[縦書きPDF推奨]殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

簗瀬 美梨架

第三部 斬首の行方

 第三章 斬首の彼方
                1
秦の咸陽・南の町村――。
 豊穣の祭りと称して、夏祭りが催されている。収穫の秋に向けて、作物の豊穣を願う所業も、また秦の王である昭襄王の大切な役目だ。
 雨乞いも兼ねてのようだが、既に効果ありと言うべきか、空には積乱雲が流れ着いていた。
――もうじき、降るな。
珍しく空なんぞを見上げている范雎の前で、小姓が馬を止めた。どうやら目的地。
「あは、随分と賑やかな」
 ――あ、昭襄王さまがいらっしゃる。
 小さな村だが、昭襄王を中心に、人々は作物祈願のために、平野に座り込んでいる。
 恐らく、初めて作物を植えた場所なのだろう。秋に備え、五穀豊穣・蓄財祈願の信仰は必ず行われる。秦では神を地母神として、崇めるらしい。
 だが、ここでは地母神=昭襄王を指している。
見ていると、子供が麦の白い花を束ねた包みを昭襄王に差し出し、昭襄王は子供を抱き上げて手を上げた。瞬間、喝采が場を埋め尽くした。
 太陽の下、猛暑でも構わずに龍を彫り込んだ外箕を翻す姿は、民衆を惚れ惚れとさせるに充分だ。しかし、後宮で、グダグダに酔っ払い、貴妃にしがみつき、ふらついていた昭襄王とは、まるで別人。
「素晴らしいのか、莫迦か、わからなくなってきたな」
 まあ、得てして神など、そんなものなのかも知れない。絶対神など有り得ないと、天帝が幻想を打ち砕いたのだろう。
「そばにお寄りに」
「いや、いいよ。きみの名前なんだけど……」
 小姓の顔が輝いた刹那、背中でどん、と音がした。気付かず通り過ぎようとした腕を「ちょい待ち!」と引っ張られた。
 小柄な女が息巻いている。
「どうしてくれるんだい! 洗い物が!」
 見れば、足元には籠から零れた衣服が散乱している。黒土は乾燥しており、衣服は既に薄汚れていた。
「ごめん、ボクがやったのかい」
「なーにを戯言! あんたがやったに決まってるだろ! さあ、渭水で洗っておいき!」
 なんだ、なんだと周辺の民衆と一緒に、昭襄王も気がついた。
 大わらわになった。小姓に、大きな手が乗せられた。
「俺の宰相が迷惑を掛けた。どうだろう、俺の外箕で、神は満足し得ないだろうか」
 昭襄王は見事な龍の刺繍のある外布を外して差し出した。
〝俺の宰相が〟そればかりを范雎の脳裏は繰り返し続ける。
夢物語は終われと、何度しつこく言い聞かせても、壊れたかの如く、繰り返す。少女はお辞儀をして去って行った。
「あの……いつまで頭、手ぇ乗っけてんですか」
 夏風に巻かれる砂を見ていた昭襄王は「肘掛けにちょうど良い高さと丸さだな」と、からかい、手を下ろした。
 范雎は満足そうに民衆を見つめている昭襄王に、おずおずと声を掛けた。
「永巷からの釈放、ありがとうございました……」
 昭襄王は返答せず、無言で民衆に視線を注いだままだ。
「あの!」と、ついつい声を荒げたら「ん?」と、ようやく范雎の方面に向いた。
「小姓の名をつけたか。子飼いを持つならば、名を決めるが第一歩。お前も王稽に立派な名を貰ったであろう」
 こうして聞くと、昭襄王の声は少し掠れ気味だと気付く。しばらく時間が流れて、麦畑にぽつりぽつりと雨が降り出した。
「俺が、酔狂だと思うか」
「思います。確かにボクは、いえ、わたしは、宰相になりたかった。ずっとお会いしたかった! 鄭安平から聞く話の大半は、貴方様の」
「俺が聞かせてやれと言っていた事実に、気付かないか。数年間、よくぞ耐えたな」
 少しずつ雨が強くなってきた。夏嵐の類いだろう。
 黄木を薙ぎ倒し、風は夏を飛ばし、秋を呼ぶ。それでも、昭襄王は動かなかった。
「よい時機だ。頬を打つ雨が心地よい」
「わたしの、戯れ言を鵜呑みにされては困ります。強かに酔われていた。もう一度、お話を聞いて」
「王稽が伝えてきたぞ。何やら、趙で面白い内情を掴んで帰ってきた、とな。趙櫃と趙括の正体は、どうあっても伝わらぬ。趙はそうそう手が出せる小国ではない。白起が行けば、門の手前で大乱闘、国交正常化は遠くなる。武力だけが助けではないと貴殿に教わった」
 昭襄王の眼が細くなった。
「雨が強ぅなって来たな」と呟き、腕で雨風を凌ごうと、頭上を庇う。そんな何気ない仕草さえ、王たる男は違う。頬を濡らし、昭襄王は笑った。
「聞かせて貰いたい。王稽も魏冉も、俺が納得すれば従う。本来、俺は面白い状況が大好きだ」
 白起と、昭襄王は似ている。にているから、共感する。范雎を蔑んでいる理由ではなかった。素直に胸の痞えが降りた。
 伝えると、「お前は王稽に良く似ているが?」と返ってきた。言い返さずにおいた。
               *
 小姓の名前を考えている内に、陽は落ち始め、豪雨も去った。
 後には早くも秋の香が漂っている。ゆっくり咲き始めた金木犀が少しずつ、邑を充たして秋色に染めゆくのだろう。
 昭襄王は一歩一歩を歩いている。呆れた話だが、衛兵の一人さえもつけていない状態で、邑に出ていたらしい。
 暗澹とした茂みを目にする度、山賊の出現に怯えながら范雎は告げた。
「わたしは頭脳専門ですよ。お役に立てないと思います」
 昭襄王は腰の剣を引き抜き、一振りして、小姓の髪を摺らせ、笑い声を上げた。
「俺の剣技は、かの白武将にも負けぬよ。お前たち二人くらい、護れるさ」
 范雎は呆然と、堂々とした背中を見つめた。
 もうじき皇宮。帰り着けば、昭襄王さまは遠くへ行かれる。まだ、何か、話さなければ。
(肝心な時に、脳が働いていない。役に立たないにもほどがある)
 正門に辿り着くと、門番二人が口々に置き去りにした文句を言い始め、昭襄王は逃げるように後宮に向かって行った。
(短い、幸福な時間だった)
 昭襄王は皇宮を住まいにはせず、後宮を私室や、寝室に決めているらしい。
 気の強い貴妃がお好みで、范雎は「永巷に繋ぎや!」と怒鳴った女を思い浮かべた。確か華耀と言った。
 そのうち、挨拶する機会もあるだろう。
 馬を引いた小姓の名前は未だ思いつけない。
ふと小姓が首を伸ばし、遠方を窺う仕草をした。
「どうした? 何か、いたのかい」
 やはり名前がないと不便だ。早めに考えないといけないと思う眼の前で、また小姓は遠くを見やった。
「篝火が近づいてるんですよ」
 すっかり世話人気取りで范雎の濡れた上着を受け取った小姓が「ほら」と前方を指した。
 確かに、篝火が近づいてくる。暗がりに火が進んでくる。
 いや、武将が大きめの松明を掲げている。暗がりでは、より火は大きく見える。
 白馬が一頭、正門を走り抜けようとして、止まった。
 凛々しい馬に乗る将の姿勢は憧れをもたらせる。白起の馬上姿は、人を殺すにしては、凛々しく、清廉だ。後に魏冉・穣候が同じく後方を向いて座っている。
 今度は白馬に涎が出そうな小姓を叱って、范雎は息を飲んだ。
(魏冉さま、白起! そういえば、出かけたとか……)
 見やっている二人の前に、白馬が止まった。
「夜の脱走は、死罪じゃぞ」
「いえ、昭襄王さまについて、戻って来たところで」
 魏冉の顔を覆っている風体は、何度となく見ても、信用ならない。
 それであれば殷の残虐さを振り翳すものの、素顔を晒している王稽のほうが、まだ信じられる。
(なぜ、白起は魏冉に従うのだろう)
 いや、多分、相手も(なぜ、范雎は王稽に従うのだろう)と、疑問に思っているに違いない。
「白起、儂の馬を厩舎に連れゆけよ」と言い残し、魏冉はすたすたと階段を登って行った。
 白起は無言だった。いつもなら、〝范雎?〟とばかりに話し掛けてくるはずが、小姓の存在すら、口にしない。
(何か、悪いものでも食べたか、遺体と数時間も共に在ったせいで、狂ったのか)
 ――くそ、どうして足が動かない。
「白馬っすね」と小姓が我慢できず、口を開き、突破口になった。白起は「うん、綺麗だよね」と微笑み、馬の手綱を引こうとして、首を傾げた。
「なんか、騒がしいな」
 言われて見れば、皇宮の出入りが激しくなっている。昭襄王は後宮に向かった。出入りしている人間は、下等兵たちだ。
 無言で進む白起と范雎の前に、兵が立ち塞がり、邪魔をした。
「ここから先は、封鎖です。馬が暴れ、頓死しております!」
 聞くなり、范雎と白起の声が重なった。
「天馬をお連れ申せ!」「昭襄王の馬は無事か!」
顔を見合わせ、同時に走り出す。しかし卑怯な白起は、馬を駆って走ってしまい、ハアハアゼイゼイで追いつく頃には、天馬を宥めながら歩いて来た。
「行かないほうがいい、范雎。馬が呪いで倒れたと、大騒ぎだ」
 范雎は足を止めた。どんな馬かと聞くと、「のっぺりとした馬」と、何ともわかりにくい答が返ってくる。
 人々の間から、巨体が倒れている情景が見える。瞬間、体内が氷の如く冷え始めた。
 ――ボクの、馬だ……。
 馬は横倒しになり、涎を垂らして白目を剥いている。見れば前足はどす黒く膨れており、どれほどに暴れたのか、体毛は擦れて、蹄は白く変色していた。
(な、なんで、ボクの馬だけが……)
 范雎の脳裏に魏で襲われた熔けた虎が浮かぶ。同じ表情、とすれば、この馬はどこかで呪いに触れた。でも、どこで?
「何の騒ぎだ! 夜に離合集散は、謀反と見なす!」
 処断すべく、王稽の蜻蛉頭が現れ、場を割って、馬に近づき、すぐに背中を向けた。
 蜘蛛の子を蹴散らすように人々は去り、波が引いたかの如く、場は静まり返った。
(何故、ボクの馬だけが!)と触れようとした范雎の頬に王稽の腕が飛び、叩かれた勢いで、范雎は地面に叩きつけられた。
 瞠目して睨むと、王稽の表情は、ますます強張っている。
「触れるな。たった一匹の狂獣が、数億の人々を恐怖に叩き入れる。教えてやろう、殷王朝は、権力の影で、惨殺を繰り返した。その遺体を、お前は見たはずだ。それが、殷呪だ」
 王稽は瞳を僅かに潤ませ、山々に視線を注ぎ始めた。范雎も思い出した。
 二度と近寄らないように努力していた泉に沈んだ大量の骸。まるで一つの邑が沈んだかのような。しっかりと大地を踏みしめた爪先に揺れる玉を眼に映し、范雎は顔を上げた。
  こんな時だというのに、ようやく頭が冴えてきた。
「では、この呪いを使えば、近隣の国を手中にできるのでは?」
 口が自然と動く。
「ボクが殷の呪いを手に入れた事実は何らかの天の啓示でしょう。ボクには聞こえます。呪いすらも、力にし、秦よ、栄えよとの神の声が」
 王稽と静かに見つめ合い、馬の臭気に気を取り直した。
 抑揚のない声、静かな瞳、夜を封じ込めた光のない瞳が瞬いた。
「俺の力は、必要か」
 気弱でもなく、横柄でもなく。初めて、王稽は范雎に対等に、歴史の中、向き合った。
 浮かんだ言葉を飲み下し、范雎は薄い唇を引き、しっかりと王稽を見つめた。眼を逸らしては負けだ。これは嚆矢だと。
「地獄であろうとも、ボクは白起には負けたくないんです」
 秋を迎えるほんの少し前の時季。小さく鳴く虫の声が夜に響き渡る。尻を光らせた光虫が飛び回り、僅かに暗さを緩和していた。
 秦の空を闇が埋め尽くす。闇は蠢いて、じっと下界を見下ろしていた。
            2
 銀杏が舞い散る空を飴色の瞳に映し、白起は微動だにしない。
 紀元前二九二年。初秋。白起、花の一七歳。洛陽・西――。
 秦の登竜門ともされる、函谷関が望める絶景に秦軍は佇んでいる。
 目下に揺れる、二国の旗が、まこと、白々しく視界にチラつく。
(今度は韓・魏軍か)
 逃げた楚王は、逃亡の間、命を繋ぐために一度侵入した秦の情報を他国へ流し、保護を願った。だが、楚王の死後、まずは韓が魏に攻め込み、魏は以前の恨みもあってか、共同戦線を申し出ている。
 すべては昭襄王の睨んだ通りに、歴史は動き始めた。
 そんな騒ぎの中、宰相の范雎は正式に爵位を承り、余波は爵位に興味などなかった白起にも飛んできた。その影には、いつもの如く、王稽と魏冉の対立がある。
 秦の爵位制度は二十等爵で、上造から始まり、武勲によって上がってゆく。今回、白起が否応なしに押しつけられた〝左更〟は十二等級だ。
 ――見てくれなんぞ、どうでもいい。
 等級を拒んだ白起だが、秦を脅かすとあらば、問題などは、どうでも良くなった。
「少し作戦を仕込む」と軍師たちに、有り難くないイチャモンに近い作戦を示唆され、更に身勝手を指摘されて、憮然としながら、魏の境界線まで軍を率いたところだった。
                *
 北東には、死の世界の入口にも近しい虎牢関を控え、更に奥には邙山が聳えている。ここでならば、素性を探るにも険しい山々が敵の視察を阻む。こちらからも見えないが、今回の戦いには大きな違いがあった。
 伊河が洛河に注ぐ伊闕。戦いなどするより、のんびりと風に吹かれて絶景を愉しみたくなるような、見事な権丈銀杏の繁る、秋の趣ある光景。王稽と、宰相、范雎はなぜか迫り来る魏軍を当地で迎え討てと示唆してきた。
 長城を下ると、周辺はすっかり秋の色合いだ。
 見事な銀杏の大木が何本も聳え、秦軍の兵は、僅かながら、秋の趣に心を奪われた。だが、白起は違うものを常に見ている。
 雄大な河の水面に魚が跳ねていた。美味しそうな魚だ。銀杏も綺麗だが、丸々とした魚に腹が鳴りそうになった。
 兵たちに振る舞ってやりたいと思い、何匹いるかと身を乗り出したところで、ぽこんと何かに頭を叩かれた。
「大将は常に敵を見てくれませんか」
 白起に常にお目付を命じた軍師は、王稽。以前、作戦を無視し、魏の兵を皆殺しにしたがため、常に白起には、恰幅の良い将軍がついて回る。
「もう! わかってるよ! きみも綺麗な秋の風景とか、見たほうがいいんじゃないのか? 小麦塗れにされた報復は、必ずやるよ」
 軽口を叩く白起に将軍は「へっ」と笑った。幾度となく戦ってきた門番の男である。同じく楚王の首を落とした功績は、多大なるものだったが、なぜか門番は、栄えある皇宮の武将ではなく、白起との遠征軍を希望した。
 事実に(しめた)と思った王稽と密約を交わし、見事に天衣無縫な白武将こと、白起のお目付に納まった、とこういう理由である。
 何か規範を破れば、これではすぐに皇宮の上層部にばれて、昭襄王の説教か、婆の再教育が待っている。しかも爵位がつき、名を「庸拉ようらつ」と抱いたらしい。
「庸拉、魏の王さまは、民衆を虐めているって、本当?」
「そのようです。魏は代々、王が王でない国。元は地方民族の豪族だから、圧政に慣れているのでしょう。人々は身を寄せ合って、突然の殺戮に怯えているとか」
 ぎり、と歯ぎしりの音が、白起自身の耳にも響く。
 きつく眼を閉じて、ゆっくりと開いた。手持ち無沙汰になっていた鉢巻きを額に巻き、長く垂らす。
 額は急所だ。庇う以上の意味があった。いつも額を庇う瞬間、殺した人々の幻影が脳裏を走り去る。眼を背けては人を殺せない。
 范雎曰く「倦怠」だそうな瞳で、更に物憂げに瞬きを繰り返し、白起は敵陣を睨んだ。
「敵の城は五つ。だけど、指揮官は一人。だから、指揮官だけを射止めるよ!」
 出陣の前に、武将は各軍師から、地理・相手方の組織構造、国の内省など、あらゆる知識を刷り込まれて戦地に送られる。
「僕に続いて! 怯むんじゃない!」
 見え隠れする敵の布陣は横に広く伸び、戦車を構えていた。一般的な布陣だ。
「白武将、こちらも戦車を!」
「好きじゃない」と、きつく短く断り、白起は剣を引き抜いた。
 太陽は一層遠く、秋の木漏れ日は、どこかもの悲しい。降り注ぐ銀杏の葉は空気を山吹色一色に変えてゆく。
「王稽さまの作戦は、戦車を突入させ、包囲、捕虜として降伏後、敵の将の首を斬首。逆らってはなりませんぞ」
「誰一人と、死なせたくない。敵の頭を取る! 残虐な王は、僕が殺す。それだけの話だ!」
 敵の布陣が動き、左右から戦車が走り出し、砂煙を上げ始めた。
(伊闕は足場が悪い。だが、それは、あちらさんも同じ話か。分は平等。面白い)
 戦車を一面に出し、包囲を仕掛けてくる相手国に、秦は一つの〝仕掛け〟をしている。
 秦軍を率いている将軍は白武将ではないと、前もって噂を流した張本人は昭襄王だ。しかも、その案の提案者は范雎。范雎は昭襄王の心を掴み始めていた。
 知っていれば、敵の行動は違ったはず。恐らく夜討ちに持ち込み、勢力を削る作戦に出ただろう。目的は――白起の暗殺。
『白起を絶対に殺させるな!』昭襄王は、壇上で、厳命だと軍師たちに命令を下したという。莫迦な話だ。
 戦車に乗っていた兵士から血しぶきが上がる頃、白起は一陣に切り込んでいた。
 兵たちは蹌踉けながら、薄い布一枚を足に巻き、前線に晒されて、脅しの態で戦いを余儀なくされている。
 対して、戦車に乗っている一陣は、どこか煌びやかで、足を地につけていない。地面を踏まない武将は、決して地の利の恩恵など受けられない!
 剣を振り下ろした後で、鮮血が吹き出し、戦車から人の骸が重く落下する音が響いた。
(手応え、ないな。覇気がない)
それでも、白起は剣を揮い続けた。
 陽が高く伸びる頃、ようやく気がついた。
 敵兵は怖れを為して攻撃しないのではない。攻撃する意欲がない。
中には腕が既にない兵もいる。
 見た記憶がある。秦に逃げ込んだ中の、刑罰者。腕を切る処刑がある。所謂、肉刑だ。飢えている兵が多く、ぶつぶつと何かを唱えながら、男兵は白起に刃を向けた。
 よく耳を澄ませば、
「助けを」「水を」「飯を」「命を」……。
「あ、あぁ……」思わず口から怯えの声が漏れた。
 餓鬼のように群がる民衆は、生き地獄に落とされた。豪族の圧政の顛末だろう。
 秦には、飢えるような民衆はいなかった。
 お目付を尻目に、白起は甲高く、獅子吼した。
「軍を指揮してるやつ、出て来い……っ」
 馬を更に蹴り上げようとした足を、敵兵が止めた。白起の足を引っ張り、馬から落とした。
(くそおっ)と砂まみれになって、転がりながら、剣をむちゃくちゃに振った。
「この白武将の首、やすやすと取れると思うな! 助けて欲しいなら、頭を下げな!」
 兵士は剣を構えたまま、腕を震わせていた。白起は立ち上がりながら告げる。震える剣を素手で押さえた。怯える瞳は無数にある、すべてに晒されて、続けた。
「栄養失調では肝心な時に、力がなくなる。大丈夫、秦の昭襄王さまは、民衆に飢餓などさせない。助けてって、頭を下げなよ。さすれば、敵に味方もない。それが僕の矜恃だからね」
 ガシャンと続けざまに、兵士の手から剣が滑り落ちた。戦意喪失、というやつだ。兵士たちはみな極限の飢餓状態。手もごつごつと骨が浮き上がっている。
「庸拉、まだ秦の食糧、余ってる?」などと口にし、振り返った間の前を弩から発した矢が飛んだ。
(危ないな! 鼻が削げるところだ!)
 涙目で鼻を押さえて、白起は振り返った。魏の兵は、もはや敵ではない。皆、座り込んでいた。
 弩を構え、関城から大量の兵が剣を掲げる状況が見える。
 続いて現れた韓の兵に焦点を移し、白起は意気揚々と剣を掲げた。
 魏の兵と違い、丸々とした兵士がいる。これならば、戦える。
「ゆくは第一の城、目指すは将軍・公孫喜! こいつをまず、縛り上げる!」
 相手は多分、一の城を落とされるのは計算尽くだ。つまり、一の城の兵は捨て兵だ。
「そろそろ僕の素性も知れる頃だろう。だとすれば、夜襲される怖れがあるよな」
 む、と白起は考え込み、続けた。
「庸拉、王稽の作戦とは違うけど、こっちも夜を叩こう。兵の中から、夜目の利く、ちょっと強いヤツを選んで編制してくれ」
「太陽の下では、こっちの動きは掴まれやすい。落日してから、行動しよう。必ず、将軍・公孫喜の首を持ち帰る。作戦は仕舞いだ」
 眼の前に、昭襄王の真摯な表情が見えた。
             3
 伊闕に夜が訪れた。
「渭水より、水が大人しいのだな」と黄木に寄りかかった。
 静かに月を揺らす水面を見つめていると、木々が揺れて庸拉が姿を現した。
「夜に強い武将と兵を、掻き集めてきた。皆白武将に尽くすと」
「僕の役に立つなんて言葉は要らないな。きみたち、人を殺せる?」
 場がシンと静まり返った。白起はゆっくりと首を左右に振り、背中を向けた。
「話にならない。せめて僕がため、でなく、秦のためって言えなきゃ。あの辺りまで小石が届くかい?」
 月の下に輝く水面に沿ってできた河海、と例えたほうが、しっくり来るだろう。後方に黄河の支援を得て、雄大に流れる河は、一つの領土だ。兵士たちは顔を見合わせていた。
「白武将。どういうつもりか。少数精鋭で攻め込むのではなかったのか!」
 武将たちが首を傾げつつも、軍将である白起の命令に従い、深夜に小石を投げている。
「莫迦だな、庸拉。攻め込んだ後の状況を考えなよ」
 答を口に出しそうになった庸拉が言い返した。
「しかし、これでは、近くに敵がおると知らせているようなものでしょう」
「知らせてるんだよ。みんなを集めて」
 夜明けを待つ必要はないな、と判断し、月を仰いだ。
            *
 韓の将軍の公孫喜が、魏の兵の使えなさに辟易して、魏の人質を処分している事実を、白起は知らず、第二の城を通り越し、第三の城の手前で動きを止めた。
 木々に実が鈴なりだ。ときおり夜風が重そうに木々をざわめかせている。
「白武将? どうされました?」
 夜を縫って移動していた兵たちを窺い、白起はひょいと第三の城に顔を覗かせた。
「なにか、いる。それも、たくさん。庸拉、松明を掲げて」
 背の高い庸拉は頷いて、松明を掲げ、映された光景に一同は思わず口を覆った。白起の唇がへの字になった。
 枝には無数の小さな影が干飯のように干涸らびて、ぶら下がっている。大きさから見れば、皆、幼児くらいだろう。黒く変色している上、月明だけでは現状が把握しにくい。
 吊され、息絶えている子供たちの枝を見上げ、白起は唇を噛む。「命を」「助けて」と、魏兵は口々に告げていた。「子供の命を助けて」と言いたかったのだろう。
 結果的に魏兵の大人の大半は、捕虜扱いになっている。だから子供が処分されたと手に取るように理解できる。
(魏はすでに、追い詰められた上、兵役を課せられたのか)
 躯がスウと冷えた。――許せない、こんな状況。秋だというのに、嫌な汗が噴き出した。
 立ち止まった白起の腕を庸拉が掴む。「大丈夫だ」と告げて、白起は洟を啜った。肩を震わせて、再び手綱を掴む。
「進もう。可哀想だけど、夜襲に気付かれる。でも、後できっと土に還してあげるから」言い残して、足を一歩、踏み出した。怒りで全身の関節がキシキシと痛む。
「容赦は要らない。だが、兵を殺さず、気絶させて。殺す相手は最低限でいい」
 血だか、体液だかで柔らかくなった地。馬が時折足を振っている。
 秦軍は通過し、篝火のある第三の城前に辿り着いた。
 門番兵が気付いたが、庸拉の動きは速い。後に忍び寄ったかと思うと、一人の首を締め上げ、落ちたところで腕を解いた。白起は一人の兵に剣を突きつけた。
「秦の白起。公孫喜を暗殺に来た。退けば殺しはしない」
 門番は狂ったように剣を振り上げ、激しい剣花が散る。無我夢中の型もない剣技に、白起は叫んだ。
「子供は僕が助けるから! 魏も、韓も、子供を囚われている。違うか?」
 剣が止んだ。
 ――これが、楚王を逃がした僕のした所業か。
 影が白起の心に忍び寄る。〝見よ。貴様が楚王を逃がした余波は、秦を危機に落とした〟
 ――王稽の声がうるさい。頭を振って、白起は剣を納めた。
「数人、第三城の内部へ。子供たちを助けないと」
「なぜです?」と異議が飛び出し、白起は異議を唱えた兵に向いた。「敵の子供を生かせば、いずれは武将に育ち、大敵の芽吹きを自ら行うはめになります」と兵は告げた。空から、また母の声が降ってきた。
〝白起、間違ってはなりませんよ――〟
「大将は僕だ」とにらみ合いになった瞬間、また一人の兵が進み出た。
「わたしにも、子供がおります。韓が子供を楯にしておるのならば、それは人道に反すること。昭襄王さまなら何と判断するでしょう」
「決まってる」と白起は続けた。
「白起、ガキを助けて、頭を叩け――そう言うに決まってる! 僕は、こういうやり方がな!」
「騒ぐと、厄介なことになるから静まれ」と庸拉に諫められ、白起は「だってさぁ!」と文句を言いかけて、それすらも相当もどかしく、剣を掴んだ。
「庸拉、従いて来るんだ!」
 夜はまだ明けない。
 先程の兵二人が、「ここは我らが」と同じく剣を抜いたので、安堵して、任せた。文句を言っていた兵も、何だかんだで、〝昭襄王〟の言葉に突き動かされたらしい。
「僕らは頭を叩く。十人、離脱だ」
 人数の減った一陣は三十人ほどになった。
 空は少し、輝きを薄めて、淡く白い靄を被っている。
 月暈だ。――よく空が白い暈を被る光景を見る。で、あれば、明日は雨。秋雨が来る。
 韓と魏は自然の要塞を城に作り替えた関城にそれぞれ立て籠もっている。戦車に乗っていた奴らだけが、上の人間とは思えない。だが、権力は恐らく魏よりも韓が握っているのだろう――。
「親玉、どこに潜んでるんだろう、王稽も范雎も、そういう部分、言わない」
「さては、王稽さまが、話していた内容を、聞いておらんかったのですね」
「話、終わらないかって聞いてた」
 庸拉の視線から逃げるべく、白起はそっぽを向いた。
「公孫喜は細身、元は韓の豪族の遊牧民族王との子供、今回、山に砦を構えた動機も、地の戦いに自信があるからだ。一方で残虐でも知られている。魏と韓においては――」
 もういい、と片手を振った。庸拉の話も同じくらい退屈。それならば、白んだ空を見ていたほうが、よほど時間を無駄にしない。
(国の事情なんぞ、どうでもいい。秦が無事なら、それでいい)
 どうやら第四の城は兵糧を蓄えているらしい。ちらほらと見える家畜の姿がある。しかし、公孫喜はいないと判断し、最終の第五の城に進む話になった。
 松明の必要はない。兵たちは地に松明を擦り、火を消した。
 ぶ厚い雲の彼方から、陽光が漏れている。夜明けは近い。
 ――子供を楯にしてまで、戦わせるなんて。あんなにあっさりと殺してしまえるなんて。
(人をあっさりと斬る僕が言う言葉でもないか)
 振り向こうとした矢先、茂みが揺れた。「白起!」と声がして、力一杯突き飛ばされて、泥濘に落ちた。
 黒土だ、ねばねばと絡みつくような、腐葉土。手をついて起き上がった白起に向かって剣が光った。
「我は魏韓を束ねる公孫喜。驚いたぞ、秦の残虐武将が自らお出ましかい」
 声は低くもあり、高い。聞きやすいが、どこか、鼻につく声音だ。どうどうと名乗る辺り、自信家なのか、莫迦なのか。
「大将がのこのこ出て来て、僕の前で命乞いか?」
 甲冑の下に銅板が見える。――首を斬る以外に、殺せる方法はなさそうだ。
 剣を構えながら、白起は一番気になっていた事項を口にした。
「ここに来る一つ前の城には、食べ物がわんさかとあった。それこそ、兵士に充分に行き渡る貯蓄量だ。なんで与えてやらないんだ」
 だが、公孫喜は、ふんと言い放った。
「あの程度の兵には、食事など無用。食べたところで、長く生きる権限はない。それに、韓の食事に比べれば、一ヶ月分しかない。それでも、やはり美食とはゆかぬ。まあ、一ヶ月も戦うつもりはない。早う韓に戻りたいわ。――囲め」
 ――ぷつん、と頭のどこかが切れた。やけに空気が張り詰め始め、朝靄がゆるゆると広がり出し、山地を覆い始めた。
 初秋だが、すでに冬の匂いがする。〝山の神さま〟そんな言葉を急に浮かばせて、白起は剣を揮った。
 足元に呆気なく、公孫喜の首が落ちる。一瞬だった。庸拉も、兵も言葉を失った矢先で、一人の兵が叫んだ。
「白武将、あれを!」
 見れば、長く伸びた韓の軍が、第五の城の裏手から、進軍している。
 裏を掻き、秦の関の途を目指していると知り、白起は信じられない思いで、眼の前の首を見つめた。
「では、こいつは、誰……」
 庸拉が低く叫ぶ。
「少なくとも、公孫喜ではない! 替え玉だろう。白起、急いで本陣に! とっくにこっちの動きは読まれてい――」
(何だって?!)
 では、陽動に引っかかった間に、韓軍は――秦が危ない!
「まだ、間に合う!」
「個人行動はするな!」との庸拉の制止を聞かず、白起は怒りの珠になって、走り出した。
 途中で、向かってきた兵を馬上から墜落させた。動かなくなった骸を飛び越えて、馬を奪取すると山肌を駆け下りて、韓軍の前に飛び降りた。
 一人の男が気怠げに白起を見やり、馬の手綱を引いて、ふっと背中を向けた。
「白武将を近づけるな。子供を殺されたくなくば己ら阻止せ」
 それでは、と兵の垣根の向こうで、せせら笑う声。
瞼に母と、楚王、昭襄王の顔が浮かぶ。ぎらぎらとした無数の血走った瞳が白起を捕えていた。
「邪魔だあああ!」
 剣を振る度に鮮血が飛び散り、公孫喜の頬に跳ねた。
「子供なら、僕が助ける! お願い、眼を覚ませ!」
 兵たちは根強く白起に切りつけてくる。どのくらいの骸を築いたのか。腕が痺れ、動かなくなった。
後ほど、捕えた兵から『子供を殺した相手は、秦の白武将だ』と兵たちは吹き込まれていた事実を知る。手を緩めるはずがなかった。
――公孫喜は残虐で名を広める――
 だが、事実を知らない白起は、懸命に訴え続けた。
 兵の垣根は白起を見事に阻み、その合間に、公孫喜は逃げて行ったらしい。
 ようやく沈めた場に残ったのは、首を斬られ、大量の兵が横たわる地獄図だった。
             *
 頬に滴が垂れた。唇に流れ、舐め取ると、血の味がする。額を拭うと、血が滲んだ。
「斬られていたか。道理で、痛むと思った」
 白起は眼を遠くの山地に向けた。
 立ち塞がる民衆の砦を切り崩し、最後の一人を斬り捨てた先に、公孫喜の姿はなく、白起は手をだらりと下げた。
 人形の如く、足は凝り固まっていた。重すぎて、どうやって踏み出せば良いか、まるでわからない。ただ、拡がる血の海に浮かび上がるかのような、人の部位一部をぼんやりと瞳に映す。
 夥しい数の兵士だ。
 ――これを、僕が斬ったのか。
 秦に戻れば、それは〝武勲〟となるのだろう。苛々と剣を震い、仕舞ったところで、息を潜める低音が耳に届いた。
「白武将! これは大事になるぞ……!」
 駆けつけた庸拉が開口一番、青ざめて告げた。
「韓との国交は、断絶には至っていなかった。あなたは、和平の道を、閉ざしたのだ」
(和平? そんな言葉など、知らない)
 綺麗事だ。殺さなければ殺される。和平などという言葉は、戦いを知らない内侍が使う戯れ言。実際に戦場に出て見ればいい――和平などと言う口は削り落とされる。
 口に溜まった血を吐き出して、白起は気にいらない風情満々で言い捨てた。
「公孫喜を逃がした。だが、戦力は、だいぶ殺いだ。戦力と言えるのかどうかはわからない」
 遮二無二、戦わされていた人材を、〝戦力〟とは呼べないだろう。
 口には出さず、白起は切れた額を覆い隠すかの如く、鉢巻きを巻き直し、振り返った。
「第三の城の子供たちは? 兵たちは、上手くやれたかな」
「あやつなら、大丈夫でしょう。いつも大切に束ねた髪の束を持っておるので、聞いたところ、七人の子と妻の髪の一部をお守りにしているのだ、と」
 微笑ましい話だと白起は僅かに微笑んだ。そんな背景があるからこそ、「ここはわたしにお任せを」と言えたのだろう。
 白起はいくつかの甲冑を倒れた武将から選び、奪取した馬に跨がり、朗々と声を張り上げた。
「秦の本軍に戻って、将たちに公孫喜を捕えるように伝達! 僕は先回りして、韓への退路を断ってくる。僕の考えでゆけば、公孫喜は伊闕に戻らざるを得なくなる。おびき寄せてやるよ」
 唇を噛み切りそうな勢いに、庸拉が「何をそんなに怒っている」と聞いてきた。
「弱い者いじめが大嫌いなだけだ!」
 とだけ、言い返しておいた。
               4
「じゃ、頼んだよ」と言い残し、地理の明るくない伊闕から韓への道を全力で走破する。
 途中の銀杏は一つとして、同じ色をしていなかった。風は余計に冷たく感じる。頬の涙を攫い、秋風が吹き抜ける態は、死の世界への入口のように、厳かで、寂しい。
 馬を走らせど、何も見えてこない。延々と山地の切り立った風景が続き、山は近くなったようで、まだまだ遠い。奥に見える邙山は、紅葉を迎えていた。
 目的の公孫喜の姿はおろか、韓軍は未だに見えてこない。
(……韓を結ぶ道は、この斯道しかない。信じて、進もう)
 ――見つけた。韓軍の後方支援軍。
 食糧調達軍は大抵の場合、敵に襲われないように、後部に置いている。 戦いにおいて、如何に効率よく兵糧を運び、英気を養うかは、重要な争点であり、勝利への兆しだ。
 食糧をたらふく積んだ荷台は、何十個あるだろうか? 伊闕への備えにしては多すぎる。韓が、魏を始末し、秦への進軍の準備を施している様子は明らかだった。
 兵糧を率いる軍隊の、兵力は低い。秦では、武将になれなかったものたちが、前線から避難し、物資を運ぶ任についている。
 山賊防止か、国旗は立てておらず、馬に括り付けた荷台を圧している兵は閑暇そうだ。試しに後に近寄ってみたが、気がつきはしない。
(ちょっと悪戯、してやれ)
 白起は持って来た韓の甲冑をつけて、そっと忍び足で兵糧の列に紛れ込んだ。並んでいる兵に頭を下げて、見えない場所で龍剣をそっと引き抜く。
主食らしい藁に包まれた食糧を見つけ、剣を揮った。穴の空いた藁からは、少しづつ、色々な食糧が知らずこぼれ落ちて行った。
 ぼろぼろと食糧を落とした事実にも気付かず、兵たちはぼけっと歩いていた。穴を少しずつ大きくして、全部で十個もの荷台の食糧を切り裂き、軍を離れた。
 ――これで、韓軍は兵糧不足。公孫喜は食糧を求めて、必ずや合流し、漏れた食糧を見て引き返すはず。その時に使うのは、恐らく第四の城の備蓄だろう。
「僕は第四の関城で迎え討つ」
 秋の日は静かに世界を照らしていた――。
            5
 秦の回廊を足早に歩き、范雎と王稽は軍師たちの集合する宮に足を踏み入れた。
 赤い毛氈を踏みしめ、范雎が歩くと、銅板を抱えた青年たちが深く頭を下げ、静止した。
彼らは会議の記録を彫り込む係である。だが、会議といえる内容は稀だ。それを彫り上げ、歴史に残す所業は果てしなく無謀で虚偽に近い。なぜなら、語彙力がなく、表現には、どうしても制限がある。
実はここに〝なぜ范雎が宰相か〟の点があった。一人の青年の書き上げた竹簡を昭襄王は密かに評価していた。
 かつての職の苦労を噛みしめ、范雎は、おもむろに、台座に足を掛けた。
「王稽。昭襄王さまは、いつお見えになる」
 台座の元で書簡を手に、王稽は深く頭を下げた。白々しいと笑いを堪えて、范雎は〝茶番〟に興じる。
 互いに策士。地位の確保は最優先だ。共犯と言っても良いだろう。
「全く、魏の和平をやり直しせざるを得ないとは。魏冉! 貴様の子飼いが何をしたか、わかっているのか!」
 気だるげに外を見やっていた眼が王稽に向いた。相変わらずの覆面から眼だけをぎょろつかせて、魏冉はただ、王稽を睨んでいる。
 書記たちの書刀が一気に動いた。
「知っておる。して? 被害は、どのくらいであろうかの」
「子飼いの動向も掴めぬとは。田舎で麦でも育てて暮らせ」と厭味を飛ばしたあと、王稽は「宰相どの」と范雎に竹簡を手渡した。
「白起に同行し、状況を知らせよと、送り込んだ間諜からの書簡だ。見るがいい」
 ――白武将、伊闕にて、罪のない子供の死を発見、魏兵四万人を瞬殺、関城を突破。更に第三の関城にて、大量の子供を発見。門番五十人を撲殺、現在目的の首は逃走中――
 小声で読み上げた范雎の内容を聞くなり、魏冉が笑った。
「己の命より、敵の子を案じる辺りが、儂の子飼いらしいのう」
「そういう問題ではありませんよ!」
 范雎はのんびりと答える魏冉に言い返して、竹簡を読み進めた。
 現在の白武将は、あろうことか、単独行動、公孫喜を逃がし、躍起になって追いかけて行った――竹簡は、そこで終わっている。
 范雎は眼をきつく瞑り、王稽を見やった。ところで、支度を終えた王が訪れ、まず袖を合わせ、出迎えの姿勢を取った。
「面白ぇ話が聞こえたな。また、白起が大暴れか? 俺にも、その竹簡を」
「お言葉ですが、これでは我らの国交の計画が丸潰れで……」
 昭襄王は「まあ、そう言うなって」と取り合わない様子で、「お前たちは、これをどう見る?」と振り返った。
 誰も意見を発さない。昭襄王は「お前ら」と言っているが、暗に「宰相范雎、どう動く?」と聞いている。
 范雎は早計した自分を恥じながら、続けた。
「我らが白武将を戦地に赴かせた理由は、惨殺ではございません。そのため、一昼夜かけて作戦を何度も叩き込ませました。狙うは公孫喜のみ。他は一切、手を出すなと。公孫喜のみを捕虜とし、韓の軍勢状況を探りを入れてこそ、韓を手中にできると」
「多分、聞いてなかったんだろ。白起は十分と同じ話を聞けない。聞いているようで、月を見たり、空腹を感じたり、足が痺れたりして、気が漫ろになってしまうのさ」
 呆れた范雎に、昭襄王は相反して眼を輝かせ、続けた。
「だが、いい機会だ。韓と魏は怖れをなし、必ずや服従の意志を示してくる。俺は、いつだって白武将、いや、白起が間違えた行動をしているとは思わない」
 皮肉げに口元を歪ませて、昭襄王はくくっと笑った。
「莫迦なりに、一生懸命だから」
 聞いたお側の男たちは慌てて笑い出した。王稽も、口元引き攣らせながら笑う。魏冉の大笑いがうるさい。昭襄王に合わせて、皆、必死に笑っていた。
(なぜだ……なぜ、皆、笑う)
「僕は、白起が正しいなどと思えません。むやみに剣を振り回し、暴れて、幾人もの命を奪う。殷の呪いと同じですよ」
 昭襄王は范雎には答えず、王稽に向いた。
「王稽、馬の処分は」
「は。来るべき瞬間に備え、足を残し、すべて焼き捨ててございます。処分に当たらせた奴隷への発症もありません。呪いだと囃し立てた者はすべて処分致しましたが。御前お騒がせして、誠に申し訳ございません」
 昭襄王は眼を細め、「宰相、言いたい話は以上か?」と聞いた後、魏冉と何やら話し込み始めた。
 言葉の端々に「白起」と混じる。どうにも気に入らない。本来ならば、武将は武官名で呼ばれる。
 ――左更、と呼ぶべきではないのか? だが、愛情を込めて、昭襄王は〝白起〟と口にした。
 立ち尽くす范雎を残し、皆、いつしか場を立ち去った。
 ――韓と魏は怖れをなし、必ずや服従の意志を示してくる。俺はいつだって白武将、いや、白起が間違えた行動をしているとは思わない――。
 少し姿勢を伸ばして皇宮の回廊を歩くと、黄色い蝶が舞い込んできた。手すりから外を眺めると、一つ、二つ、飛び回っており、良く見れば権現の大銀杏の葉である。銀杏がそろそろ落ちる。秋の風情の顔だ。
 もうじき、山麓の銀杏は、一斉にパチパチと音を立て、葉を落下させるのだろう。
 ふと、庭に人陰が見えた。
 昭襄王だ。貴妃を連れて、銀杏の空を見せている。昭襄王がこうして、佇む光景は何度か目にしている。大抵、白起が遠出している期間に多い。
 子を待つ、父のような、兄を待つ、弟のような、弟を待つ、兄のような優しい表情をなさっている。
「宰相、お前もお前の戦いの準備をせよ」
 気配に気付かれたらしい。背を向けたまま、昭襄王は貴妃の頭を撫でて続けた。
 確か、宝麟と呼ばれる、幼い貴妃のほうだ。王のイロに、ともかく言う権利はない。
「ボクの戦い、ですか?」
 聞いていた貴妃が嫋やかに微笑んだ。
 宝麟は小柄な美女だ。気風の強い姉の華耀と違い、少し垂れ目で、口調は、まさにお姫様。しかし、姉妹……。余計な思考を追い払い、范雎は二人に視線を向けた。
「内々に、魏からの使者が訪れる話が来た。韓と手を組んだはいいが、思わぬ秦の勢いに民衆が怯え、子を奪われる事実を恐れた民衆は、こぞって秦に向かっていると。これでは王も国も名折れだ」
 昭襄王は銀杏の葉を抓み、貴妃に渡してやりながら空を見上げた。
 秋空で、少し茜射す空には、無数の銀杏が飛び回っている。
「今後は魏との国交が待っていよう。魏は、己のかつての屈辱の場所。惑わされず、正常化に導け。上り詰める地位は、まだまだ高いぞ。とうてい白起には追いつけまい」
 人の差だからな、と言い残し、昭襄王は「秋の渭水も見事だぞ」と貴妃と去って行った。
 范雎の潤んだ瞳に映る紅葉は、どこか歪んで、透過する度を増した――。
             6
 夜も更けた。切り刻んだ食糧の合間。足元では鼠が一匹、白起の爪先を踏んで逃げて行った。
「このくらいでいいかな」と龍剣を下ろした。無残に切れた藁からは、大量の干し肉や、見た覚えのない実などが見え隠れしている。
「白武将、本当に公孫喜は来るのだろうな!」と剣を仕舞い、声を荒げている兵士は庸拉。そばでは零れた食糧を馬の腰袋に必死に詰める兵士たちの姿があった。
「来るよ」とだけ告げて、白起はもう一度さっと松明を翳し、現状に満足して頷いた。
 ――韓軍の兵糧は、ほとんどが使い物にならないだろう。荷台十個の食糧は、およそ兵百人を賄うほどの量だ。それだけではない。
 あの公孫喜は激怒し、秦に向かうどころではなくなる――。
 白起は、散らかった食糧を見つめ、幼少の自分を想った。
〝わたしは、いいの。あなたが、食べなさい〟
 母は何度、そんな風に告げ、小さな屯食を作ってくれただろう。
不味くても、少なくても、いつも空腹でも、決して不幸せではなかった。
 独り過去の橋を渡っていると、隣に気配を感じた。名前のない兵士。確か子沢山の。
「子供たちは、無事に逃がしましたが、犠牲も出ました」
 暗がりで表情は、見えないが、声が沈んでいる。
 夜風に並んで晒されながら、子沢山の父は主観を交えない、大人の口調だ。礼式に則り、髪は短い。しっかりした骨格を見ていると、何人の子供をぶら下げられるだろうなどと考え、白起は僅かに頬を緩めた。どっしりとした態度。父とは、こういう感じだろうか。だとすれば昭襄王は兄に近い。
「きつく命令されていたのか、子供たちを縛り上げた魏の兵は飢えた眼で、わたしに襲いかかって来たのですよ。その勢いたるや、子供諸共、秦の兵を殺すような勢いで」
「いいよ、僕がやれば良かったかな」
「子供を護る仕事は、父にしかできませぬよ。結果――、そうそう。子供は元気でしてね」
 和ませようとしてくれているのか、子沢山の父は白起に様々な話をした。子供は七人、いつも誰かが騒ぎ、悪戯三昧で、何回食事が飛んでいったか。いつもは話に飽きるが、いつしか聞き入っている自分に気がつく。
「父か。僕には、遠い話だ。名前がないと不便。何て呼ばれてる?」
「では、瓏と」
 字を棒の切れ端でがりがりと地面に彫り込んだ。うん、と頷いて有り難く呼ばせてもらう決断をした。
「ろう、だね。分かった。王と龍の字を持っている? もしかして」
 秦では王と名乗れる人間は限られる。龍の字も同じ。偉そうな王稽ですら、龍の字は持っていない。
 話が本題に差し掛かったところで、兵に緊張が漲ったのを感じ、白起は鉢巻きを揺らし、一際高い岩に飛び乗った。月が頭上で輝いている。満月だ。
 ――来た! 狙い通り!
 両手を広げ、月を包み込んで、足場も危うい切り立った岩上で剣を翳した。
「騒ぐな! すぐに敵は来る! 大丈夫、夜に紛れてなら、討ち取れる! 作戦とは違うけど、大丈夫だ。僕がすべての責任を取る! 勝つんだよ! 全員で!」
 白起は言い終えると、飛び降りて(いて、足首を捻った!)と顔を顰め、狼狽しそうな兵たちに再び呼びかけた。
「すべての責任は僕にある! 尾頭付きの魚を、僕が振る舞おう」
 兵の間から忍び笑いが流れ始めた。庸拉が統制するため、一歩前に進み出た。
「昭襄王の元に! 殺すことを躊躇えば、死す。白武将がすべての責任を取るとの、力強い言葉。敵と思うならば、迷わず仕留めよ!」
 秦の甲冑を月光の中に光らせて、幾人もの秦の斗兵が夜の関城を取り囲み始めた。
 ――さァ来い。公孫喜。僕が斬った魏兵の犠牲、無駄にはしない。
「秦、白起軍! 陣を! 勿論、僕は先頭! さあ、みんな、行こう! 死ぬなよ! 全員で、昭襄王の元に帰るんだ!」
 馬を走らせた白起に、もう一頭の馬が並んだ。先ほど語り合った瓏だ。背が高いから、すぐに分かる。
 両手には大剣を握っているから、門番上がりなのかも知れない。馬を走らせながら、白起は唇をへの字に曲げた。
「死ぬつもりかい? 引っ込みな」
「死ぬつもりなど、毛頭ありませんよ。武勲を上げて、少しでも多くの魚を入手せねば。子供たちが大喧嘩をやらかしますよ。それに妻は独りでは生きていけん弱い女だ」
 言い終えるが早く、眼の前に大量の松明が見えた。
 韓軍かどうかは、分からない。だが、ぞっとする声と台詞は確かに、夜風が瓏と白起に届けてきた。
〝子供を全員殺せ。親はすべて秦が殺した。生きていても、仕方がなかろう〟
 聞いていた瓏の大剣を握る手が大きく震えている。
「白武将、お願いがございます!」
 馬上で大剣を振り回しながら、瓏は叫び、唇を噛み締めた。
「韓の大将は、俺に仕留めさせて貰えませんか! あの鈴なりになった子供たちが、どれだけ親を呼び、泣き叫んだかを叩き込んでやりたい! 俺は、あんな残虐な所業ができる奴らと同じ人間なんて、思えない。悪魔は消えねばなりませぬ」
「もちろんだ」と言いかけ、白起は少しだけ俯いた。
「白起! 顔を上げろ!」と庸拉の声が聞こえ慌てて顔を上げたが、首から吹き出す鮮血に、頭が白紙に染まった。
 ――公孫喜の首を、昭襄王さまが愉しみにしておられる。必ず、秦に連れ帰れ。
「白武将! 何卒!」と瓏の声が被った。瓏と白起は同じ考えを持つのだろう。
〝他人の死で、泣けるのね。なんと優しい子〟と母親の嬉しそうな声が白紙の世界に響く。真っ白だ。堕落てゆきそうに、白い。
 ――昭襄王さま。血が、血が流れた。僕は死ねない! 死ねないんだ!
 ぞっとするほどの寒気を背中に感じ、白起は刮目し、剣を振り上げた。
 無残に斬った魏の兵士たちが白起を見張っている。「あ、あぁ……」と喘ぎを洩らし、震える唇を強く引き締めた。
「うおおおおおおお! 僕は、負けられないんだ!」
 龍剣が何十回と宙で円を描いては、赤い飛沫を上げ続ける。ただ、ただ、眼の前の敵を斬り、答を探し求めた。あるはずがない、斬首の彼方に答など。
「わたしの話など、聞こえやしないのだな」と瓏が静かに剣を下ろす気配を背中に、白起は動きを止めた。
 眼の前には、まさに欲しい首がある。公孫喜は静かに馬に乗って、硝子のような瞳だけを動かしている。目的を眼の前にして、白起は兇刃を揮う動作を止めた。誰もが、動きを止めた。
「公孫喜の……首は……持ち帰る……捕虜にしろって……」
 楚王を逃がした事実が呼び起こした悲劇は、今や各地に飛び火している。
償えと、王稽は言った。
『どうだ、これが貴様の甘さだ。貴様は護ると言いつつ、火花を散らしただけだ』
 眼の前に現れた男は、余裕の笑みすら浮かべられず、頽れた兵の壁を見つめて、動かない。
 疲労度を現すような痩けた頬は、白起の思惑の正しさを訴えていた。食糧がなく、引き返してきた姿は明らかだ。
「なんと……兵が玩具の人形のようだな。いや、大鋸屑か。まあいい。食糧や武勲の確率が上がっただけの話」
 ニィと笑った瞬間、馬が一列になった秦の兵の間を駆け抜けた。
 ――速い!
 白起は腕を押さえた兵士を驚愕の眼で見つめ、突進してきた馬を慌てて避けた。公孫喜は、かなり強いらしく、馬上で剣の血飛沫を指で掬い取り、怒りを封じた瞳でまっすぐに白起を睨んでいた。
「子供百人程度、一人で処分するに充分」
 情のない言葉に背筋を震え上がらせて、白起はゆっくりと馬を向けた。
「子供たちは全員保護した。食糧だろう? 目的」
 なに? と公孫喜の動きが静止した。見透かしたかの如く白起が突きつけた剣先で、「さては、貴様か。悪戯しやがったのは」とこれ以上の憎しみを込められないほどの唸りに近い声音で、白起を罵倒した。
「殺人鬼が保護? ふん、よくも、そのような世迷い言。では、お前は何をした? その〝愛する子供たち〟の親を切り裂き、わたしを逃がした。男でもなく、父でもない。貴様は暴れ狂った悪鬼のクソガキだ」
 悪鬼の意味も字も、わからない。莫迦にされている雰囲気は分かった。范雎がこんな言い方をよくする。口調が嘲っているので分かる。
「公孫喜、あんたを秦に引き摺って行くのが役目だ。悪く、思うな」
 後で、瓏の諦めの吐息が聞こえる。
(ごめん、僕はやっぱり昭襄王を裏切れない)と振り切るように頭を振って、白起は剣を納めた。代わりに無数の剣を突きつけた秦の兵が公孫喜を囲み始める。
「勝負は決まった。生き残っている韓兵、どうか降伏せよ。全員捕獲!」
 逃げ出そうとした兵を秦兵が斬り殺し、或いは羽交い締めし、或いは馬上から落とし、馬を斬り捨て……関城の前は騒然となった。
 やがて夜が明けた風景は、無残さを物語っていた。夜には見えなかった血溜まりは赤黒く地を染め、倒れた人々の開いたままの目は、それでもまだ燻んではおらず、動かない瞳は最期になった朝陽を映している。動かない頬に小蟲が這った。
 夜が明けた暁光の中には、巨大な血溜まりが出現していた。一番に、光景に腰を抜かしたらしい公孫喜はすっかり疝気を喪失し、大人しくなった。秦兵たちもあまりの光景に足を竦ませた。夜でなければ、ここまではできなかった。夜は狂気だ。
 それほど、延々と関城と、美しい景色には惨殺死体が横たわっていた。
 第一の関城から、第五の関城まで、途中の木々にはまだ、人が吊されている。
「これは悪鬼の仕業か」
 誰もが言葉を失った中、白起は気丈にも、空を見上げていた。
 謝罪は口から出ない。それほどに、言葉余りある、最悪の風景だった。
                *
 公孫喜は眼の前に繰り広げられた戦いの爪痕を目の当たりにし、直後に無言で、ガクリと膝を折った。
「やれやれ。粋がっている男なんぞ、たかが知れているな。ほれ、立つんだよ」
 庸拉が厭味を投げつけても、微動だにしなかったが、やがてぽつりと「子供たちは」と聞いてきた。「答える必要はない!」と庸拉が一喝したが、しつこく食い下がった。
「お前には、秦で拷問が待っている。魏と韓については、不明な点が多いからな。王稽が待ちかねておるぞ」
 秦兵は白起に怯えながらも、後片付けをする者、逃げる算段をする者、黙々と秦への帰還準備を進める者。同じ朝陽に照らされながらも、行動は様々だ。
 立ち上がった公孫喜の足は、魏兵と韓兵、僅かだが死んだ秦兵の血に塗れている。黒い甲冑が時折ぎらっと鈍く光るが、それもやがて捨てられる運命だろう。
「子供たちは無事だと言ったな! 本当は違うのだろう! 本当は殺したから、答えないのだ。敵の子供を保護? 莫迦を言――」
「証拠が見たいか、白武将、しばし失礼を」
 瓏が踵を返し、大切そうに、汚れた篭手すら捨ててやがて小さなものを抱えて戻って来た。腕にいたのは乳飲み子だ。
「これでも、我が軍が子を殺したと?」
 だが、公孫喜は更に地に手をつけ、信じられない一言を吐いた。
「では、私の子は! 信は、無事なのだな!」
(わたしのこ? ――え?)
 一瞬、白起と、庸拉と、瓏は言葉を失い、一番に言葉を取り戻した瓏が声を震わせて、公孫喜を見下ろした。
「貴殿の子供が、あの中にいたと言うか! 何故、自分の子まで戦地に置いた!」
「貴様らには関係ない! この韓の公孫喜を、拷問? は、やすやすと情報など吐くか」
 両手両足を縛られた状態で、公孫喜は相変わらずの冷淡な表情。冷徹な武将の姿だ。
 涙を持てうる自制で封印し、微動だにしないが、泣けぬ眼が小さく震えている。
公孫喜は全身で泣いていた。それが伝わって、胸が締めつけられた。
「……子供が無事ってわかって、泣いてんだろ!」
 白起の一言は、光と一緒に山麓を駆け抜け、やがて小さく木霊になった。
「僕は父を知らないよ! 生まれも、故郷も! だけどな、人が泣いてることくらいは、わかるんだ! あんたの泣き方、大嫌いだ!」
 子供の言い分だ。わかっていても、白起は止めなかった。
 本音を聞けないまま、殺した楚王、労えないまま、死なせた母、巴。一晩中ずっと頭を撫でてくれた昭襄王に、光が透けて、一瞬だけ見えた自分に似た男の幻影。
 魏の霊山は死に繋がるという。だから、不思議はないけれど、あの後姿は――。
「命令だ。魏に置いておけば殺される。その代わり、必ずや勝って帰ると! 私は子供を犠牲にしても、勝たなければならなかった! 妻も子も、もう生きられぬ」
 両手は知らず、今度は両耳に移動していた。聞きたくない、そう強く思ったより早く。
 だが、公孫喜の声は鼓膜を劈くかの如く、轟く。
「だから貴様はクソガキだと言うのだ。ふ、ふふ、捕えた子供たちが親を思って叫んだ? 当たり前だろうが! 親を思わぬ子など、おらぬぞ! ふん、私はお前たちの手には」
 言いかけた公孫喜が前のめりに倒れた。白起が剣を振り、鞘に納めた。
 驚いた二人に笑って、髪を揺らす。血で濡れた髪は重く、揺れると血の臭いを撒き散らせた。
「秦に連れ帰る準備。あとは范雎たちに任せよう……」
 命令の言葉は震えていた。これ以上、公孫喜の声は訊きたくなかった。信じた光が砕け散るような、そんな気さえした。
 膝が折れた。
 ばしゃん、と幾人もの血溜まりの中に座り込む。まるで血は蛇になり、膝から昇って来そうに、生きている。朝陽に照らされ、暖かい。指先についた血は、ゆっくりと凝固し、引っ掻くと剥がれ落ちて、血の海に落ちた。
 庸拉は元門番の実力を如何なく発揮し、気絶した公孫喜を縛り上げ、荷台へと歩いて行った。また誰かが肩を叩き、動けない白起を促し始める。
 瓏だ。背中の大剣をしっかりと背負い、片腕で涙目の白起の腕を引いた。
「これで、作戦は違えど、王稽さまも満足されるでしょう。ちゃんと報告しておきますよ」
 ぼんやりと、風景を眺めた。動かない骸のほうが圧倒的に多く、猛獣の気配がする。
 違う、猛獣は僕だ。
 敵にも、味方にも、子供がいて、愛する親がいる。当たり前の事項を知らなかった。
 ――僕は、これから人を殺してゆけるのだろうか? 否、殺さないと。昭襄王さまが哀しむ。范雎に負ける、范雎に、負けるのは嫌だ――
 錯乱して剣を抜こうとした腕を、誰かがねじ上げた。
「失礼、どうしても、貴方を殺してはならぬとの命令ですので」
 鋭い拳が腹に叩き込まれた。強烈な吐き気と、空腹と疲労が一気に白起に押し寄せる。
 指先まで痛みが来るような、激しさだ。嘔吐を堪える合間に、眩暈がした。
 大柄の男の肩に担ぎ上げられた瞬間、風景が歪んだ。
 真っ黄色の葉が何百枚と落ち始める。暗がりでは分からなかった。大銀杏が何本も並列して栄えていた。秋が大量の終わった命の上に覆い被さる。
 季節が、流れる。二度と秋を見る機会のない骸たちの上にゆっくりと覆い被さっていく光景は涙を誘った。
 パチパチと音を立て、一気に落ちた銀杏の葉。ざあああと滝の如く命儚く散る銀杏。陽光の中輝くから、もっと黄色く見える。
 ――綺麗で、もの悲しい秋の終わりが其処にあった。
 なのに、何故か潔よくて、美しい。どうして、どうして。
(命は散ると、悲しい。なのに、花は散る時に美しいと、どうして思うのだろう? 同じ終わり、なのに)
 瓏が手を翳し、眼を細めた。銀杏の合間の太陽は今日も美しい。
「銀杏たちを脅かしたようですね。子供たちが見れば、大喜びするのだろうに」
(まるで、弔ってるみたいだ)と思いながら、腹の痛みに顔を顰めて、ぼんやりと浮かんだ背中を押す怒りを噛み締める。
 瞼を閉じる瞬間、もの言わぬ骸の一つと眼が合った。
 死ぬと、瞳は白く曇る。何も見えず、食べることも、笑うことも、ない。幾人もが二度と戻れぬ闇に堕ちていった。本来は、殺される必要などない人々だ。
(こんなのは、もう嫌だ! 嫌だ! 嫌だ――!)
 眼の端に、足を引きずった虎の姿が見えた。猛獣を越えた残虐な人間たちを、赤い憎悪の眼が睨んでいる――。
 ぼんやりとした視界には、龍の石碑が浮かび上がった。ここにも在る。行くところ、行くところ、見張られているみたいに。
 ――骨がある。石碑の前に、大量の惨殺死体が捧げられている如く。
 捕えられた公孫喜は散々な拷問の末、分解されて谷に捨てられたと聞いた。
                  *
 後にこの惨殺の正確な記録保持を目的とし、范雎に選ばれた数人が伊闕に派遣され、地を含めた綿密な調査が行われた。
 その結果、白起は魏・韓を破ったが、被害はおよそ二十四万人を殺戮した結果が明かになる。
 秦も、韓も、魏も、趙すらも、言葉を失った。様子を見に来た魏国は悪魔の所業だと、震え上がり、王が楚へ逃亡の末に惨殺、韓は自ずと自己崩壊の亡びの途を辿る。
 五城を落とした勢いのまま、昭襄王は翌年、魏の奪取を命じた。
 白起は魏に大軍を引き連れ、范雎の作戦に準じ、首都を水責め攻撃の末、孤立させた。
 関城含む城六十一の要塞・城を陥落させ、死人は僅かではあるが、魏はとうとう降伏の証に、宰相を差し出す流れになった。
 この時点では、まだ魏は滅んではいなかった。
 背景の後には、いよいよ、すべての糸を引く巨大軍事国の影が見え始める。
 魏は宰相を人質に、秦に献上する。憐れな宰相の名前は須寡。
 紀元前二九三年、白起十九歳、范雎、二十三歳、冬。もうじき小寒。白銀の季節を待たず、次なる戦乱は雪崩れる如く、秦に押し寄せようとしていた。

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