君に私を○○してほしい

しげぞうじいさん

ツゲル

 だけど最近、母さんの様子がおかしい。
 朝早く起きてリビングに行く途中に母さんの部屋の前を通るのだが、その中から母さんの苦しそうな声が漏れてくる時がある。
 その時は扉を開けて中に入るのだが、いつも母さんは毛布を被って「……大丈夫」と小さな声で言う。
 母さんは何か大きな病気になったんじゃないかと思い、家を訪れたアベルさんに相談するが、わからないと。
「長い付き合いだが、あいつが苦しそうな声をあげている、なんてことは記憶にない。他に何か気になったことはあるか?」
「時々、食器を落とすことがあります。その時は手が滑ったと言ってますけど、これは何か関係していますか?」
「食器を落とすぐらいなら単純に手が滑って落としたぐらいだと思うが……一応、医療関係の本で調べてみる。本当なら医者に診せるところだが、あいつは医者嫌いだからな。無理に引っ張って行っても全力で逃げるぞ」
「そうですか……」
 これはアベルさんに解決してもらうしか手はないようだ。
 何も出来ない無力な自分が悲しい。
 一人でミナさんと楽しく話をしている間、母さんは一人で苦しんでいることを想像するととても心が痛む。
 これからはしばらく母さんの面倒を見なければいけないな。
 しばらくの間、母さんが落ち着くまでミナさんと会うことは止めておこう。
 家事を僕一人で全てやり、母さんが病気と闘えるように栄養があるものを作るけど、母さんはあまり食べない。それどころか、昔と比べて食欲が落ちている。
 昔……と言うか前まで体調が悪くなかった母さんは出された料理は全部食べた。だけど、今では半分以上残している。これでは病と闘うなんて無理だ。
 ベッドの中で苦しんでいる母さんの横に座って、母さんを見守る。
「……母さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫。大丈夫だから……。迷惑かけてごめんね」
 無理しているのがわかるぐらいの笑顔を作って僕に向ける。それがより一層僕の心を痛めつける。
「迷惑だなんて……僕は母さんに元気になってもらいたいだけなんです。昔と同じように、笑って、喜んで、楽しく過ごす。そんな生活に戻りたいだけなんです。その為なら僕のことなんてどうでもいいんです」
「……どうでもいい、か。ノア」
 母さんの声のトーンが低くなる。
「他人の為に自分を犠牲にする。それはとても良いことだ。……周りから見ればね。でもね、息子が我が身を犠牲にしているところを見るのは親として辛いんだ。嬉しいけど、辛い。本当に嬉しいんだけど、自分の人生を潰すことまでしてほしくない。これだけは覚えておいて。“母親は我が子の幸せを願っている”」
「……わかりました」
 我が子の幸せ……僕の幸せ……
 僕の幸せは母さんと楽しく、そして一緒に暮らすことだ。
 この先何があるかわからない。もしかしたら母さんが突然死んでしまうかもしれない。
 そんなことになるぐらいなら、一緒にいる方が何倍もマシだ。
 例え、自分の命を投げ出すことになっても……僕にはそれをするだけの意味がある。
 奴隷として悲惨な人生を送るはずだった僕を買い、ここまで育ててくれた母さんの為なら喜んでこの命を差し出そう。それが死に神相手だろうが、悪魔だろうが。

 母さんの世話を付きっきりで、していると時々ミナさんが様子を見にやって来る。
 その時の母さんは起き上がって、ミナさんと楽しく話をしている。
 でも、それが無理をしていることは僕たち二人にもわかった。
 このまま良くならないんじゃないかと隠れてミナさんと二人で相談する。
「やっぱり医者に診せた方が良いんじゃないの?」
「でも母さんは医者嫌いだって聞きましたし、引っ張って行っても全力で逃げる、と」
「そうしてでも行かせないと! もしかしたら命に関わる病気かもしれないのよ!? 見ている方が辛いわ……」
「……」
 何も言えない。言い返せない。
 そう、悪いのは僕だ。
 母さんの医者嫌いを理由にして、街に行くことをしない。
 母さんの体調を理由にして、医者に診せない。
 この場合、圧倒的に悪いのは僕だ。
 それでも、母さんが嫌だと言うのだから……
「街に行かなくても、医者をここまで呼んで来たら……」
「……ダメです。無理なんです」
「どうして? 何で無理なのよ?」
「アベルさんが医者を連れて来ようと何度も試したそうです。ですが、『医者がここまで来れない』そうです。“連れて来ても途中でいなくなる”そう言っていました」
「そんな……じゃあ、どうしたら……!」
 やっぱり無理してでも母さんを街にまで行かせるべきか。
 このまま放置していれば、間違いなく母さんの容体は悪くなる。いや、悪くなるなんてものじゃない。
 このままいけば……母さんは『死ぬ』。それだけはわかる。

 そんな疑問を抱き、不安を抱えながらも、僕は母さんを街に行かせることをしなかった。
 母さんの悲しむ顔が見たくなかった。
 そんなことを言い訳にして、母さんを死に導いているのだ。
 僕と言う人間は何て最低な奴なんだろうと、何度も何度も自分を責めている。
 その姿は決して母さんに見せない。悲しむ顔が見たくなかったから。

 二日、五日、七日、十日、二十日。
 何もせず、ただ時間が流れていく。残酷にも、非情にも、無慈悲にも。
 母さんは段々弱っていく。もう部屋から出てくることがなくなった。
 それに、母さんは僕を部屋に入れようとしない。食事の用意、着替えも全て部屋の前に置いておいてくれ、と僕に言って。
 その言葉通りに従い、僕は母さんの顔、体をしばらく見ていない。今、どんな顔をしているのか、わからないのだ。
 母さんの気持ちはわかる。弱っている姿を僕に見せたくないのだ。
 一人で食べる食事も、美味しいとは感じなくなった。
 寂しいと思い始めていた。
 ミナさんと会っても、楽しいとは感じなくなった。
 身近な人が苦しんでいる、それがどれだけ辛いことか、今になってやっと理解出来た。
 ある日、日常品の予備が無くなったので、街に行かなくてはいけなくなった。
 そのことを扉の向こうにいる母さんに報告し、街に行くと言った。
「……気を付けて」
 とても小さな声だったが、はっきりと確かに聞こえた。
 それに僕は返事が出来なかった。何も言えなかった。
 玄関の扉の鍵を閉めて、街へ行く道を一人で歩く。
 街に行くのは楽しみだったはずなのに、今はとても辛い……
 景色が変わり、街の中で必要な物だけを買いそろえる。
 そして全ての買い物が終わり、家路につく。前を見ずに、下を向きながら。

 母さんは大丈夫だろうか……

「……ノア」
 目の前で聞きなれた声が聞こえたので、顔を上げる。
「……ミナさん……」
 そこには目の下にクマが出来たミナさんが立っていた。
 しばらく会わないうちに、彼女の顔はやせ細っていた。
恐らくあまり眠れていない。母さんを心配して……
「フェイトさんの容態は……?」
「……母さん、もう部屋からも出てこないんです……」
 事実を言った。隠していても無駄だとわかったからだ。
「どうすることも出来ないの……?」
「アベルさんが色々な手を尽くしています。それでも……」
 母さんはアベルさんにも会ってない。僕と話をして、母さんの状態を聞き、そのまま帰って行く。
 それが一週間前。何も変化はない。
 他人に任せることしか出来ない僕は、今出来るだけのことをする。
「……やっぱり引きずってでもここに連れて来ましょう」
「……それしかありませんね」
 結論は出た。あとは実行するだけだ。
 だが、足が動かない。立ち尽くしたままだ。
 街を歩いている通行人が僕たちを邪魔そうに体をぶつけていく。それを僕は抵抗もせず、何も言わなかった。
 しばらく立ったままでいると、ミナさんが僕の方に歩いてきて、そして
 バチン!
 頬にビンタを貰った。
「何をボケっとしているの! 自分の母親でしょ!? 息子がしっかりしないとダメじゃない!」
 彼女の声が周りの通行人の注目を集める。
 それでも彼女の声は止まらない。
「あんなに優しい人を見捨てるの!? それでもあなたは人間!? それとも悪魔!?」
「……」
「見殺しにするの!? あなたには心と言うのが無いの!?」
「……」
「苦しんでいる時に助けられるのがどれだけ嬉しいのか、それはあなたが一番よくわかっているはずでしょ! ナイト? ふざけないで! 今のあなたは騎士じゃない! ただの傍観者よ!」
 その通りだ。僕はただの傍観者。騎士とは程遠い。
“誰かを守る想いがあってこそ、騎士だ”
 母さんの言葉を思い出した。
“私の騎士様”
 それはもう何年も昔のこと、母さんとチェスの勝負をして負けた時に言われた台詞だ。
 あの時の僕なら今の僕を殴り倒している。
 あの時の僕の心なら、考えなら……
「……ありがとうございます、ミナさん」
 やっと、やっと目が覚めた。
 ずっと暗闇の中を漂っていたような感覚だった。それを今、ミナさんと言う光が僕を照らしてくれた。
「そうですね。僕は傍観者。……ですが、僕は母さんのナイトだ。いや、これからなるんだ!」
「その意気。じゃあ、早く行きましょう。私たちのお母さんを助けに」
「はい!」
 ミナさんと一緒に走って家に戻る。
 それは買った物が落ちても。
 それは足の筋肉が悲鳴をあげても。
 それは肺に酸素が足りなくなっても。
 走り続ける。大好きな人を助けに行く為に。

 走るスピードが落ちる。だけど、足は動かす。前へ、前へ。
 人にぶつかる。だけど、足を動かす。家へ、家へ。
 荷物が落ちる。だけど、腕を動かす。腕を、手を。

 彼女と一緒に走り、街の景色が変わり、いつもの世界へ行く。
 そして、十分足らずで家にたどり着き、家の扉を蹴り破って家の中に入る。
「母さん!」
 家の中に入った瞬間に……言葉を失った。
 家の中は……誰かに荒らされた、誰かに襲われたように、滅茶苦茶にされていた。
 壁のあちこちに爪で引き裂いたような跡が。
 床のあちこちに爪でえぐり取られた跡が。
 何が遭ったのか、想像は出来ない。恐怖が襲って来た。
 しかし、母さんを助ける為だ。ここで負けてはいけない。
 恐怖を押し殺し、家の中を歩き、母さんが寝ている部屋に向かう。が、そこに母さんはいなかった。
 否、母さんはリビングにいた。
 壁にもたれて僕たちが帰って来るのを待っていたかのように。
「母さん!」
「……ああ、ノア。それに……ミナちゃんも」
 小さな声だった。とても、とても小さな声だった。
 だが、母さんが怪我をしているわけではなさそうだ。そこを確認すると安心した。
 母さんの元に近づき、母さんの体に手を伸ばす。
「今、病院へ連れて行きます」
「……その必要はない」
「でも、そうしないと……!」
「……いいんだ。私はもうじき、死ぬんだから」
 聞きたくなかった。耳を塞ぎたがった。口を塞いでおきたかった。
 母さんの口から“死ぬ”と言う言葉を聞きたくなかった。
「私はもうじき……死ぬ。もうすぐ、私は私でなくなるんだ」
「どういう……意味ですか……?」
「言葉の通りだ。私の右手を見てみろ」
 母さんは背中に隠していた右手を僕たちに見せた。
「……なっ!?」
 母さんの右手は、人間の手をしていなかった。否、人間の手の形をしていなかった。
 あの白くて綺麗な肌が、綺麗な爪が、綺麗な指が。
 おぞましい……異形の怪物のような――手に変わっていた。
「これでわかっただろう? 私は……人間じゃないんだ」
 認識出来なかった。だが、理解は出来る。
「……知ってますよ」
 僕はそう言った。
 母さんとミナさんの顔が驚きの顔に変わる。
 それもそうだろう。僕が母さんの正体を知っていた、なんて。
「八年前、僕が誘拐された時に知りました」
「なんだ、起きていたのか……。それなら話は早い。そうだ、私は人間じゃない、怪物だ。名前もない怪物。だけど、生きている。人間のふりをした怪物。それが私だ。……ミナちゃんは驚いているけど、理解出来ているのかな?」
「……フェイトさんが怪物でも、人間じゃなくても……ノアの優しいお母さんだと言うのは変わりありません。……そして、私のお母さんでもあります」
「嬉しいね、娘が出来たよ。……ノア、一つ頼まれてくれないか? 私の、今までの私の最後のお願い、我が儘を聞いてくれないか?」
「……わかりました。でも、最後じゃありませんよ。これかも、ずっと……ずっと」
「嬉しいけど、最後だ。正真正銘、最後の我が儘だ」
 怪物の手に変わっている母さんの右手が動き、その手は母さんの胸を刺した。
 血が流れ、肉が裂けていく。
「いてて……やっぱり痛いな……」
 母さんが苦痛の表情を浮かべている。
 でも、それを止めることは出来ない。母さんの『我が儘』だから。
 その手がある位置まで沈むと、母さんの左手が動き、開いた傷の中に突き進んでいく。
 そして、母さんは傷を大きく開け、その中にある内臓を僕たちに見せた。
「見えるかな。これが私を怪物へと変えた物だ」
 母さんの心臓が見える。ドク、ドク、と鼓動を立てて、動いている。
 だが、それに一つだけ違うものがあった。
 母さんの心臓に刺さっていたのは……釘だった。
「これ……は……?」
「それは聖遺物だ」
 後ろから声が聞こえた。反射的に振り返る。
 僕たちの後ろにいたのはアベルさんだった。そして、その顔には悲しみの顔が。
「せい……いぶつ……?」
「そう、聖遺物。宗教で有名な、世界に西暦と言う文字を残した聖人の手に刺さった釘だ。彼の釘は世界中に散らばり、そしてことごとく消えた。だが、その中の一本がそれだ。本当の、本物の聖釘。フェイトを怪物に変えた代物だ」
「なんだ……知っていたのか……。まあ、当然だな」
 母さんは納得しているが、僕たちは納得出来ていない。
 何故そのことをアベルさんが知っているのか。そして何故母さんは怪物に変わったのか。
 その疑問に答えるように、アベルさんが語る。
「何故俺が知っているか。それはこいつを監視する為」
 一歩ずつ歩いて近づいてくる。
「何故監視するのか。それはこいつが人を喰らわなければ生きていけない為」
 また一歩。
「人を喰らう怪物、食人鬼。吸血鬼とはまた違う怪物、名前のない怪物、それがフェイトだ」
「おい、アベル……肝心なところが抜けているぞ……」
「何故フェイトがそうなったか。それは昔のある国がそうしたからだ。戦争に備える為、世界一の強国としているために」
 アベルさんが僕たちの傍まで近づき、しゃがみ込み。
「昔の国々は何が何でも他国より強者でいたかった。錬金術、魔術、呪術、あらゆる方法を使っていた。そして、ある馬鹿がその釘を発見し、昔の……二百年前のフェイトの心臓に刺した」
 二百年前……それは気が遠くなるような年月。
 その長い長い年月を、母さんは一人で生きていたのか……
「フェイトはただの一般人だ。何の罪もない、ただの国民だ。選ばれたのは、ただ運が悪かっただけ。そう答えるしかない」
「なんで……それをアベルさんが……」
「仕方ないだろう。それをしたのは俺の先祖だ。だから、監視しているのさ」
 母さんが小さな声で笑っている。
「本当に……なんどお前を殺したいと思ったことか……」
「殺してくれても良かったんだぞ。それでお前の気が済むのならな」
「……いいや。気が済まない。面倒だしね」
「……もう、時間か?」
「ああ、そうだ。私は人を喰うことを止めた。その反動が来ているんだ。人を喰いたい、襲いたいと言う私の中の怪物がそう言っている」
 理解が追いついていない。
 ここにいる二人とは違って、僕たちは理解が出来ていない。
 思考が追いつかない、脳が動いていない。
 理解しなければ、認識しなければいけないのに、受け入れられない。
「……理解なんてしなくてもいい。ただ、私がお前の母親だと言うのを覚えていれば、それでいい……」
 母さんが優しくそう言う。
「で、だ。私の我が儘と言うのはだな……」
 母さんが僕の手を握る。血に染まり、血に濡れた手で僕の手を掴み、自分の体に引き寄せる。
「君に私を殺してほしい」
 それは……とても残酷な我が儘だった。

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