君に私を○○してほしい

しげぞうじいさん

ハナセル

 ここで待ってどれくらいの時間が流れたのだろうか。時計を持っていないので時間がわからない。それにここには時計も時間を表すものもないので、余計にわからない。わかるとしたら影の移動だけだ。
 もしかしたら僕は騙されたんじゃないかと言う不安に襲われてしまう。
 また騙される。あの時のように……九年前のあの時のように……
 思い出したくもない記憶を思い出して、顔から血の気が引いてくのがわかった。多分今の僕の顔を誰かが見たらすぐに病院へ行かされるぐらいだ。それぐらい嫌な記憶だった。
 トントン
 誰かに肩を軽く叩かれる。誰だろうと思い、目線を外からその方に向ける。
「お待たせ。まさか律儀に待っていてくれるとは思ってなかった」
 ミナさんだった。服が変わっているけど、顔はミナさん。本当に来てくれたんだ。
「何飲んでいるの?」
「コーヒー。初めて飲んだから苦くて苦くて。とても飲めたものじゃないです」
「じゃあ、砂糖とミルク入れたらいいじゃない」
「コーヒーってこの黒い液体だけじゃないんですか? その二つも入れていいんですか?」
「良いに決まってるじゃない。どれだけ世間知らずなの、君は」
 いや、コーヒー自体初めて見たものなので、これだけかと思ってたし。それに飲み物に砂糖やミルクを入れても良いと言う事にも初めて聞いた。
 世間知らずと言うのは間違ってないけど、何だか嫌な言葉だな。
 僕と向かいあってミナさんは椅子に座る。そして店員にカフェオレなるものを注文していた。
「カフェオレって?」
「あなた、本当に何も知らないのね。カフェオレはフランスでのコーヒーの飲み方。そのコーヒーにミルクを入れた飲み物よ」
「じゃあ、なんでカフェオレとコーヒーと分けられているんですか? 一緒にすればいいのに」
「苦い方がいいって人もいるの。なんだか私、先生になったみたいだわ」
 僕は何だか生徒に戻ったような気分だ。
 今でも時々母さんに何かを教えてもらっているけど、昔のように何でも教えてくれるわけじゃない。僕が色々聞きすぎて、聞く機会が無くなっていったからだ。
 この感覚は懐かしい。
「それにしても本当に久しぶり。あの時、ほんの少ししか話をしなかったのに、あなたの顔を覚えていたなんて。見るまでわからなかったわ」
「僕もですよ。まあ、僕にとっては話す人自体が少なかったので、あの時は印象に残っていましたけどね」
「まさか……ボッチ?」
「似たようなものです」
 苦いコーヒーを飲んで、すぐに飲むのを止める。これを二時間も繰り返していたのか。通りで冷めているはずだ。冷めているのに中身は全然減っていないという謎。うん、興味深い。
「私もボッチだったわ。友達なんていなかったもの」
「どうしてですか? 話す人がいれば、自然に友達になれるものじゃ……」
「話す人はいたわ。でも友達と呼べる人は誰もいなかった。心を開くことが怖くなったの。事故に遭ってから……ね」
 これは心の傷、と言う奴だな。僕にも似たようなことがあるから親近感が湧いてくる。
 母さんが言っていた。
”心の傷は簡単には治らない。例え、治ったとしてもそれはもう元の心じゃない”と。
”壊れた物は直せば良い、と言うのは第三者の意見だ。壊れた物は何をしても元通りにはならない。必ずどこか、元の物とは違うところがある。それを理解出来ずに他人にそう言うのはただの愚か者だ”
 この言葉を言った母さんは悲しそうな顔をしていたっけ……
「でも、生きているだけ良かったわ。死んじゃったら何も出来ないもの」
「そうですね。死んだら何も出来ない。死者は想いも伝えられず、何も残せない。残せるのは悲しみだけ」
「それはあなたのお母さんの言葉?」
「ええ。母さんは僕の先生なんです。何でも知っているんですよ」
「そうなんだ。私もノアのお母さんの授業を受けてみようかな」
「止めておいた方が良いですよ。母さん、説明するときりがないですから」
 笑いながら冗談を言う。冗談ではないけどね。
 そのまま僕たちは雑談、世間話をしながら長い時間を過ごしていた。それは建物の影が、人の影が大きくなるまで。
 何分、何十分、何時間経ったのかはわからない。それほどまでに僕は話しに夢中になっていた。
 母さんやアベルさんと話すとはまた違う楽しさだ。純粋に楽しい。
「そろそろ日が沈む頃ね。あなたは帰らなくて大丈夫なの? 遠くから来てるみたいだし」
「大丈夫じゃないかな。今まで一度も怒られたことは無いし。と言うか、家からあまり出なかったから」
「学校は? 行ってないの?」
「事情がありまして。行けなかったんです。だから僕の先生は母さん、全てを教えてくれたのは母さんなんです」
 元奴隷だと言うことは絶対に隠し通す。何を言われるか、たまったものじゃないから。
 ミナさんは、僕が母さんのことを話す時、とても嬉しそうな顔をしていると指摘してきた。実際そうだ。あんな素晴らしい人を今まで見たことがないから。大好きだから。
「今日はここでお開きにしましょう。遅くなると物騒だから」
「送って行きましょうか?」
「素敵な提案ね。じゃあ、是非そうさせてもらおうかしら」
 席を立って、飲み物代を払う。僕が持っている母さんの財布で。これぐらい、母さんは許してくれるだろう。
 店を出て、外の風がさらに冷たくなったことを感じる。夜になると冷えるからな。
「寒いね」
「そうですね。もう冬になる頃ですか。今年も雪は降るんでしょうか」
「降ってくれたら嬉しいけど、素直に喜べないわ。だって、転んじゃうもの」
「その時は僕が支えてあげますよ」
 彼女は”えっ?”と言う顔をしていた。僕は何か間違ったことを言っただろうか。
 母さんに教えられたとおりに人に優しくしているつもりだけど。
「……ふふ。やっぱりあなたって人は面白いわね。それじゃあ、お言葉に甘えて、私がころびそうになったら支えてね」
 微笑みを浮かべて僕にそう言って来た。
 そのまま僕たちはミナさんが住んでいると言う家に向かった。
 道中、暗くなってきたけど、街の灯りは明るい。足元にさえ気を付けていれば問題ないだろう。

 ミナさんの家はカフェからしばらく歩いたアパートだった。
 そこまで無事に送り届けて、別れようとしている。
「今日は会えて良かったわ。また会える?」
「縁があれば。それでは、ありがとうございました」
 頭を下げてこの場から去る。
 後ろを振り返って彼女の姿を見ると、彼女は前と同じようにいつまでも手を振っていた。それは僕が角を曲がるまでずっと。
 一人で家に帰るのは初めてなので、少しだけ不安だ。ちゃんと道を覚えているだろうか……
 自分の記憶を頼りに元来た道を戻るけど、段々見知らぬ場所に来たしまった。
 このまま帰れなかったらどうしよう……!?
 その不安がさらに大きくなり、少しだけ泣きそうになった。
「やっぱりね」
 後ろから聞きなれた声。振り返る。
「ノアは道を覚えてなかったね。追いかけてきて正解だったよ」
 母さんだった。後ろには母さんがいた。両手に何個かの紙袋を持っているのは置いておいて。母さんが助けに来てくれたんだ!
 少しだけ嬉しい気持ちがした。
「ほ~ら、帰るよ。そんな泣きそうな顔をしていないでさ」
「な、泣いてませんよ!」
「鏡見てみる? 今にも泣きそうな顔だけど」
 顔の筋肉を指で動かして泣かない、いつもの顔に戻そうと試みる。
「……楽しかった?」
 優しい声でそう聞いて来た。
「ええ。とっても楽しかったですよ」
 笑顔には笑顔で。だから僕は笑顔でそう答えた。
「良かったね。じゃあ、家に帰ろう。お腹空いた」
「時々思うんですけど、母さん、何だか子供みたいですね」
「心は少女のままだからさ」
 アベルさんがいつもタブレットで読んでいる雑誌のキャッチコピーみたいなことを言って誤魔化した。僕はあえて追及しない。
 母さんと一緒に夜の街を歩く。寒いので息が白くなっている。
「何で寒い時って息が白くなるんですか?」
「人間の体温は三十六度から三十七度まで。それに比べて冬の気温はそれより低い。だから体から出てきた三十六度近い息は寒い気温で一気に冷える。息の中に入っている水蒸気が凍って白い粒上になるんだ。科学的に考えればこうなる」
 なるほど、勉強になった。
「ノアは世間知らずだからね。これからもずっと私に教えてもらうのかな?」
「そうなりますかね。どこかへ行くって言うあても無いですし」
「ミナちゃんはどうだ? あの子は良い子だと思うけど」
「良い人ですけど、そういう関係じゃありませんし。もしかしてからかっているんですか?」
「半分はね」
 残りの半分は一体何なのか、それを追求していたが、はぐらかされてしまった。やっぱり母さんはずるい。肝心なところは話してくれないんだから。
 そうしながら夜の街の中を歩き、いつものように一瞬で景色が変わる。
 それを気にすることはない。気にしても仕方がないことだから。母さんは教えてくれないし。

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