[縦書きPDF推奨]殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

簗瀬 美梨架

第一部 武王の死

第一章武王の死
               1
――紀元前三〇六年、初冬。周の副都・洛邑。
暦、六呂にもなると、一陽来復、落ち込んだ陽の気も少しずつ、辺りを埋め尽くす。
 市が並んでおり、この日、五歳を迎えた白起と母の巴は、賑やかさに釣られて、街中に出たところで足を止めた。
 白起の背丈を超えるほどの鼎と呼ばれる大きな大鍋。どすんと鎮座している。巨大鍋に、忽ち白起の興味は注がれた。
 巴が差し出す椀の百倍以上もある。黙って見上げていると、遠くから男たちがわらわらとやってきた。
 何だよと見上げると、男たちの一人がひょいと白起を摘み上げた。
「力比べの邪魔すんじゃねえ」
 白起は「むん!」と腕を捲り上げた。
「おっ、やんのか。お手手を痛めるぜ」
 けたけたと笑った男に足で砂を掛けた。「このヤロウ」と男が小さく呟いた。人々が興味の眼で、一陣を監察している。合間から、巴の姿が湧き出てくる。
「白起! どこへ行ったかと思ったら! いけません」
 白起は、むすっと頬を膨らませた。
「こいつらが、僕を莫迦にしたから、砂を掛けたんだ」
「まあ、誰が? 母さまが文句を言ってあげます。教えなさい」
「まあまあ、そんな熱くなるなって。この親にして、この子ありかよ」
「周の武王さま!」
 王は白起に屈み込み、頭を撫でると、にっと笑った。白起も一緒に、にっと笑った。
 頭布を無造作に巻いたザンバラ髪が大きく揺れる。彼こそは倒殷を果たした周の武王、姫溌。
 武王は膝を折り曲げ、しゃがんでいたが、ぺっと手に唾を吐き、口元を歪めて見せた。ぼけっと見ていた白起の前で、両手を広げて、鼎を挟み込んだ。
「どうだァーーっ!」
 僅かだが、地面から、巨大な鼎が浮いた。子供の目は誤魔化されない。夢中で白起は小さい手を打った。
「けっ…ちょっと焦っちまったぜ」
 ガァン! と鼎を打ちつけた武王は縁に手を掛け、片腕で額の汗を拭った。しかし、群衆の一人が文句を言い出す。
「ちゃんと持ち上がっていなかったんじゃないか」
 武王は唇を噛み、もう一度さっと腕を広げ、大股を開いて大地を踏みしめる。
「くそったれがあっ! ちゃんと、見てろぉぉ!」
 僅かに持ち上がった鼎に、拍手喝采が起こる。「う」という武王の声に混じり、「ぱき」と変な音が響いた。
 ――なんの音だろ?
 武王は動きを止めている。僅かに鼎は地面から浮いていた。巴も嬉しそうに拍手している。
 すると、武王がぐらりと蹌踉けた。鼎が地面に打ちつけられた。
 ガァン、ゴン、ガァンガァン!
(何て大きな音! うるさい)と白起は小さな耳を押さえ、蹲った。
 音が静まるのを待っていると、やがて人々の波がざわ……ざわ……と揺れ始めた。
 武王は中央で俯せに倒れ、鼎を持ち上げたままの格好で息絶えていた。咄嗟の出来事に、人々も戸惑っている。
「武王さま?」
 民衆の一人が武王の肩を叩き、岩のように固く引っ繰り返った武王を見て、激しく後に下がった。
「死んでいる!」
 忽ち民衆は倒れた武王を円陣のように囲み、顔を見合わせた。巴の手を離して、白起はゆっくりと歩み寄ろうとして、巴に強く引き戻された。
 巴は白起の手を引き、顔をぐいと武王の方向に向け、鋭く、しっかりした声で告げた。
「眼を逸らしてはなりません」
「覚えておおき。白起。人は死ぬと動かなくなって、人形になる。こうして、突然ばったり死んでしまうのよ。」
 ――死んだのよ。
 巴のいう死が五歳の白起に、分かるはずはない。
人は死ぬと動かなくなって、人形になる。みんな、動かなくなる。
 何やら悲しくて、白起は瞳から涙が溢れるのを止められなかった。
 巴は諭しながら、白起を抱き締めた。
「何と、優しい子……他人の死で泣けるのね」
 やがて武王の遺体を役人が丁重に引き取っていき、民衆は不安の坩堝に堕とされ始めた。
「どうなるんだ。こんな時に周王が……殷王朝を倒し、未だに政策は安定しておらず、まだ殷の謀反は度々起こる。それだけではない。成王の叔父の反乱も未だ収拾はついていない。その最中に、力比べで王が絶脈とは」
「あの鼎は煮熔かされ、鼎を置いた料亭も処罰の対象か。いい王だったのに……莫迦げた話だ。諸国に知れ渡れば周もまた、終わるのではないか」
 終わる、どうなる、ばかげた……白起は僅かに聞き取れる言葉の意味もわからず、ただ話に耳を貸していた。
「行きましょう。いずれは周も終わりを迎える」
 混乱の収まらない周の副都・洛邑。夕暮れが夜の帳を下ろそうと、空を橙色に染め始めた。雲堤が夕焼け空に浮かんでいる。
 頬に夕日が当たると、少しだけ暖かい。
 見下ろす巴の瞳に、ぽっかりと浮かぶ夕日を見つける。静かに沈んでゆく太陽。
(終わる、とはなんだろう)
 少し寂しさを感じながら見上げた初冬の夕映え。
 冬の季節風は周にも吹き荒れようとしていた。
                2
 趙の南端。周を出て、雪路をどのくらい歩いただろう?
 巴は小さな物売りを見つけ、足を止めた。
「白起。剣を買ってあげるわ」
 寂れた屋根の下で、剣売りが軒並み商品を並べている。巴が購入すると思ったらしく、軒下の爺は眼を見開いた。
「この子が使うのよ」と巴は小さな短剣を選んで、代金を支払った。
「手を出しなさい」
 巴は一度、白起に剣を授けて、自分で構えて抜いて見せた。
「これが、刃、こっちが鞘。白起、抜いてごらんなさい」
 頷いて、早速、剣を握り締めて、鞘から抜こうとした。
 が、これが抜けない。振り回してみたが、抜けてくれない。涙目で振り返ると、巴は険しい顔になった。
「落ち着きがないからです。しっかりと前を見据え、武器を手放してはいけません。息を大きく吸って、剣を握りなさい。それができるまでは、お昼ご飯はなし」
 巴の膝に置かれた小さな屯食を眼に映しながら、白起は両手で剣を掴み、引いてみた。
 持ち手に気づき、両手で持ち手を掴んでみる。今度は鞘を押さえて振ってみた。
 小半時ほども剣と格闘して、腹の音が響く頃、白起は顔を上げた。
(ようやく、わかった。こうだ!)
 片手で剣を掴み、片手は鞘を握り、恐る恐る、そっと横に引くと、剣は見事に抜けた。綺麗な刃毀れ一つない、刃が銀色に鈍く光っていた。
 ――冬の色。僕が映っている。何と綺麗なのだろう。
 巴はすぐに屯食を差し出してくれた。
 以降、この短剣は如何なる時でも、白起の身から離れる瞬間はなく、永久への旅路までも、護剣として、共に在る事態となる。
            *
 水音が激しくなると、趙の水門に近づいている証拠である。
 西には太行山脈が、麓には滏陽河が、南を漳河が流れる。支流が二本もあれば、当然、水門も巨大になる。いくつもの大水法が並ぶ水門は、趙の名所でもある。
 巴が龍の前で手を合わせた。白起も一緒に小さな手を合わせて、眼を閉じた。
 趙の関代わりの水門には、巴と白起と同じ風体で子供を連れた大人がたくさん群がっていた。水飛沫に眼を奪われ、足を止めがちになる白起を連れて、巴は静かに趙の水門を通り過ぎた。
 ざわざわと山陰が蠢いている。
 ――なにか気配。夕闇に紛れて視線が纏わりついた。何かが見ている。ちょうど水門を境にした、山奥からの視線だ。
 首を伸ばして、水門通過の列から外れた。
「母さま、あっちの山に、何かがいる」
 覚えたての剣を引き抜いて、構えた。一歩を踏み出そうとした瞬間、がっちり巴に腕を掴まれて、引き摺られた。
「なにするんだ! 母さま。なんかいたんだ。確かめに行くんだ!」
 母にずるずると引き摺られながら、白起はもう一度、振り返った。気配はもうない。
「あなたに付き合っていたら、二人で迷子になってしまう。もう少しで暖かい部屋で、ぐっすり寝られるわよ」
「嫌だ、僕はあっちに確かめに行くんだ」
「では好きにしなさい。行きなさい」
 ――え、っと……。
 こうも手放しで言われてしまうと、今度は困惑するもので、白起は暗闇に向かって足を進めながら、ごきゅんと唾を飲み下した。
「い、行ってきます……」
 来た道を逆走する形になり、ぺたぺたと歩く白起に心配そうに、巴が従いてくる。
(子供扱い、して!)
「あ! 白起!」
 全速力で走り、山に飛び込んだ。
 前は山、後は河。腰布が緩んで来た。両手を震えさせながら不格好に縛り直すと、爪先を地面に滑らせた。
 山の木々は黒く、遙か頭上で不気味に揺れている。湿った大地には蚯蚓が寝そべり、側には蟻が無数に這っていた。
 見た記憶のない生き物がたくさんの別世界。白起は小さな手で木々を掻き分け、山地の中にあるものを見つけた。
 龍の石碑だ。どことなく、古い。龍は精巧に彫られ、ぽつんと置かれていた。鱗まで、丁寧に彫られている。
 両眼には泥が押し込められていた。何となく指で擦り落とすと、指はぼこんと奥に押し込まれた。
 穴が開いている。白起は指を引き抜くと、もう片方の眼の泥を指でこそげ落とした。今度は、つるんとした球体が指先に触れる。きゅ、と音がして、泥をすっかり落としきった片方の眼には青く磨かれた石がはめ込まれていた。その眼がぐるんと動く。
 背中で木々がざわざわと揺れた。
 恐る恐る両手を添え、白起は龍の両眼を塞いだ。片眼の代わりに、泥を突っ込んであったのだろうか。ぽっかり空いた片眼に顔を近づけたところで、正面の龍の横から、ぬっと顔が見えた。
 顔はぷっくりした頬になり、頬は可愛らしい女子になった。
「び、びびびび、びっくりしたっ……!」
 驚きのあまり、龍の石にしがみついた白起を見て、女はコロコロと笑い声を上げた。
「腰抜け」
 瞬時に手を腰の剣に伸ばす。二度ほどうんうん唸った後、剣を抜いて、白起は少女を睨んだ。
 少女は円らな瞳をしており、楚の少女とは違って、少し白い肌をしている。同じ年頃でありながらも、しっかりと纏め髪をしていた。
 よく見れば、ほんのりと化粧までしている。つんとした唇が、何故か脳裏に残った。
 小さい足を軽やかに跳ねさせ、少女は身を翻した。
「ここ、ずっと気になってたの。いつか入ってやろうって。そうしたら、きみが入って行くから、従いてきたの。こっちにもいっぱいいるよ、来て」
 少女はずんずんと山に入ってゆく。
(あ、ここにも〝龍〟がこんなにたくさん)
 すべての龍には、入り口と同じ。片眼がなかった。〝龍〟は等間隔で並んでおり、すべてが同じ方向を向いていた。その数百はあるだろうか。無数の龍の彫刻が、円陣となって、中央を睨んでいる。
「見て、骨がある。何の骨かはわからないの」
 少女は声を潜め、奥を指さした。一つだけ、盛り上がっている丘陵がある。
 ――確かに、浅黒く染まった地に、剥き出しになるように、白骨があった。思わず声を潜めた。
「何の骨だろうって、ずっと気になってるのよ」
一歩、踏み入れた途端、ぞわあっと背筋が戦慄いた。
(さっきと同じ気配だ)
 白起はいつしか背中に逃げ込んでいた少女を庇うようにして、剣を抜き――
 前方の木々が「ゥローン」と鳴き声を上げ、枝が弓なりに撓り、びゅんと飛んできた。
 白起は正面から頬を打たれ、ふらつきつつも、声を上げた。
「大丈夫、ただの枝……」
 ふと見ると、枝と枝の合間から、赤い瞳とシューシューと音が聞こえてくる。急に先程の骨が恐くなってきた。振り返って、溜まった涎を飲み下す。
 ――何の骨だろう? 何のために置いてあるのだろう?
「あたし、あい。趙では、あいりんとよばれてる」
 背中をぶつけながら、少女が名を告げた。駆け出そうとした腕を掴み、白起はくるりと方向転換した。
「逃げよう! ここ、恐い!」
「ちょっと! 逃げるの? あたしは逃げない!」
 木々が揺れ、のっそりとした獣がすぐ向こうをのしのしと歩く情景に、二人は言葉を失った。とても大きい。犬なんてものではない。
(み、見つかりませんように……っ)
 息を潜めた白起に、櫻はそっと耳打ちで囁いた。
「山の、かみさま。この山には神様がいるのだって」
 眼の前で、がさりと茂みが揺れ、獣が顔を出した。
(ひいっ)
 剥き出しの両眼は溶けかけている。すこし開いた口からは僅かに涎が溢れている。見たことがない獣だ。白のような、灰色のような、剥げかけた毛は、その下の肉を浮かばせている。
 ――なんて臭いんだ。
 ぺち、ぺち、と歩く度に音がする。雲の蔭りが僅かに霽れて、山に光が射し込み、獣を照らした。弾みで龍の石碑に腰をぶつけた。
 風化していたのか、龍の首は容易に砕けた。
 振り返ると、崩れた首が白起の方面を向いている。コロコロと眼球にはめ込まれていた宝玉が転がって、指にぶつかる。
 咄嗟に掴んで、袖に偲ばせた。あまりに綺麗だから、母さまが喜ぶだろう――。
「ねえ、前! やっつけてよ!」の声に振り仰ぐと、先ほどの腐った獣が二人を狙っていた。靄は白起の背中から、ちらちらと獣を見ては震えている。
「無理だよ……っ!」
 足の肉球が腫れて、血膿を垂らしている。ぺちぺちの音の正体だ。口を押さえて涙目になった白起の方向に、獣の瞳は水平を保ちつつ、動いた。
 少し悲しそうな眼が、何かを訴えている。垂れた尻尾はボロ切れのように、ただ、ぶら下がっていた。
 しばらくして、獣はどこかへ消えて行った。円陣の龍の中央は窪んでいる。どうやら窪みに消えたらしい。
「あそこが、家なのかな。消えた……」
「い、行きましょ……っ」
 靄は気丈にも、白起の手を掴み、バタバタと逃げようとする。
 あたたかい手に、ひやりとした汗が伝わった。
 二人で手を繋いで、山を駆け抜け、最初にあった龍の側まで戻って来た。獣の姿は見えず、二人はほっとして、地面に座り込む。
 弾みで、手から宝玉がつるんと転がり落ちた。直ぐに、靄が気がつく。
「返せよ! 母さんにあげるんだから、それ!」
「きれいね」と持ち上げて、空に翳した後、「これ、もらうわ」と袖の中に隠してしまった。
「返せってば!」靄はふふんと笑って、動かなくなった。「あれ」と指で奥を指す。黒い林の奥に、狂った無数の眼がこっちを睨んでいた。
「天鼠があんなにたくさん! 行くわよ!」
「引っ張るなよ!」
 バランスを崩して、龍の石碑に身体を打ちつけた。ころん、とまた宝玉が転がり落ちる。慌てて拾って、袖に隠した。
 尿をちびりそうになりながらも、二人は山を出、ようやく陽の下に戻って来た。早速、入口で心配していた巴に見つかった。
 もちろん、散々に怒られた。
「剣があるから平気だと思った」
「抜けもしないくせに?」と、やんわりと言い返され、そうこうしているうちに、獣と、靄の姿は消えていた。むっつりと頬を膨らませたまま、白起は宝玉の存在を忘れていた。
             3
 ――時を同じくして、魏の国。叔は、走って走って、丘陵に辿り着いたところだった。
 いつもの虐めとは違う。魏王の暗殺など企むはずもない。
 濡れ衣だ――。しかし命の危険を感じ、逃げ込んだ場所は、〝決して立ち入ってはならぬ山〟だ。
 ぎくりと背中を震わせた。龍がこっちを睨んでいた。
 いや、よく見ると、片眼のない龍を彫った石碑だ。倒れて、ちょうど叔を見つめるような格好になっている。
「龍……随分と精巧だな」
 学のある叔は、ゆっくりと歩み寄った。不気味に感じる理由は眼だ。
(いや、何でもいい。ボクを地獄から救って!)
 無我夢中で抱き締め、叔は呟いた。
「ボクを甚振いたぶるすべてのものに、天罰を」と。
 暗くなるに連れて、獣の蠢く気配がした。夜は猛獣の天下だ。グルル、と猛獣の息遣い。赤い瞳の獣が叔を見やっている。
 むろん、武器はない。もう駄目だ、と眼を瞑った。
「血を浴びるな! しっかりと口を覆え!」
 ふいに声がして、むっと鼻に虎の血の臭いが立ち篭める。
 暗がりで剣を納める音が響き、闇を切り裂くような獣の獅子吼が耳に届いた。
 足に忍び寄った血に触れないよう、微塵子のようにシャカシャカと逃げた叔の眼の前に、男が立ち塞がって剣を抜いた。
 月夜に逆光に浮かび上がる、古代中国の戦士の姿。
(殺される!)と叔は眼を瞑った。だが、背中で、どおん! と巨体がゴロリと転がって地響きがした。
「覚えておけ。片眼の龍の石碑の傍には、呪いが生きる。殷の呪術場は子供が入る場所ではない。呪に喰われたら、どうする」
 昇った月に照らされ、男の髪は銀色に輝いていた。背が高く、異国の戦士を思わせるような長い髪、低い声は、龍を思わせた。
 叔は倒れた虎の残骸から眼を逸らせず、気付いた男が、自分の外箕を投げて寄越した。
「死んだ獣を見詰めるな。眼が開いているだろう。宿るモノを探している眼だ。憑依されれば、狂気が待つ。片眼の龍は、趙にしかおらぬと思っていたがな……」
 男が夜空を振り仰いだので、釣られて叔も一緒に空を見上げた。月光に浮かび上がった山陰は、山の後光だろう。銀色に縁取られた山麓は、どこまでも続くと思われた。

                *
 穏やかな時間が過ぎ。叔と男は僅かな会話を交わした。
「わたしの名前か? てい安平あんぺいだ。魏の人間ではない。遠く、秦からやってきた。お前、いくつだ」
「昨日で十二を迎えました」
「十二を迎えたにしては、達弁だな。王稽が気に入りそうだ」
 絶命した獣は、瞳を死んだ魚のように、灰色に染めている。
 その虎にもう一度ぶすりと剣を突き刺した後で、鄭安平はゆっくりと手を差し出した。まるで何かの儀式のようだ。
「俺の役目は、魏王の誅殺だった。殺害計画を知られてしまった以上、お前を見逃せぬな。どうだ、その命、わたしに任せてみるか」
 驚き瞠目する叔の前で、啓示とも取れる言葉が降った。
「お前を我が主、王稽に売ってやろう。今、秦は有能な人間を集めている。知識と達弁であれば、いずれ王にも、引き合わせられよう。ただし、長い不遇の時が待つ」
 不気味な夜風が山陰を吹き抜けていった。空は、紺青色の宝玉箱だ。獣の遠吠え。地面に転がっている龍の石碑に視線を注ぐと、後から目隠しをされた。低い声は魂までもを震わせる如く、響く――。
「片眼の龍の石碑には寄らぬことだ。何が起こるか、わからぬよ」
             *
 後ほど引き合わされた王稽は冷めた眼をしていた。叔という名前は、いかにも滅んだ民族だと主張していると述べ、張禄という名前を与え、叔を買い取った。
 ――時は紀元前三〇七年。魏の国の王、魏斉誅殺。
 魏からは一人の少年が、消えたが、記憶に留まる事項ではない。
 いずれ、秦の范雎と呼ばれ、恐怖と知力のある宰相になるまでの、長い不遇の時間が待っていた――。
             4
 さて、白起と巴は、趙のとある楼閣の宮に身を寄せていた。巴の縁者が用意した場所だ。
 水門の雪は溶けて、透明になって落ちた。山越え準備を終えた一軍が眼の前を通り過ぎる。指を差して、白起は聞いた。
「母さま、どうしてみんな〝モケモケ〟をつけているの」
 巴の目が優しくなった。
「あなたは毛皮を〝モケモケ〟と表現するの?」
 冬の趙国は所謂、極寒。ちょうど今日は大寒だ。だが、こと白起には通用しない。
 屋根の樋から滑り落ち、積もった雪山に手を突っ込んだところで、巴に手を掴まれた。
「むやみやたらに手を突っ込んではなりません。見なさい、真っ赤になっているでしょう? 剣が握れるか、試してごらん」
「握れるよ」と胸を張って、剣を掴んでみた。ところが、手が震えて剣が落ちた。変だ、指先が小さく震えて、ぷっくりと膨らんでいる。言うことを聞かない。
「僕の手じゃない」
「ホラ見なさい。かじかんでいるのよ。手を出しなさい」
 巴が白起の手を優しく包み込み、温めようと口元を近づけ、香料を香らせながらも息を吹きかけた時だった。
 「これはこれは。可愛い武将を連れて。おまえの子か? 口元がよぅ似ている」と忍び笑い。
 男が庇に座り、二人のやり取りを見て笑っていた。
「昭襄王さま! どうして趙に!」
 心なしか、巴の声が弾んだ気がする。知り合いのようだが、大切な時間を邪魔された風で、面白くない。
 巴が昭襄王と呼んだ男は、目元の濃い印象があった。背は高くないが、どことなく気品があり、勇ましい格好をしている。
「白起、いらっしゃい。あなたの親戚よ」
 巴が手招きをした。だが、庭から白起は動こうとせず、また雪に手を突っ込んだ。なのに、今度は母は男と談笑に興じ、見向きもしない。何度も繰り返す内に、手がひりひりしてきた。
 指先の感覚を取り戻そうと、涙目で指先を擦る。ようやく暖まった指先は、じんと痛んだ。
「ああ、燕にいたのだが、武王が死んだ。見事に突っ返されたお荷物が、俺というわけだ。全く、王族の子供などテイの良い取引材料でしかない。で、今度は、斉と楚の和平役を命じられた」
 ――つまらない話だ。
「母さま! こっち」と小さな手を振るが、母、巴は、昭襄王の話に夢中で聞き入っている。爪先で雪を蹴飛ばすと、今度は爪先が冷えた。
「あの豪傑がどんな死に方をしたのやら。異母兄といえど、感服できぬな。どうせ、バカげた勝負の最中に死んだのだろう」
 母に見せようと特訓していた剣を抜く。もう完璧に抜刀できる。
 昭襄王が感嘆の意を洩らした。
「ほう、見事な剣捌き。教えた大師は、誰だ」
 無言で、キン、と音を立てて、白起は剣を仕舞った。
「母さまだよ。ちゃんとできないと、ごはんが貰えなかったから」
 ふと見ると、昭襄王が鋭い瞳を白起に向けている。
(なんだよ、何か悪い事をした? ううん、していない)
何だか忍びなくて、白起は視線を逸らせた。
 昭襄王の瞳は細く、表情が読み取りづらい。
「どうした? なぜ、俺から眼を逸らす」
「その眼、恐い。子供に毒だよ」
 はっと気付いたように、昭襄王は視線を戻した。
(嫌な眼。じいっと僕を見透かすみたいだ。気分、良くない)
 昭襄王はがりがりと髪を掻き上げると、今度は優しい雰囲気で白起に微笑みかけた後、やり取りを見守っていた巴に向いた。
「巴、どうだろう? この子を、俺にくれないか。秦で育てたい」
「秦に連れ行くと言うの? ――嫌よ。あんな田舎に、白起を行かせられない。それに、あなた周に戻るのではなかったの?」
「戻るよ。滅ぼしにな。趙に尻尾を振った以上、いずれ周は滅ぶ」
 巴の腕が、白起に伸びてきた。ふわんと抱き締められ、思わず小さな頭を上げて、巴を見上げる。
「冗談じゃないわ! そんな野蛮な渦の中に、白起を巻き込ませるものですか」
「時代は、激動の中に生まれるものだ」
 頭上で巴の泣きそうな声がした。
「では、私がその激動の中で、どれだけ苦しんで、この子を産んだかくらい、想像できますでしょ! この子は、渡しません。本来なら、白起は!」
 昭襄王は瞬く間に呆れかえる。口調はたちまち氷の口調になった。
「莫迦な母親が、一人の少年を潰す」
「母さまを泣かすな!」
 小さく構えた剣の前で、シュ、と風を切る音が響いた。擦れ合った剣は何もしていないのに、ぽとりと落ちる。
 顔を上げると、昭襄王がやれやれと言った風情で、剣を仕舞うところだった。
「立ち塞がるのなら、もっと強くなれ。虎の子供にすら勝てぬぞ」
 すっくと立ち上がった昭襄王を、白起は呆然と見上げるばかり。
「巴」と振り向き態の声に、俯いていた母が顔を上げた。
「この子は、渡さない」
 呟きに呆れの吐息が重なり、やがて昭襄王はすたすたと廊下に消えた。直後、馬の蹄の音が響き、楼閣は静かになった。
 後には、泣き腫らす巴と、剣を抜き差ししては首を傾げる白起が残された。
 遠くで「ゥローン」と獣の唸り声がする。強くなる意は、漠然とし過ぎて分からない。
(でも、母さまが泣くのは見たくない)
 小さな手が、巴の髪を撫でた。
 しばらくして、また楼閣の廊下にドスドスと足音が響いた。たくさんの足音だ。
「なにかしら」
 ふいに巴の顔が不安になる。一緒に白起は不安に苛まれた。
 ――視線を感じる!。
「母さま、庭!」
 はっと気がついて、巴と白起は、敵意剥き出しの虎を目撃した。
 虎の口は血で溢れ返り、歩くごとに吐血している。ごぷっと溢れ返る血と凄まじい臭いには、覚えがあった。
「あいつ! 龍がいっぱいの場所にいた……っ」
「人食い虎……」
 呟いた巴の手が白起を強く握った。震えに驚いて、巴を見上げる。
 巴は、小さく震えていた。虎に怯えている。
 趙の街は大混乱を来した。老婆が叫ぶ。
「あれは、怒りじゃ! 呪われた虎は、虎ではないぞえ! 血に触れれば人に非ず。遠き王朝が残した呪じゃ! 龍神に触れた子供がおる。殷虗には立ち入ってはならぬと言うに!」
 唸る度に、虎は醜悪な息を吐いた。臭いだけで、吐きそうだ。
 ――強くなれ。虎の子供にすら勝てぬぞ。
 白起は唇を噛むと、小さな足を虎に向けた。
 剣を真横に持ち上げ、柄を掴む。ゆっくりゆっくりと刀身を抜いて、虎に近寄ったところで、ひょいと持ち上げられた。昭襄王だ。
「騒ぎがしたからと思えば」
 ばたばたと足を暴れさせて、白起は憤った。
「下ろせ! 僕がやっつけてやるんだ」
「黙って見ていろ。血を浴びたら仕舞いだ。巴、助けてやるから、この子供を俺に寄越せ」
「何度言われても、渡しません!」
 ――また、視線だ。
 諍いを見守っていた白起は、潜んでいた闇の気配を捕えた。
 渾身の力で叫んだ。
「もう一頭あの茂みの向こうだ! あ、右に移動した!」
(何処へ行った。動きが速いんだ……っ!)
 白起は眼を凝らし、ぎょろりと視線を止めた。
 ――母さまの、後……!
「母さま! うしろ!」
「ちっ」
 昭襄王が剣を震う瞬間と、虎が巴に飛びかかる瞬間は、同時だった。突然、眼の前が大きな布に遮られた。昭襄王の外蓑だ。翻った布の向こうで、小さな悲鳴が聞こえ、びしゃりと布に血が跳ねる。
 昭襄王の外箕の向こうでガフガフと獣が狂って何かを屠る音がする。布を強く引き、視界を奪った状態で、昭襄王は低く呟いた。
 布の向こうで、黒髪が波打ち、一瞬二つの血の眼が見えた。すぐに、ずるずると落ちた。
「――だから、さっさと渡せば良かったのだ……自業自得だ、巴よ」
「母さまが見えないよ。この布、邪魔だよ」
 昭襄王は外箕を巴に向かって投げ捨て、白起を抱き上げた。
「――母は、後から秦に来る。母に、さよならしておけ」
 ちらりと振り返ると、虎たちが食い荒らした獣が見えた。巴の着物に似た物体は赤く染まって、もはや人の原型を留めていなかった。
 虎は弩に射貫かれ、既に息絶えている。倒れた獣と肉塊を一緒くたに奴隷が運ぶ車以外には、見当たらない。すぐに桃の華が撒かれた。
 昭襄王はきょとんとする白起を強く抱き締めた。
「行くぞ、とんでもない話になったな……!」
 ――さあ、行きなさい。秦に向かって。きっと、白虹が導いてくれるから、大丈夫よ……
 巴の声は、何故か空から降ってきた。ああ……と白起は気付く。
 降り注ぐ雪こそが、巴のようだったから。だから冬が好きだと。
 昭襄王の馬は襲歩の勢いを超え、夜の趙を疾走した。
 趙との別れ。同時に、母子の永遠の別れを意味していた。
                5
 馬を進める昭襄王の足の間に跨がらせられた白起は、時たま振り返っては、母が来ないかを確認する。
「馬上で暴れるな。手綱を切り損ねるだろう」
「馬の足音がした、今度こそ、母さまだよ!」
「あれか?」と昭襄王が指した藪の中で、獣が走っている情景が見える。いや、獣ではなく、熊のような動物が重い足音で駆け抜けて、すぐに消えた。
「母さまは、あんなに太ってない」
「なるほど。巴は確かに細腰宮だったな。あの細腰のどこに、無鉄砲で元気なお前が入っていたのやら」
 笑いを滲ませて、昭襄王は続けた。
「風が出て来たな。趙から秦は、遠い。子供には苦だろうが、我慢しろ。一刻も早く秦に戻り、敵襲に備えねばならぬ」
 うとうととしかけた子供を、風雪から護るように抱き、昭襄王の駆る馬は力強く大地を踏みしめ、疾走し続ける。
 趙から秦への途は、険しい山越えだ。昭襄王は大きく聳える山麓の細道を選び、白く染められた林を抜けて、一晩中、延々と馬を走らせた。
 白起は、うとうとと頭を昭襄王に持たれかけさせては微睡んだ。
 ――ふいに、あの腐乱した虎が浮かんだ。
 どろどろに溶けた背中からは、骨が見えており、何よりも、臭かった。あの場所に母さまがいなくて良かった。
(う、思い出して、気分が悪くなってきた)
 ――腰抜けね。
 今度は言葉にむっと腹を立て、白起は小さな手で眼を擦って空を見上げる。見間違いかと思うほど、空が薄く、白く伸びていた。
「薄明だ。冬の朝は冷えた空気のお陰で、より白く見える。そら、もうすぐ朝陽が昇る。寒いだろうが、寒冷地帯を早めに抜けておきたい。あー……」
 顧みて口元をもごもごさせる男に、白起の頬が膨れた。
「白起だよ。名前、覚えてよ」
「白? もしや呉起からの一字か? 巴らしい」
「知らないよ。僕の名前は僕のだ。あなたの名前、何だっけ」
「お互いさまだな」と昭襄王は言い、馬を止めた。薄明の夜明けを見上げながら、一差し指を朝陽の下、走らせた。
 ゆっくりと動かす指先に巻いた布が夜風に揺れる。
 同じ動作を繰り返した白起の手を一緒に掴んで、空中で動かし始めた。
「昭襄王だ。周の王族の身内だからな、王と名乗りを赦されておる」
「おう?」
「偉い男のことだ」と付け加えると、昭襄王は手を下ろした。
「お前は、秦のために生きる武将になる」
 分からない言葉が次々に飛び出し、白起は持ち前の好奇心を発揮した。――ぶしょう? ぶしょうとは、強く戦う男を表す。――たたかう? 戦うとは常に勝つために全力を尽くす意味。――かつ? 戦ったり競い合ったりした結果、相手より優位な立場を占める。ゆういなたちば? ――決して自分を不運に陥れない状況だ。
「つまり僕は、武将になって、戦って、勝って、幸せになれる、ってことだね」
 頷いた昭襄王との会話は、今後の白起の生きていく上での枢軸となりつつあった。
               6
 鄭安平が戻らない。叔こと張禄は、閉じ込められた部屋で静かに外を窺っていた。
 ――秦の雪。随分深々と降る。魏での雪は、こんなに綺麗ではなかったけれど。
 馬の音がして、すぐに鄭安平の姿が柵の向こうを横切り、荒々しく扉が開いた。鄭安平は近寄ると、張禄の頭を掴み、片手で平伏せさせた。
「頭を引っ込めろ」
「何故ですか。ボクは罪人でも奴隷でもない」
 鄭安平は苛立ち紛れに、張禄に詰め寄った。
 背丈のある鄭安平に凄まれ、張禄は大人しくなった。更に鄭安平の声は地響きかと言うほど、低い。どん、と拳にした手で壁を叩かれ、更に震え上がりながら、唇を強く引いた。
 耳が馬の蹄を捉えた。渡りに船だ。張禄は話題を逸らしてゆく。
「馬の声がしましたね」
「燕から秦の王が戻った。俺には関係がない話だ。妙なものを見たな。ガキが馬のケツに乗っていた気がするが」
 話の最中で、こんこんと入口の壁を叩く音がして、男が顔を出した。
「王稽さまがお呼びでございます」
 王稽は鄭安平の上司に当たる。鄭安平はすぐに引き上げていった。
 部屋に視線を這わせた。干涸らびた蜘蛛の死骸。生き物がいる此処は地獄ではない。
(ともかく、今は待機だ。いいや、五年は辛抱するべきか)
 五年もあれば、状勢は掴める。更に張禄も十七歳、もっと思慮を深め、知識も増えているはず。
 ――目の端に蜘蛛が映った。黒地に節の長い蜘蛛だ。
 見ていると、王者蜘蛛は、相手を搦め捕り、少しずつ引き寄せ始める。動けなくなった蜘蛛がじたばたと動く。動けば動くほど束縛される獲物を、足の長い蜘蛛は揺れながらも静かに待っている。その姿は嘲笑している風に見えた。
 ――春夏秋冬。
 本格的な冬には、蜘蛛は姿を消したが、春になったら、モソモソと大量の子蜘蛛が天井に這い出し始めた。饗宴が繰り広げられ、真夏になると、弱いものから死んで行った。
 移り変わる季節の中で、張禄の興味は自身と、ある人物に向けられてゆく。死んだ宮に、近寄る者はなく、張禄は恋い焦がれた平穏を噛み締めて過ごした。
 ――ボクが従うべき王は、どんな方なのだろう?
逢ってもいない、生存しているかの確認もできないままでありながら、張禄は昭襄王の虚像に想いを馳せ、死宮と呼ばれた部屋で、鄭安平の支援を頼りに、数年を過ごした。
             7
 ――紀元前二九七年。初夏。
現宰相が賄賂発覚で処罰され、孟嘗君薛文が秦に来て宰相に就任した。同時に王稽も、階級を上げられ、大師府へと昇格する。
「我が王稽が発言力を持った。皇宮には宰相を廃する動きがある。――お前を軍師に推挙するとの仰せだ。今後は、王稽の役に立つ所業で、昭襄王にも繋がるだろう」
 壁に寄りかかり、黙って聞いていた張禄は瞳を上げ、ゆっくりと上半身を起こす。秦に亡命し、夜を怯えた少年など、どこにもいない。
「では、ボクは、ようやくこの部屋から、解放されるわけですか。待ちくたびれましたよ」
 自分でもぞっとするほど、張禄の声音は落ち着いていた。
 足元には食い尽くされた骸が夥しい数、糸とともに捨てられている。側には蠅の蛹が乾いて落ちていた。情景に瞠目する鄭安平に向かって、張禄は眼を細めて見せた後で、壁に視線を吸い付けた。
 最後の肥え太った一匹の蜘蛛を鷲掴みにし、逃げる蜘蛛を難なく捕まえ、握り潰した。
 ――掌に粘つきのある、奇妙な色の液体がこびりつく。
「行きましょう。鄭安平さま」
 唖然とした鄭安平を一歩すと追い抜き、生物の絶えた部屋をゆっくりと後にする。背中を向けた部屋の中央には、大蜘蛛が糸に塗れて、ぶら下がっていた。
            8
 秦の咸陽。溽暑。
 白起は初夏の皇宮の城壁の北端に座り、書簡の紐を解いていた。
 成長した長い足をぶらぶらさせながら、初夏の風を感じる。胸元には、碧玉が揺れていた。
 ――初夏。咸陽。白起が生まれてより、十四年の歳月が過ぎた。
「西南の風烈しく、溽暑夏日の如し」
(武人の僕に必要があるとは思えないな)
 白起はちらりと周辺を窺い、書簡を屏の上に立てた。陽に照らされる書簡に向けて、剣を抜く。
 書簡が割れる音が響き、返した剣の刃は少し、毀れた。
 指先で確かめて、少し切れた先に舌を這わせる。
「脆いな。使えやしないよ」と 独りごちた瞬間、「やはり、行くのか」と昭襄王の声。
 近くにいるのだろうと、城壁から身を乗り出させて、正門に集まった一群を観察した。
 貴妃は無言で昭襄王の傍を離れ、裾の長い服を持ち上げて、輿に乗り込んだところだ。車輪に引っかかりそうな帯紐を昭襄王はそっと指に巻き取り、一度だけ薫天を見つめる。
 やがて車は、ゆっくりと秦の宮殿の正門に向かい、後には護衛の馬が続いた。遠くなる車を見送った後、昭襄王は城壁の上の白起に気がついた。
 勢いよく城壁を駆けて、正門前に飛び降りた。疲れ切った王の独り言が響く。
「後宮におれば、殺さずに済んだものを」
「殺してしまうの?」
 昭襄王は静かに頷き、続けた。
「致し方ない。生かしておけば、魏でまた利用される。魏は周と同様、一度は本格的に滅ぼす必要のある国だ。弱った国を放置すれば、そこから邪推が入り込む事態になる。お前は書簡なぞを叩き斬っていないで、修練に励め。典客を困らせてばかりと聞く」
 藪蛇だ。白起は、しれっと視線を外した。
「あれは、僕が悪いのではなくて」
「ああ、そうだな。修練の最中に飛び込んできた犬が悪いのだな。一緒に遊ぼうと囁かれたと、そういう理由だな」
 修練をせず、犬と水で遊んだ所業を責め始めている。大体なんで知ってるんだ。唇を尖らせた前で、王の声音は厳しくなった。
「言っておくが、何もしないお前を養うだけの労力はない。もう子供ではない。武人にならぬなら、皇宮の門番にでも追いやるぞ」
 昭襄王は持ち前の皮肉な声音で笑いを混じらせた。
「母の巴が見たら、どう思うかな。貴妃が逃げ出すために毒を仕込む。呆気ない死に態だ」
「嫌だよ、門番なんか。僕は武人になるんだ」
「ならば修練に励めと言っておる。まずは魏国、次に韓。趙を一掃し、斉を囲う。どこにでも戦いは転がっておるのだ。ぶらぶらと遊ぶ暇なぞ、ないはずだが。そうだ。先日の食糧を漁った兵士は、お前だろう。見事な剣妓だったそうだな」
 昭襄王の鋭い視線。夏風が吹き、昭襄王の衣冠の装飾具を揺らしている。
「白起、時季が来れば、お前も人を殺す所業に陥る。生きるは、殺すだ。覚えておけ」
 会話の途中で、正門から黒馬が駆けつけてきた。
「鄭安平か。お前が戻ったという結果は」
「確かに、貴妃を含め、皆様を始末致しました。こちらを証拠に」
 男の眼が「なんだ、お前は」と言いたげに白起に向いたが、すぐに昭襄王に向き直った。大切に包んだ包みには、金細工の螺鈿の釵がある。
「ご苦労だった。俺は、しばし皇宮で休む。白起! お前は剣の練習だ。元服までに、もっと腕を上げろ。遊んでなぞいないで」
 八つ当たりだ。白起は気のない返事をし、黙祷する決断をした。
「王稽が逢わせたい男がいると、謁見を申し込んでいたようですが」
 眼の前で、男が昭襄王に問いかけている。自分には聞く必要はないと、白起はその場を立ち去った。
 積乱雲が空に蔓延り始めた。雷雨が来る。
 雲を被った山は静かに聳え、揺れ一つない。青麦が大量に揺れている。
(生きるは殺す。また一つ、覚えた)
人は簡単に死ぬ。人は簡単に殺す。――理は、まさに昭襄王が握りしめたままの薫天君の釵が訴えていた。
              9
 紀元前二九七年――張禄が軍事を中心とする少府に所属して一年が経つ。秦は田舎の建国でありながらも、領土獲得への参戦には一歩遅れた。大きな原因は、昭襄王である。
 昭襄王は剣を振るうが、自分が率先し、突っ込む武将の素質はない。それどころか、張禄が見る限りは穏健派ではないかと思う。
 張禄は持ち得た知識を切り売りして、何とか昭襄王に謁見できないかを試行錯誤している毎日を送っている。
 振り仰ぐと、夜空に肉厚の花びらが舞っている。春夜が泡沫のように静かに過ぎゆく中、春風が緩やかに桃の香を運んでくる。近くに桃の木があるのだろうか。
 雅だと思わず眼を閉じた張禄だが、外を見て愕然とする。
 鄭安平が口元の血を、桃の葉でこそげ落としていた。
「また、殺したの? 穣候に見つかったら……!」
「そんな愚策を俺がするか」と捨て台詞を吐いて、鄭安平は張禄に向き直った。
「王は、元服式を予定しているらしいぞ」 
 鄭安平は普段は昭襄王の暗殺専門の武将として暗躍する男だ。出会った時と変わらず、引っ詰めた髪に、男の精悍な輪郭を惜しげもなく晒している。暗殺を生業とするわりには、平然と姿を現す。
「あんた、うろうろしてていいわけ? 知っているよ。昨年、大仕事をやらかしたって」
「薫天君か。魏へ行かれては困ると王が判断されたのだ」
「魏か。聞きたくもないな」
 張禄は呟いて、唇を噛みしめた。
「そう言えば、あんたと出会ったのは魏の……」
 言いかけた唇が、急激に冷える。秦に来て、忘れていた。片眼の龍の石碑を突如ふっと思い出す。
 ――殷の呪いと言っていたな。聞いてみようか。
 目前に、眼をなくしたままの龍の石碑が浮かび、虎の血の臭いが、一瞬ではあるが、鼻腔を掠め、消えた。
 開いてはいけない扉が開くような。そんな錯覚。だが、錯覚と幻想は、鄭安平の「王稽がお前の元服式もすべきと昭襄王に申し出た」との言葉に、打ち砕かれた。
 張禄は間髪入れず、捲し立てるかのように反論を始めた。
「莫迦な言葉を。元服式とは、武将のためにある儀式でしょう。皇宮事務のボクに、なんの関係があるのです。ボクは剣を貰うつもりもありませんし、馬に乗るつもりもない」
「名を寄越すそうだ」
 ――名? 怪訝に思い、首を傾げ、唇をひん曲げる張禄の前で、鄭安平は肩を竦めた。
「昭襄王って男は偏屈なくせに、こういう仕来りを重要視する。それに、穣候が弱っている今こそが、昭襄王に取り入る最高の時機だ。張禄、己が率先して進まねば、未来は輝かぬぞ」
 張禄は無言で秦の居城を見やった。計算しつくした上で、積まれた板の階段に、干欄建築と版築された城壁と関城が切り拓いた山麓を背に、陽に輝いている。
 秦を能くし、楚を封じて、居城を抜いた昭襄王へ飽くなき憧れを抱いてはいるが……。
「でも、ボクは」
 張禄は手を見詰めた。所々白く見える肌は、秦に多い遊牧民族とは違う。漢民族だ。運命を邪魔する、生まれつきの差別がある。
「ちょうど今年、元服を迎える武将たちがいる。昭襄王は一緒にどうかと仰った。これも王稽の暗躍の成果だ。近日、楚王が来るだろう。宰相の薛文がどう交渉するか、見物だな」
 嘲笑うように鄭安平は告げ、持ち前の鷲のような持ち上がった瞳を吊り上げた。厚い上瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
 元服などという茶番には興味はないが、第一歩と思えば耐えられる。名を与えられれば、また状勢は変わるかも知れない。
             *
 弱冠――則ち成人して一人前の男子の証である冠を被る儀式を指す。白起は一人、正面を向いていた。
「まあ、何と悪戯武将が凛々しいことでしょう」と後宮の女たちが褒めそやし、ちょっと気分が良くなって、手などを振って気を紛らわしていたが、腹に苛立ちが生まれ始めた。
(なんだよ、こんな茶番)
 虚しくなって、白起は衣冠を毟り取って、放り投げた。
 見せたい人がいない状況で、格好つけても意味がない。
「白起! なんという振る舞いを!」
 教育係の婆に目線を走らせて、一人、列を離脱した。
 歩いて、振り返ると、たった一人、白起しかいないような錯覚に陥る。城壁に飛び乗って、白起は悠かまで続いていそうな地平線を眺めた。花曇りの空。快晴にはほど遠い。すぐに雨が降り、気まぐれに晴れる。
(僕の心、そのものか)
 嫌気がさした仕来りらしい正装と、授かった鎧の紐を外し、髪を元に戻そうとした手が何かに押さえられた。
「逃げ出すほど、儀式が嫌か」
 衣冠をいつもよりもしっかりとつけ、長い皇族服を引き摺った王が控えていた。
 白起は、涙目で、頷いた。
「見せたい人が、ここには、いない」
 唇を噛みしめて俯く頭に、呆れた吐息が降った。
「白起。儀式が終われば、母に会いに行っていいぞ。――誰にも知られずに、行ける道がある。後で教えようか」
「いい。正面突破する」
「趙国とは同盟を結ぶ気はない。一気に戦争に突入するつもりだ」
 厳しい声音で告げて、昭襄王は背中を向けた。王の紋章の入った外箕が大きく揺れる。
「趙は周王朝を援助しておる。――周は、もう不要だろう。武王以外の男が王にはなれぬし、今や悪の苗床だ」
 ――難しい話は苦手だ。
 白起は顔を上げた。
「儀式をやれば、母に逢いに行ってもいい?」
 昭襄王は諫めもせずに、無言になった。
 また空を見上げると、やはり雨が降りそうな雲の合間から、太陽が頭を出している。
 半日かけて着飾らせた衣冠を毟り取ってしまったせいで、戻ると女官たちは至極機嫌が悪かった。
 しかも衣冠は、ぱっくりと割れており、再起不能。
(城壁から投げ捨てた)と言えず、しれっとしていると、忍び笑いが響いた。
 振り返ると、一人の青年が肩を震わせていた。前髪をきっちりと揃えて切り上げ、上品な雰囲気で、右脇に束ねて垂らしている。
 焼けた白起の髪と違い、鴉のように真っ黒で重そうな髪だ。
「ごめんね、聞くつもりはなかった。……母に会いたいって?」
 頬の熱、更に目元の熱さを感じた。
「……盗み聞き」
「聞くつもりはなかったと言ったろう。ついつい、笑いが漏れたんだよ。衣冠なら、貸すよ。見たところ、武将?」
 腰の剣に気付いたらしい。白起は支給された青銅剣と、母から譲り受けた短剣を二つ、腰紐に括り付けている。
 見ていると、青年は自ら衣冠の紐を解き、ゆっくりと頭上から下ろして見せた。
「ボクはもう成人しているから、おまけみたいなものかな」
「じゃ、借りる」
 女官が去ったので、白起は自分で衣冠を装着して、ぺこりと頭を下げた。
 いくら儀式をしても、大人になど、なれそうにない――自分の成長は、何故に止まっているのだろう。
 大人しく並ぶ他の青年たちを眺め、白起は一人思った。
 成人の心得とやらが、読み上げられ始める。斬首と武将の話が始まった。
 どうやら軍人と、軍師だけでなく、軍部事務もいるらしい。賄賂の禁止、無駄な殺生の禁止、当たり前だが、国内での強姦・強奪の徹底排除、などが読み上げられる。
 雨が降り出した頃になって、ようやく昭襄王が姿を現した。戴冠が始まるのだ。
 ふと、考えた。――僕はどうして、この人に従いて来たのだろう?
 遠くで雷鳴。曇天の空から、ふと、暖かい声が聞こえた。
〝あなたは、父様のような、強い武将になるの〟
 強い武将。どうすれば、なれる?
「じっとしていろ。女官が困っているだろうが」
 眼の前で厳格な表情のままの昭襄王の瞳を、ただ見詰めてみる。
 昭襄王はあの時よりは年を取っているが、目の輝きは変わっていない。
「昭襄王さま、僕は、どうしたら強くなれますか」
 聞いたが、昭襄王は答えずに、剣を捧げ、しばらく白起を睨んで、次の弱冠者に流れていった。
 強い瞳は確かな眼光を称えて、白起を貫くかのように注がれ続ける。――答は己で見つけろ。暗黙裏に教えてくれたように感じた。
雨は強くなりつつあった。風を伴って、少しだけ冷たい風を竜巻のように押し上げている。先程の青年が雨の中、小さく呟く。
「春疾風か」
 言葉の意味は分からずとも、青年の声音が訝しげな感じだけは気付く。
「さっきはありがとう。名前は?」
 青年は首を傾げながら、まだ慣れないような素振りで、自らの名を口にした。
「――范雎」
 ふうん? と白起は頷き、ふと(僕には名前、与えられなかったな)と心で独りごちた。
 母がつけてくれた大切な名前。
 良かった、誰にも変えて欲しくないと言わずに済んだ。
            10
 夜を迎えると、秦の居城には篝火が焚かれて明るい。輝きは書物を読み耽る范雎の頬を照らしている。
 叔――張禄――范雎……随分と名を変えたものだ。
 ふと、竹簡を読む手を止めると、范雎は回廊に出た。ドロドロドロと不気味な音が夜を貫いて響いている。続いて大量の足音は規律正しく、兵が進みゆく足音で、秦の乾燥した土地を踏みしめる音だと気付く。高く掲げられた旗は〝楚〟。
(楚王が何故……)
 髪を揺らした瞬間、今度は馬の嘶きが、皇宮の一角に響き渡った。
 范雎は竹簡を寝台代わりの机に重ねると、護衛用の剣を手に、回廊を急いだ。
 途中の壁に掲げてあった松明を一本、ひょいと失敬し、粘土を塗り固めて削りを入れた版築の壁を照らし、皇宮を歩いて抜けた。
 もしも脱走であれば、大変な事態になる。取り押さえて軍部に報告すれば、一つの手柄と認められるだろう。
「逃げるつもりかい」
 松明を掲げ、范雎は馬を走らせようとした相手を照らし、おやと手を下ろした。式典直前に衣冠を壊すなどという暴挙に出た、武将崩れの少年だった。
 倦怠的な目元をしているわりには、瞳が大きくて、所謂、美麗な顔立ちをしている。ただし、春疾風を知らないほどの無恥、とのおまけつきだが。
 松明を下ろして、范雎は声を潜めた。
「きみは……まあ良い。脱走は死罪だよ。ボクは皇宮事務だ。異変は報告する必要が」
 范雎の前で、少年は剣を抜いた。(武力で来るか)と内心びくっと冷や汗を感じたところで、剣が仕舞われた。
 肩からぽとりと大きな蜘蛛が首と胴体を切断されて落ちてゆく。
「毒蜘蛛じゃない? 大きかった。きみの首を狙ってたよ」
 首をさすりながら、范雎は正面に目を向けた。眼の前で頬が膨らんで、砂利を蹴飛ばす音がした後で、足がにじり寄った。
「あのさあ、助けて貰っておいて、考えごとはないよ」
 松明の炎耀を受けた頬が赤く染まっている。范雎も更に詰め寄った。いつしか至近距離になって、睨み合う格好に導かれる。
「助けて貰う義理はないし、謝る理由もないな!」
 瞳に互いを映して、背景に夜の色を映す。綺麗な飴色の瞳に魅入りそうになった頃、少年の唇がゆっくりと動いた。可愛らしい顔にはそぐわない笑い方だ。
「そういう態度? 決めた」
 驚くことに少年は范雎を抱き上げ、馬の背に乗せてしまった。掛け声とともに馬に飛び乗り、手綱を強く引く。
「見逃してやろうと思ったけれど、やめた。何か言いつけそうだし」
 ――まさか……。疑いの眼を蹴散らすような強い瞳が、月夜に輝く。瑠璃色の空を一度さっと振り仰いで、少年は馬の脇腹を蹴った。
 勢いをつけた馬は、まっしぐらに咸陽の正門に向かっている。大門と呼ばれる外への門だ。
(冗談じゃない! ボクまで道連れか!)
 しつこく言うが、正門を無断で出れば、脱走と見なされ、死罪が待つ。こういう男は、戦場で死んでしまえーっ。
 輝かしいはずの元服の夜。悔しさを噛み締めた范雎の呻きは、人知れず消えた。
             *
「昭襄王さまと随分と仲がいいんだね。名前は」
 そんなたわいもない会話をする気になるまで、白起は小石を河に飛ばしていた。声をかけると、ようやくかという風情で答えてくる。
「白起。多分、名前はずっと変わらないな。昭襄王さまには昔、命を助けて貰って、秦に従いて来た。そうそう、無数の龍がいてね」
「龍? 石に彫り込まれているやつ?」
 范雎は一度だけ見た龍の石碑を、克明に覚えている。それほど、あの石碑は恐ろしく、平伏したいほど、精巧だった。
 石碑とは思えない。しかも石に塗り込められたような……聞けば聞くほど、同じ石碑だと思う疑いは強くなる。
(魏と、趙……同じ石碑がある……誰が、いつ、何のために)
〝覚えておきな。片眼の龍の石碑の傍には、呪いが生きる。呪に喰われたら、どうする〟
 鄭安平の言葉を思い出し、范雎は再び思考を深めた。
 あの時は子供であったから、警告の意味が分からなかった。殷とは、周の前に全盛期を迎えた殷王朝を指しているのだろう。
「どうして知っているんだよ?」の言葉から始まる春の宵夢の話は渭水に響き、夜を駆け抜けた。
             *
「骨があったんだ」
 范雎は言葉を返さずに、ただ白起へと瞳を上げた。
「ずらりと龍が並んでた。虎のような奇妙な生き物がいて、逃げた時に、石碑を倒したせいで、怒られたんだ」 
「それはまた大変な話だね」
 頷きながら、白起はまた、小石を拾った。振りかぶって、水面の水を切る。力みすぎたせいか、ほんの五尺ほどで、小石は呆気なく沈んだ。
「昭襄王さまがいなかったら、僕も死んでたよ。腐った虎は、趙の楼閣を襲って、そこから母さんの行方が知れない」
 黙って聞き入っていた范雎の団栗のような瞳が上に向けられる。年上のはずだが、表情は微妙に幼い。
「人食い虎だって騒いでた。僕が昭襄王さまの外箕に隠されてる間に、母さまは消えた」
 小石が水面に跳ね行く光景を、ただ見つめ、白起は振り上げた手のまま振り返った。
「だから、探しに行くんだよ。何が何でも秦の後宮で暮らさせてやりたいんだ」
「殷の呪い……人食い虎……隠されてる間に、母は消えてた……?」
 何が重要なのか、范雎は途切れ途切れに白起の言葉を反芻しているようだった。小石を拾って、ただ投げる。躍起になって小石跳ばしを繰り返す白起に、范雎は呟いた。
「きみの母さん、死んでるよ。理由一、虎は凶暴な上に、俊足だ。もし狙われたら、人なら、まず逃げられない。それが女性なら尚更。二つ、どうして昭襄王さまは、きみを隠した? 隠す理由なんて、一つだけだ」
 范雎は冷酷にも、告げた。
「きみに母親の死を見せたくなかった。いや、きみは知っていたんだ。多分」
「そんなはずあるか!」言い返して、白起は小さく首を振った。
(母が死んだ? 頭でっかちの団栗眼!)
〝白起、ちゃんとお話を聞きなさい〟と空から、母の巴の落ち着いた声が降り注ぐ。
 空から? 
 いつから、母の声は空から響いてくるようになった…? …それに、僕は最後に、何を見た?
 急速に、身体が冷えてゆく。封印したはずの、記憶が押し寄せた。
 ――虎を弩で射貫いた兵士。二頭の狂獣の死体を乗せた板車。母の着物を着た猿のような肉塊。充満していた血の臭いと、消えていった母の香り。母の着物を着た、潰れた猿の恨めしい表情に剥き出しになって転がってた眼球、だらりと下がった腕――。
 消えて落ちた、愛おしさで見詰めてくれた血塗れの瞳。
(あああああああ!)
〝母に、さよならしておけ〟昭襄王の言葉が更に覆い被さってくる。
 ――僕は、確かに無残に引き裂かれた母の死体を、この眼で見ていた……っ。
 浅黒く、噛まれた傷口から血を噴き出させ、髪を食いちぎられ、そのまま息絶えた肉塊。昭襄王の外箕の向こうで、飛び散った鮮血。
 獣が屠る音。すべてが生々しく胸に巣食い始める。
 白起は涙目で剣を握った。
「見てもいないおまえに、言われたくないっ!」
 范雎の前髪が僅かに飛んだ。「ボクを殺したそうな顔だ」と笑った。
 二人を包む夜はやがて白んで、薄明の夜明けを連れて来る。渭水を昇り立ての朝陽が照らし始め、水面は赤く揺れ始めた。
 言葉が出ない。少しずつ、大人に近づいている心は無邪気に言い返す言葉を拒絶した。
 白起は時折、范雎の投げる小石の音に耳を貸しながらも、天空を静かに見上げていた。
「母さま……」一言呟いて、眼を伏せた。
 水界に山麓が逆さまに映っている。ゆらゆらと揺れる水に目を貸してた。宵闇の暗さはまだ残っている。河独特の暗さに、白起は目を凝らした。
 ――龍が見える。もう龍なんかみたくはないのに、逆さまだ。
 春先の水は冷たい。踝まで浸かって、手で水面を搔き回した。
 小石投げの修練に励んでいた范雎は、視線を白起に向けてきた。
「さっき、見えたんだけどな……あの、逆さまの山陰のところ。龍がいたんだけど、消えたみたいで」
「耀の拡散反射だ。ほら、実際に逆さの山は、あの山麓。そのそばに龍がいるという話になる。鏡面水面だよ。趙まではご免だが、あの程度の山麓になら、付き合ってもいい。悪かった」
 俯いたままの白起に、范雎は小さな息をつく。
 洟を啜りながら、白起は小さく頷き、夜明けと同時に、二人は山麓に足を向けた。茂みを掻き分け、進んでゆく。
 暗澹とした木々の密集地帯は白起が断絶した。唐突に、進んでいた范雎が足を止める。
「范雎? 何かあった?」
「あれ」と范雎が顔を背けて、親指で森を指す。
 ――殷の龍の石碑――……。
 趙で見た物と全く遜色ない石碑。范雎は近づくと、腐植が進み、消えかけている文字に魅入った。
 石碑など面白くもないと、白起は明後日の方向を向き、首を傾げた。やたらに蝙蝠が多い。滑空しては二人を狙っている。
「ボクの見た魏、きみのいた趙……それに秦……殷王朝は随分と巨大な呪術場を作ったな」
「呪術場って。ここには虎は、いないみたいだ」
 范雎に、白起は付け加えた。
「どろどろに溶けた虎。嫌だな、そんな生物に母さまは殺されたのかと思うと、胸が痛い。僕は今後、何を目的にすればいいのだろうか」
 両眼がない龍の石碑から、范雎が顔を上げた。
白起は夜が明けた空の入り日の御光に浮かび上がる龍を見つめた。
 石碑の上に、朝露が落ち、硬質を滑り降りる。
 龍を彫り込んだ石碑はぽつんと建っている。上に腰を掛けた范雎は、山麓から見え隠れする裏日の紅雲を見上げ、目を細めた。
「きみは今後、秦に生きるべきだ。ボクたちには、故郷など、ない」
 白起が投げた小石が水面に派手な音を立てて沈んでゆく。寄せる水面は、ゆっくりと月の光を揺らして、静かに打ち寄せていた。
 范雎の瞳が碧に染まっている。
 無彩色の湖に、うっすらと夜空の色が混じり合う。この世界は色でいっぱいだ。でも、やっぱり白が一番しっくり来る理由は、名を抱いているからだろう。
 その後は無言で山麓の古道を進んだところで、気配を感じた。
 白起は馬に跨がったままの范雎を見上げた。どうどう、と馬を止めるとゆっくりと剣を引き抜いた。
 ビンビンと、武将の剣気が教えてくる、敵がいる。茂みに潜んでいる。
「范雎! 気をつけて! 山賊!」
 瞬速で、白起の剣が鎌鼬の如く、宙を走った。
「やすやすと殺せるかい! 僕はこれでも、秦の兵の中でも一番だ」
 とん、と地面を蹴り、相手の馬を足場に、空中で斬りかかった。
 難なく相手の後首を奪い、剣を引く。
「悪く思うな。――ごめんよ」
 呆気なく、一人が倒れた。一番恰幅の良い男が倒れた事態に、仲間が僅かに統制を崩す。口元を拭い、(范雎は)と見ると、馬が目的であった山賊の格好の獲物になっている。
「うわあああ、く、来るなあっ」
 范雎が馬の上で震え、持っていた分厚い竹簡で山賊の頭を殴った。激しく呼吸をしながら、転倒した男を(え?)という風情で、驚愕して見つめている。
「やるね! あとは僕が」と十数人に囲まれ、白起はニィと唇を緩めた。満身創痍だ。武将として、全員叩き斬るつもりだった。
「さあ、斬られたいのは、どいつだ」
 だが、山賊は強さに尻尾を巻いて逃げ帰ってしまった。白起は剣にこびり付いた血を飛ばして、鞘に納めた。
 朝陽が降り注ぐ。
 ぼんやりと視界が拓けた白光の中、霞むは、遙か遠く、楚の長城だ。
「ボクは宰相になるんだ。こんなものに脅かされてる暇はない」
 隣で范雎が、しっかりと口にした。
「宰相になって、昭襄王さまのお役に立ってみせる」
(では、僕は? 母さんを迎えるという目的は消えてしまったのに)
 ――あなたは、武将になるのよ。心の奥から響いた母の面影に、白起は薄明の中で大きく頷いた。
 それが、母の望みなら。僕は誰にも負けない秦の武将になろう。
「僕は武将になるよ。きみは宰相として、僕は武将として。共に秦に在ろう」
 笑顔を向けると、范雎は何故か顔を背けた。つくづく理解しにくい男だと思った。
                 *
 范雎を乗せた馬を引き、ゆっくりと咸陽の正門に足を踏み入れる。
 手綱を握るために填めた篭手は、赤く月を反射させている。ある程度まで進めていた馬の手綱を白起は強く引いた。眠気を帯びた范雎の声が、緩く響く。
「どうした?」
 范雎の問いに、篭手の紐を銜え、きつく縛り上げながら、白起は力なく答えた。
「門番がいる……厄介だな。どうしよう」
 一人なら逃げられるが、范雎は、どうやらあまり、武道には長けていないらしい。
 白起は素早く剣を抜き、大股を開いて構えた。剣は最近とみに気に入っている、黒龍を模した剣だ。
 大地を踏みしめて、剣を構える一方で、白起は馬の脇腹をとんと叩いた。
 たちまち馬は速度を上げて、正門を突き抜けてゆく。「短慮な行動をするなぁぁぁぁぁ」との范雎の雄叫びは小さくなった。
「なんだよ、やんのか」
 門番は白起よりもずっと恰幅が良い。背中に背負った巨大剣をニヤニヤと見ながら、白起はちょいと指を動かした。
「捕まえられるものなら。――僕は、機嫌が悪いんだよ」
 しっかり踏み切って、門番の一人と剣を交えた。静かな咸陽の朝に、剣が擦れる音が響く。剣の柄で、門番の頭を叩いてやった。
 ――っふ、楽勝。
 門番を殺すのも何なので、気絶させるために、剣を強く掴んで振りかぶった白起の前に、わらわらと、同じ鎧を着た門番が現れる。
 門番たちは、がなり始めた。
「この悪戯小僧! 昭襄王さまに知られる前に縛り上げ、転がしちまえ! なんだ、楚王の警備もあるってのに。面倒を掛けやがって! やっちまえ!」
「ひ、卑怯だぞ! いいや、やってやる。来いっ!」
 無勢に多勢。別に恐怖を感じやしないが、恰幅のいい男が五人も出てくると、それなりの迫力がある。
 大暴れの末、結局は取り押さえられ、麻紐で後手に縛られてしまった。
「このやろっ……僕は武将だ! 誰よりも、強い武将になるんだ!」
 聞いた門番たちがゲラゲラと笑って、白起を指さして、談笑を始めた。泥棒を取り押さえる玄人の門番には、青年を縛り転がす所業は朝飯前だ。
「だれよりも、つよいぶしょうになる、だってよ」
「おーおー。なって見ろ。なんだこの、なまっちょろい腕に、綺麗な顔は。武将だったらもっと食わなきゃなぁ。髭でも生やして見ろ、お兄ちゃん」
 笑って男たちは白起を食糧庫に縛り放置して、小麦袋の山に投げ入れると肩を揺すって出て行った。
 遠くで羽音が聞こえる。羽音は更に近づいて、頭上を飛び回った。ひとしきり飛び回って、羽音は止んだ。縛られた白起は芋虫のように躯をくねらせ、頭上を見上げると、蝙蝠は旋回して、止まった。
 ――ああ、ここでいい。と男の声がする。
 ――昭襄王には必ず取り次ごう。楚国を亡くしてはならぬ。更に近隣の国へも。
(聞き覚えがある声だな)と這いずって、麻袋に顔を突っ込んだ。
 豪華な衣装を着ているらしく、足元にはいくつもの帯が垂れており、裸足に草履。
 もう一つの足元は長い後宮用の男衣装……二人が会話をしている。
 白起は、静かに這い寄ると、耳を澄ませた。
 ――確かに、報酬は受け取った。ふ、昭襄王は何も知らぬさ。
(もう少し、もう少し……)
 更に顔を突っ込んで、首を動かし、ようやく……のところで、ず、ず……と何か崩れる音がした。気がついた時には遅い。首を突っ込んだ麻袋が崩れ、どさりと引っ繰り返った。
「誰かがいるぞ!」
 二人の足元の爪先が、白起に向いた。一瞬どさどさっと袋が崩れ、顔が見えたが、白い砂煙に白起は巻かれてしまった。
 切れた麻袋から、粉が舞い上がる。今度は鼠が食糧庫を駆け抜けてゆく。袋の重みで緩んだ紐は呆気なく解かれ、白起は暫く静かに息を止めていた。
 手が、袋をどけに来た。三十はあるだろうか、大きな袋を二人は一つ一つ取り除いて声の主を探していた。息を殺して見守る前で、眼の前の袋が動いた。指が見える。
 ――見つかる!
「そろそろ戻らねば。王に怪しまれますぞ」
 声がして、袋をどける手が止まった。新たな男が踏み入った現状が分かる。声が三つになった。
慌てて袋の奥に逃げ込んで、眼だけを出して窺う。すぐに声の主は分かった。
(宰相の薛文さま! それに……ありゃ、誰だ?)
 気難しいと評判の宰相の姿と、蝙蝠を肩に止めた男……背中の龍の紋章は見た覚えがあるが、思い出せない。
 幸運にも、男たちは袋の奥にいる白起には気付かず、出て行った。
 長い髪を縛り直して、取りあえず背中を壁に落ち着けて、(待て?)と反芻した。
 ――確かに報酬は受け取った……宰相は何を受け取ったのだろ? 
 麻袋がまたず、ず……と音を立てている。崩れる小麦の山から脱出するため、剣を抜いて、袋を切った。
 白起は転がり出ると、真っ白になったまま、外に飛び出した。また、あの門番らに見つかると厄介だと、食糧庫を出て、ふと足を止めた。
 あの相手の姿は、秦の人ではない。額を指で押さえて、思慮を深めてゆく。
(あれ、どこかで見たんだけど……背中の龍の紋章……)
 答は意外な台詞から、見つけた。門番だ。
「楚王の警備もあるってのに」と、男たちは言っていた。とすると、今の会話は、招かれざる楚王と、宰相の薛文さま……。
「こらあ! 小麦を滅茶苦茶にしたのは誰だ!」
(げ、まずい)
 朝一番、婆さんたちは籠を持ち、小麦をまず掬いに来る。むちゃくちゃに毀れ出た小麦の山を見るなり、掻き出し棒を振り回して、金切り声を上げている。
 捕まれば、門番以上に厄介だ。赤くなるまで尻を叩かれる。
 白起は早々に立ち去り、茂みに飛び込んで、大葉子を掴み取ると、小麦を落としに懸かった。水たまりに白いお化けが映っている。
 すべて粉を落として立ち上がると、まだ女たちは食糧を滅茶苦茶にした犯人を捜している。そっと背中を屈めて、食料庫から遠ざかり、兵舎に向かう。粉だらけの剣を磨く必要がありそうだ。
やがて、ぼんやりと男の龍の紋章を思い出し、白起はようやく気がついた。
(分かった! あの龍……)
 ――あの龍は、殷の呪いの龍の石碑と同じだった。

           11
 白起が一つの戦いを終える同時刻。范雎を乗せた馬は、皇宮を突き抜け、兵舎を横切って、渭水への脇道に逸れようとしていた。
 睥睨するかの如く山が屹立している情景が近づく。このままゆけば山に突入し、木々に突っ込んでしまうだろう。
「た、手綱……止まれって……っ!」
 馬を走らせている風景が、范雎からみると、風景こそが動いているように見える。
 ――もう駄目だ! と覚悟で眼を伏せた後で、男の掠れた大声が響いた。
「馬に掴まって眼を伏せろ! 范雎! 落馬せぬようにな!」
 ダカダッダカダッ……歯切れの良い馬音とともに、黒い馬が眼の前を通り過ぎる。異常を察し、鄭安平が追いかけてきていた。
 後から、もう一頭、ゆっくりと馬を狩る男の姿もある。白起に思い切り脇腹を叩かれた馬は、混乱しているらしく、いうことを聞かない。
 眼の前の黒馬がくるりと范雎の方角に向けられ、鄭安平が手綱を外し、跳躍して范雎の馬に飛び乗った。
 力強い腕が手綱をしっかりと握りしめ、強く引いた。
 ――止まった……。
 脱力して馬の鬣に沈み込む。馬はもう微動だにせず、憤慨したように前足で地を掻いていた。
「范雎、前を見てみろ」
 鄭安平の声に視線を向けると、目下には断崖が拡がっていた。言葉を失って、冷や汗を垂らしながら、風景を眺める。
 枝に服の切れ端らしきものがある。底は見えない。それほど深い断崖絶壁が背後に控えていたとは、ついぞ知らなかった。
(あの奈落に落ちる手前か……)ぞっと背中が戦慄いた。
「咸陽は秦の山を切り崩して作った。敵襲に備え、所々が切り立っているのさ。良いか、馬を止める時は手綱を引く。方向転換の時は、持ち替えて引けばいい。こうだ」
 暴走馬は打って変わって、穏やかに進んで行った。途中、止まったままの鄭安平の黒馬も、ゆっくりと従いてきた。
 その後に、のんびりと馬を走らせる男の姿がある。
「何故に天馬なんぞに乗っていた。昭襄王が知れば大激怒だぞ。俺の面目を潰す気とでも?」
 釵を頭に刺し、前髪を短く切り上げている。後から見ると、ちょうど蜻蛉が止まっているように見える容姿から、蜻蛉と呼ばれることもあるらしい、秦の貴族、王稽おうけいだ。
 すべてを見下したような、見放したような声音は聞いていて、体奥から、恐怖がせせり来る。
「楚王が動いた様子だ。鄭安平。ああ、お前も来たまえ、魏の青年」
 ――まだ王稽に一度も名前を呼ばれていない。
 認められていないからだ――と范雎は小さく落胆した。白起に「宰相になる」と豪語はしたが、現実は厳しい。まだまだ、実力不足どころか、一向に機会は巡って来ない。
 貴族衣装の王稽の堂々とした背中を見つめていると、やるせなくなった。目の前で王稽の踵が鳴った。
「来たまえ。そなたらに見せたい風景がある」
 陽を浴びた咸陽の都を二頭の馬と、遅れて黒馬がゆっくりと進む姿が珍しいのか、咸陽の民衆が少し集まっては、一行を眺めている。
 王稽は時折、手を振りながら、再び咸陽の皇宮に戻って来た。
 一人では馬から下りられない。鄭安平の力を借りて、地面に久方ぶりに足を下ろした。刹那、どっと疲れが出て、ふらついた。
 天馬は飼い葉を与えられながら、一介の武将がそっと引き取ってゆき、王稽と鄭安平の馬も、同様に厩舎に引き上げて行った。
 地獄が終わった……二度と馬など見たくないと、態を見送る范雎に、王稽の呆れたような視線が注がれている。
「さっさと従いて来たまえ」
 基本指示が短いのか、王稽の喋りは単調だ。鄭安平は慣れているらしく、食糧庫を通り越し、裏手にある死の宮に二人を誘った。
 ――閉じ込められていた場所に近い。
「中を見てみろ。あまり近づくな」
「范雎、こっちだ」
 従順な鄭安平が窓枠らしき壁の坑に顔を近づけ、くい、と范雎を指した。
 剥き出しになった地面に、大きな樽のような囲いがある。その上の杭には太い麻紐が垂れ下がり、男が宙づりになって水に漬けられていた。
 まだ樽を掴んでいる手が微かに動いている。拷問の水責め最中だ。
「楚王の側近だ。強情なものだ」
「拷問する必要があったのですか」
 王稽の冷たい目付きに范雎は震え上がりそうになり、質問した己を後悔した。魏で逢瀬を交わした時間は短く、すべては鄭安平を通してのやりとりで、数年を経過している。
 実際に並ぶのは、初めてかも知れない。
 王稽。昭襄王の側近に上がったくらいだから、頭も相当に切れる。
 楚王の側近を捕まえたところを見ると、相当な地位にある。
「王稽さま……ボクを何故」
「白起なんぞに振り回され、脱走。俺の下に置くには弱過ぎる」
 ――図星の指摘、に言葉を再び失いかけた。
「ボクは脱走するつもりはなかった……止めようとしたんです。だが、昭襄王に許可を貰ったからと……聞いていらっしゃいますか!」
 愉悦の表情を浮かべ、王稽は拷問の様を監察している。口元を指で押さえ、僅かな笑い声を洩らすと、王稽は低く呟いた。
「黙りたまえ、いいところだ。お前も見るか」
 水責めの速度が上がり始め、樽から水が溢れ出した。吊された男の手がばしゃばしゃと水面を叩き、やがて静かになった。
「終わったか。いつもながら見苦しくも面白いな。しかし、短い」
 ところで、王稽は宮に足を踏み入れ、事切れた男の紐を切るように命じた。激しい水音とともに樽に沈んだ男の遺体ごと、奴隷が運び出して、消えた。
 やがて遠くで大きな水音と落下音が響き、樽を割る音がして、静寂に戻る。
 水で濡れた地面を踏みしめ、王稽は眼を細めた。
「余力があるなら、お前だけ従いて来たまえ」
 進んだ先には湖があった。とても美しい湖だ。水天に相応しく、碧色に輝いている水面、人魚がいそうな澄んだ水……の中から、何かが飛び出している。
「美しい泉ですね。秦の自然の美しさには、驚かされます」
「よく見たまえ」
 范雎は爪先を少し浸し、覗いてすぐに飛び退いた!
 ――無数の死体! 夥しい数の朽ちた人々の骸が転がっている。
 ある者は魚に胸を啄まれたのか、白い肋骨を見せて、ふよふよと肉片を浮かび上がらせ、ある者は眼球を刳り抜かれたのか、腐食した顔を水面に揺らされ、……そんな無残な遺体は所狭しと沈められていた。
 飛び出していたものは、黒く変色した、人の腕だった。しかも、生きている。有り得ない話だが、水面下で腐り落ちた骸は蠢いていた。
 いくつもの人陰が黒く水面を揺らす様は、地獄絵図に近い。
「ひいっ……お、王稽さま! この死体は」
「殷の呪いで神となった者だ。みな、龍になろうと憧れた」
 王稽は自分の上着を脱ぎ、腕を晒した。
 龍の縫い取りがある。見た覚えのある龍だ。
「俺は表向き、秦の貴族の出ということになっておる。だが、殷虗から流れて来たに等しい。咸陽の以前の住民は、すべて殷の呪いで俺以外は死していた。触れることができぬので、昭襄王は坑を彫らせ、水を張り、山中にすべての遺体を封じた。顛末は以上」
 范雎は脳を全力で回転させた。あれは、殷の呪いの龍かと思っていたが、もしや殷の権力を指すのかも知れない。
「でも、まだ生きているものも……」
「だから言ったろう。〝神となった〟と。案ずるな。水から浮かび上がれはせぬよ。どういうわけか、水に弱いらしくてな」
 思考を遮断させるほど凄絶な死体の数々に、込み上げたものを嘔吐する。范雎を、軽蔑の視線が襲った。
 げほっと咳き込んで、溢れた胃液を拭うと、范雎は顔を上げた。
 容赦ない王稽の足が、腹に食い込んだ。
 蹴られて、湖に片足が落ち、死体に触れた。腐乱した柔らかさに、慌てて這い上がった。付着した肉片を、更に指で剥がして捨てる。
 相当な時間が経っているらしく、至る所に白骨も見える。
 蹴った足を静かに戻し、王稽が告げる。
「数年。あの部屋でなにを思っていたかなぞ知らぬ。魏でいたぶられていた原因は、お前自身にあるという事実に、なぜ気付かぬ」
 揺らがない蜻蛉頭を見つめて、唾を飲み下した。ゆっくりと王稽の顔が逆光に輝く。
 背に見える空は、見事な快晴。だが、雲は不気味に広がっていた。
「そのうち、秦も殷と同じ道を辿るだろう。楽しみにしていたまえ」
 王稽はククと笑うと、「さあ」と泉を離れ、自室へと引き上げた。
 范雎は一晩、飲まず食わずで過ごした。瞼を閉じれば色鮮やかな屍肉が浮かぶ。水を飲もうとすれば、あの淀んだ水面を思い出す。
 ――神になった者、とはどういう意味か。黒い谷からは風が吹き上げられ、不気味な啼き声を響かせていた。
12
「秦の王、並びに楚王殿上。武将は全員、顔を下げよ!」
 白起は知らんぷりして、無視して顔を上げていた。「何だ、お前ぇ」と見た顔の門番の男が鏝を手に近づいてくる。(小麦の恨み!)とばかりに足を上げたところで、昭襄王と楚王の姿が見えた。楚王は肩に何やら奇妙な生き物を留めている。
 黒くて、耳が尖っている。羽があるようだが、大人しく眠っているのか、背を丸めて顔をすり寄せていた。
 黒装束の王に似合いの黒蝙蝠だ。羽が千切れている。
 ――破れ蝙蝠だ。珍しい。
 もっと良く見ようと、白起は身を乗り出させた。ばしんと尻に痛みを感じた。
「静粛に! 小僧、顔を上げるな!」
「何すんだよ!」
 白起の声は、少年のように瑞々しい。聞いていた宰相たちがすぐに気がついた。しかし、激昂した白起と、門番は諍いを止めない。止めて堪るかと白起は本気で言い返していた。
「よくも僕を縛って小麦の中に捨てたな!」
「小僧! よくも俺の頭をブッ叩いてくれたな! お陰で俺は、門番からお前らの指導係に降格だ! どこを見てやがるんだ、アァ?」
「蝙蝠。珍しいよ、あんなに丸くなって平べったくなっちゃって」
 なんだなんだと他の武将も顔を上げ始め、口々に王を注目しては、騒ぎ始める。
 半数以上は、ほんの昨日、成人になったばかりの武将だ。珍しい蝙蝠に、辺りは蜂の巣を突いたような騒ぎになった
「首謀者は、お前か。大切な儀を邪魔する狼藉者。さあ、水責めか、火炙りか。それとも棍刑か、磔刑か。それとも役に立つ前に、宦官刑に処してやるか」
 ぐん、と首が重くなった。昭襄王の取り巻きの一人、王稽は白起の髪を手綱の如く引き、言うだけ言って、壇上の王を振り仰いだ。
 昭襄王は楚王と共に壇上で状況を見守っている。蝙蝠が羽繕いのために羽を広げ、また静かになった。
「あの蝙蝠! さっき見た。あれ? じゃあ、薛文さまと、小麦のとこにいたのは……楚王さま?」
「白起。それは、まことか」
 楚王と、宰相の薛文に昭襄王は鋭い視線を向けていた。
「間違いない。僕、人を間違えはしないんだ」
「何を武将に惑わされておいでですか?」
「どういうことか、楚王。私の宰相と個人的に、何か遣り取りの必要が?」
 被さるように、王稽の声が場を貫いた。
「謀反容疑だ! 薛文を捕縛せよ! 沙汰は、直に下ろうぞ。朝議は一時、中断とする! 王よ、宜しいですな?」
 王の了解を得て、王稽は高らかに会議の中断と速やかな退出と解散を叫んだ。ほっとした顔をして、武将たちはそれぞれ散っていく。
「お前は残れ。昭襄王さまがお聞きになる」
 ぐきっと言いそうなほど首を引き掴まれ、白起はしぶしぶと昭襄王に向いた。
「先程の話は、まことか。白起」
「……門番に喧嘩を売ったら、簀巻きにされて、小麦の麻袋に放り込まれたんだ。その時、二人で会話してたのを聞いた」
 一言「楚王と、薛文が、か……」と発して、昭襄王は無言になった。
「見上げた観察力。宰相にでもしてみるか」
「王! 冗談が過ぎますぞ! 国を滅ぼすおつもりか!」
 ――宰相……〝宰相にボクはなるんだ〟
 范雎が口にしていた言葉だと思った瞬間、白起は素早く、天壇の柱に立っていた范雎の姿を認めた。両腕を広げ、懇願した。
「僕なんかより、范雎を! 宰相なんかやるなら、どこへでも戦いに行くから! なりたい人が、なればいいよ」
 昭襄王の瞳が強く輝いた。昭襄王は静かに腰の龍剣を引き抜くと、白起に歩み寄った。
 ぐいと長い髪を引かれ、反った顎に冷たい龍剣の鞘が滑る感触。
「今後のお前の薄命に、この剣を与えてやろう。――楚の懐王を殺せ。成就すれば、范雎とやらを取り立ててやる」
 ガラガランとたくさんの竹簡が落ちる音が響き、王稽がまず向いた。だが、昭襄王に呼び止められ、すぐに正面に向き直った。
「王稽。部下に、暗殺の手練れがおったな。手助けせよ。楚王を消せ」
 冷たく言い放った昭襄王が通り過ぎる。
「は!」と王稽は跪き、王が通り過ぎる時間を堪え、すぐに立ち上がった。
「えらいことをしでかしてくれた」
 反論の隙もなく、青ざめた范雎が散らかした竹簡を踏み、王稽もまた姿を消した。初めて後姿を見たが、頭に挿さっているかんざしは、蜻蛉を思い出した。
 誰もいなくなった会議場で、白起は、ようやく事の重大さに気付いた。〝楚王を殺せ〟昭襄王は、白起に殺害を強要した事実。
 白起の手に残った龍剣だけが、段々と重みを増していった。
13
 楚王を殺せと昭襄王の沙汰が降りてより、半日。抱き締めた龍剣に頬を寄せては、白起は瞳を闇に光らせていた。
 一睡もできないまま、会議場から逃げるように移動して、門番に喧嘩を売られて、そのまま武器庫に隠れた。
 気付いた女官たちが代わる代わる、食事を持って訪れては、窺って去ってゆく。白起は更に抱えた膝に頭を潜らせた。
(誰にも会いたくない)
 白起は、扉に突き立てた槍剣をぼんやりと見つめた。さすがは武器庫だけあり、様々な武器が凌を削るように、陳列している。だが、武器とは本来、人を殺すためのものだ。
 人を斬り、殺すために母さまは僕を秦に……?
 忽ち気分が落ち込んだ。聞きたくても、もう母は、この世にはいない。
「出て来い、しばし待つ」
 男の声だ。どうやら白起に向いて語りかけているらしい。
「充分、待った。強行する」
 殴打音がけたたましく響いた。立てかけておいた槍が勢いよく折れ、二重に閉めたはずの扉が開いた。
 蹴り開けた? 驚きはしたが、直ぐに眩しさに膝を抱えて、少し背中を向ける。
 顔を見せぬよう、更に尻を向けた。男は甲冑姿のままで、砂利を踏んだ。折れた槍を足で蹴り上げて手で掴み、剣先を白起にまっすぐに向けてきた。
 素早い動きに眼を奪われ、気がつけば、剣先は喉仏に触れている。
 翳した剣の向こうで、男が告げた。
「来てもらおう」
 一縷も動けない。動けば、殺される。完全なる殺意が剣を通して、白起に伝わって来る。
(なんて剣気だ……こいつは、誰だ)
 瞠目する白起の前に男は踏み入ると、ぐいと腕を引き上げた。
 至近距離で見えた目元は鷲のように鋭く、声は犲のように低い。背丈は、武将の中でも高いほうだが、唇は男であるが故に薄く、美麗かつ、見た記憶のない顔だった。
                *
「離せ!」と喚く白起の頭を鷲掴みにし、掘られた井戸に近づいて行く。古びた井戸が白起を待ち侘びていた。
「井戸……? ここで何……わぷっ!」
有無を言わさず頭を突っ込まれた。頭にずしりと重さを感じて、思わず手をばたつかせた。
 水が口から入ってきて、呼吸ができない。うっすらと眼を開けると、薄碧の暗がりのある水面が視界を埋め尽くした。
 大きくがぼっと呼吸をしたところで、胃に水が溜まってきた。苦しくて、頭がガンガンし始める。指先が震えたところで、引き上げられた。
 更にもう一度、頭を沈められる。春先の水は冷たく、頬がゆっくりと悴み始めた。眼から、耳から、鼻から口から、水に責められる。
(もうだめだ!)と思うと、激しい水音とともに、空中に引き上げられ、また水面に叩きつけられた。眩暈が襲う。
「もう一度、行くか」
 容赦のない声に、恐怖で必死に首を振った。やがて、手が離されて、上半身が壁にずり落ちた。咄嗟の水地獄に落とされて、白起は濡れそぼって、大きな眼を見開いた。
「楚王と宰相の謀反は、逃すわけに行かぬ。このまま楚に戻らせず、秦で射止める」
「僕は、やるとは言ってない! 殺せなんて、あんまりだ。できるわけがない!」
 呆れたような唸りと共に、再び手が白起の頭を掴み、井戸の上に押しつけた。
(い、いやだ!)
 両手で井戸を掴み上腕に力を入れて、抵抗した。だが男は馬乗りになり、意地でも頭を沈めようとしてくる。先程も、男は膝で白起の頭を押さえ、沈めていた。
「その辺にしておけ。死ねば、昭襄王が何を言い出すか、鄭安平」
 声は助けだった。呼吸を整えようと息を吸った瞬間に、胃から水が込み上げた。霞んだ視界の向こうには、白い物体を抱いた男の姿がある。
 特徴的な釵、王稽だ。嘔吐する白起の前に屈むと、濡れそぼった髪を掴み、兎を撫でながら、王稽はうすら笑った。
「おやおや。確かに俺は甘ったれの坊っちゃんを引きづり出せと言ったが。溺死させろとは命じておらぬ。もう時間は充分だろう」
 情一つ感じられない口調だ。白起は何度も首を振った。
 再び鄭安平の爪先が僅かに動き、白起はびくっと肩を震わせた。状況を見守っていた王稽が、やにわに告げる。
「そう脅すな。お前の決断こそが、秦を救う。昭襄王さまは、お前に秦を託しておるのだよ。わからぬか? 冷静になれ。よく周りを見よ。さすれば、昭襄王さまの願いがわかるだろう」
 ――言葉を失ったまま、白起はゆっくりと辺りを見回した。
(あ……風景が……)
 春爛漫とばかりに咲いている花々は朝露を浴びて、花弁を広げていた。腕に二羽の兎を抱え、王稽はゆっくりと四面を振り返る。
 優雅な縫い取りの装束が春風にふわりと揺らされ、ゆっくりと舞い降りた。しゃがんだままの白起の眼の前にも、花びらが時折ふわりと悪戯そうに降り注がれては、風に飛ばされてゆく。
「玉蘭、連翹、迎春花、柳の葉の芽生え――碧桃。春の訪れだな」
 八重の桃の花のような、濃い桃色の大層華やかな花が、辺りを埋め尽くしている。春がやって来ている。秦の咸陽の春をよく見る機会は、初めてだった。
(気付かなかった……秦はこんなに華に溢れていた……)
「昭襄王さまは、野心のない王。ただ、秦よ美しくあれと願っておる。お前は昭襄王の気持ちを踏みにじる楚軍の進軍を赦すのか。護るために殺せ。重大任務を、王はお前に課せた」
 静かに俯いたままの白起は無意識に剣を鞘ごと掴んでいた。
 空を振り仰ぐと、見事な青空に、刷けたような雲。綿のように薄く伸びて流れて行く。視界がぶれた。涙が、風景を封じ込めて、歪んで落ち続ける。
 頬に擽ったいような、冷たい感触が降り、涙は顎を伝って、無音で落ちた。
 今までになく、強く双眸を伏せると、視界は闇に閉ざされる。
水に浸されたせいか、脳がだんだん冴えて来た。
 ゆっくりと眼を開ける。木漏れ日の溢れる、秦の春の風景が目下に拡がっていた。
「ようやく、決意ができたようだ。では、今宵未明、楚の国王、懐王を暗殺する」
 王稽の声が響いた。もう、後戻りはできない。
14
 夜陰。大気がざわめいている――。
范雎は与えられた部屋を出、足を進めた。
 暗がりに、数人の男の姿が浮かび上がっている。草を踏み分ける足音から推察すると、鄭安平が混じっている。暗殺を生業とする鄭安平は、決して草を踏み潰すような歩き方をしない。
(やっぱりだ……ボクには何も知らされていないのに)
 途端に、白起の姿が脳裏に浮かんだ。
 先日、昭襄王に剣を突きつけられていたあの時、昭襄王は何かを囁いていたようにも見えた。
 ――突き詰めてやる。ボクは大人だ。夜歩きを咎められる理由はない。
 傍には王稽の姿も見える。二人は言葉一つ交わさず、皇宮を出て、夜の深い闇を進み始めた。静かに満月が夜の咸陽を照らしている真下。宵闇を進むのに、月光だけでは心細い。いつかのように壁に括り付けられた松明を捥ぎ取り、手を翳して熱さから逃げながら、范雎も足を進めた。
 既に月は高く、その光も弱々しく見える。直下を歩く范雎の姿は、月からは、もっと弱く見えているに違いない。
――多分、気付かれているだろう。鄭安平も、王稽も、戦国の闇に生きる人間だ。未熟な范雎の尾行など、とうに勘づき、更に放置しているに違いなかった。
 二人は厩舎で足を止めた。
「楚王の馬を、殺せ」
 王稽のいつもの冷淡な声と同時に、一頭の馬の首が落ちる。ちょうど対角で落ちた馬の首は石像のようにゴロリと范雎の眼の前に転がった。開いたままの双眸は、ちょうど范雎を睨む格好になっている。
(ひっ)と声を上げそうになり、両手で口を強く押さえる。
 首に豪華な鎖を巻かれた馬の胴体は、まだ立っていた。鄭安平の剣を振るう音が響き、満足そうな王稽の声が響く。
「これで、逃げ帰れまい。天馬以外は、殺せ。王の許可は取った」
 一人の男が兇刃を振るった。白起ではない。噎せ返る馬の血に、倒れる巨体の轟音は厩舎を揺らがし、二人は振り向かず、更に厩舎を突き抜けた。
「こっちだ。逃げるかと思っていたぞ」
 月明かりの下、少年が背筋を伸ばし、立ち尽くしている。手には随分と大きな龍剣が鞘から抜かれて握られていた。
「やるしかないなら、仕方ない。僕は自分で決めた事項には従う!」
 声高に響く声は、殴打音がして静かになった。白起だ。特徴的な縛り上げた髪は、間違いがない。 姿を視界に入れた瞬間、丹田が熱くなった。 
 手が震えるほどの感情が堰を切ったようにせり上がり、眼の前が紅に染まる。
 ただ、鄭安平の隣で、龍剣を抜いて、何やら話を聞いている白起が突然、羨ましかった。
 三人は、静かに咸陽の細道を歩いて行く。ふと、白起が足を止め、王稽が何やら指示をした。
 白起は頷いて厩舎に引き返した。次々と倒れる仲間を見て、興奮していた天馬を撫でて、手綱を引いて連れ出した。
「確か、昭襄王の馬は気性が激しかったはずだが」
 鄭安平の言葉には頷ける。范雎は暴走された瞬間を思い出し、身震いをした。
(それにしても、何人ぐらい死ぬのだろう? あ、まただ)
 都度王稽が手を振ると、鄭安平の剣が振るわれる。白起はその度に天馬の視界を塞ぎ、しがみついていた。
 骸を長い足で跨ぎ、時には蹴飛ばし、鄭安平が道を開け、その後に白起と王稽が続いたが、いつしか王稽は天馬に乗っている。
 離れの宮への道は、まだ舗装されてはおらず、客人を招くような場所ではない。楚王を昭襄王は拘留させたとしか思えなかった。
「何だと……!」
 突然、王稽の潰れたような掠れ声が夜を貫き、范雎は足を止めた。
「既に逃げていた……では、この咸陽に手引きした、宰相以外の人間がおったということだな。失態の言及は免れまい。鄭安平、まさか范雎ではなかろうな……」
 驚きを通り越し、頬が冷たくなった。范雎は拳にした手を震わせた。反論すべきか迷った前で、白起の怒り口調の声が飛び交った。
「絶対に違うよ! 范雎はそんな性格じゃない! 楚の王さまは、殺されたくなかったんだ」
「また、出任せを」
 静かに立ち尽くす王稽の眼の前で、白起が首を傾げ、地面に跪き、左耳をつけて、顔を上げた。
(また、何を始めた?)
 白起はもう一度さっと顔を上げ、耳を澄ませて眼を閉じた。
「歩いている音がする」
「土竜だろう。アテにもならぬ。夜が明ける前に秦を抜け出そうとの魂胆だ。とうに長城を――」
 白起は無言で立ち上がると、天馬の手綱を引いた。無造作に填めていた篭手の紐を口で咥え、強く引く。馬を蹴り、一目散に走って見えなくなった。
 馬が前足をハネさせた衝撃で、砂煙が肺に入って、咳き込んだ。
声で、鄭安平が振り返った。
 不機嫌さ全開の王稽の視線から逃げながら、范雎は唇を尖らせた。
「ボクにも、できることはある。なのに、どうして白起ばかり……」
「勅命だ。白起に、楚王殺害の命が下った。殺害とあらば、我らの任務。力を貸さざるを得ぬ。白起には楚王は殺せぬ。元より昭襄王は楚王を殺すつもりはないという話だろう」
「だから、絶対に殺せない白起に勅命をと言いたいのですか」
「俺や鄭安平ならばあっさりと消せる。そうでないとすると……」
 ふと頭上に蝙蝠の羽搏く音が響き、闇空から一匹の蝙蝠が直降下して、王稽の肩に止まろうとした。破れ蝙蝠だ。
 王稽の手で追い払われ、今度は皇宮の方角に向かって飛んで消えた。見送ったあとで、落ち着いた声音が降った。
「楚王の首を下げてくれば大したものだがな」
 呟くと、王稽はにこりともせずに范雎を睨んだ。
「焦らずとも良いぞ。まずは楚王を消し、次は穣候だ。一人ずつ消して行けばよい」
 夜だというのに、大きな蝶が飛び回り、夜露を含んだ迎春花の上を蜂が飛んでいる。
 秦の春の宵夜はどこか、不気味さを醸し出していた。
            *
 暁の光が漏れている。雲の向こう側に朝陽が昇っているのだろう。手綱を握り締めて、白起は遠くなった咸陽を振り返っていた。
 良く動く眼を走らせて、春の渭水の煌めきを、そのまま瞳に取り込む。ふと、馬の声がして、白起は更に手綱を握り締めた。
「楚王さま! いるのでしょう!」
 静かな湖畔に、白起の声が響き渡る。木霊の如く水面を揺らし、消えた。
 渭水の畔の茂みが揺れ、男が姿を見せる。逃亡する者は大抵の場合、視点を泳がせ、怯えるものだ。ところが、楚王の眼は怯えの影すら見当たらない。白起はゆっくりと、震えの速度で告げた。
「僕は、あなたを殺しに来ました」
「……母親に、よう似ているな」
 想像もしないやり取りに、呆気に取られた瞬間、腕に痛みが走った。幼少に一度だけ見た、昭襄王の剣妓と同じ。
 腕を掠り、痛みを感じる間に、楚王は剣を鞘に納めている。
 楚王は落ち着いた口ぶりで、咸陽を振り返った。
「楚王たる私が、何をしに来たか、昭襄王には分かるまい。目的はすでに達した。名は」
「白起」と短く答え、白起は剣を引き抜いた。腕を切られた。多少なりとも、相手を斬らねば、武将の名折れだ。
 闇夜に剣が光り、雲が霽れる。暁の光は夜を一掃し、辺りには光が溢れ始めた。
「うあああああああ」と絶叫して馬を走らせる。しかし、寸での距離で、白起は剣を止め、手を下ろした。前髪を揺らして、一言、呟いた。
「逃げなよ――僕は人なんか殺したくないんだ。二度と、来ないで」
 春の冷えた空気は、冷酷な王の雰囲気に似ている。重厚を含む楚王の声が重く響いた。
「感謝するぞ、白勝の子よ。軍を整え、今度は共に秦を潰そうぞ」
 白起は追いかけて楚王を殺す幻想を見ては、眼を瞑り続けた。何も浮かぶはずがない。人の殺し方など知らないのだから――。
              *
 天馬の走るまま、皇宮に踏み込み、馬を止めた。
 暁の中、一人ぽつねんと庭に佇んでいた昭襄王を見つけ、白起は疲れ切った表情で笑う。
「どうして……まさか、一晩中?」
 出会った頃と何一つ変わらない。毅然とした姿。かの武王と被る。
「武将が泣くのではない。どうせ、お前に楚王は殺せまい。分かりきっていた話だ。お前が殺さずとも、敵国から逃げ帰った王の行く末など、孤独死以外に有り得ん。関係した人間はすべて処罰する。楚との盟約は結ばぬ」
 昭襄王は静かに続けた。
「だが、逃げた楚王の影響は、大きな波となって、秦に来る。即ち強国との全面戦争だ。ようやく安住の地を見つけた民族が犠牲になるだけの話よ」
 白起は、唇を噛み締めた。
 ――人が人を、殺すなど、間違っている。どうして、昭襄王に、逆らえないのだろう。
「僕は……誰も殺したくなんかない、でも、あなたがやれと言うなら……」
「そうか。それは、立派な覚悟だな」
 蝙蝠が、静かに飛んできて、昭襄王の肩に止まって羽繕いを始めた。よく見ると、爪が鈎のように曲がっており、羽は骨のように突出している。
「……楚王の肩に止まってたよ、そいつ」
 昭襄王はちらりと肩に止まった蝙蝠に視線を走らせ、「縁起が良い」と呟いた。
「こやつらは真の王を選ぶ。天鼠と別名を持つ天の鼠、即ち、自然神の使いだ」
 昭襄王の険しい鷲の目が、白起を看破しようとする。
(殺すのは、護るため……それならば、僕は手を差し出すしかないじゃないか)
肩に止まった蝙蝠――天鼠――の小さな眼が、不安に揺れている白起を映し、瞬いていた――。

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