」
去ろうとした肩が掴まれた。強く引き戻されて、梨太は背中から倒れ込むようにして岩浪に支えられた。
「おっと、危ない」
まるで助けたようなことをつぶやく男。心配そうな顔つきで、梨太の腕と腰をつかんで拘束する。梨太は反射的に肘を振りそうになったが、すんでのところでとどめた。
岩浪の、やけに大きく熱く、湿った手が腹部をじわりと浸食し温める。
梨太は男を睨みあげた。
「僕に何の用ですか?」
「人払いをしたほうがいい」
「……このままどうぞ」
「いいのかい? 一緒にいるのは、友人だろう。君が、十四になって以降の」
梨太の目が見開かれる。
琥珀色の瞳が揺れ、男の顔を凝視した。身をこわばらせた梨太の様子に、友人はすぐに気が付いてしまった。
「あっ、あのっ、栗坊、俺――先、帰るわ。じゃ、また明日」
手足をばたつかせると、荷物を持って駆け出す。
梨太は彼を追わなかった。
ただ黙って、己の腹を灼く男の手を睨みつけ、奥歯を鳴らした。
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