[縦書きPDF推奨]殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

簗瀬 美梨架

第五部 一縷の涙 64万の命を屠る愛

第五章 趙
 秦を遠く離れた趙国。一人の有能な武将が首を吊った。彼の名は趙櫃。全ての責任を取らされ、強要されたまま、首に縄をかけられた。
 代わって総大将になった趙活は、脳のない男だった。誰もが、趙の終焉を容易く想像できた。
 生母である趙太后、並びに妻靄姫こと靄后の懇願は一笑に伏され、趙はまた新たな歴史を進む。
 即ち、殷の領土から離脱し、建国に踏み切った田舎秦との領土大戦だ。
「当然、おまえも同行だ。靄姫、いや、我が后、靄后よ」
 靄姫の胸には、変わらずに碧玉が揺れていた――。
            1
 黄河の、古き水の匂い。砂混じりの夏風が、白起の頬を掠っては逃げてゆく。
 ――紀元前二七四年。初夏。節気で言えば、季夏にあたる。
 趙櫃が支配していた領土の衰退を知るなり、宰相・范雎は一転して白起を戦いに推挙し、黄河付近への閲兵を許可した。
 既に首都は陥落させたが、残党は魏の副都である華陽に集結していた。
「趙の前哨戦だ。魏を秦の領土に変えてからにしましょう。どこで繋がっているか分からない近隣の国を攻略し、領土を確保すれば、趙への遠征の危険も減ります」
 昭襄王は頷き、直ぐさま命令を、白起に飛ばしてきた、という流れである。
 魏と楚の境界、名のない砦の後に、雄大なる黄河が流れている。
秦軍は、黄河を背にして、陣を敷いていた。
            *
徒兵を従え、馬を進めていた白起は、黄河の川縁で馬を止めた。
「目的地だ。ああ、見事な景色」
 陽が少しずつ傾き、夏の夕映えが拡がっている。夏の空は発色しているのかと見紛みまごうほどに明るく、色づくように鮮明だ。
 遠景にしばし目を細めた後、白起は鉢巻きを口に銜え、額を覆った。
 お誂え向きに黄河の支流が流れている。今回の作戦の中心は、黄河。
 秦の軍師が叩き込んだ作戦は、水攻め。卑怯で名高い王稽からの魏兵を首都から追い出し、黄河に沈める無情の作戦。
 いい加減、ちまちました抗争は終わりにしなければならない。秦の兵も犠牲を払っている。昭襄王は直ちに白起に、進軍を指示、魏冉により秦の一軍の武将が集められた。
戦いを間近にするこの機だけは、武将と軍師が共に手を取る。
『良いか? 必ず将軍級は連れ帰れ。趙の間諜代わりの将軍がいるはずだ。趙櫃の手足となっていた将軍がな。俺は趙の将・賈偃であろうと思う』
 王稽の残像に釣られたのか、雲行きが怪しくなってきた。
白起は馬の手綱を引き、剣を勇ましく抜いた。
陽光がない中でも、白起の剣はまっすぐに、乱反射して、輝きは空に昇った。
「目指すは華陽! 捕獲するは趙の将・賈偃! 更に魏将、韓将、名前は忘れたけど、その辺りを全員ごっそり捕まえて帰る!」
「では、作戦通り。わたしは魏軍を叩きますので。黄河への誘導は、お任せを!」
 白起の振り上げた龍剣に、兵士が見惚れている中、頷いて、一人の武将が馬で軍を率いて走り出していった。
「頼むね、瓏将」と命を助けた後、出世した従順な瓏を見送って、白起は再び馬の手綱を引いた。
 瓏の軍と、白起の軍で、河に追い落とす陽動をする。
 ――さてと、こっちは、ぐるりと迂回だ。
(無駄な死は二度とごめんだ。韓の惨劇は二度と起こさない。この、龍剣に懸けて、正しく秦を護る)
「軍を二つにして、西の軍は華陽から逃げ出した軍を黄河に追い落とす! 東は瓏の加勢に残すよ!」
「武安君、聞いておきたいのだが」
 武安君とは、此度宮廷から命じられた将軍の位であり、白起の別名だ。
(なんで、どうでもいい武勲の名で呼ぶか)と思いつつ、振り向くと、庸拉だった。
 門番のくせに、規律にうるさく、いちいち細かい男だ。巨軀とまるでそぐわない。
「随分と早い号令だったと思ってな」
「兵を引かせる」と空を睨みながら、白起は呟き、手を翳した。
「こんな風に、生暖かくて重苦しい春風の後には、大抵の場合、甘露の雨が降る。甘露だと思って舐めていると、大雨になる。それも、すぐに止んでしまうから、引き返す時間は無駄になる」
「空が読めるとは、仙人の子みたいだな」と庸拉はからかい、東の軍を纏めると離脱して走って行った。
 空が読めるわけじゃない。母の声が聞こえるだけだ。母は、幼少時に空を見て〝白起、遊んでないで来なさい。雨が来るよ〟と、よく教えてくれた。
 空はすべて覚えている。茜色の光が雲の後に隠れている時は、穏やかな風、暈を被っている時は、嵐の予兆、雲一つない夏空は油断できない。
動きやすい春の宵に、よく旅をしたものだった。そのせいか、母さまは空にいるような気がしてならない。
 ――僕が死んだら、空で逢える。だから、僕は一人じゃない。
 いつしか、そんな夢を抱くようになった。だから困った時には、空を見ればいい。空は、すべての人間の上に、必ず拡がってるのだから――。
「さて、では、敵さんおよそ二万を、黄河に沈めるとしようか」
               *
 甘露の雨は一時的に激しくなったが、すぐに通り過ぎ、橙の空に潤いを与え、新緑に活気を置いて、雨雲も消えて行った。
 馬を走らせ、広陵に差し掛かる手前。煙が上がっている情景を目にした。
(瓏、焼き討ちに出たか)と燃える副都をただ、見つめる。瓏のことだから、多分、山火をつけ、脅しを懸けたのだろう。
 念を入れて、山脈の高台に兵を集め、白起は呟いた。
「いつ見ても、嫌だねぇ、総崩れか」
 頽れた兵の山からは瓏の軍がよく見える。だが、あと一押し、最後はいつも、白起が出てゆく必要がある。
 ――優しい瓏は、青年や少年を斬首できないからだ。戦いは、首を捕る行為にこそ意義がある。
 敵を圧倒させるには、惨殺が必要。向かってくる以上は、いつか秦の敵になる。だから昭襄王は言う。
 ――刃向かうものには容赦せぬ、と。正しい理屈だ。そのくらいは、理解できる。
 ふと、眼の前で秦軍が押され始めた。
「武安君、そろそろ、行かれますか」
 白起は龍剣を握り、ゲン担ぎの鉢巻きを揺らすと、唇を強く噛んだ。
 一気に苛ついて言い返した。誰が武安君だ。知るか、そんな名前! 僕には、母から貰った名前がある。
「その名前で、僕を、呼ぶな! ほらほらほらほら斬られたくないなら、どけえっ!」
 猛速の馬上で、白起の掲げる剣に夕日が跳ね返った。
 崩れかけた本軍が、子供の如く元気な白起の姿で士気を取り戻し、瓏の号令で、秦軍は一気に布陣を立て直し、畳み掛け、敵を黄河の湾流まで圧してゆく。
 片足を黄河に浸し、それでも、剣を手放さない。
(どうして、この兵たちは戦うのだろう?)
 向かって来なければいい。秦に仇さぬなら、相手にしない。だが、魏兵二万は、最後の力を振り絞って、魏として戦いを挑んで来た。
 それが隣国の趙の命令ではあっても、己で、考え、逃げる選択肢
――逃げろ、殺してしまうから! 死にたくないなら、逃げていい!
 いつもいつも、剣を構えて強く願う。秦に刃向かうな、逃げろ、僕の前などに来るな、と。愚問だ。だから、白起も全力でゆくしかない。
 故郷を護りたい一心だ。しかし、白起にも譲れないものはある! 大切なものを互いに鬩ぎ合う、戦いは終わらない。結果、またもや命令違反の殺戮をせざるを得なくなる。
「なんで、負けるのわかってて、弱いのに戦う!」
 涙混じりの咆吼だと、自分で分かった。甘いと思う。〝すべてを、護りたい、なんて〟
 涙の零れた頬をぐいと擦って、唇を噛んだ。
 剣を抜いて、刃を返す。
敵に向かって馬を進め、勢い任せに飛び込んで、上空から剣を振り下ろした! 上がる血飛沫を見た敵は居竦み、烏合の衆になって逃げ惑う。逃げる一人を捕まえて、河に突き飛ばして馬に再び飛び乗った。
「秦軍、一気に黄河まで進むんだ! 敵を全員、黄河へ落とせ!」
 いつもの大暴れの結果。十三万人の斬首、二万人を黄河へ撃沈させる事態になった。また、軍師たちに囲まれての説教だと思うと、嫌気が差してきた。
                  *
 大量の人間を呑み込み、沈みゆく黄河は水面を一時的に大きく震わせたが、やがて静寂を取り戻し、蜻蛉の如く命を映しては、波を寄せ返した。
 雄大な姿を取り戻した黄河には、乱れ一つ見当たらない。
 大量の兵の残骸が、黄河に揺蕩っている。見れば秦の兵の篭手も揺らされて、流されてゆく光景が見て取れた。
 ――犠牲は、お互いさまだったな……。
 水底に、ゆらゆらと影が揺れる。
 一人で夕焼け染まる黄河の支流を見つめていると、また滴が滴り落ちる。
 水辺にいた蛙に当たって、眼の前をびょいんと逃げて行った蛙を目で追いかけた。無言で、浅瀬の土を握る。
 敷き詰められた黒い砂礫。鉄分が沈んでいるかと見紛うような、黒い石は黒土の源だ。
 ゆるやかな風と、茜色にうっすら、まだ青が残る時間。白い一筋の光を最後に、今日も一日が終わる、こんな落陽の光景、何度ぐらい見ただろう?
(あ、瓏)
 見慣れた背中が斜陽を浴びて、現れた。二人の兵士を抱え、瓏は唇を噛んでいる。無言で見ている白起に気づき、僅かに微笑み、瓏は青年を黄河にそっと下ろした。
 二人の青年は水流に流され、黄河高原までも運ばれてゆくだろう。
 まだ息があった。瓏の話だ。止めをさせず、自然に任せる決断をしたに違いない。少し、羨ましい。
(僕は悪鬼だ。秦のためなら、首を落とす残虐も厭わない)
 天龍のような黒雲が黄河の上に流れていた。
白起と、瓏。どちらが正しいのか、問い質したくなる。答は貰えないだろうけれど。
「生けとし生ける者が、生まれ死に行く黄河で、眠れる彼らは幸福なのでしょうね」
 ゆっくりと波紋を納めてゆく水面。聳えた山麓は悠か遠く、水萌に影を落とし、夕日は山の輪郭を壊しながら、沈んでゆく。
 海に陽が潜る光景は、山麓が多く、平地の秦では決して見られない。
秦兵は皆、夕日の美に息を呑んでいる。潜る陽は溶けて、水面を銀色に魅せる。
 天界の海は、きっとこんな風景だ。それほど、黄河の陽入りは美しかった。
 戦いの大気が落ち着くと、夜の静寂となる。橙の空にも、うっすらと紫が混じり始めた。
 静かに、時間は変わらずに殺戮の地を流してゆく。
「幸せで、あるといいね。僕が言うのもなんだけど。――秦へ戻ろう。捕虜を纏めて」
 広大な河は、無残にも強く戦った死者を、優しく包み、また歩き出させてくれるだろう。
「捕虜として、将軍三名を捕えました。後は宮廷に任せましょう。我らの責務は終わったのです」
「そうだね」と返答して、白起はもう一度、黄河を見つめた。
 ――ごめん。
 届かない謝罪の声は、ただ河に吸い込まれてゆく。瓏が耐えきれずに声を掛けた。
「何故、人を斬れるのですか」と。
 ――護るため、作るため、自分の居場所を、護る、ため――。
 ずっと心に問い掛けている。〝僕のいるべき場所は、どこ?〟誰かがいつか、答えてくれるのだろうかと、白起は涙で滲む月を見上げる。
 大きな河の上空にある月は、小さく見えた。
 真夏の黄河の夜は、すぐそこまで来ていた。
              3
 更に時は過ぎ、白起は、またしても韓の陘城を攻めて五城を落とし、五万人を斬首して戻って来たとの知らせが范雎の元に、冬風と共に舞い込んだ。
 命令違反の連続。王稽や軍師の徹夜を、見事に水の泡に返してくれたわけだ。
 こうなると、説教の時間が無駄な気がする。まァ、憎き魏を潰した礼は置いておいて。
 血をつけて帰る姿は後宮の貴妃たちを憧れを通り越し、畏怖させる。いい加減、止めさせなければと范雎は昭襄王を窺った。
 以前のように、白起を褒め称える言動は減り、昭襄王の信頼は、もはや揺らがない。今なら、聞き入れて貰えるだろう――。
 証拠の一つが、范雎の住まいが、王稽の宮から、皇宮に移った現状だ。何一つ外さない作戦、絶妙な話術、独学でも、しっかりと裏打ちされ、洗練した知識。更に厚い信仰心と揺るがぬ服従心。武器は、これでもまだ足りない。
 昭襄王は決して、聖人君子のような素晴らしい王ではない。時折、他言できないような奔放さを発揮する。
 以前も思ったが、白起に似ている。もしや、白起が昭襄王の真似をしているのでは、と思うくらいに。何もかもを黙って従う范雎に絶大な信頼を寄せた理由は、戦略ではなく、この辛抱強さにある。
 眼の前に貴妃を連れ込むが、いい証明だろう。
 更に、言うも情けないが、貴妃の一人の宝麟が范雎を気に入り、後押しした背景がある。
 昭襄王は、第三者に至極弱い性質だ。
 融けかけた雪が雨上がりの夜露に濡れて、月明かりに輝いている。本格的な冬風が温石を置いた膝にまで、押し寄せる。
 極寒の節気が訪れている。春はまだ、遠くて近いようだと、小さく芽吹いた蕗の薹を見つめた。渭水も凍り付いて、白い靄を醸し出しているだろう。
「武将というものは、時に恐ろしいものですね。呪いも裸足で逃げ出す残虐さだ」
 読みかけの書簡を閉じ、昭襄王は顔を上げた。
 しかし、歳を取らない。もう十年も見ているが、変わらず姉妹貴妃を愛で、剣を握る王に衰えは見られない。それどころか、年齢を重ねた威厳が備わり、更に強く逞しく見える。
 楚王に懐いていた天鼠を膝に止め、昭襄王はふっと笑った。
「時に宰相よ。魏の使者の須寡は逃げたあと、どうなった?」
「は。その後、趙にて発見、鄭安平が手を下したかと。しかし、わたしには解せぬ話があるのですが。お聞き願えますか?」
 王蜘蛛は、常に獲物を探している。范雎の脳裏には一つの言葉が浮かんでいた。
 ――魏冉。白起を手助けし、我が主王稽の邪魔を為す、幹部軍師だ。国勢では、国庫を扱う手前、武将たちの信頼も厚く、白起の飼い主でもある。
 覆面で顔を覆い、美麗な瞳をいつもぎらつかせて、機を窺っている。
(そろそろ、邪魔だ)と思っていたところで、鄭安平が面白い情報を掴んできた。
 魏冉の行動に、不可解な点がある。
 宰相まで昇り詰めたが、降格になった男だ。魏冉は我が王稽さまの対極にある。常に情報は探っていた。
「まあ、なあに? ボクちゃん宰相」と范雎の前で、しなだれかかった宝麟が身を乗り出した。范雎が「ボク」と自称していたところから、「ボクちゃん宰相」などと莫迦にする。
 昭襄王の愛器と敢えて言う。でなければ、とっくに策略を張り巡らせ、自分の蜘蛛の巣に放り込んで喰ってしまうところだ。
 それに、可愛い女より、好みは雌のような――どうでもいいかと思考を停止した。
「須寡を手引きした疑いがございます。常々、思っておりましたが、秦には頭が多すぎるかと」
 後宮には、普段であれば控える王の取り巻きが、一人もいない。狙った通りの時間だ。
「ふうん? あたしは昭襄王さまがいれば平気だと思うけど? そういう話かしら? ぼくちゃん宰相」
 范雎は唇を曲げ、慇懃無礼に忠告した。
「愚弄されては、せっかくの策も話す気が失せます。ここは、お静まり遊ばしますよう」
 まああ! と貴妃・宝麟が目くじらを立てた。ところが、昭襄王は頷いて、手を貴妃の足に伸ばしている。
 荒淫で鎮めようと言うのか? それとも単なる手遊びのつもりか。
(あ、そういう意味ではなく)と思ったが、まあ、多少の喘ぎくらい、侮辱に比べれば、ましと言うものだろう。范雎は話を再開させた。
「王は秦でどう在りたいとお望みですか? 皆で楽しく政治は動かせませぬ。わたしは、過去に蜘蛛を見ていた時期がございました。蜘蛛ですら、王を必要とし、服従の意志がありました。生き残りを懸けた死闘など、軍師には無意味でございます」
「ほう」と、目が受け入れの体勢になった。こうなれば、後は流れるように、会話は進む。
「わたしは、王の絶対的な信頼を得てございます。王は分かっておられるのだ。私は、貴方を裏切らない。其の点は、白武将も同義でしょう」
 なるべく驚愕させる語彙を選び、范雎は小さく息を吸うと、眼力を強くした。
「穣候・魏冉の一派を排除すべきと申し上げます。太后、穣候、平原、紫蘇……。彼らは武将を使い、侵略を試みた古式の王族。今は、まだいい。しかし、武力を得た白起以外の兵を囲えば、王権は自ずと危険に晒されましょう。実際に、王稽はわたしに報いをと訴えておられました」
 眼の前では、貴妃が涙目で縋っている。軽蔑を悟られないよう、静かに視線を注ぎ続ける。
 脳裏に、蜘蛛の巣に引っかかった蜻蛉の光景が浮かんだ。蜻蛉は大きな羽を動かし、羽を背に並べられない状況を幸いと、蜘蛛の巣を潜り、強靱な六つの足で、糸を引き千切って上手く逃げていく。
 そう、王稽は昭襄王に危害を加えないだろう。殷の末裔であるがゆえの自尊心と、死した仲間への揺るがない矜恃があるからだ。
 その上、殷の呪いの詳細も、使用方法も分かっている。得体が知れないが、歴とした決意を抱えている以上、愚かな行為に走るはずがない。
「彼の魏にて、恩義がございますゆえ。王稽を河東の長に任命したく考えております。更に、鄭安平を推挙して秦の将軍に。鄭安平は殺しの玄人ですから、悪いようにはならぬでしょう」
 落ち着きを取り戻した宝麟が、また口を挟んできた。
「莫迦な話よ、昭襄王さま。この人、貴方があげた財産、ぜーんぶ使ってしまったの」
「当然でしょう? 助けてくれた人に礼をして回っただけです。今の私は睨まれても、ありがとうと言えますよ。人の財産の在処を探るなんて、貴妃として、どうなんですかね」
 宝麟が泣きそうになった。だが、こんな男に惚れるなとの意で冷たく言い返した。
宝麟は昭襄王の寵姫だ。何があろうと、突き放さねばならない。
 好意が分からないほど莫迦ではない。あいにく、妃嬪の手に堕ちるような暇はない。
「王稽は危険な殷の呪いの処置も、処刑も引き受けておられる。だが、殷の呪いの事実を、魏冉が知れば、充分に脅しになるのです」
「お前は古き者を排除せよと、言うのだな。つまりは、武力を廃せと」
「ついでに言えば、もはや白起も不要でしょう。趙を倒せば、武力の必要はなくなる。武器を持つ時代は終わらせなければ」
 軽い攻撃だ。
(これで、昭襄王のお考えが分かるだろう)范雎は息を潜めて静かに待った。
 相変わらず指先で遊ばれる貴妃の喘ぎが耳につく。
 ――なんと、なまめかしい。
庭を遠く流れる水音。雪が降り出しそうな空の匂い。温石の冷める速度。
 どこを取っても、時間は長く感じられた。火時計の火はずっと小さくなった気がするが、背中の汗は冬場であるにも拘わらず、ゆっくりと降りて行った。
「范雎さま、寂しそうですわ。うふふ、白起が構ってくださらないから?」
 無邪気な宝麟の声が響く中、(ここまでか)と立ち上がった。むろん、莫迦げた女の質問に答える義理はない。
「趙の大戦を最後に、白起には舞台を降りて貰うつもりです」
 范雎は言い残し、唇を噛んだ。
 無駄な時間は過ごしたくない。王は、未だ決断できずにいる。まだ心には白起が棲んでいるのだろう。
「もしかすると、白起は趙と繋がりがあるやも」
「それは、ないな」
「言い切れますか? では、貴方は何処から白起を連れだしました? どうして、母親は趙で死んだのでしょうか。良いですね。私の心は常に秦とあります。魏冉一派の排除を」
 無言は、肯定だった。
 ――実験、終了。
 どうやら、魏冉を消し、回りから殺いでゆくのが一番らしい。
 ――途中、姉の貴妃にばったりと出くわした。
そういえば昭襄王は宝麟ばかりといる場面を目撃する。昭襄王の愛の天秤もまた、ゆっくりと均衡を崩し始めている。
「妹と言えど、憎らしい女よ」と華耀が呟く。大人の女性らしい細腰宮は見事だ。
 ぺこりと頭を下げて通り過ぎたところで「もし」と声を掛けられ、范雎は足を止めた。
 面倒な貴妃の争いに巻き込まれてやる理由は、微塵もない。
 だが、華耀は范雎の息が止まるほどの台詞を言ってのけた。
「范雎は、白起が憎いのかえ? 男同士でも、かような感情があるとはの。妾が協力してやっても良いぞ」
 前半は図星だ。范雎は言い放った唇を見つめた。策謀の匂いを嗅ぎ取って、足を向ける。
 迎え撃つように、華耀は細い足を揃え、手にした衣を恰も天女の羽衣のように翻して嘲笑って見せた。
 やはり、大人の色香は嫌いではない。
「まあ、そなたの頭脳であれば、女は不要か? そうではないぞ。女には女にしかできぬ智弁があるわ」
 嫋やかな黒髪が、雪に映える。夜の貴妃は王の訪れに期待して、髪を下ろし、寒さに震えながら、ぬくもりを待つしかない。
 散々待ったあげく、王が今夜はどこで過ごすかを感じ取り、失望して、温石を取りに来たのだろう。自身を慰めるしかないであろう細い指が、范雎に伸びた。
「ああ、そうだ。私は白起が大嫌いだ、華耀。ついでに、貴女の妹もね」
「ほう、妾と同じよな。そなたとは楽しく〝仕事〟ができそうじゃ」
 宰相の身分であれば、貴妃よりも爵位は上に当たる。いい手駒を見つけたと、范雎は顔に出さず、優位を噛み締めた。
 華耀は必死になるだろう。王の寵愛が妹に向いて、更に白起への王の贔屓は揺らがないからだ。
「女には、女にしかできぬ智弁がある? 是非とも聞かせてもらおうじゃないか。華耀」
 雪が深々と降り、魂までも冷やすような、そんな冬の夜。
高く昇った月は暈を被り、手の届かぬ高さで、本心を隠して淡く太陽の光を浴びていた。
 華耀が切なげに睫を震わせている。屈辱で目元のひくつきは止まらず、涙を堪えている肩だけが時折ふっと微動した。
 ――次は、魏冉。やがては白起。白起は間もなく趙へ向かうだろう。武将として最期の舞台へと昇り、躍るがいい。
 その前に、一つ、いや、二つの餞別をくれてやろう。
 一つは――。
「穣候・魏冉に謀反の疑いがある。華耀、貴女に魏冉の処刑を伝えて欲しいのだが」
 華耀は驚いたようだが、「誰にじゃ?」と気品ある口元を、ゆっくりと緩めてみせた。
「飼い主の恥を雪ぐは、子飼いですよ」
「白武将に妾が伝えよと? ますます妾は昭襄王に疎ましがられる。だが、宰相、お前を信じ、行動しよう。妾にはもう時間も、猶予もない」
 かり、と綺麗な指先を齧っている。
 見れば、殆どの指は爪が減って血が滲む無残な姿だった。王の傍で愛され続ける妹への憎悪が噴き出している状況は一目瞭然だ。その部分だけでも常軌を逸している。
 ――私も女であれば、爪を噛むのだろうか? で、あれば男で良かった。
「では、二つ目は、我が主に動いてもらうとしますか。本物の呪いをかけてやろう」
 范雎の脳裏で王蜘蛛がゆっくりと舌舐めずりをし、次の獲物へと蠢き出した。
(羞恥を悦び、肉体までも欲求を離さない貴妃の姿よりも、本来の王を見捨て、肩に止まり続ける天鼠よりも忌々しい。白起、お前を本気で憎む日が間もなく、来るだろう)
 華耀と正反対の方向に歩く范雎に、諸々の人間が頭を垂れて、動作を止める。通り過ぎても、彼らは頭を上げず、足音が遠くなるまで、背中を曲げて微動だにしない。
 見よ、権力は確実に手にしている。勿論、負ける気など、当初から微塵もなかった――。
                 *
 冬の夜は、少しやるせない。
 白起は、ぼんやりと月を瞳に映していた。
「また、やりおったな」と魏冉が笑い混じりに告げるが、笑い事ではない。
 ウンザリするほどのお叱りを受け、その上、龍剣を取り上げられた。白起はげっそりとした表情で、魏冉を睨んだが、無言だった。
「そうとう、絞られたと見える。こういう時は、たんと美味いものを喰い、英気を養うが良い。準備が整うまで、ゆるりとしておれ」
「そういうわけにも行かない」
 白起は庭に積もった白銀の山を飴色の瞳に映し、魏冉に向かずに問うた。
「趙に、秦は勝てない、そんな気がする。僕は魏と韓と、戦って、恐かったよ」
「興味深い話じゃのう」と魏冉が酒の入った爵を片手に、やって来た。
 ――本当の話だ。
 きっかけは、秦に戻りゆく途中の、瓏との会話だった。
『魏韓の兵には、もはや王はいない。それでも、趙は支配していた。公孫喜も、思えば何か弱みを握られていたのだろう。趙の恐ろしさは、精神を絡め取る恐怖政治だ、白武将』
 魏冉は瓏の言葉を白起から聞くなり、真摯な表情になった。
「秦にも弱みばかりを探る、暇そうな、はぐれ狼がおるのう。儂もそろそろ潮時じゃ」
「いやだよ 僕が許さない!」思わず本音が飛び出して、白起は少し俯く。
 魏冉の口調はいつしか真剣になった。
「秦は常に殷の呪いに怯えておる。水が飲めなくなる奇病じゃ。罹患した者は粘膜が痺れ、水はおろか、音、光、感触すべての支障を来す。最期には己の声すら拒んで、狂死する。殷の呪いとは、皆を怯えさせぬための詭弁じゃよ」
 両足を広げ、胡座を掻いた状態で、魏冉は爵を呷り、青銅の味がすると顔を顰めた。
「恐いね」と思ったまま口にしてみる。
 呪いの恐怖は、そのまま王稽に感じる恐怖に近い。そういえば、魏冉さまは王稽が見せた、あの死体の泉を、ご存じだろうか。
 王稽の態度は、明かに違っていた。家族がいるからと微笑んだ表情は、処刑人には相応しくない。では王稽さまは、どうして僕に見せた。魏冉に言いつけると思わなかった?
 言わないと、わかって、いた……?。
「話を聞けぃ」との視線に気がつく。どうしても気が散るところは、死んでも変わらないのだろう。
 白起はご機嫌取りのつもりで、爵を手にした。酒は不味い。白湯が飲みたくなった。暖かくはなったが、また、すぐに冷える。それでも冬は、一番好きな季節だ。
「殷王朝は〝手中にするに手段は問わず〟。王稽を見とれば、自ずとわかろう。趙の連中にも立派な悪鬼の血が流れておるのだろうて。まあ、いずれ真実は分かるじゃろ。このまま捨ておけんわ」
 喋りながらも、流暢な手つきで、竹簡に素早く文字を彫り込んでいる。軍師たちはみな優秀で、思慮深い。
(でも、魏冉って、軍師か?)と、しっかりと覆面で覆ったままの表情を読み取ろうと睨んでみる。
 見え隠れする覇気は、およそ軍師にはそぐわない。願えば一緒に戦ってくれるのだろうか。さすがに、大国の趙への戦いには、腰が引けてしまう。
 子供心に圧倒された、あの迫力は、秦にはない。
そう思う自分が裏切り者のような気がして、とても嫌だ。
 ――言ってみようか、趙に一緒に戦いに行こうと。笑われるかな。
「なんじゃ。人をじろじろと見やりおって。完成じゃ」
 魏冉は広げた竹簡を器用に畳み、麻紐で縛って「ほら」と白起に差し出した。
「おまえの、趙への支度の指示書じゃ。兵は八十万で良かろ」
 白起の不安を吹き飛ばす、眼も眩むような数の準備や、規模。――八十万? そうまでして、趙を潰す理由は、なんだろう。
「足りなければ、韓の兵を屈服させて連れゆくのも良いぞ。その他、兵器、武器、甲冑、食糧、荷台、水樽、馬。すべて記してある。宰相どのの許可は下りるじゃろ。文句を言われたら「おまえが戦いに行け!」と言ってやれ。物資を揃えるが、軍師の仕事じゃろ! とな」
 刮目してそのまま視線を落とした前で、また、くいと爵を呷り、覆面を丁寧に下ろす。爵を呷る度に、僅かに唇が見えた。とても綺麗な色をしている。
 視線が合った。
「儂の素顔が見たいと、いつぞやに、そなた言うたな。――見たいか?」
 何も言えず、魏冉を見つめた。魏冉の瞳は小さく瞬いて、光を封じ込めたかの如く、鈍く光っている。
 あまりに息を止めすぎて、苦しくなって、ようやく口を緩めた。
「ううん。趙から無事に帰ったらでいいよ」
 なんとなく、遺言のような気がして、白起は首を振る。聞いたら魏冉が消える気がして、再度「無事に帰ったあとで!」と強く繰り返した。
              *
 竹簡を抱いて、自室に引き上げる。
魏や、韓の戦いとなんら変わらないはずだが、白起は不安に苛まれていた。
 勿論、理由は数多、思い当たるフシがある。
 魏冉の館の門番が増えた現状、殷の呪いを避ける名目で燃やされる奴隷の臭い。まだ腐臭はないものの、常に付き纏う死の世界の雰囲気。今度の敵国の強大さ。
「殷は、こんなものじゃないがな」と厭味を王稽から投げつけられたが、陰気くさくて気が狂う。人を殺して平穏を続けたような呪術国家なんて、ごめんだ。吐き気がする。
 ――腰抜け。相変わらず。
 竹簡の彼方から少女の声がする。思い出した理由は、あの少女と出会った場所が趙だからだろう。趙は、母親が死した場所でもある。
 なるほど、自然と死が見える状況も、理解できる。
「無事に帰って来られるだろうか」
 弱気な呟きは、夜空に消えた。
 夜は嫌いだ。母の気配がない。早く、朝が来ればいい。雪の積もった夜は、どことなく重苦しい。
 小間使いの少年を軽く追いやると、白起は、どさりと寝台代わりに積み上げた台座に横になった。石版だが、このくらいの堅さが、ちょうどいい。
 温石が置いてあったが、ひとときのぬくもりは要らない。故郷をなくした故郷喪失者の心を、たかが石で温められるものか。
 暖まったと思えば、一気に冷える。自分で摩擦して、少しだけ躯を温めた。明日には龍剣を返して貰わないと……涙を浮かべたまま、夢に墜ちた――。
              *
王稽の蜻蛉が飛び回っている。簪の蜻蛉は、魏冉の首を貫き、真っ赤に染まって、白起の手に堕ちた。
〝お前が儂を殺した。それでいいんだ〟と魏冉は、いつものように笑っていた――。
              4
「負けた振りができるか」
 とこれまた奇妙な言葉が王稽から飛んだ。
 翌日。
 夢のせいか、頭の簪が飛んでいきそうな気がして、じっとその瞬間を見たりする。「なんだ」と睨まれて、白起は指で頭を突いた。
「俺の簪が欲しいならやる。おまえどこまで聞いていた」
 王稽は苛ついて簪を外して、袖に仕舞った。きつく上げていたらしく、輪郭を覆うほどの前髪と脇の髪が耳の前で揺れている。
 剥き出しだった男の輪郭を隠してしまえば、王稽の迫力は半減した。細い髪質のせいか、優しい印象。白起は唇を曲げてみせる。
「蜻蛉つけてていい。見慣れない」
「我が侭小僧」と厭味を吐き出して、王稽は器用にまた簪で蜻蛉を作る。全部で三本。組み合わさって、見事に蜻蛉になったところで、鄭安平が顔を出した。
「王稽、こっちの準備は整った。明日にでも、白武将を連れてゆくぞ」
「ご苦労。では王にそのように、あと、宰相にも」
と王稽は鄭安平に合図し、鄭安平はすぐに姿を消した。(あ)と白起は場を立ち上がった。
 鄭安平が一緒に来るのだろうか? なんて心強い。
「白起」と短く冷淡な声が呼び止め、眼の前に冷水が降った。瞠目し過ぎて、瞼が痛い。目元を押さえる白起を冷酷な寒波にも似た口調が襲う。
 柄杓を手で弾ませ、王稽はせせら笑って続けた。
「言ったろう。水に漬けても眠らせぬ、とな。ついでに」
 言葉を待っていたかの如く、屈強な兵がずらりと庭に現れ、逃げる手段はないと訴えてきた。
 がくりと座り込む白起に向かって、王稽はゆったりと「では再開しよう」と虐げる微笑みさえ携えて白起を睨んだ。
              *
 ――負けるが勝ちだ。趙活の弱点は――、こちらも支援に移る――。
 詰め込みすぎた頭から、色々な言葉が零れていく。白起が解放された刻には、夜はどっぷりと更けてしまっていた。
 途中で居眠りして、冷水をぶっかけられた髪は、僅かに凍っているし、肩が冷えて、やたら寒い。ぶるぶると頭を振りながら歩いていたせいで、人にぶつかった。
 柔らかい肌が冷気にぶるりと震えている。
「随分と濡れておるな、白武将」
 華耀だ。後宮の女は、冬場でも、胸元を開けた服を好む。開いた胸元の谷間に、白起の濡れた髪の滴が滴り落ちた。華耀が長い袖で、白起の髪を拭き始める。
「居眠りする度に冷水だ。昭襄王は何処にいる?」
「さてな」と寂しそうな声が降った。
「妾には、もう昭襄王は振り向かぬ。拝顔すら、しておらんよ」
 ふふ、と笑った顔は何処か寂しそうで、白起はやりきれなさと、目のやり場に困って、視線を逸らせた。
「昭襄王さまを探さないと。あと、范雎」
「范雎なら、皇宮の書斎に詰めておる。そなたの出立の最終調整の竹簡を睨んでおるわ。そうそう、白武将。范雎からの伝言だが」
 嫌な予感がした。
「僕に命令できるのは、昭襄王」
「穣候・魏冉の処刑」
 声が被って、辛うじて聞き取れた言葉を繰り返す。――穣候・魏冉の処刑?
「子飼いであるそなたが、手を下す。宰相どのは随分とお優しい。穣候は魏の須寡を逃がした疑いがあるそうじゃ。元々〝魏〟の名を持っておる。王稽や范雎はずっと疑っていたようだ」
 美しい髪を肩まで下ろし、猛禽類の瞳をして、華耀は続けた。
「顔を見せぬ男なぞ、美醜に気付かぬ鈍感将軍より更に問題外じゃ。既に王は穣候の処刑を……白起?」
 華耀を一瞬で背にした。
 竹簡を山にして運ぶ皇宮事務を突き飛ばし、派手に散らばった竹簡を走り跨ぎ、後宮と皇宮の境目の前で、剣を――
(そうだった! 剣は、范雎が持っている!)
 唇を噛んで見渡すと、月光に輝く青竹がある。冬でも、しっかりと生えている竹を足で蹴り飛ばして、肩に構えた。
 垣根代わりの竹林をぶった切って、後宮の庭に出た。服と頬を擦り剥いた。
 竹の倒れた音を聞きつけて、寝間姿にモケモケを羽織った昭襄王が姿を見せた。
「白起――。お前は三十路になっても、行動は変わらずか」
「魏冉を処刑するって、何ですか?!」
 間髪を入れず聞き返して、睨んだ。
「魏冉さまは僕の主だ! 勝手な判断は僕が許さない!」
「魏冉を殺されたくないのか」
「当たり前だ!」と噛みつくように言い返して、白起は手をついた。積もった雪にずぼっと手を突っ込んで、前のめりになった。
「何をやってるんだ、莫迦め」と昭襄王の腕が白起を引き上げる。至近距離で、白起は唇を震わせた。
 昭襄王の落ち着いた瞳の前でなら、願える。本音から、訴えた。
「もう、僕の大切なものを奪うな」
「魏冉が?」
 短い会話が交わされて流れる。
「趙の戦いに勝って帰るから! だから、処刑を取り消して欲しい」
 泣きつきながら、昭襄王はきっと頷くだろうと算段して、なるべく素直に泣いて訴えてみる。
 大丈夫、昭襄王さまはすぐに言うんだ。〝わかったよ、白起〟と――。
 だが、出て来た言葉は大きな裏切りにも似て、白起を揺らがせた。
「あやつは俺の秦を潰す害虫だ。だから、先に手を打つ必要がある。楚王の時も、気付くべきだった。お前が騒ぐから、見逃していたわ。范雎が知らせなければ気付かず、俺は害虫を抱え続けた」
 躯が冷えた理由は、王稽に掛けられた水のせいではなかった。
 ――昭襄王、僕のいうことを聞き入れてくれなかった……遠い、遠くなってゆく。
(あなたが、僕を裏切るなんて、駄目だ! 僕は人を殺せなくなる!)
 頭が働かない。白起は唇を噛み、ようやく昭襄王に笑いかけた。笑って、先ほどの言葉は無かったのだと、思い込みたかった。だから、いつも通りの口調で告げた。
「僕の龍剣、范雎が取り上げた。あれは僕にとっては大切なものでね。昭襄王さまから受け渡されて、初めて意味を持つんだ」
 わかった、と変わらない声が頭上に降る。
「趙へは、いつ起つのだ、白起」
「次の節季かな。鄭安平が、準備はできたって言っていた。兵の強さを確かめて、早めに行く」
「そうか、では近々、俺がお前を訪ねれば良いか」
「出立の時に返してくれ。それなら、勝てるだろうから」
 昭襄王は相変わらずの爬虫類の瞳で頷いた。
「了解。頼むぞ、趙を手中にすれば、秦に逆らう軍事国はなくなり、領土も広がる。統一とは行かぬが、民衆を安らぎに導き、皆が幸せに暮らせるだろう」
 ――健やかな国を作ろう。安心できる、居場所を――
 いつも通りの昭襄王の、強い言葉。何も変わらない。通常を頑張って続けることに専念し過ぎて、白起は昭襄王の性悪さを見抜けなかった。
 即ち、昭襄王は魏冉について、撤回も、補足もしなかった事実には、とうとう気付かなかった――。
             5
「宰相。今朝方、予定通り、白起の軍と、後方支援軍が、秦を起ちました」
 使い走りの小者を通り過ぎ、秦の宰相・范雎は眼を細めながら、雪解けを眺める。白起を趙に向かわせるまで、一つの節季を超えた。
 緩やかな春の訪れの風に変わりつつある、霞染月。凍える冬の終わりと共に、趙国もそろそろ警戒を解く頃だろう。しかも、白起の名は洩らさぬよう、箝口令を引いた。
 趙活の愚策は相手にするほどでもないので、放置だ。
「翔唯、次の竹簡を」
 はい! と小姓であった翔唯が、素早く書簡を手渡しながら、呟いた。
「さっき、昭襄王さまが龍剣を白起さまにお渡しなさいました。皆、見てたんですよ」
「では、昼食は要らないね。私は書簡を今朝までに纏めろと言ったはず。多分、私が渡した龍剣だろ。趙に行くから、王の手で返せとのたまったんだよ」
「生きて戻って来るっすよね」
「鄭安平をつけたから、状況は分かるよ」と范雎は、書簡を抱え、心配そうな翔唯を見やった。
「随分、白起が気に入ったようだね」
「みんな、そうっすよ! 秦の民は、みな、あの鉢巻き武将が大好きです。やっぱり武将ってかっこいいっすねぇ」
「それ以上しつこく言うなら、永巷でどうぞ」と范雎は憎々しいまま、言い返す。
(皆が白起を好きなのに、どうして、私だけは――)
 ああ、分かった、嫌いな理由。こんな答のない考えを浮かばせるから、嫌いなのだ。
 范雎の眼は、白起が出立した後も、正門から動かない昭襄王を捉えている。
 お姿は、どこにいても分かるような、金糸の龍の縫い取りに、赤い衣の外箕だ。遠目からでも目立つ。
 いつまで見ているのだろう。さすがの宝麟も声を掛けられないらしく、対角の後宮の蓮の園からちらちらと王を窺っている。
「さあ、こっちは、朝議を始める時間だ。昭襄王さまには戻ってもらわねば。血を好む武将の面影なぞ、追っている暇は一切ないはずだ。華耀が上手くやるだろう。忙しくなる」
 聞いていた翔唯が「そんなに頭を使って、疲れないですか?」と聞いてきた。
 莫迦な子蜘蛛も、いつか追い払わねばならないようだ。
 一言「納屋に向かう」と残して、正門とは正反対の食糧庫に足を進める。歩きながら考える作戦は、わりと冴えている内容が多い。
 ――残るは目障りな親蜘蛛、魏冉。
 だが、魏冉も、王稽と同じく、権力を二分する存在。魏冉の後釜になれるような逸材は秦にはいない。大穴を穿てば、何処から害虫が飛び込んでくるか分からない。
「白起に手を下させたかったが……王稽の考えにも一理あるか」
〝そんな行為をさせれば、白起は剣を捨てるだろうよ。同時に操られていた事実にも気づき、昭襄王に刃向かうやも知れぬ。
 それでは計画が狂ってしまう。それであれば、知らぬ内に、事を進めれば良い〟
どうあっても、王稽には敵わない。軍師の枠を超えた悪魔だ。
 すべての物資が運び出され、静寂を保っている納屋に靜かに足を滑らせた。
 数日前は、所狭しと物資の袋や俵が山積みになっていて、門番が立ち塞いでいた。
(ここであった事柄は胸に仕舞わねばならないだろう。こればかりは、私も良心が痛むよ、白起)
 范雎はぞっとしながら、ほんの二日前の王稽との所業を思い起こした。
            *
『ここは、白起専用の、食糧庫ではないか?』
 数日前、王稽に連れられて、白起の出陣用にこしらえた納屋を訪れた。皇宮と違い、最低限の建築技術だ。すぐに建て壊せるようにとの配慮である。
 王稽は布に包まれた何かを持っており、相変わらずの蜻蛉頭を揺らして立っていた。
「かつて白起が韓にやった作戦に近いが。見ていたまえ」
 言うが早く、布の包みを解き、両手で鷲掴みにした。むっと動物の腐臭が鼻をつく。両手で覆っても、異臭は鼻を突き抜ける。
 細く黒く変色した物体は、何かの足のようだ。カラカラに乾いて、黒ずんだ形は、骨だと分かる。
 ――かつて、死んだ私の馬の足か! そういえば、王稽は「足だけ残して処分した」と……。
「おまえは寄るな。俺は、この奇病から唯一生き延びている。不思議な奇病でな。みな、腐り落ちて虎のような業態になるのよ」
(まさか、このために保管していた? 何年も前から?)
 奇病を手に、食糧に近づく王稽に、背筋が震え上がった。
 ――まさか、その呪いの肉塊を――?
「王稽さま! それは、あまりにも非道な!」
「きさまが、俺を〝王稽さま〟と呼ぶのは久方ぶりだな、范雎」
 ふん、と王稽は眼を細め、松明を翳した。眼の前には大きな藁に詰めた食糧や、干し肉が積まれた荷台が置いてあった。
 すべて、趙へゆく兵士たちへの救援物資だ。予定では、白起の一軍の一日後に、後方軍は動く手筈で、今はちょうど白起の出立の前夜に当たる。
 王稽が何を考えているかは解った。馬の足はいわゆる種だ。范雎は口を覆いながらも、首を振った。
「王稽さま、秦が滅んでしまいます!」
 ――秦? と王稽の垂れた眼元が一瞬吊り上がった。
「俺がお前を范雎呼ばわりも懐かしいものよ」
「お、お止め下さい! 昭襄王さまに知れれば」
「殷の呪いだろう? 秦に呪いが掛からないわけあるまい。俺はこう言う、〝とうとう、秦軍にも呪いが押し寄せたようです〟とな。手段は選ばぬよ」
「白起まで死んでしまう可能性があります!」
 くくっと王稽は嗤い、「おかしな話を」と、更に呆れを重ねて言い放った。
「俺は教えたはずだ。生き残りたいならば、殺せ。邪魔なものは消せ、とな」
 王稽という殷の末裔の本当の恐怖を、今更ながら感じ取った。
確かな洞察、揺るがない悪業への意志、犠牲に対し、持たない情。
 己の国の軍すら、塵芥にしか見ない真の冷酷さ。
 無言で青ざめる前で、王稽は松明と一緒に、物体を高く掲げた。
「宰相よ、離れていろ、死にたいなら俺が断末魔を聞いてからだ」
 魏冉の如く、口元を長い布で覆った王稽はいくつかの食糧に、その物体を触れさせた。布を指で下ろして、松明を口に銜え、元通りに口を縛った。
「この兵糧が開けられる頃には、大量の毒が食糧を充たしている。殷の病は、粘膜から始まる。唇が腫れ、水を怖れ、精神を溶かしてゆく奇病だ。異変に気付いた白起は、邯鄲の攻撃を取りやめ、秦に戻るしかなくなる」
 王稽は告げ終え、震える范雎をにやりと見た。
「まァ、あやつが悪であれば、もっと使い道はあろうが、期待はせぬほうが良いよ。お前が以前に言ったろう。〝殷の呪いを利用し、他国を落とす〟と」
「私の責任にするつもりですか……な、何人の兵が死……」
 言葉が出ない范雎の前で、王稽は口元に飛んだ、かさかさに乾いた肉片を獰猛な獣の如く、伸ばした舌で落とし、静かに踵を返した。
 腕に嵌めた金環が、やけに目につく。眼を剥き出し、一瞬ちらっと処刑人の顔になった王稽は強く告げた。
「実行してやった礼もなしか。魏冉の拷問は、俺に命じよ。秦の宰相。策謀は、悪であれば勝つ。俺に勝てぬなら、宰相の地位を速やかに降り、簀巻きにでもなって、庭に転がっておれ」
 簀巻き。唐突に過去を持ち出され、刮目した。
 眼の前で、王稽は「俺が知らないとでも?」と肩を竦め、夜の冬空を見上げた。「今は、おらぬか」と呟いて、しっかりと告げた。
「お前は気付かぬだろうが、本当の殷の呪いは、すでに飛び回っているさ。俺はそれを利用しているだけだ。そもそも、殷の貴族でもない輩が殷呪を扱おうなど、天に背く行動よ」
 王稽は吐き捨てると、立ち上がった。
「犠牲はいくらでも、欲しい。まだまだ龍への犠牲は足らぬ。そうでないと、帝辛は浮かばれぬだろう。殷の民もな。」
 范雎は震える足を進め、灯りに照らされた横顔を見詰めた。
 秦の都・咸陽にも、先日虎が出ている。目が窪み、腐臭を漂わせた虎は、渭水の谷に落とされたようだ。
「龍の、各地にある石碑は……まさか、日々増える虎の姿は、全部殷の人々の慣れの果てですか!」
「不思議な話、殷呪にかかると、死ねぬ骸になる。狂気を発したものどもを殷王朝は一箇所に集め、封印した。龍の紋章は殷の象徴。奴らは、奥底で覚えておるのだろう。龍の石碑を置いておけば、暴走はできず、土くれで靜かに蠢くだけだったが」
 范雎の目に、奇病に冒された人々を荷台にのせ、山に放り捨てる殷の貴族たちの図が浮かぶ。
 滅茶苦茶に捨てた骸はやがて不老の神に近づく。だが、呪いと引き替えだ。それが趙の円陣の石碑。
「その石碑を僕が壊しちゃって」と白起は確かに告げた。
「古代に天鼠は神の使いとされた。どうしてか分かるか?」
 にやと王稽は嗤った。
「そう、まさに楚王がやろうとした世界の変換だ。天鼠は数多の毒を抱えて飛び回る.神になりたいものは、こぞって口に肉片を詰め込んだ。結果、神になれた。死ぬに死ねない、異形の神にな! 肉体なくなるまでは生きていられるのだから、変わらぬであろ」
 王稽は両手を差し出した。見えなかった両手は、かさかさになって水分がない状態だ。己の手を見詰め、王稽は微かに嗤った。
「なぜか、俺だけは死ねぬ。神にもなれぬ――フフ。よほど嫌われたか、もしくは」
 狂った台詞だ。范雎はただ、恐怖で王稽という化け物を睨んだ。
「神になるべきかの男か。再び殷王朝の甦る兆しか」
「秦の昭襄王に忠誠を誓ったのではなかったのですか……っ」
「俺の忠誠?は。常に紂王にある。いや、紂王などと呼べぬな。殷の十七代の神だ。周の武王に倒された憐れなり王よ。眠っておる」
「そんなはずはありません!」
 范雎はすぐに反論した。殷の紂王の話は知っている。周の武王が首を刎ね、首都朝歌を救難した。儒教学者が残した記録を読んでいる。
 王稽は靜かに首を振った。
「帝辛は殺されてなどおらぬ。石碑の在る場所すべてで眠っておるわ。すべての地に、わたしをばらまけ。それが王の託した遺言。数十万の血が流れれば、大地が神の血を起こす」
 王稽はくるりと爪先を范雎に向けた。
「おまえは、俺に傅いていたから、見逃してやった。 そら、白起はもうじき出立。ヤツは殷の願いを叶えるだろう。また、血を流してくれる」
 靜かな口ぶりの中に、殺人者の恐ろしさが滲み出ている。
「貴方は、殷呪のために、白起を利用し、始末するつもりですか。望みは何ですか! 世界の破滅ですか!」
 王稽の瞳が、一瞬優しさを帯びた。王稽の薄い唇は確かに動いた。
〝し・あ・わ・せ・な・せ・か・い〟
范雎は呆気に取られて、言葉を出せず仕舞いで、会話は難なく終息した。
 幸せな世界――…… 誰もが殺されない、そんな世界があるというのか。
 いつでも動かない天極だけが煌々と輝いている。谷底で、魑魅魍魎が泣き叫ぶような、そんな残虐に彩られた暗黒の夜は、静かに更けていった。
           6
 楚の長城付近は絶景で、深く切り立った谷には春爛漫の光景が展開していた。春の雲は飛龍の如く、天に伸びている。薄い水色の目下には、春の渓谷が広がっていた。
 趙への道は幾通りもあるが、白起は敢えて、楚を迂回する山麓を選んだ。
 春の渓谷は切り立っており、いくつもの山脈が削られて、自然の色の斜面を露わにしている。
 表面にはびっしりと緑が繁り、眼を凝らして、ようやく小川を見つけた。多分あれは黄河と長江の細流だろう。
 春の蝉が鳴き、枝葉は優しい陽光を反射して、より一層青々と輝いていた。
 合間に、燕の巣がある。夫婦仲良く、抱卵中だ。足元には野兎が顔を出している。
「これは、凄い」と誰もが言わずに居られないであろう春の太行山脈の渓谷の美景。
 一雨後だからか、新緑は宝玉の欠片を振りかけたように輝いている。花の香りいっぱいの風が馬の鼻腔を擽り、馬の鼻がひくひくと動いている。
 木漏れ日の漏れる渓谷と山峰の間を縫い、たくさんの雨燕が飛び回っていた。まだどこかに巣があるのかと眼を凝らしている白起に、黒馬が並んだ。
「ほう、感心に天候を読んでおるのかと思えば」
 突然ごつんと頭を叩かれ、白起は前のめりになった。急遽、馬が足を止め、軍全体が止まった。
「大将がぼけっと俯いたりするな。渓谷に突き落とすぞ。作戦を確認しておけ」
 と鄭安平は一喝し、崖下、未踏の場所に、少し大きめな巣を発見した白起の視線を追って来た。
「雨燕の巣は、子宝に恵まれるそうですよ」
 同時に見つけた瓏が少し声を弾ませる。まだ子供が欲しいらしい。
 ――そういえば、韓の子供は……。聞きたかったが、今回は鄭安平がいる。更に、余程の莫迦な山賊でない限りは、こんな大軍を襲おうなどとはしないだろう。
 目的地までは、どうやら穏やかに進みつつあるようだった。
           *
「様子は、どうだ?」
 秦を出発し、長々と伸びた軍の最後尾がすべて揃ったところで、白起は眼を限界まで広げ風景を見やり、見張りに問う。
 遙か霞んではいるが、見覚えのある山の形。以前、十年前ほどに暴れた伊闕に近い。違うのは、行く手に大きな土塀が現れて視界を邪魔している部分だ。
「やはり韓軍ではなくのさばっている軍は、すべて趙のようです。既に侵略されていたと思われます」
 報告を聞いて、白起は頷いた。
「分かった。あの壁、崩せないか」
「無理だろうな。石膏のように固めている。長城を作る要領だ」と門番の知識を持った庸拉が答える。
「景色の邪魔だ」と白起は言い、矢箱を持って来させた。
 一本の矢と弩を背中に担ぎ、土塀に向けて火矢を飛ばしてみる。一通りの武具を扱えるが、剣を好むので、あまり得意ではない。
 風に煽られて火矢は、ぽとりと落ちた。「寄越せ」と鄭安平が火矢を構え、馬上で射る。どさりと兵が落下する音が、離れたこの地までも伝わって来た。
 敵襲に備えようと、砦の上が慌ただしくなる。
白起は馬に飛び乗って手綱を掴んだ。
「よし、もう少し近づこう。僕と、鄭安平の軍は前進! 瓏と庸拉の軍は、後方を取り囲め。出て来たところを狙え!」
 ――秦軍は土塀を取り囲み、篭城を決め込む兵士を引き摺り出し、副城を白起は激闘の末に奪還した。
「智将・廉頗れんぱが見当たらぬが」
 捕虜を縛り上げている兵を監督していた鄭安平が眉を寄せる。
「俺はヤツの顔を知っているからな。おい、お前らの大将は、どうした」
 気弱な兵士を掴み、鄭安平が情報を得た。
「あろうことか、昨晩、韓から趙へ呼び戻されたとの情報だ」
 呆れた雰囲気が一帯に広がり、やがて事情に明るい鄭安平が軽蔑の口調で、投げやりに告げた。
 足に何重にも巻いた束帯と鞜が地面を削る音が響く。
「趙では、軍務責任者が趙活に替わった。取りあえず、捕虜は秦に送る。庸拉、そなたが適任だろう。兵も、ちょうど倍はいる。戻って范雎の指示を仰げ」
 鄭安平と庸拉では、王稽の側近、鄭安平は当然ながら上官に当たる。庸拉は無言で頷き、兵を引き連れて、秦への帰路に就いた。同じく伸びた軍を夕暮れの中見送りながら、白起は鄭安平に問うた。
「あんた、絶対に范雎を宰相と言わないね。鄭安平」
 鄭安平の深く、鋭い目元が僅かに痙攣した。
 白起に一つの人影が近寄る。瓏将だ。
「白武将、韓と趙は思いの外、近い。すぐに援軍が来るでしょう。それにしても、私には一つ解せない事項があります。どうして、韓の武将が逃亡を図っていたのか」
 不安を胸に過ぎらせる。
(もしや、総大将が、僕だと気付かれた?)
 だとすれば、どこで、ばれた? いや、違う。趙に呼び戻されたと言っていたから違うだろう。
 違う、違うと否定している間に、また一つ、杞憂ごとが浮かぶ。
 ――魏冉の裏切りが発覚した。王稽の言葉は脳裏から追い出すべきだと、不安に苛まれて空を見上げれば、流れ星が山麓の彼方、一筋きらっと走る光景が見えた。
 流れ星は願いなど叶えない。凶星だ。見ないほうが良いと分かっているのに、視線は落ちる流れ星から逸らせず、追い続けた。
 願いが叶う、などと無意味だと分かっていても逸らせずに、瞳に光は宿り続けた――。
             7
 白起の出立した後、魏冉の館は静寂に包まれている。
 何だかんだで、白武将は女官や武官からは、気さくな言動で好かれている。
 子飼いにしている小姓ですら、陶酔の様子だ。どこがいいのか……と思いつつ、范雎は連れ添った華耀に頷いた。華耀は相変わらずの露出が高い貴妃服を引き摺っている。
 上げた髪を下ろし、簪を手に、少し吊り目を不安に染めて睫を震わせていた。
「妾の役目は、これだけで良いのか? これで、本当に昭襄王さまが」
「私を信じて下さい。女たる力量を発揮すれば宜しい。何としても、白起の今後のためにも、魏冉の死は必要です。いいですね。手筈通り。くれぐれも、ご丁重に」
 魏冉の館の前で華耀を送り出し、(我ながら陳腐な作戦だ)と嫌気を噛み締めた。
 だが、魏冉ほどの大物を、容易には消せない。永巷に放り込むには昭襄王の許可が要る。急がなければ……王稽の言う通り、魏冉は白起を助けるためなら、秦をも敵にするだろう。
 華耀は王の寵姫。手を出したとなれば、処分も容易だ。寝入ったところに華耀を送り込み、それを小姓に発見させ露見させればいい。
 だが、華耀を殺せば、魏冉はいくらでも逃げられる。完全な策とは言い難い。
「宰相のやることではないよな」と愚策を恥じながら、空を見上げると、流れ星が夜空を走っている。いっそ、夜空を粉々に砕いてしまえばいい。殷の呪いも、すべて白紙に返せたら。
 いや、すべての人間の罪や喪われた命をも白紙に戻せるのなら、私はいくらでも祈ろう。
「良い月夜じゃ。おまえもどうだ? 宰相よ」
 まさに標的の魏冉が爵を片手に月を振り仰いでいる。范雎に気付き、魏冉は袖を重ね会釈した。企みを看破する如く瞳が闇に光った。
「親切な貴妃が、今宵は庭で月を見よと、しつこいのでのう。そうそう、その者、なんでも『姉に気をつけろ』とな」
 魏冉はくくっと笑うと、鋭い瞳を范雎に向けた。
「儂を嵌めるとは、見所のある青年じゃのう。とても十も下とは思えぬで。そなたは尻尾を掴ませぬがの、華耀妃の行動なら、追えるじゃろ。甘かったな」
 魏冉は素早く剣を抜いた。剣と言えど、柄が長く、いわゆる鎌のような出で立ちをしている。剣の柄に絡まった龍には見覚えがあった。
 魏王の台座で見た。范雎は憎々しげに呟いた。
「やはり、私の大嫌いな魏の方ですか。どうして、秦に!」
「さて、そなたたちの企みは見逃せぬのう。華耀妃まで一派とはの。白起を遠くに追いやって安心していたら……貴様ら、この秦で何をしでかしたか聞かせて貰うぞ!」
 びりびりと空気が振動した。紛れもない、武将の剣気だ。
「覚悟せい」
 槍先が光ったその時。背後から、剣が月夜に煌めいた。
 背中に忍び寄った男は、ぐ、と更に柄を躯にめり込ませる。
 冷ややかな声が夜に似て、溶ける。
「王稽! なぜここに!」
「言っただろうが。俺は処刑はごめんだが、貴様なら斬れると。穣候・魏冉! 宰相への殺害未遂だ。俺の館へ運べ! 過去から、その覆面ごと、暴いたあとで、皮を剥いで捨ててくれるわ!」
 王稽は背中に隠していた華耀に顎で「消えろ」と命じ、立ち尽くす范雎に向き直った。
「宝麟を見逃していたな。この姉妹は、両方、昭襄王に自分が愛されたいがため、俺に荷担していた。愛が欲しいがために、個々にだ。愛を囁き、俺を籠絡しようと、それは一生懸命に」
 唖然とする范雎に、王稽は容赦なく続けた。
「魏冉を仕留めるには背中から。貴様は覆面のせいで、正面は察せても、聴覚を塞いでいるお陰で、方向がわからんのだ。違うか? 俺にそれを教えた男は、昭襄王だ。貴様は絶対に背中を見せぬ、とな」
 魏冉は覆面越しに嗤っている。范雎の呆然ぶりを嗤っているのだと気づき、范雎は慌てて気を取り直した。
「魏冉を捕縛せよ! あなたには、楚王との密交及び、情報漏洩の疑いがある。魏の関係者は生かしておけません」
「いよいよ、私情か? 可愛げがあるじゃないか」と、いつもと口調を変えた魏冉がせせら嗤った。
 范雎は激昂して、王稽から剣を奪い取った。激情のまま、覆面を縛っている紐を頬ごと叩き斬る。
 月夜に、魏冉の顔が映し出され、誰もが息を呑んだ。さすがの王稽も言葉を失っている。
「ふ、ふふ。だから、やめとけと言うたのにな。黥刑げいけいなど知らぬのだろう。殷でもなかろ、このように美醜を伴う刑罰は野蛮な民族の特有の刑罰だ。そう、魏、月氏のような」
 眼から顔半分を覆うような状態で、墨が流し込まれている。口の端は焼かれ、潰れて輪郭をなくしていた。
 見れば、顔の真横には斬られたと思われる傷跡までも残っていた。尊厳を無視した刑罰だ。元々は美麗であった表情に無残に墨を流し込む作業で、愚鈍に、獣の如く表情を作り替える。
 元々の鋭い目も手伝って、魏冉の表情はもはや人とは言えなかった。悪鬼だ。ちょうど、撲殺で死した人の浅黒く膨れた顔を思い起こせば良いだろう。
「皮膚を剥ぎ、墨を流し込まれ、三日三晩の熱に魘された。顔中が化膿した状態で、儂は魏の王室から放り出された。半分、遊牧民族の血があるだけで、この迫害だ。もう良いか? 魏の御曹司には、きつかろう」
 ――魏の御曹司? 私のことか。
 范雎は齢三十五歳を過ぎている。感情の操作など、しっかりとモノにしているはずだった。
 魏冉は微笑みながら、落ちた覆面を静かに奪い、元通りに顔を覆って、顎で王稽をくいと挑発した。
 物静かな王稽の手が震えている。初めて、冷静をかなぐり捨て、王稽は憎しみを滾らせた。掠れた声音に憎悪は隠しようがなく、溢れていった。
「つ、連れて行け! この俺を震え上がらせた礼は、返してやる。良いな、宰相。約束は果たせ!」
 魏冉は、もう何も言わなかった。慌てて呼び止めると、足を止めた。もはや敵になった男に請うなど、これでは、まるで愚かな白起と同じだ。だが、知りたい。
 ずっと考えないようにしていた、人として。〝私は何者なのだろう〟などとは。
「私は、魏の王室の人間だったのですか! 魏冉! なぜ私は、あんな凄絶な思いを」
 答は、ない。
 ――これは何の悪夢だ。范雎は手足を捥がれ、闇で蠢く蜘蛛に成り下がった。
 眼を瞑れば、先程の魏冉の美醜が浮かぶ。
 其の夜は珍しく魘され続けた。
             8
 日が落ちた山の合間に、僅かな火が灯っている。ぼんやりと揺れる炎を瞳に映す白起の肩を叩き、瓏が交代を知らせてきた。
 揺れる陽炎に瓏の姿が、ゆっくりと重なる。
「白武将。まだ趙活は現れません。廉頗が趙に着き、その後の準備もありましょう。大将が体調を壊しては、兵の士気にも差し支える。私が見ていますから、今のうちにお休みになられては?」
 言われて周辺を見渡す。幾度となく戦いの最中に夜を迎えたが、どうやら夜の闇には慣れそうにない。無害なはずの木々は、暗黒色にざわめき、風は不気味に吹き抜けていった。
「食糧が届いています。秦の本軍は第二陣を遅らせて合流させるつもりでしょう」
 頑として動かない躯を叱って、野火から離れた。火を絶やしては、何が来るかわからない。夜の山は危険に溢れている。
 昼間に掻き集めた小枝を少しずつ燃やす音が響いている。兵士たちは僅かな休息についていた。夜目が利く者は集められ、夜襲に備えて剣を構えている。
 指揮する鄭安平の傍に寄ると、「武安君に整列!」とばかりに、兵が畏まる。取りあえず止めろと言い渡して、相変わらず勇ましく剣を握ったままの鄭安平に並んだ。
 鄭安平の剣は月牙の槍刃で、遠くからでも斬首する鋭い歪曲の大剣だ。持っているだけで迫力があった。
 しかし、手は竹簡を開いている。
 小さな松明を翳させて、鄭安平は指で文面をなぞっていた。
「白起。どうした。夜番を忘れたのか。お前の当番は、明日だ」
「瓏と交代した。竹簡?」
 鄭安平は頷き、素知らぬ顔で竹簡を畳み、懐に仕舞った。奪還した副城の篝火を見ながら、鄭安平は夜の闇を睨む。
「趙活が来たら、お前の軍は、取りあえず撤退、俺と瓏の軍は、敵の食糧通路を塞ぎに行く。ついでに敵軍を細かく分断し、趙活を孤立させる。分かったか?」
 白起の視線から逃げる如く、鄭安平は瓏のいる火番の場所に向かってゆく。いつもは火番など眼にもくれないはずなのに。
 従いて行こうとして、足の上に何かが這った感触に飛び退いた。蜈蚣だ。慌てて、足を振る。蜈蚣は奈落の底に落ちていった。
(いつも、嫌な時に、こいつは出るんだ)
 楚王を殺した発端も、蜈蚣だった。投げられて、驚いて、勢いで叩き斬った。
(僕には、あの時、蠢く楚王は蟲にしか見えなかった)
〝何をやっとるのかのう。武将の弱み、死ぬ気で隠さねば、大量の蜈蚣が降ってくるわ〟
 魏冉の声が、空から聞こえてくる。大量の蜈蚣? と眉を顰めた。
 ――空から? 莫迦なと白起は首を振ったが、不安に包まれて再び空を見上げる。夜雲は厚く伸ばされて、星空を隠していた。
 こんな風に夜空を見上げていると、取り残された気になる。
 不気味な夜に、一瞬だけ優しい風が吹き、取り巻いて消えて行った。
            9
 捕えた穣候・魏冉の現状の確認のため、范雎は王稽の館の南奥に足を向けている。
 豪華とは言いにくい質素な館を過ぎると、小さな古屋が立ち並び、罪人を焼くための釜が見えてくる。
 長く続いた永巷を通り過ぎると、廃墟の柱が立てられている広場に出る。磔刑のための柱だ。炮烙と呼ぶらしい。
 夜半、黒い人影が蠢いている光景に出会った。外で男が繋がれたまま、放置されている。
 後手に杭に縛られ、自殺防止に皮を食まされて、数百の殴打にも耐えた獣の瞳が范雎を捉え、動いた。
 穣候・魏冉。名を取り上げた今は、ただの罪人だ。
 報告では、数百の殴打にも口を割らなかった、とある。
「軍師にしておくには惜しい忍耐ですね。いや、元々、貴方は軍師ぽくなかったかな」
 いつも長袍で隠されていた手足。鍛えられた腕と足の筋肉は、軍師のものとは思えなかった。
 美醜を嫌がる王稽らしく、顔の覆面はついたままだ。范雎は手で覆面を毟り取った。焼けた髪の下、驚いた双眸が刮目している。
 范雎は唇を歪めて見せた。
 既に拷問を受けた、切り傷と擦り傷だらけの躯だ。
「死ぬのは、私の素性を話してからですよ……?」
 悪戯好きな夜の雲が流れては月光を遮断する。一縷の月光が射し、何度となく見ても、決まって眼を逸らしたくなる表情が露わになった。
 眼を逸らしている場合ではない。范雎は言い渡した。
「楚だけではなく、韓とも繋がっていた。どうりで、韓の公孫喜が替え玉なんぞふざけた手段に出られたわけです。魏冉、貴方は、敵国に、我ら秦の大将が誰かを漏洩させましたね。それだけではない。白起が目撃した楚王との密通は、貴方ですね。だとすれば、王稽と貴方の目的は非常に近い。秦は爆弾を二つも抱えていた」
 王稽が貫いた傷は、火で血止めを受け、失血死を免れている様子。生かさず殺さずの手法には覚えがある。
――廃れたはずの、凌遅死刑か――
 殷の刑罰には果てがない。左側から刻み、胸、上腕筋、大腿、肘より先を切断、膝下を切断、最期に首を落とすという手順だと、書物で読んだ経験はある。
 范雎は死罪を待つ魏冉の肩を、強く揺さぶった。
「死ぬのは、すべてを話してからです! いいですね! 口の轡を外しなさい」
 范雎の命令に、従っていた兵士がたじろいだ。范雎は更に続けた。
「私と、王稽と! どちらが上官か! 死刑は撤回しません。轡を!」
 強く攻めて、食い込むほど酷く押さえつけていた轡を外させると「さて」と范雎は魏冉の前に立った。魏冉が、ふと嗤う。
「お前は、俺の表情を見られるのだな。悪鬼に塗り替えられたこの表情は、恐ろしかろう? 何も知らぬよ」
「嘘だ、貴方は知っているはずだ! 魏冉!」
 魏冉は気怠げに首を振り、月を見上げた。
「騒ぐと、厄介な化け物を起こすぞ。顔色を変えず、首を落とす、殷の化け物。今は眠っておるのじゃろう。いい気なものだ。ひとつ、頼まれてくれぬか? 魏の少年よ」
 出血が多すぎるのか、朦朧とした瞳には靄が掛かっている。一瞬だけ顔に流し込まれた墨が消え、美しい顔が見えて、范雎は息を呑んだ。
 眼の前で、魏冉が微笑んだ。覆面をし、秦を欺いた表情は愁いていたのだろうか。
「遺体を、王稽の手に渡らせぬで欲しい。凌遅死刑も良かろ。裏切った事実は事実じゃ。王に刃向かった臣下に相応しい。だが、死した後まで好きにされたくはない。俺は神の供物など、ご免被る」
 魏冉の瞳が夜空を捉えている。秦に嵐の風が吹き荒れた。
「罪状は秦に仇なす誅殺か。魏の迫害民族が随分と高尚な罪を背負ったものよ。後は好きにせい。俺は疲れた……」
 死体を埋葬した人の魂は消滅する。現世に留まり、未練をなくすまで、骸は弔わない。もしもその間に、王稽が魏冉の骸を使う。想像しただけでぞっとする。
 震える声で、「必ず」と返答した。どのみち、魏冉の遺体は繋がっていないのだろう。
 穣候・魏冉。絶命の二日前。
(見事です、私は最後に貴方を認めましょう、魏冉)
 見届ける勇気が出なくて、「埋葬を一月待ちなさい」とだけ、范雎は告げた。翌日夜、魏冉は処刑の最中に死したと報告が入る――。
 范雎の伸ばしきった髪をも揺らす、激しい春風が、秦を吹き抜けていった。
             10
「起きろ」と爪先で脳天を小突かれる行為ほど、腹立たしいものはないと思う。
 一時の微睡みから目覚めると、褐色の空が広がっていた。蹴られた頭の汚れを払って、白起は身を乗り出させた。
 鄭安平は見ろとばかりに顎をしゃくって見せた。
「莫迦が来た」と嘲笑う。眼が、笑わない。王稽によく似た嫌な笑い。
 白起は朝飯代わりの煉り物を口にし、あまりの光景に、うっかり落とした。貴重な食糧が谷底に転がっていく団子を眼で追う所業も忘れ、唖然と眺めた。
 どおん、どおん、どおおおおおおん。しゃららん、どおん。
聞いた記憶のない音を響かせ、趙軍が蛇行している。先頭には平たい鐘を打つ煌びやかな一陣、更に大きな輿と戦車、馬が数百続き、徒兵だ。趙の長旗をはためかせて朝焼けの道を洋々と進んでいる。
 趙活がやって来た。あの音は、先頭の一陣が鳴らす銅鑼だ。
(いいのか? あんなに派手に軍を率いて!)
 失笑を噛み殺して、鄭安平は長剣を腰に差し、槍を片手に黒馬に飛び乗り、低い声を山に響かせた。犲が吼える遠吠えに似ている。
「さァて、つまらぬ茶番の時間だ。白武将、手筈通りに。王稽の作戦に間違いは、万の一つもない。安心しろ。瓏、行くぞ、俺たちは退路を断つ!」
「は。では、白武将。ご武運を!」
「了解! こっちは趙活を足止めしつつ、逃げる振りで囲む」
 黒馬を器用に方向転換させた鄭安平に続いて、瓏も山脈を駆け下りていく。白起の軍だけが残った。
 砂煙が朦々と上がる中で、王稽の厭味な声を思い出す。
 ――良いか。趙活が来たら、お前の一軍は敗走する振りで逃げろ。負けるが勝ちだ。
「お前たちは山を抜けて、渓谷まで引き返し、合流だ」
 兵卒の誰も、武安君たる白起を諫める権利は持っていない。兵士たちは至極大人しく山を下って、右往左往に逃げて行ったが、実はちゃんと落ち合う場所を決めている。
 すると、眼の前の趙軍の動きが止まった。兵に動揺が走っているのか、響めきが伝わってくる。
 白起はそっと馬を走らせ、先導に当たる一陣の前に降り立った。随分と立派な輿に、戦車が繋いである。
 馬を下りて、手綱を引いたまま、傅いた。護衛の兵が剣を向けた。
 頭を下げた。范雎曰く、「礼儀に勝るものはない」だ。一番立派な輿を選び、口上を述べた。
「我は秦の武将でございます。将軍・趙活の軍には敵わず、皆が逃げて行きました。ええと、私は――」
 輿から女裳がはみ出ている。趙活ではないらしい。雅な香と共に、眼の前の輿が勢いよく巻き上げられた。
「まあ!」と女の声がして、細い手が輿の縁を掴み始める。
 ふっくらとした顔に、勝ち気そうな鼬の瞳が覗いた。
言葉は閉ざされ、しばし時間はゆっくりと逆回転し、流転して行った。
〝やまの、かみさま〟
 歪んだ時の奥から、告げた幼い表情がゆっくりと現在に重なってゆく。丸い頬は桃の如く熟れ、ほんのりと紅に染まっている。大きな眼は変わらずだが、少し睫が濃くなった。
「貴方は、もしや」輿から身を乗り出している女も驚愕しているまま、ほっそりとした手を差し出そうとし、躊躇し、手を膝の上に引っ込める。
 思わず手を掴みかけて、「あ……」と微かな声が漏れた。
 どん! と音がして、二人の間に戦車が割り入り、邪魔をした。
 むっとしたところに、大層な美声が飛んだ。うっかり聞き入りそうな、王族たる威厳の綺麗な声だ。
「靄姫、秦の武将と姦通していたと? ふん、さすがは、得体の知れぬ女よ」
 残念ながら、中身は空っぽ以外の何ものでもない口調は続く。
「我は趙国の軍務最高責任者、趙活ぞ。どうやら秦は戦わずして、上党を明け渡す構えか。そうだろうな! この私、いや、私は、兵法を学んでおる。逃げろ逃げろ。こら。私の妻を見るのではない。あっちへ行くがいい。 ま、まあその辺に離れておれ」
 白起は輿に乗った女性に視線を釘付けにしたまま動かなかった。
〝何をしているのです? 口ばかりの武将〟
 こんなときばかり、范雎の口調が浮かぶ。そうだ、失礼のないようにしなければ。
「趙活の、奥方であらせられましたか。確か、お名前は……」
「ええ、奥方の趙の靄姫と申しますの。趙活の、后、ですわ」
 望んだ再会だが、声は沈んでいった。
「こら! 私の妻に気安く声を掛けるな。秦との盟約がなければ、首を刎ねるぞ」
 間近で見た趙活は、巷では莫迦だと言うが、さほど愚かな顔立ちはしておらず、范雎に似た聡明な目元と、淫靡な唇を併せ持った美丈夫な将軍であった。
 だが、剣を輿紐に深く差しすぎだ。
「白武将とやらだな。報告にある」
 楯を両手持ちして戦う将軍はいない。どうやら武術の経験はないらしいが、洞察力はある。
 巻いていた額の鉢巻きを指で緩め、白武将は髪を揺らした。
「白武将……。あんただったの? あ、待って!」
 呼び止める女から逃げる如く、反射的に馬に跨がって脇腹を蹴っていた。胸には失望の一滴が落ち、やがて胸全体を埋め尽くし、悲愴な感情を湧き起こらせる。
「靄姫! 降りるでない!」
 声がして、振り返ると、靄姫は輿を飛び降りていた。
「危ない!」と思わず馬を止め、方向を定めて、手綱を引く。眼の前で、靄姫は手をついた。
「帰って! 趙活は莫迦の上に、負けず嫌い。貴方が無作為に攻めれば、趙活は無駄な作戦を失敗して、たくさんの兵が死ぬわ! 兵法を学んだだけの、役立たず。現場の監督なんて、逆立ちしても無理な男よ」
 扱き下ろしの大笑いの内容だが、靄姫は真剣だった。
「生憎、こちらにも矜恃という譲れないものが」言いかけたが、「顔を上げて」と言い換えた。
 しゃがむ靄姫の前に、馬を降り、同じように屈み、膝をついた。怯える手に手を重ねる。
 ああ、感触は変わらない。――この優しさが欲しかった。
 白起は泣きそうな顔を、しっかりと瞳に焼き付けた。
 無言で顔を上げた靄姫と視線が合うと、こそばゆい。だが、靄姫は、言葉を待ち侘びているように見える。「大丈夫だ」と囁くとほ、と眼が潤んで落ち着いた。
 ――同じだ。誰も傷つかないようにと願う瞳。この瞳が忘れられなかった――。狂気の龍が靜かに、巣に戻ってゆく。
「なるべく、死なせないようにする。僕の仕事は趙兵の虐殺じゃないから、安心していい。目的は、上党の死守だ」
 靄姫は頬を緩ませ、「ありがと」と涙目で訴えてきた。愛らしい表情を目の当たりにし、頬をぽりぽりやって、視線を逸らせた挙げ句、そっと引き上げた。
 ――趙活の、奥方であらせられましたか……、か。
(何を沈んでるんだ、僕は)言い聞かせても、心は小さく細動して、言うことを聞かない。
 手をぱくぱくと動かしてみる。女の子の手は小さくて、弱いから、手を引いてあげなきゃと思った。
 兵たちも、そろそろ集まり始めているだろう。(合流しなければ)
 それなのに、眼は遠くなった輿を探している。
 離れがたくて、白起は暫く山地から、上党の土塀を睨んでいた。
 趙軍は土塀を囲み、蛇行した軍を整えて、ちょうど秦の方向に向けて逗留していた。
 趙活が利口な武将であれば、恐らく秦への攻撃の前に、楚と韓と魏を再び連合に導く。
 だが、趙活は真の愚将軍らしく、兵たちは命令で、なぜか荷下ろしを始め、大きな樽を荷台から下ろした。どうやら酒樽のように見える。
 ――まさか。祝杯を挙げるつもりか? 戦ってもいないのに?
 靄姫の憂いた表情を振り払い、白起は唇を噛んだ。
(韓の上党は絶対に渡せない。秦を攻める足がかりなど、潰す)
 上党は秦を攻めるに絶好の中継地点になる。だが、同時に秦が趙を攻める絶好の中継地点でもあり、即ち、上党をせしめたほうが、優位に兵糧を運べる。
(最中に酒を飲ませるなど、愚の骨頂だ。兵士は酔っ払って使い物にならなくなることくらい、僕にもわかるさ!)
 苛々が募ってきた前では大声を張り上げ、敵の大将はご満悦だ。
「さあ、飲め! 私は戦わずして、名誉の砦、上党を奪回した。どうだ、この私には秦の武将も平伏すとのこの事実を記念にし、私の俑を立てるよう、王に進言しようと思うが、どうか。素晴らしいと思う者は挙手せよ、全員、手を挙げるが良い!」
 皆、不安に染まりつつも枡を受け取り、無理矢理がぶがぶ飲まされている。上がった手を趙活は満足そうに見回して頷いた。
 上党を奪ったつもりなのだろう。それならそれで、長平に追いやる手間が省ける。
 軍が撤退した状態で、勝ったと言い切る。どこか、やはりズレている。兵法では、敵の姿が見えぬ状態は、緊迫状態にあり、無論、飲酒は一番の禁忌だ。
(平伏した覚えなぞない! 言っていればいい!)
 怒りで爪先が馬を蹴り、弾みで馬が前足を高く上げた。
 宥めて見ていると、趙軍は大宴会になった。
 傍に寄りそう靄姫をちらちらと眼に映し、時間は過ぎゆく。
 飽きた頃には、陽は蔭りを見せ始めていた。
 もうじき小雨が来る。目前を、証拠とばかりに雨燕が低く、飛び去った――。
11
 瓏の彫る字は少し読みにくいと、王稽がぼやいた。
 天敵を始末した男の顔は、野心に溢れ、恐怖すら感じさせた。
 もちろん、春夜の独特な不気味さも手伝っているとは思う。范雎は昭襄王を窺った。前で王稽が報告の書簡を閉じ、答弁を始める。
「計画通りに進んでいるようです」
 今まで穣候・魏冉がいた立ち位置は無人だ。お陰で、皇宮の御前は広く感じる。范雎は魏冉一派を掃討し、僅かな人数で政治を行う体制を整えた。
 王はより、王として、意見を重視される。専制君主に近いが、独裁ではない。
 宮廷は微妙な緊迫感と、均衡に包まれていた。
 秦の咸陽の皇宮も、まさに花盛りの夜を迎えていた。
(今も思い出す。魏冉の、あの顔――)
 魏冉は絶命の刻、一声も上げずに逝ったと王稽が淡々と説明していた。どうやら、魏冉に逢いに行った事実は漏れていないらしい。
 范雎は続けた。
「趙軍を、武安君・白起は手筈通り、沼地の長平に追いやるでしょう。長平は盆地ですが、黒土の性質で、土地が柔らかい。後方には山脈があり、天然の砦と言っていい」
「秦から今朝、第二陣の後方支援軍が出立しました。クク、もうすぐ〝仕掛け〟が作動するでしょう。王よ、趙国の分配は、どうします? 大量の捕虜の行き先も決めねばなりませんな。宰相どの?」
 含み笑いに顔色を変えずに視線を這わせると、王稽の薄く笑いを浮かべている表情が、視界に飛び込んだ。
 ――嫌な笑いだ。
「王稽、魏冉の次の穣候を決めよ。魏冉の後処理は」
「は。奴隷に命じ、肉を切り分け、売り捌く手筈を。人肉は万物の神に等しい。貴族の買い手がおりますゆえ。穣候の肉は、高くつきそうですので」
 別段、珍しい話ではない。人肉は古来より、神の食物として崇められる仙人の食だ。
 范雎は少しだけ、胸を押さえた。
 王稽の入れない宰相の部屋に、葛籠が置いてある。塩漬けの魚を敷き詰め、外見を質素にした木箱だ。中に魏冉は眠っている。いつしか降り立った蜘蛛が、巣を張り出した現状は新しい。
 范雎は思考を止めた。屍肉は屍肉だ。転がった蜘蛛が蠢く奇跡はない。
(私は約束を違えない。あの、命迸る願いを、無視はできない。王稽とは違う)
 ふと、殷の呪いの〝仕掛け〟を昭襄王はご存じなのかと思った。
 だが、言葉には出さなかった。
 また嗅ぎ慣れた人を燃やす臭いがする。奇病で死んだ骸を焼いているのだろう。咸陽にも、少しずつ虎害は広まっている。
 范雎は靜かに骸を運び出す板車を見詰めた。黒焼きにし、谷に捨てる門番たちの表情は強ばっている。手の施しようがない奇病。
 だが、王稽の企みは、それで終わるはずがない。
 殷呪の奇病は伝染が早い。触れれば、たちどころに感覚から肉体は腐り落ちる。
 范雎は趙で見た足のない虎を思い出した。
 水辺を避けるかの如く、怯えて躯を引き摺り、例えがたい腐臭がした、あの惨めな最期を。
 鄭安平が斬った虎も、体液を吐き出し、死を撒き散らした。
 死は誰もが辿り着く終焉だ。
 王稽はあれが、神になった者どもの姿、と言い放った。
(神とは、神に近づくとは、死をも意味するのか)
 直に、趙軍にも秦軍にも、悲劇は襲いかかるだろう。
 渦中に置かれた白起も、無事では済まないだろう事態は、容易に想像がついた。
(そう、私が恐れている事項は、奇病の蔓延よりも、白起までもが、奇病の毒牙に懸かる懸念だ――)
 時には人間は不可思議で、不思議。
 有史以来ずっと続く疑問は、どこで解消するのだろう?
 幸せな世界なぞ、どこにあるのか。答は永久に闇の中だ。
 小さくなった篝火の向こうに、猛獣を仕留める門番の姿。
 獣の断末魔が春の夜に響き渡った。
12
「白武将、ご無事でしたか」
 白起が戻ると、秦の兵たちは長平の手前に集められていた。物資の荷台は空になっている。
 兵士たちは食事を受け取り、陣を崩して休んでいるらしかった。
 馬をゆっくりと襲歩から速度を落として、白起はようやく地面に降りた。馬は地団駄で餌を要求し、余った人参を兵士が差し出す。一本を受け取って、半分ほど齧って、胃を充たした。
「随分と兵糧も乏しくなりましたね」
「そろそろ秦から後方支援が来るはずだよ、瓏」と白起は空になった荷台に腰を下ろした。空腹が急激に襲って来た。
 ――趙活の軍の食糧は、凄まじかった。戦地に酒樽が必要かは疑問だが。干し肉、乾燥野菜、麦の屯食……。
「作戦は、ここからだ。気を抜くな」
 鄭安平の牽制が入り、白起は頷いた。「首尾は上々」と鄭安平と瓏は頷き合い、大将である白起に視線を向ける。
(分かっている。趙軍の食糧の途を断ち、長平に誘導するように追い立てる。兵力を削った上で、趙活を捕縛する、だろ)
 白起は眼を瞑った。
 ――靄姫、約束を反故にせずに済みそうだ。きみは泣かずに済むだろう。
「秦軍、前進する! 後続部隊は鄭安平に、残りは僕に従いて来るんだ! 趙活の軍を、一気に攻める!」
 大勢の兵の移動が始まると、大地が震撼して、木々が揺れ始める。
 春の花も、もうすぐ散る季節。緑の小さな芽が顔を出せば、もうすぐ竹酔月・竜生日。新緑の美しい節季が訪れる。
 一雨浴びた青竹が洋々と笹の葉を惜しげもなく開いている。空にまっしぐらに伸びる青竹は、秦にまっしぐらに尽くす白起自身に重なった。
「美しいね。雨上がりだ」
 瓏が微笑み、一緒に竹林に眼をやった。
「白起、お喜びください」と馬を方向転換させ、彼方に視線を投げて見せる。
「秦からの後方支援軍が到着しました。これで、飢えずに趙軍を兵糧攻めにできますね」
 白起は、静寂の中、秦の旗をはためかせて近づきつつある一陣を眺めているうちに、自問自答の気になった。
 本当に、良いのだろうか。兵糧の途を止めれば、趙兵の食糧は届かなくなる。趙の人々の兵糧を止めてまで、上党は奪わねばならなかったのか。
 韓の、いや、魏の空腹で戦わされていた人々を、酷いと、可哀想だと思ったはずだった。
 十数年前の、韓での戦いは生涯ずっと忘れないだろう。
 趙活を捕えるため、土地を奪回するためとはいえ……考えれば考えるほど、自分を責めたくなる。
「瓏、兵糧の残りを数えてくれるかい?」
 瓏は不思議な表情をした。が、すぐに、やれやれと言った風情で、頷いた。
「貴方は武将に向いていませんね。分かりました。大丈夫な量を見繕いましょう。趙兵に届けたいのでしょうから」
「趙活には渡らなくていい。血色のいい頬していた。武将の顔じゃない」
 話の途中で、鄭安平がぬっと現れた。
(独りで行動した事実は隠さねば)と思った前で、くいと指で後方支援の軍を指して見せ、驚く話、白起に賛同した。
「王稽は飢えた過去がないからな。少し、秦の食糧を譲っても、いいだろう。条件は、四十日を経過した後だ。王稽と范雎に逆らうと、後が厄介だからな。四十日。それであれば、俺が王稽に取りなそう」
 頷いて、白起は春空を見上げ、「あ」と小さく叫んだ。
 紺碧の空に、龍が蛇行するが如く、白い虹が渡されている。それも、直下の態で、細く、長く、乱反射して輝いていた。
 白虹だ。相変わらず白光は美しかった。残念ながら、光の乱反射は、すぐに消えてしまったが。
「何と珍しい」と瓏が口にし、秦兵はしばし空を見上げた。中には「白武将に武運あり」と口にする兵もいた。
 雨上がり。水の湿った匂いがする。まだ、小雨が降り注いで頬を打った。
「戦乱の予兆だ。見ろ、空気が圧迫され、雲が隆起して、増えて来た。春雷が来る」
「鄭安平、何か嫌な予感がするが、気のせいかな」
 鄭安平は冷淡な目元を僅かに動かし「すぐにわかるだろう」と瓏に冷酷に答えた。
 遠く、微かな春雷の光が白虹の消えた空に走った。
             *
 三軍指揮部。趙活の敷く陣の中央を、こう呼ぶらしい。
 白起は秦軍を進攻させ、鄭安平たちに指示を出していた。
 鄭安平の率いる二万の秦軍は直ちに山を降下し、趙からの援軍を叩きに向かい、瓏将の軍が支援するかの如く、趙兵を何度も襲っては撤退を繰り返させる手筈だ。
(どうして范雎たちは武将の動きが読めるのだろう)と思いつつ、白起はずっと空を睨んでいた。
 青竹が群生している光景が視界に入る。地面を踏み固めると、筍が潜んでいる感触が伝わった。
 趙に近づくと、少し空気は冷えた。冬と春の合間の匂いがする。
 山麓に白起と瓏は馬を並べ、長平の地を睨んでいる。何気なく、白起は瓏に話し掛けた。
「瓏、珍しいこともあるものだな。鄭安平が僕の甘い願いに賛同するとは、まさか思わなかった」
「そうですね」と生返事し、瓏は視線を山麓の彼方に向けている。
「僕は鄭安平に対しては昔、水攻めに遭ったせいか、今一つ、信頼がないんだ」
 事実だ。様々な恐怖を感じたが、楚王殺害を渋った瞬間の鄭安平と王稽の水攻めは、今になって思い出しても、躯が震える。
 恐怖を打ち消すつもりで、話題を変えた。
「山には神様がいるらしい」
 ほう? と瓏の眼が細くなった。「本当だ」と短く告げ、白起は言葉から靄姫を思い起こした。
 趙活の妻。妻という立場は、どういうものだ? 視線を向けた白起に気付いた瓏の馬が、正面を向いた。
「瓏、妻とは、どんな役割を果たすのかな。僕には伴侶がいないから、想像ができない」
「まず、夫に尽くし、愛し、陰から支えてくれます。時折、困った行為をしては、助けを求める。死の淵までも、いいや、死の世界までも、共に歩く、大切な愛おしい存在です」
「夫を愛して支える……」
 では、趙活は靄姫に愛され、支えられていると?
 口惜しくなった。思わずあの手を掴み、引き寄せて「こっちへ来い!」と言いたい衝動に駆られる。
 そうだ、趙軍の兵糧を奪えば、靄姫も無事では済まない――
 思考の途中で、瓏の様子がおかしいと気付いた。瓏は唇を噛み、震える手を見せまいと、拳にして手綱を巻き付けていた。
「瓏?」と声を掛けると、表情はすぐに穏やかなものへと変わった。
 だが、眼が少し濡れている。
「趙軍にも家族はおるだろうに」小さな呟きは、青竹の葉ずれの音に掻き消される。
 やがて、木々を揺らしながら、秦の第二陣が到着した。
「数では負けているな」と眼の前に駐屯したままの趙兵を見詰めた。
 趙と秦は元々かなり人口が違う。当然、徴収兵も趙のほうが多い。
 秦の第二陣は荷台を三十と、馬を二百頭ほど連れて来ていた。その内の何名かは、二軍から、一軍への昇格を果たし、新たな戦力として、秦の軍部が掻き集めた人員だ。
「これでも、足りないか」
 白起はすべての兵が到着した事実を再度しっかり確認し、嚆矢となる第一声を響かせた。
「目指すは、長平。瓏、きみは趙の兵糧を運ぶ部隊を細かく分断だ。数で負けた分は、戦略で返そう。趙活は莫迦だ。こんな場所で宴会なぞすれば、侵略の憂き目を見る」
 唇を反し、白起は剣を引き抜き、大きく振り起こした。
 眼の前には生えたばかりの麦の雑草が揺れている。色付きの悪い、痩せ衰えた作物だ。北であるゆえか、太陽が心ばかり弱い気がする。
「それでは、私も五千の兵を連れ、作戦に移ります。主力軍は任せます」
 瓏は素早く告げ、山を同じく駆け下りて行った。どこかよそよそしいと思ったが、眼の前を燕が滑空して行き、白起ははっと空を見上げた。
 放射状の雨が降り注ぎ始めた。届いた兵糧は、竹藪の合間に押し込めるように指示し、曇天の下、馬を引いた。
「靄姫。約束は違えない。大丈夫だ。多分、趙兵はすぐに降伏する。趙活も、恐らく降伏してくるだろう。大丈夫だ」
 何度も呟いて、篭手を嵌めた手をぼんやりと見ていると、矢が飛んできた。秦軍から、兵がからかいの如く、白起の冑に矢を射った。
 むっと来て、振り返らずに、聞いた。
「僕に矢を飛ばした兵士、名乗り出な」
「王齕。此度、魏冉さまの命令で、白起軍の末席二軍の将を務めております。魏冉さまより、白武将がぼけっとしたら、矢を飛ばせと」
「そうか、僕の龍剣に殺されたくなくば、自制しろ。魏冉には後ほど文句を口上させてもらおう。罰として、お前。軍を率いて、趙活の背後から脅してやれ」
「と申しますと?」と幼い声がし、兵士は冑を両手で外した。純粋な瞳が鎮座し、白起の瞳に揺れた。
「焼き討ちでも、水攻めでもいい。趙軍を瓏が追い詰める。僕は負けた振りで逃げるから、お前は僕の代わりに、主力軍を率い、趙活と趙兵を上党から追い出せ。外に出して、荒れ野の長平城に逃げ込ませる」
 途中の読めない語句は、何だろう。不気味な文字が綴られている。〝呪〟。
(気になる文字の形だ)
「矢箱と弩を持て」と武具の荷台を監理する兵を呼びつけ、青銅の弩を持ち上げた。
 不思議がる将に向かって髪を揺らして笑いながら、弩と矢を差し出した。
 矢は鏃をしっかりと磨かれた上、殺害用に胴を補強されている。
「後方から、僕の冑を寸分も違わずに狙っていた。その腕を買いたい。きみが狙うのは、趙活の傍にいる将だ。僕の信念は〝秦に邪魔な頭を消せ〟でね」
 白起は言い切って、更に補足した。
「将軍とは、兵の命を無駄にしないからこそ、指揮ができる。僕は誰も死なせたくないから、死ぬのではないよ」
 王齕が刮目している。それほどに白起が口にするに驚く言葉だろうか。
――悪鬼の言葉ではないと? みな、死にたくない、生きたいと叫んでいたんだ――
 馬に飛び乗った少年の姿は、かつて無謀に兵士を斬り殺した白起そのものだ。生も死も分からず、飛び込んでゆくだけでは、無駄に命を散らすだけ。
(趙活はどうやら、相当に負けず嫌いらしいな)と広がり始めた布陣を見て、察した。
 数に勝つ布陣だ。それだけで戦が決まるか。戦場は竹簡上のように平和ではない。
 白起は唇を歪めた。たった一度、相まみえただけだが、趙活は嫌いだ。
「僕の後には一歩も踏み込ませない。長平で、頭を冷やせばいい」
 土塀に囲まれた上堂群を、生い茂る木々が包んでいる。丸裸になった禿山は雨露で濡れている。水を浴び、陽光を受けた森林の向こうには、秦がある。
 ――負けるものか。多分、これが最後の戦いになるのだろう。
(そう、これが最後だ。負け戦はしない!)全力を注ぐ。黙祷の如く、瞳を閉じた。声に願いを漲らせて、空気がビリビリと震動するほどに獅子叫した。
「秦を護るは僕だ! 共に秦のために命を張れ! 行くぞぉぉぉぉ――っ」
 雨龍が飛翔する如く、雨は強くなった。
               *
「長平に援軍を投入しろ」
 秦の昭襄王の言葉である。范雎は深く頭を下げ、頷いたところで、信じられない言葉を聞いた。台座から勢いよく立ち上がり、昭襄王は彫りの深い目元を細めた。
「俺自ら戦地に赴こう。魏冉の代わりにな」
 范雎は、やめろと諫めた。だが、昭襄王はありったけの若い兵士を連れ、明朝には秦を発っていた。
 事実に、王稽は呆れ、後宮も混乱を極める中で、范雎は一人、宰相の部屋に引き上げ、蜘蛛の巣だらけの葛籠に話し掛けた。
「あんたも、王も。白起が心配なのですね……。魏冉、行くなら長平へ。次なる世界へ旅立って貰いたいものですよ」
 葛籠の中は、かつて人だったモノ、だ。日々朽ちて、腐るだけの。
 ふっと蓋が開いた幻想を見る。光の中、武将は勇ましい姿で、剣を肩に掲げ、笑って消えた。
 十日、魂は現世を離れる。死を通り抜け、新しい世界を目指し、鬼籍に入る。
 范雎は葛籠を睨み、踵を返した。
「昭襄王の軍の護衛を! 秦の総力を上げて、長平への支援を!」
 外は豪雨に近い降水だ。雨樋を流れる水音が、よく響く。静かに流れていると思えば、けたたましく水を落とし、宮殿に音を轟かせる。
 赤ん坊を抱き、震えながら夫の帰りを待つ女と、そばに寄り添うようにして子供たちが眠っている。
 王稽は、白起の出立と同時に瓏の家族を捕え、咸陽の宮内において人質にしていた。
 家族。范雎には憧れを思い起こさせ、求めさせる魅力のある語彙だ。(それは、きみも同じだろう、白起)
 故郷喪失者は、一人ではない。
 范雎は僅かに安堵して、瓏の家族の四阿の前に座り空を久方ぶりに見上げてみた。
 防ぎきれない漏水が、頭上に落ちては流れて行った。
13
 荷台を引くと、凸凹の地面は。嫌な音を立てる。白武将は荷台を引いている兵士に手で合図し、眼の前を睨んだ。
 足首ほどの葦の草が生えている。一度、焼けたのか、植物の生い茂り方の勢いはない。
主力軍を若き将に任せ、白武将は僅かな兵力で、長平の地に差し掛かった。趙活の率いる趙軍は、駐屯の態で、陣を敷いている。
(だが、ここにいられると困る。長平まで追い詰めるとするか)
 さて、趙活はと見渡す。ところが、大抵の場合、将軍は中央にいるはずが、趙活の姿は見えない。一足早く、長平に入ったか、趙に戻ったか。
 ――状況がわからないな。
 珍しく考え込んだところに、馬の足音が耳に飛び込んだ。黒馬だ。
「鄭安平、随分と早かったな」
「兵士を分断し、食糧の途を断った。どんなにあがこうとも、趙からの支援は、届かぬ。ついでに、趙の食糧の荷台も奪った。これで良かろう」
「そうだね。いい時機だ。さて、僕は心が痛むから、荷台を運んで、其の後で逃げる。来たときの渓谷、あそこで落ち合おう。瓏もやがて合流するはずだ。着いたら休養を取って待て。趙活はどこだろう」
「莫迦は大抵、上だ。恐らく一足早く城に辿り着き、今頃は、せいぜい暢気に酒なんぞを呷っているに決まっている」
(さすがの僕も舌を巻く愚鈍ぶりだ)
 鄭安平は頷くと、荷台に視線を走らせ、黒馬で去って行った。
 兵士たちがそわそわと馬を撫でたり、武器を抜いたり、満身創痍の状況を伝えて来た。それも無理からぬ話。白起の率いる軍は、未だに待機が続いている。
 だが、全員を篭城に叩き込まねば、作戦は終わらない。趙活の軍を押し込め、支援軍を撃破すれば、あと残すは趙の本陣・邯鄲陥落で、この戦いは終焉を迎える。
 その前の施しくらい、構わないだろう。白起は飢えの恐ろしさを知っている。
 雪道で、草を口にしたまま、凍り腐った老婆、熱砂にやられ、河に顔を埋めたまま動かない老爺、手を繋ぎ合い、戦いに巻き込まれて死んだ兄弟の背中の矢。
 韓と魏の空腹の極限で向かっては、首を飛ばした事実。
 白起は長平に踏み入ると、土塀を見上げた。
「降伏してくれれば……いや、甘いと言われるか」
 白起は呟いて、率いた軍に合図を送った。荷台を四つほど置いて、布陣に攻撃を開始すると、火矢が大量に飛んできた。
「凄く癪だが、逃げるよ! 長平まで走るんだ! 今頃は王齕たちが別働隊を追いかけて、長平に追い込む。僕らも、残り全部の趙兵を一カ所に集める!」
 剣を振り回しつつ戦って、趙兵を上党から誘い出し、長平への岐路に誘導した。白起の馬は軽やかに逃げて行き、何人もの趙兵は上党を離れ、無人になった。
 ――これで、いい。
 千騎ほどの将が剣を振り上げ、馬で趙兵を追い落とし、趙兵は応戦しつつも、長平の地に逃げ込んだ。
「あとは、ご自由に、だ。みんなご苦労、このまま交代で、趙兵を見守るとしよう。秦から食糧が届いているから、夜営になる。作戦は追って指示するから、引き上げだ」
 額の鉢巻きを縛り上げながら、白起はぽつんと置いた荷台を見つめた。
(どうか、無害な兵たちに、行き渡りますように、靄姫、約束は護った)
 逢えれば手を引き、逃がすのだが――妻の立場は常に夫に寄り添い支える。であれば、趙活のそばに、靄姫が居るだろう状況は、容易に察しがついた。
「腰抜けは、どっちだ――」
 趙の円陣になっていた龍を思い起こした。未だに、不可思議で、まだ自分の心の中では解消できない。それほど、あの恐怖体験は忘れがたかった。
 雷鳴が轟いている。茂みに隠した荷台は、静かに風に吹かれていた――。
                   *
 趙が篭城して、二十日が経過している。
 春空に雷光が走る夜。白起は密かな物音に眼を覚ました。ごそごそと何かが蠢くような音がする。
 不審に思って外に這い出ると、信じられない光景を目の当たりにした。
 ぎらぎらと獣の目が光っている。足元に何か蠢いているようだ。気がついてやはり休んでいたらしい瓏も這い出てきた。頷き合って瓏の松明を受け取り、火を翳した。
 手足があり、大きな獣が地面に埋まりかけている。雷鳴が手伝い、一瞬だけ夜に光を灯した。
「これは……!」言葉が出ない。瓏も同じらしく、息を呑んだ気配が闇に伝わる。
 足元には、溶けた兵士が転倒していた。その隣には、怯え、屈伸した状態での兵士が、腹を押さえ、同僚が差し出した水を拒んでいる。
「あ……あぁ……み、ず……」
 雷光が長く光に炙り出した。
 溶けた頬を向け、手足を伸ばし、壊死した瞳で兵士が倒れている。
 次々、食糧の脇に隠れるようにして、様々な遺体が転がっている。
(敵襲か? いや、昨日まで、異常はなかった。趙の見張りから、異常報告は受けていない!)
 白起は、兵士に行き渡るのを見届け、食糧を調達していたが、荷台を渡した呵責で、桃の花を契り、地面を掘り返した芋虫を嫌々口にしていた。
 蜥蜴や、河にいる鰐も気になったが、殺すのは忍びない。
 夜営は昼間に掻き集めた小枝を燃やした篝火の側。兵士たちはたくさんの食糧を喜び、いつもながら、つまらない取り合いを牽制して――。
「なんだよ、これ」と呆然と呟いた瞬間、勢いよく後に倒れた。白起の肩を瓏が莫迦力で引き寄せたせいだ。
 驚いた躯は脱力し、子供の如く、瓏の丈夫な胸板に転がり込む。「あ、あ」と震えを口にした白起を支え起こして、瓏は吼えた。
「白武将! 秦の食糧を、口にはしておらぬですね!」
「あ、ああ? 僕はどうしても、兵士の最後に、こそっと食べる癖があるから……これ、みんなどうしたんだ……」
「殷呪です」
 瓏は震える声で言い、俯き加減になった。「瓏?」と聞いても顔を上げないまま、視線を逸らせ、続けた。
「ご存じでしょう? 殷呪と称する奇病が、秦に蔓延しています。その呪いが掛けられていたのでしょう――」
 白起の手が剣を引き抜いた。大きく輪を描いて、瓏の喉元に掲げる。唇を歪めて、白起はきつい口調で怒鳴った。
「ふざけるな! 僕は確かに軍師のように頭は働かないが、瓏の様子がおかしいくらいは、見抜く! きみ知っていたんじゃないの?」
 瓏は沈痛の面持ちで、唇を咬み、手をついた。
「後生ですから、理由は不問に。か、家族が殺されますので!」
 白起は見開いたまま、瞳を倒れ行く兵士に向け、涙目の瓏に向けた。瓏は屈辱からか、唇を噛んでいた。
「王稽か、それとも范雎……」
 夜に忍び寄り、食糧に仕掛けを忍ばせる二人の軍師の姿を想像し、ぞっと背中が戦慄いて、気付いた思考を遮断した。
 どうしても浮かんでくる。あの二人は、何かを食糧に偲ばせた。
 死。否応もなく、押しつけられた、塵芥への死だ。
 ――秦の食糧に殷の奇病――……同じ荷台を趙兵のそばに置いてきた!
「いけません! 白武将!」
 いても経っても居られず、馬に飛び乗った前に大きな黒馬が現れた。雷鳴の元、鄭安平が剣を白起に向けていた。
「趙の大戦の前に、総大将がどこへ?」
「どけ、鄭安平! 趙兵が荷台の食糧を食えば、奇病に罹る。命を繋ぐ筈の食糧に仕込むなんて! 軍師の奴らは、僕たちが死んでいいと思っているのか!」
 瞼に王稽と、范雎の顔色の変わらない策謀の笑みが浮かんだ。
 白起は唇を噛んで、眼を強く伏せた。あんまりの仕打ちに、怒りは涙に溶け、涙は哀しみに変わってゆく。哀しみはまた怒りに戻って、憎悪になった。
 ――王稽! 范雎! なんという、なんという所業を!
「僕たちは、生きてるんだ! 秦のために、昭襄王のために! こんな、こんな死に方をしろと! 武将は死ねと! 魏冉の怒りも理解できる!」
「魏冉か」と鄭安平は呟き、馬を退けた。振り切る如く、馬を走らせ、目と鼻の先だった長平の軍に白起は一人で飛び込んだ。
 馬がぴちゃりと何かを弾いた。
 ――やけに、静かだ。兵はいないのか?
 不意に眩しくなってきて、白起は眼を細めた。
 朝焼けと、雷鳴が一緒に空を騒がせていた。朝陽がゆっくりと照らしたそこには、夜営と、夥しい肉片が散らばっていた。あれは、指、あれは腕、あれは足……齧られ、捨てられた彼らの〝食糧〟だ。
 喰い争った形跡に、呼吸が止まりかける。極限の飢餓は、人を悪鬼に変えるのか。
「驚いたであろう。喰い争いとは、こういうものかとな」
 上から声がして、趙活が窶れた顔で、白起を見下ろしている光景があった。頬はやつれ、眼は大きく窪んでいるが、何故か身体には栄養失調の兆候は出ていない。
 その隣には乱暴に引き寄せられた靄姫の姿があった。
「白武将!」
「靄姫か! なぜ、きみはそこにいるんだ! 戦場だぞ!」
 叫んだ靄姫の腕を引き、趙活は嫌がる唇を奪って見せた。
「生きたかったのであろう。私も、同じだ。弱きものは屠られる! だから、弱いものを喰ってしまえと命じた。兵士は将軍の手足だ。そもそも人は生き物を喰うが、己らは食わん。それだけの話である!」
 趙活は屏を飛び降り、呆れたことに、妻である靄姫を抱き上げて血海に飛んだ。靄姫は地獄絵図に震え、趙活は「だからなんだ」と微笑んで、口元をにいと緩めた。
「食糧が届かぬ我らの選択は一つ。まあ、人肉は不老不死だ。こんな場所で永遠の命を受け取れるとは、思いもしなかったわな」
 白起の眼は、一点、趙活の腕でずっと狂いそうに震え続ける靄姫に注がれていた。
「いやあっ……お願い、やめて、やめて、みんなを食べないで!」
 血だらけの顔で、血だらけの手で趙活は靄姫を撫で、震え上がる女の怯えた表情を満足そうに見下ろしている。
 ――信じられない。普通じゃない……。
「は。大量の首は飛ばせど、屍肉を屠るは、恐怖と見えるな」
 趙活は動けずにいる白起への包囲を命じ、ゆっくりと血溜まりを歩き出し、落ちていた肉片を口に詰め込んだもう味などどうでもいいという風情で咀嚼する。
 極限の飢餓のぎらついた双眸がニィと垂れた。
「私は、今なおまともな兵士を護衛に連れ、趙へ戻るとするか」
 涙を堪え、白起は剣を後から趙活の首に突きつけた。
「何のつもりだ」
 涙目の向こうで、白起は剣を光らせる。
「趙兵は分断した。勝ち目はない。秦に下り、降伏せよ。残った兵は、僕が引き取る。だが!」
 怒りは頂点に達した。白起は龍剣を抜き、刮目した趙活に突きつけた。
「あんたは、兵を見捨て、妻を捨ててまでも逃げるつもりか!」
 趙活は嘲笑うと、続けた。
「生憎、私は誰にも殺されたくないのさ。私を殺せば、国交は成り立たぬのではな」
 白起の剣が趙活に覆い被さった。「国交?」と言い返して、再び剣を握り直した。
「僕の戦いに、国交など関係あるか! このやろう!」
 王稽の怒りの表情が浮かぶ。想像ごとぶった切るつもりで、剣を振り下ろした。あわわ、と皮一枚を斬ったところで、趙活が慌てた。
「何をしている!」と兵を叱り飛ばした前で、靄姫が気丈にも声を上げた。趙活の腕が伸び、靄姫の簪を引き抜いて、血溜まりに捨てた。
「要らぬわ、貴様のような女。行くぞ。このような場所、尋常な者のいる場所ではない。お前は、その女と血浴びでもしていろ。ほれ」
 趙活は卑怯にも、血溜まりを長い脚で思い切り蹴飛ばし、上げた血飛沫を蓑にして、逃げていった。
(っの野郎! 今度また、会ったら僕が喰ってやる!)
 ぎりりと歯軋りをしたところで、ぺたんと靄姫が座り込んでいる状況が、白起を正気に引き戻した。取りあえず、血飛沫は被らずに済んでいる。四の五の言っている暇はない。しかも、趙活は白起の馬で逃げてしまった。
「酷いな、立てるか。僕に掴まって。――男の趣味、悪すぎるよ、靄姫」
「うわあああああああああ」
「もう、大丈夫だ……済まない、あんな男にきみは勿体ない」
 子供の如く泣いていた靄姫の泣き声が止んだ。靄姫にこれ以上の惨殺現場を見せまいと、強く頭を引き寄せる。
 唖然とする趙兵に白起は振り返った。散らばった肉片の合間に、まだ生きている、齧られたモノたちが集まっている。
 長時間、どんな地獄を味わったのか。見れば部位一部分がない兵士が多い。多分、趙活たちが喰ったのだ。力のある者だけが生きれば良いと言わんばかりに。
「秦に下るものは頭を下げな! もう、趙活はきみたちを見捨てた」
 趙兵は白起の前に跪き、瞬時に降伏の意志を示した。だが、大半の兵は水を怖がる殷の奇病に罹患している有様だった。
 長平で生き残った兵は、大国趙の規模を示す。大軍で、戦車に乗せると相当な数になる。
 その数およそ三十万はいるだろう。失望の影が胸に広がった。
(全員を捕虜として、連れてゆくのは、無理だ。そのくらい、僕にも分かる……)
 空を見上げると、大きな雲が黒ずんで、空を覆っている。光を閉じ込め、命を奪うような黒雲だ。幕雲の不気味さは、今の白起の思考そのものだった。
 助かったと泣き噎ぶ声を聞き、気を失ったままの靄姫の頬の血飛沫を親指で擦った。
 ――きみは、僕を許さない。今の僕の考えを知れば、有史最悪の殺人悪鬼と罵るだろう。
 趙兵を、連れてゆくことはできる。だが、秦までの道のりの、食糧はない。
 秦兵の食糧も、もはや、ない――。
                   *
 一方、趙活は、趙への洞窟の中で、護衛に矢をかけられて絶命し、
 残った趙軍の食糧になった。旅人が残骸を見つける瞬間は、相当先になる。
 秦の范雎への報告は、当然ながら途絶え、軍師たちは直ちに集合し、王の不在の合間に決議をした。
「これ以上、白武将を野放しにはできない」
 范雎提言の、全員一致の武将迫害の決議だ。
 即ち、時代は武将の野蛮な戦いを廃し、国交正常化を中心に据える。
 血の時代は、何としても終わらせねばならない。
 雷鳴すら脅かす、地獄の大戦は、終焉に向かった――。
14 
 馬の速度を上げすぎないよう、手綱を慎重に操る。馬を捕まえられたのは幸運だった。腕に眠る靄姫の寝顔に見入り、痙攣している瞼に気がついた。
(趙活を、愛していたのだろうか)
(趙の状況は)
(僕を覚えているはずがないだろうが、僕は覚えている)
 聞きたい話は山ほどあった。いや、そんな話をして、気を紛らわしたいという本音かも知れない。 
 もの凄く考えねばならない。両肩には、大勢の命が乗っている。
 ――ああ、今日も陽が昇る。
 暁の空を迎え、すっかり陽が上がった瞬間、趙兵たちは歓喜の声を上げた。新緑が美しいと、助かったのだと口々に喜びを分かち合っている。
「秦の白武将は情のない御方だと聞いておりましたが」年老いた兵卒の言葉に微笑んで、直視できずに馬を進める。
 長平を出て、秦の途中の渓谷に差し掛かった。秦の長旗が合図のように風にはためき、青空の下で兵士は鄭安平の元、整列して武安君・白起を待っていた。
                  *
「趙活は逃げた」と短い報告をして、范雎の如く、付き従って来た将軍を集め、渓谷を降りて畔に陣を張った。
 小川の潺は、より一層、清く見えた。少なくとも、あの人肉の地獄絵図は屈強な白起の精神を病ませた。煌めく世界に、ほっと安堵の息を吐く。
「趙兵三十万を連れて帰るとは! あの言いにくいのですが」と瓏が口火を切り、白起は「分かっているよ!」と言葉を返した。
 靄姫は眼を覚ます気配がないので、ずっと抱き上げたままで行動を共にしている状態だ。
 敵国の将の妻である靄姫。秦に連れ帰れば、拷問が待っているだろう。兵営に置き晒しも恐い。
「趙活の妻は、後ほど、逃がす。趙には戻れぬだろうから」
 女性には、あまりにもな現場だった。伏せた瞼の裏に、あの地獄が甦っていなければいい。その上、夫に突き飛ばされ、転がされた。
 思い出しても、趙活への怒りは止まない。
「では、捕虜を連れて秦へ戻るつもりか」
 ――来た。実は、ずっと考えていた。趙活が見捨てた趙軍は、三十万の大軍。しかも、別働隊を併せると、軽く四十万に到達する。多分、気付いた人間は、白起だけだろう。
 食糧がない。秦までは軽く見ても、十日ほど。軍を率いずに馬だけであっても、七日は必要だ。
 進む先で調達せねば、餓死もあり得る。邯鄲への攻撃も無理。
「秦へは連れ帰らない。彼らは、ここに置いてゆく。殷の呪いに掛かった者も、すべて渓谷に……」
 言葉が詰まった。だが、どう考えても、この考えしか浮かばなかった。
 この渓谷に、すべての捕虜を眠らせる。
(僕も、趙活と変わらない悪鬼だ。人を喰わぬだけで)自己呟きに胸を痛める暇はない。
「それしか、ないだろうな」と鄭安平が立ち上がった。相変わらず迫力のある低い声に、白起の二倍はある剣を肩に背負う。
「見上げた結論だ。――では、今夜、早々に始末する。お前は邪魔だ。ふん、生きている人間を渓谷に落とす度胸など、なかろう」
「秦からの救援物資、全部すっかり出してくれる? 瓏。趙兵は空腹続きで、餓死者も出ている」
 死に行く趙兵への、最後の晩餐は、呪いを掛けられた食糧。それでも、彼らは涙して食すのだろう。果たして作戦には意味があったのか。これならば、以前の韓の戦いのほうが理解できた。
 魏の戦闘も、斉の戦闘も、相手は故郷のために向かってきた。
 しかし、趙兵はどうか。ようやく助かったと、手を取り、未来絵図を描き始めた兵たちだ。しかも大半が一部分を喰われている。
「では、今宵未明に、決行する。夜営をさせて、片っ端から渓谷に叩き堕とせば、ことは済む。馬が得意で、口の堅い将、もしくは、処分すべき将を集めよう。一晩の大仕事になるな」
「俺は反対です! 白武将! それは単なる大量殺戮でしかない! 貴方は平気なのですか? 韓の事件を、よもや忘れたわけではないでしょう!」
 かっと腹が怒りで熱くなる。瓏への怒りではない。これからの趙兵への不遇への怒り。
「平気なわけあるか!」と間髪入れず腹から怒鳴って、震える四肢を預ける如く、靄姫を抱き締めた。
 心を平静に戻して、静かに続けた。「白武将……」と瓏が呆然と呟いている。
「今更だ。僕は相当な人々を斬首している。どのくらい殺したか、覚えてはいないが、今更なんだ。命令違反はきみの家族が死ぬだけだ、どうする?」
 瓏は「そんな」と呟いて、静かになった。多分、人質の身を案じたのだろう。
 白起は熱を持った目頭を片手で押さえ、小さく礼を述べ、謝罪の言葉を辿々しくも口にした。
               *
 夜営は渓谷の畔で行われ、ありったけの食物に、趙兵たちは感謝の意を示し、皆、無言でがぶりついた。薪が配られ、暖を取り、ようやく人の生活に戻れた趙兵たちは穏やかな表情で、横になる。
「行くぞ」
 闇に馬を進める一軍があった。
 人里離れた渓谷。砂煙が上がる度に人の躯が押し出される。
 黒い風の吹き上がった渓谷に落ちていった。
 食べかけの料理は遠慮なく馬に踏み荒らされた。趙兵たちは声も上げられず、次々と奈落に転がり落ちてゆく。決行は、たった百騎。他の秦の兵は、計画を聞きつけて既に逃げてしまった。
 眼を離した隙に、靄姫も消えていた。そのせいで、白起の脳裏は、ただ、靄姫で埋め尽くされる事態になる。
 趙兵三十万の積み重なった渓谷は、小川を潰してしまうだろう。雨燕は巣を壊され、野兎は一緒に圧死だ。
 ――済まない、済まない、済まない――!
 まじないの如く何百回と呟いて、馬の脇腹を蹴り続けた。ざわ、と木々が揺れ、木々の合間からじっと見ている靄姫を見つけた瞬間、馬から振り落とされた。
「白武将!」と瓏の声がした。足掻いた趙兵は数人で白起に飛びかかり、渓谷の崖で揉み合いになった。
 肩を押されて、奈落の上に首を突き出させられる。鄭安平の黒馬が猛速で走り去り、危うく落ちそうになったところを、瓏の手が掴んで引き摺った。
 足がぶらぶらと揺れる。奈落に墜ちてゆく趙兵を見送って、首を振った。ふと、足元に小山が見える。骸の山だ。
その上に、趙兵は削り落とされ、ずるずると骸の山を滑り、暗黒の谷底へ落ちてゆく。
 その途中に、信じられないものを、白起は見た。
 ――龍の石碑――……やはり片眼が外されている。
「何をぼけっとしている! まあいい、ほぼ、落とせたようだ」
 趙兵たちが喜んで、囲んだ篝火の跡だけが無数に残っている。残ってチリチリと燃える火を見ていた白起を一瞥して、鄭安平の馬が走り去る気配がした。
 ――すべて、いなくなった。さっきまで笑い合っていたのに! あっという間だった。
 谷底を覗き込むと、小山が見えた。蠢く小山は、幾人もの怨念を重ねた骸の山。
「うわああああああああああ!」
 白起は無意識に立ち上がり、崖に向かって突進した。「あの、莫迦!」と低いいきり声がして、続いて「お止めなさい! 白武将!」と瓏の声がする。
 白起の眼から溢れる涙は横に流れ、星屑に混じって夜の大気と融け合った。両手を広げて、足を滑らせれば、こんな戦いは終わる――
(もう、誰も! 誰も殺したくないんだ! だから、僕が死ねば、いい。奪えば奪うほど、僕は人ではなくなってゆく――)
 それでも人々は秦に刃向かうから。秦に刃向かえば、呪いの如く、僕は殺せてしまう。
 誰か、この命を奪って欲しい! 手を切り落として、同じように首を刎ねて。
「白武将が!」と瓏の声も虚しく、絶壁から片足を落としかけた時だった。
 ――腰抜けめ。殺した輩の分まで生きるが、お前の使命だろうが。
 空から魏冉の皮肉な声が降り、気がついた時には、崖にいたはずの四肢は持ち上がって安全な場所へと戻されていた。
 断崖絶壁に、音もなく、一人の将が降り立ち、気配はすぐ近くに寄ってきた。月明かり以上に輝いて、ゆっくりと気配は立っていた。
「魏冉! どうして、ここに?」
 白起は駆け寄ろうとして、眼を擦り上げた。もう子供ではない。暴れる自身の子供を押し殺して、白起は震える声で聞いた。
「僕は何も知らされていなかった。殷の呪いも、趙活の行動も、結果、こんな、こんな惨事にするしかなくて」
 ふわりと手が頭を撫でた。いつしか、魏冉より、身長は伸びている白起の頭を撫でるために、魏冉は爪先立ちにならねばならない。
「撫でるな! 僕は、子供ではない」
 魏冉は声なく笑い、背中を向けた。
 鄭安平も、瓏も動いていなかった。むしろ眼を見開き、硬直しているかの様子だ。
 朝陽が昇ってきた。神々しい光に照らされ、魏冉は振り向いた。「なんだよ」と白起は泣き笑いになった。
「覆面、要らなかったようだ。傷の一つもない。魏冉、とても綺麗な顔をしている」
 魏冉はふわりと笑うと、何かを示して、微笑んだ。
 気がついた鄭安平と瓏、その他の兵がどよめき、深く頭を下げる。
 朝陽の中、秦の王の服を大きくはためかせた昭襄王が朝陽に照らされ、静かに立っていた。
「何で……」言葉にならない。
「趙活は逃げたようだな」と低い男の声が響き、気がつくと、魏冉はいなかった。
「白武将、お伝えせねばならぬことが」と瓏が言いかけたが、白武将は龍剣を落とし、地面に座り込んだ。
 立てない。剣が持てない。震えが止まらなくて、歩き出せない。
 昭襄王は靜かに白起の前に屈み込んだ。
「俺は、ただ一つ、魏冉や范雎たちにきつく命じた事項がある。『何としても、白武将を死なせるな』だ。兵力と蓄えを持って励ましに来たのだが。ところで、ずっと震えながらも様子を見守っていた女を保護した。お前のものか?」
 どうしてここに昭襄王がいるのかは、分からない。
 視線の先には靄姫が、ただ、ぼんやりと白起を見つめていた。
 唯一、殺害を逃れた二四〇人の少年たちに混じって、瓏が避難させていたらしいが、そんな理由はもう要らない。
 震え、歩き出せないはずの足が動いた。靄姫の目は怯えの色に染まり、ただ白起を映し続けている。昭襄王を横切り、ふらふらと歩いて、震える小柄な躯を抱き締めた。
「あ、あぁ……いやあああああ!」
 靄姫の瞳は怯えていた。瞳には、ぼんやりと血塗れになった狂った獣が映っている。
「いや、触らないで! 化け物、化け物よ!」
「僕だ! 白起だ! 靄姫!」
 ただ、そうしたかった。それでも、靄姫の瞳は怯えたままで、体温の暖かさを感じる感触も喪ったかの如く、躯は冷たい。
 ――僕は、悪鬼だ。貴女にこうする権利など、有るわけがない。
 眼の前が白くなった。震えた手を掴むと、靄姫はようやく躍っていた視線をゆっくりと元に戻し、大量の涙を溢れさせた。
 釣られて白起の頬にも、一縷の涙が流れた。
「みんな、死んでしまった。靄姫、許せとは言えない! 不誠実だと後ろ指をいくら指されても構わない。死した趙兵よ、僕を恨み、憎めよ! 構うものか! いくらでも嘲笑え! 罵倒すればいい!」
――ぬくもりに包まれて、生きていて良かったと、まだ死ねない、と思った僕を。
 ふと、たくさんの骸が落ちた谷から、大量の笑い声が響いた。笑っている。無数の龍たちが、神が笑っている。
 ここにはいたくはない。いてはいけない!
(ここは、殷のあの墓と同じ気配がする!)
 人の骸が次々に石碑に食われてゆく幻想が、白起を襲った。
「白武将! 勝手な離反は死を招きますぞ!」
 気付くと、白起の手は、靄姫の手をしっかりと握っていた。
「そっとしてやれ」と背中で昭襄王の声がした。
             *
「離して!」と靄姫が手を振り払ったが、白起は黙って力を込めたまま、夜の谷から遠ざかった。
 昼間美しかった景観は、もう美しさは喪われている。歩いて、少しでも渓谷を離れたかった。
 笑い声が聞こえなくなるまで。
「酷いわ! 貴方は、悪魔だわ! みんな、みんなみんな死んだのよ! どうして、そんなに酷い事ができるのよ……っ」
 無言で白起は河原に落ち着くと、靄姫を抱き上げ、膝に乗せた。びく、と靄姫が震え上がった。
「顔に、血がついたままだ。落としてやろうと思って」
 気丈な表情は僅かに緩んだ。しかし、靄姫は飛び退った。
「触らないで! 私は、貴方の敵国の妻よ。殺せばいいのよ!」
「僕と、趙活なら、僕のほうがまだましだと思うけどな。少なくとも、人は喰わない」
 うぅ、と靄姫が嗚咽を漏らして、ヒクヒクとしゃくり上げ始める。
 どうしていいか、分からないのだろう。もう、白起も分からない。
「困ったな……そんなに趙活が好きだったとは」
 無言の頭がぶんぶんと振られた。靄姫は小川に手を突っ込むと、バシャン、と水を腕で弾き飛ばした。
 暴れる腕を掴んで、引き寄せたところで、白起は動きを止めた。
 まただ。動かない龍の石碑が建っている。動きを止めた白起の動作に気付き、靄姫が靜かになった。
「靄姫、ゆっくりと、覚悟して振り向いて」
 ごくりと喉が鳴る。ぎくりとしながら、靄姫は振り向いた。二人の目の前には、大きな龍の石碑が建っている。
「ど、どうしてアレが……」
「そう、同じ石碑だ。僕は進む場所、進む場所であれを見ている。動くはずはない。それにしても、多すぎる」
 靄姫は腕の中で、白起を見上げた。可哀想に、手も足も、埃で汚れてしまっている。
「血を流す場所で、必ず見る。魏にも、秦にも、黄河の畔にも、あった。どれも、瞳がないんだ」
 石碑の足元はゆらゆらと陽炎のごとく揺れている。よく見れば水面に映った龍だ。
「まるで、これでは僕たちは見張られているようなものだ。幼少から呪われているのか。石碑を壊したからか、関連がないとは言えない」
「覚えてない?」と白起は靄姫を窺う。
「趙で、きみも見たはずだ。何か呪いが」
「違うわ」靄姫は再度「違うの」と声を震わせた。
「戦うから、だから、みんなが狂うのよ。もう武器なんか持たないで。武器を持った人を、私は信じない! 話はそれから」
 白起は無言で、龍剣を腰から外した。ばしゃんと小川に投げ捨てた。もう一つは母の形見だ。捨てられない代わりに、ガンガン河原に打ちつけて、刃を弱らせた。
「これでいいか」
「白武将、見て。石碑がない!」
 ――どういうことだ?
 ぼんやりと浮かんでいた石碑は消えている。消えるはずがない。
「空気がねじ曲がったのか。ひやりとするときに幻を見るという」
「何か、怖い」
「ああ」とだけ告げて、震えた肩を強く抱き締めた。
 何かが起こっている。それも、体内、体外の両方で。
(僕たちは、あの場所に向かうべきなのかも知れない)
 ――〝骨があるの〟
 すべてはあの円陣の龍から始まっている。怯えた瞳に頷いて見せて、両手で手を握りしめた。
「靄姫、このまま趙を抜け、逃げよう。君は僕が護るよ」
 靄姫の大きな瞳が瞬いた。
「――僕も、落ち着いたら向かう。楚がいい。楚は、秦の攻撃を受けないだろう直轄地だ」
「殺されるわ、どこに逃げても……」
 怯える瞳に微笑んで、汚れた頬に唇を押しつけた。
「大丈夫。僕に切り札がある。――だから、一度だけ、君を愛させて。僕は悪鬼じゃないと、君が教えて」
 白起は恐ろしさを感じさせないよう、靄姫に触れた。身体は熱くて、狂いそうに靄姫が眩く見える。
(体内が、変だ。分かる。僕はさっき、趙活から血を浴びた)
 少しだけ喉が渇く、不思議な感覚。殷呪は、白起の足元まで、忍び寄っていた。
「靄姫、逢いたかった」
 ――今から、僕は本物の悪鬼に成り下がろう。
 目の前に龍の石碑がぼんやりと浮かぶ。次々と現れて、円陣になる。ねえ、誰か教えてくれ。
 龍とは、呪いとは、石碑とは。生まれて来る、人に非ず異形の虎とは何だ。螺旋のように、戦慄と愛は交差する。
 彼らから見れば、同じ狢。死を意識しながら、靄姫を愛そうというのだから。人はどこまでも罪深くて貪欲だと、目を閉じた――。
             15
 皇宮は俄に慌ただしくなった。趙に遠征していた問題の白起軍の帰還だ。
「趙から軍が戻ってきた。武将はすべて正門に集めよ! 皇宮の女官や、事務たちが怯えの態になる」
 范雎は皇宮への武将の立ち入りを禁じた。
(禍々しい。殺人をのうのうと犯して、彼らは秦に戻って来たのだろう)
 袖の緩い服を揺らし、大臣たちも駆けつけた。
「――すぐに、労いの宴を開きましょう」
「必要はありません。もう、秦の皇宮に、武将は不要! それよりも昭襄王さまは、いつお戻りにな」
 言いかけた范雎だが、続きの必要はないらしい。軍の先頭の天馬を示す光厳の鞍に人々は平伏した。
「ご武運ありで、何よりです。王よ」
 厭味を込めて告げると、昭襄王は「だから、なんだ」というような不敵な瞳を輝かせ、大臣たちを従えて皇宮に吸い込まれて行った。
 後には瓏将軍、鄭安平が続いている。鄭安平と眼が合い、范雎はもの言わず、鄭安平を見詰めた。
 それにしても、兵が少ない上に、捕虜も見当たらない。(白起がいない?)と一際ぐんと目立つ長身を眼で追い求めた。
 ――死んだ、のか? いいや、そのような報告は受けていないし、何かあれば、鄭安平と瓏が書簡を飛ばしたはずだ。
 ようやく冑を脱ぎ、勇ましい頬を晒した瓏将軍は馬から降り、潤んだ瞳を范雎に向けた。
「心配せずとも、家族は皇宮の房だ。王稽は残虐ではあるが、約束は違えぬ」
「そうですか」と、ほっとした隙を狙う。
「時に、武安君の姿が見えぬようですが」
 瓏によれば――
 白起はすべての仕事を成し遂げた後、突然ふらっと姿が見えなくなったという。
 兵を総動員して渓谷を捜索したが、とうとう発見できず、分かったのは兵卒の馬が一頭だけ消えていた状況のみ。
「脱走ならば、追捕ですが。大将たる器ではなかったと、私は解釈します。あの人は、優しすぎた。耐えられず、殷の呪いに掛かった民衆と談笑して、食事をすべて振る舞い、趙の捕虜を渓谷に突き落とす提案をした」
 嫌な予感がする。
 范雎は視線を瓏に向けた。瓏の表情は恐怖を味わったと訴える如く、引き攣ったままだ。
「何があったのか、昭襄王に。白起が不在であらば、膝をつき、報告できる者が行うべきです。瓏将軍、家族との再会は、その後です」
 宰相の台詞を言い終え、范雎は一番気になっていた事項を口にした。
「趙兵は、どうしたのです。我らの調査では、四十万人。趙活は」
「ですから、渓谷へ。――兵士は食糧として、喰われ、無残に死ぬしかなかった! それは、想像ができませんでしたか? 人は、人を喰える。どこまでも残虐な生き物です。趙兵はすべて、我らが秦と韓の渓谷に、馬で蹴り落としました」
「なんと……人のする所業ではない……誠の話ですか……」
 ――眩暈がした。范雎に対して瓏は「すべて、貴方たちが仕組んだ話でしょう」と付け加えた。
                  *
 ずっと不在であった王の台座に、昭襄王が一人で座る光景は正しいが、珍しい。
 宰相として、趙の後始末をつけねばならない。
結局、食糧難に見舞われた軍は、邯鄲への攻撃はせず、秦に戻る措置を採った。
(作戦通りになった事項は、攻撃停止だけか。何という悪夢だ)
 水芭蕉の揺れる池を見ていた王が、ようやく会話に応じてくる。
「して、白武将は未だ戻らずと?」
 黙って聞いていた王稽が、一歩さっと足を踏み出させて、「王よ、これは反逆では」と畳み掛ける。
 王稽の理想は武将の追放。だが、目的はまだ隠されている気がしてならない。
 王稽とは、久しく会話を講じていない。奇病の話も、神の話も、あれきり為されていなかった。
 ――年を重ねるごとに感じる。昭襄王と王稽さまの恐ろしさ。
「宜しいですな?」と低く磨かれた声が皇宮の兵士の前に響き渡り、范雎の鼓膜を震わせた。頷くしかない。兵を連れ、秦に戻らない時点で、反逆の意がある。
「では、武安君・白起の捕獲を」
「その必要はありません。後生です、王よ」
 瓏が声を上げ、両手をついた。「何だ」と王稽が足を上げて、瓏の背中をグリグリと押しているところに、ゆっくりとした足音が響いた。
 范雎がまず動きを止め、皆が動きを止めた。
 綺麗に結い上げられた武将の衣冠、爵位を示すための青珊瑚の首飾と、腕に嵌めた輪。丁寧に織り上げられた上絹と衣裳は長く伸ばされ、束帯はきちんと巻かれて、紫綬羽衣を彷彿とさせる長袍に、篭手。
 眼を惹いた理由は、服装だけではなかった。手にした龍剣だ。血がこびり付いて錆び、まるで使い物にならず、柄の龍は鮮血に塗れていた。
「白起! きみは、また大量虐殺を! 作戦は、どうした!」
 正装で度肝を抜いた白起は、戦く周囲を見渡し、「魏冉……?」と小さく呟いて、昭襄王の正面に膝をついた。
「武安君、只今、戻りましてございます」
 誰もが驚いた。
(お前が王に跪き、爵位名で挨拶する態度など、初めて見た……)
「ご苦労だった。――見事な戦いよ。上党は我ら秦の領土になった。韓も、魏も、八割は掌握したであろうよ。褒美は何がいい? 新たな龍剣か? 使い物になるまいよ」
 白起は頭を上げず、じっと動かないまま、小刻みに震えていた。
「では、瓏の家族の解放、更に、趙の生き残りの追捕を一切せぬように所望します」
 聞いていた周囲にピンと空気が張り詰め、俄に不安が広がった。
 衣冠を両手で外した白起の髪は、短かった。無残に切ってしまった毛がはみ出て、頬で遊んでいる。
「僕は、二度と戦わない。これも、お返しします」
 剣を丁寧に差し出し、「では」と立ち上がった。「待て」と昭襄王が子供を諫める如く、口にした事実に、范雎はまた倒れそうになる。
「あの女は、どうした。驚いたぞ。随分と親しかったようだが」
「僕に、これ以上彼女を愛でる権利はない。それだけお伝えしますよ」
 冷静ではあるが、どこか感情を我慢している声音だ。それでいて、諦めているような。
(これは、誰だ。私の怯えた白起ではない。お前は、もっと向こう見ずで、強かったはずだ)
 よろよろと立ち上がり、肩を落として歩いた白起に、誰も声を掛けられなかった。既に大量虐殺の報告を聞いた人間は、当然ながら、逃げる如く道を開ける。
 白起は、范雎の前すらも、素通りした。
(駄目だ、我慢できない。分かっている。私も、君も年を取ってゆく現実は。それでも、君から勢いを取ったら、何が残る!)
「白起! 何だ、その豹変ぶりは!」
 周辺の人間も、昭襄王も驚愕して動きを止めた。王稽の鋭い視線に立ち向かうつもりで、范雎は白起の腕を掴んだ。
 まるで、希望が枯れてしまったかのような。馬鹿げている。この男は人殺しだ。それでも、范雎の胸には、あの日、渭水で眼を輝かせていた少年が生きていた――。
            *
 白起は足を止めて、白起は振り返ると、「ああ、宰相さま」とふわりと笑った。
 魏冉がよく、「白起、今良いかのう」とこんな風に笑ったものだ。
「范雎。魏冉が僕に逢いに来た。不思議なこともあるものだ。僕は貴方たちを許さないが、殺しはしない。これ以上、誰も殺さないと、約束した」
「そういう話では……剣を返していいのか。大切なものなのでは」
 〝武器を捨てて、戦いを止めて〟
 靄姫のあの夜の囁きはしっかりと胸に残っている。
(僕の大切なものを、お前たちは奪う。そんな理屈にも気付かなかったんだよ。命をいくつ、無駄に眺めたろう)
 靄姫の必死の抱擁が、血みどろの戦いから遠ざけてくれた。
 フフ、と笑うと、白起はそれでも澄んだ瞳に、今度は范雎を写し返し、昭襄王に頭を下げ、去った。
 外に出ると、咸陽は荒れ果てていた。頭上には大量の蝙蝠に、もはや始末仕切れない骸が転がっている。
 ――これが、僕の罪か。
 秦の皇宮は遠征の間に、まるで知らない場所のように作り替えられている。
 趙との戦いの間、二つの季節を超えていた。
 雪解けの光景なはずの皇宮の庭は、新緑で溢れ返っている。伸びた柳が一緒に風に揺れている。
 熊猫や狸が降りてきた竹林もなくなっていた。いや、皇宮自体が少しずつ、移動しているのだ。
「魏冉の館は、こっちか」
 一歩進んで、引き摺った正装の裳に眉を顰める。伸ばした帯を抱え、歩くべきだった。
 また、さわさわと夏風が吹く。
 夏に近づいた陽光を手で遮って、白起は足を止めた。
 ――何も、ない。
 死ぬ気で走り抜けると、断崖絶壁に辿り着いた。驚愕を通り越し、必死で周囲を見回す後から、雅な声がする。
「なんだ、せっかくお仕着せを手配したに。もう泥だらけになっておる」
背筋を伸ばし、気品を溢れさせる上衣を肩に掛けた、昭襄王の貴妃・華耀だ。
「ああ、助かった。劉溫婆さん、不在だったから。ところで、魏冉の……」
「驚いたようじゃの。白武将。武将なら分かるはず。館の主の謀反は、館ごと消されるが必定であろうが」
 無言で瞠目するだけの白起に「見よ」と華耀は、ほっそりとした腕を伸ばして見せる。
「魏冉の館は、魏冉の処刑と同時に、壊された。妾は胸が痛ぅわ。范雎は、まるで毒蜘蛛よの。まあ、妾も人の話はできぬ。どうじゃ、白武将。妾の服は健美であろう。輿入れに着ていたものじゃ。少し紅も濃いめだが、お前は気付かないのであろ?」
「華耀、何があったんだ――」
「魏冉は処刑された。妾も本来は罰を受けるべきじゃが、范雎がないことにした」
(死んでいた? 処刑、された?)
 ――では、あの、長平で振り返った姿は――そうだ。あの時、魏冉の顔は、とても綺麗に光射して輝いていた――
脳が弾けた瞬間、膝が急激に折れた。両手を拳にして、震撼させる如く、地を叩き、何もなくなった場所に頭を抱えて蹲った。
「どうして! 僕の帰りを待たなかった! 魏冉!」
 己の影に包まれて、地面を睨んだ。遠くから、魏冉の声が響いて来た。
〝のう、儂の素顔が見たいか。見せても良いぞ、白起。お前は、儂の子飼いじゃろ〟
(僕は後でと強く言い返した。あんな会話が最後だなんて! 魏冉、あんたは悟っていたのに! 素顔を見せたかったんだ。僕にだけは、知ってて欲しかったんだ!)
 なんという、子供であったのか。
嗚咽が込み上げた。
 何十万人いようと、他人の死には動じない。いや、心を喪失して、信念に基づいただけだ。鬼になったからこそ、龍剣を振るえた。
 しかし、鬼の白起からは、様々な命が零れて、毒蜘蛛たちの餌食になった。肩を震わせても、喪った命は戻らない。
 唯一無二の、本当の味方を亡くしてしまった……っ。
(靄姫、僕は、どうしたらいい……)
 楚王の持ち込んだ殷呪。趙の壊した龍は元には戻らない。
「白武将、そなたには妾と違い、未来がある」
 また、ダン! と地を叩いた。何度も何度も叩く手に、手が重なった。華耀は微笑み、蝶の如く、身を翻した。
「妹を殺めた妾は、どこへ行くのか――決まっておろう。魏冉を嵌めた罰さな」
「華耀! 待て、待つんだ! 貴女が死ぬことはない!」
 一瞬の隙だった。貴妃服が舞い上がる。飛び込んだ肉塊に気付いた殺人大鴉が、喜び勇んで渓谷に飛び込んでゆく。
 白起は太い幹に手を掛け、唇を噛みしめた。眼の前に血飛沫と、黒い羽が舞う。
 ――まだ、僕に人の死と哀しみを見せつける――。
「白起」声に気付けば、范雎がいた。相変わらず気苦労が多そうな眉をしている。
「華耀が、飛び降りた……范雎! 秦は、咸陽はどうなってるんだ! 毎日のように人が追い詰められて! これが君と昭襄王の言う護るべき国の姿か!」
 范雎の唇は震えていた。白起は首を傾げ、同じく震える唇で告げた。
「趙の……趙活の妻は、僕が殺した。今後、趙活の血は途絶える。趙国は事実上、終わる……」
「ご苦労だった……白起。これからどうするつもりだ」
 指で鉢巻きを解いた。手に乗せた白い帯は風に舞い上がる。
 白起は唇を噛みしめた。
「分からないが、これだけは言える。僕は二度と、戦わない! 約束したから。だから、趙の生き残りを見逃して欲しい……! 君ならばできるのだろう!」
 范雎の眉が下がった。頭脳明晰な男だ。白起の思惑など、一瞬で看破する。靜かに白起を見下ろしていた。落ちた鉢巻きを拾い、丁寧にくるくると巻いて見せる。
「ボクには分からぬ事項がある。殷呪とは、いつから生まれた?」
「悪いが、僕には呪いかどうかすら不明だ。ただ、これだけは分かる。僕は龍に見張られている……!」
 白起は記憶を必死で掘り起こしていた。
 趙の渓谷に浮かび上がった龍の石碑、黄河のほとりに現れた龍の蜃気楼、韓にも、神山にも、楚の平野にも、秦の渭水にも、趙の市街地にすら立っていた片眼の龍たち。
 ――ひとつ、引っかかりがあった。白起は思考を深めていった。
 何かが引っかかる。「白起?」と范雎が窺う。
 哀しみと、戦慄の向こうに、何かを置き去りにしている。
「駄目だ! 思い出せない!」
 両手で頭を強く押し、左右に振ると、浮かぶのはいつだって韓の戦いの死に顔の数々だ。
 そこに、趙の大量虐殺の記憶が加わる。狂いそうだ。
――白起、あたしを見なさいよ……。
 はっといるはずのない靄姫の声が聞こえた。狂気の畔、靄姫はいつだって「行きましょ」と手を引いてくれる。
「ボクは、秦の宰相として、やるべき事項がある。場合によっては、処分も辞さないが、果たしてどこまで立ち向かえるか」
 范雎は小さく笑った。
「君がいてくれたら、と思うよ。はは、武将を排除すべき私が、誰よりも殺して戻って来た君をここまで……」
 白起の眼にも涙が浮かぶ。
「昭襄王を頼むよ。――僕は二度と、この宮殿には来ない。そうだな、永久に腹を壊したと。いつぞやの桃泥棒の犯人は、僕でしたとでも。――僕はもう、戦わない」
 言い切って空を見上げた。大きな天鼠が空に飛び交い、殺人鴉が嘴を研いで、羽ばたいてゆく。
 ――間違ってはなりませんよ。本当の幸せへの道を。
 空に響く母の声に頷き、白起は、何十年と仕えた昭襄王と、秦の後宮を去った――。
             *
 貴妃華耀の死の原因は、すぐに判明した。皇宮内で、息絶えた宝麟の変わり果てた姿があった。妹に嫉妬した姉の悪魔の慣れの果てだ。貴妃同士の軋轢など、いくら激しかろうが、秦の歴史には何ら影響はない。
 昭襄王は、宝麟を抱き締め、三日三晩に亘って泣き明かしたと、風の便りで聞いた。聞いたところで、駆けつける所業はもうできない。白起はせめてものと、一縷の涙を餞にした。

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