鮫島くんのおっぱい

とびらの

鮫島くんのNG

 鮫島は結局、日本酒を三本飲み干した。合計二リットルと少々。それでも特別、おかしな酔い方はしないままだった。

(……ううむ、意外だ)

 自宅までの帰り道。
 梨太は未だにそこに拘って、鮫島の背中を観察していた。ほんの少し、足元がふわふわしている。全くのザル、というわけでもないらしい。
 それもまた意外だ。

「やー、なんかびっくり。鮫島くんてさ、お酒が極端に強いか弱いか、性格変わるとかやたらと色っぽくなるとか、なんにせよおもしろいイベント展開を期待してたんだけどなあ」

「なんだそれ」

 ばっさり切られて、梨太は苦笑い。

 黙る鮫島。
 月光が、彼の艶やかな黒髪を照らす。なんとなくそのあたりを見つめながら、梨太は続けた。

「こんど、騎士団のみんなも誘ってみようか。仕事がひと段落したらだけど」

「……そうだな」

 早い時間から居酒屋に入り、それほど長居をしたわけではない。午後七時を少しだけ回った夏の夜、空気は蒸し暑く、食後の消化で体が火照る。
 梨太は、知らぬうちに上気していた頬を、手のひらで冷ました。

 ふと顔を上げると、鮫島がこちらを向いていた。梨太も足を止め、どうしたのかと聞いてみる。彼は目を細めた。

「美味しい店だった。また行きたい」

 そのセリフのために、立ち止まったわけではあるまいに、後の言葉を続けない。
 彼は、やはり酔っているのだろうか。
 深海色の瞳が、いつもよりも愁いを帯びていた。
 長い睫毛が月明かりを遮って、滑らかな肌に陰を落としている――

 鮫島はまた一歩、歩み寄ってきた。梨太は息をのむ。
 彼はほんの少しだけ、バラ色の唇をとがらせて。

「だめだ。やっぱり、内緒にしておこう」

「へ?」

「騎士団には、あの店は内緒」

「そ……そう? なんで」

 ほほ笑む鮫島。

「あいつらは、騒々しい。みんなが全部しゃべるから、俺がリタと話すことがなくなる」

「……ああ、うん……わかった。じゃあ、また……二人で」

 満足げにうなずく鮫島。 
 そうして、密約が済んでも、彼はそのままそこにいた。

 手を伸ばせば、その頬に触れることができる距離。

 閑静な住宅地、その夜は人通りもなく、二人ぶんの影があるだけだ。月光に照らされ落ちた、ぼんやりとした二つの影を、梨太は半歩踏み出すことで重ねていく。
 頬に触れる梨太の手を、鮫島は拒絶はしなかった。
 きょとん、とした横顔に、手のひらを耳のうらまで差し込むと、くすぐったそうに身をすくめた。

 さすがに、梨太の意図を察したのだろうか。驚いて目を丸くする。
 驚くようなことをするつもりは全くなかった。
 鮫島へのアプローチは、とにかく正攻法、ストレートにシンプルに、と梨太はもう学習済みだ。
 ただ己の気持ちを伝えればいい。
 それだけで十分――

「鮫島くん」

 ほんの少しだけ背の高い彼に、梨太のほうが背伸びをして合わせていく。

 押しつけた唇に伝わる感触は、柔らかな人肌ではなかった。無意識に閉じていた目を開くと、眼前には白い物体。鮫島の鞄だ。
 頑丈な布製のそれを盾にして、鮫島は首をすくめていた。

 一応、想定の範囲内。梨太は無言で鞄をよける。そして今度は鮫島の肩をしっかり掴んで再挑戦。今度は背伸びをして躱された。せめて顎くらい吸い付いてやろうと乗り出す梨太、とうとう鮫島は梨太の顔面を鷲掴みにした。

「あいだだだだだだまたこれぇぇえええっ!?」

 三年ぶりのアイアンクロー。しかし今度は背丈に大差がない。じたばたする男の身体を、握力だけで持ち上げるのはさすがに骨が折れたらしい。鮫島はすぐに手を放した。

 ガードレールの上まで逃走し、はぁ、と大きく息をつく。

「……びっくりした」

「びっくりしたのはコッチだよ!」

 梨太は叫んだ。彼は鞄で口元を隠しながら、俯いている。反論はしなかった。やはり赤面し、かすかに潤んだ目でこちらを見下ろしながら体を縮めていた。

「なんでっ! もう今おもいっきりそういう流れだったでしょ!?」

 首を振る鮫島。

「無理」

「っむ、無理って。なにがだよっ。そりゃ、男女のアレとか妊娠とかは数年かかるっていうけど、キスくらいなら、今ある唇くっつけるだけでしょーが。なんの支障があるってのさ」

「……物理的にじゃなくて……」

「なにっ? せ、精神的に? フツーに嫌なの? いや僕アレだよ、こういう空気は読めるほうだと思うよ? 完全にフラグ立ってたと思うんだけどっ! あ、あれ? そうなの?」

「……嫌っていうか……」

 鞄の向こうでモソモソつぶやく。


「……だめ。無理。いろんな意味で……」


 言葉を失くし、二人とも、身の置き場を失くした時。

 ブブブッ――振動とともに、鮫島の腰元から、くじらくんポータブルバッジが飛び出してきた。
 空中で鮫島が捕まえる。あいかわらず、どこから聞こえるのかわからないが、鯨将軍の声がした。

「鮫、出動だ。霞本駅近郊の商業ビル。超大物が一匹と、その群れの目撃情報あり。向かった騎士が死体で見つかった。現在目標は見失っている。探し出せてもほかの騎士たちの手に負えない。負傷は四名。いますぐ応援を頼む」

 了解、と彼は返事をして、くじらくんをポーチへしまう。こころなしかホッとしているようにも見えた。彼はポーチをゴソゴソ漁りながら、梨太には目を合わさないままで、

「じゃあ、行ってくる」

「……あの……お酒入ってるの、危ないんじゃ」

「それは大丈夫」

 そういって、彼はなにやら錠剤のようなものを取り出した。

「なにそれ」

「即効性の、アルコール分解酵素」

 梨太は絶句した。

 飲み下した薬の成分を体内に回すためだろうか、軽くストレッチのようなことをして、彼は小さく息を吐いた。伸ばした背筋はピンと張り、凛々しく梨太に向き直る。

「それじゃ、また」

 そう言い捨てて、膝を曲げて力をためると、垂直に跳ねた。民家の塀に飛び乗り、さらに屋根の上へ。そして足音もなく闇の向こうへ駆けていく。

 その背中が見えなくなって――

 彼の手首を捕まえようと、伸ばしかけていた腕を、梨太はだらりと墜落させた。


 一人、夜道を帰宅する。
 少し休んでから、昼間の作業を再開。ひと段落したところで入浴し、寝間着に着替えてリビングに戻る。
 珍しく、梨太はテレビをつけた。
 小一時間、ザッピングしながらソファに座ってくつろいで――

「……うるさいなあ」

 呟いて、テレビを切った。

 とりあえずしばらく、鮫島の来訪を待った。
 零時手前で、諦めて就寝する。
 寝て、起きて、食事を作り、食べて、作業をして、必要なことをする。
 そうして過ごす。

 そうして――梨太は五日間、ごく近距離を除き、家から出ずにひとり暮らした。

 外出の間にも、鮫島が訪ねてきた形跡は一度もないままだった。


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