一話完結型短編集

阿久津 太陽

金木犀の妖精


ひんやりとした風が、僕の短い髪をゆらした。頭上から降る、小さな橙色の花。さながら流星群のように、どっしりとした大木から流れ落ちてきた。思い出がある訳でもない、そのはずなのに、何故か懐かしく感じられる木だ。
「好きなんですか?」
突然、背後から声をかけられた。少し身を震わせて振り返ると、色の白いふっくらとした頬の女が立っていた。
「好きなんですか?金木犀」
女は、胸元まで伸びた黒い髪をさらさらとなびかせて、にこにこしていた。
「好き、かもしれません。もしかしたら」
「好き、ではないのですか?」
「嫌いではないですが、特別好きでもないですね」
「そうなのですね」
女は、くりくりとした可愛らしい目で僕を見ている。決して愛想がいいとは言えない返答であったと思うが、女はその白くふっくらとした頬を、薄紅に染めて、にこにことし続けていた。
「好きなんですか?」
「はい?」
「好きなんですか、金木犀」
今度は、僕から尋ねる。我ながら、ぶっきらぼうな口調だったかもしれないな、と後悔しつつ、女の反応を待った。
「わかりません」
「はい?」
「わからなくなりました。私は金木犀が好きなのでしょうか」
「それは」
「でも、嫌いではないですね」
「そうですか」
「綺麗なものは、なんだってそう」
「嫌いではない、ですか」
「はい、そうですね」
そうして時間を消費するうちに、僕はこの女のことを詳しく知りたいと思うようになった。この不思議な女に、興味が湧いたのである。僕は、質問をぶつけたいと思った。しかし、この金木犀の木の下は、長話をするには肌寒かった。
「少し、場所を変えて、話をしませんか」
僕は、女に対してそう提案した。女はまたにこにこと笑い、「いいですね」と言った。

僕らは、小さな喫茶店に入った。珈琲、紅茶、いくつかのスイーツ。たったそれだけのメニュー。女は、きらきらと目を輝かせて、それを見ていた。
「どれがいいでしょう」
「スイーツですか」
「はい、スイーツ。フルーツタルト、ガトーショコラ、ベイクドチーズケーキに、アップルパイ」
「どれも美味しいでしょうね」
「私は紅茶が好きなのです。紅茶とスイーツが好きなのです。どれも美味しいなんて、迷いを生みますね」
女は、迷うことすら喜びとしているらしい。それはそれはうれしそうに、かつ、照れくさそうに、女はメニューを眺めていた。
「マスター、紅茶とアップルパイを!」
しばらくそうしていて、女は遂に決断した。穏和な顔をした店の主人は、ひとつ頷いてこちらを見た。
「同じく、紅茶とアップルパイを」
主人は微笑み、また頷いた。
このとき、店に、僕らと店主以外の人間はいなかった。
「そういえば」
些細な疑問が頭に浮かび、僕は声を発した。女がこちらを見た。
「紅茶とスイーツは、好き、なんですね」
女は、目を丸くしていた。くりくりとした可愛らしい目が、さらに丸く見えた。
「そう、ですね!」
「金木犀は?」
「嫌いじゃない、です」
「紅茶とスイーツ、それと金木犀。違いはなんでしょうね」
「なんでしょうね。どちらも、甘い香りがすることに変わりはないのに!」
「植物か、否か?」
「それではおかしいです。紅茶もスイーツも、元をたどれば植物ですから」
「お腹を満たすか、心を満たすか?」
「一理あります。けれど、心はどちらでも満たされるでしょう」
「難しいですね」
「いっそ、金木犀も食べてしまえばいいのでしょうか。ほらあれはまるで金平糖、あの花は星の花」
「お腹を壊しますよ」
「それはこまりますね」
そんなくだらない会話で笑っていると、店主が僕らの前に紅茶とアップルパイを静かに置いた。出来たてで温かいらしい。ほんのりと湯気がたっている。リンゴの甘い香りがして、女は、幸せそうな顔をした。
「いただきます」
どちらともなくそう言って、アップルパイに銀のフォークを突き刺した。口に運ばれたそれは、甘酸っぱくて、優しい味をしている。
僕と女との間には、食器がカチャカチャとなる以外の音は生まれなかった。実に静かな時間である。
皿を、カップを、空にした後で、ようやく言葉を発した。
「美味しかった」
僕がそう言うと、女はうれしそうに、「そうですね」と言った。

それからまた、話をした。
友の話。
家族の話。
子供の頃の話。
夢の話。
女は、どの話をしても、うれしそうに、にこにこと、くりくりとした目を輝かせていた。
僕は、話すうちに、笑顔が増えていった気がする。
「そろそろ、時間みたいです」
女がそう切り出すまで、僕らは語り合っていた。
「お先に、失礼しますね」
いつの間にか、女に魅了されていた。人と別れることが、こんなに恐ろしい と思ったのはいつぶりだろう。
「あ、お金は置いていきます」
「待って、名前、名前を」
「なまえ」
「あなたの、名前」
「私、金野華っていいます」
「こんの、はな」
「はい。今度は忘れないでくださいね、金野星也さん」
そう言うと、女は、くるりと後ろを向いて言った。
「また、会えるなら、あの金木犀の木の下で!」
そして、女は──華は、また僕の前から消えてしまった。

・・・

「というわけで、僕はずっとここで待っているのだよ。彼女にまた会える日をね」
あのころの僕と、同じくらいの年頃の青年に語り終えて、僕は微笑んだ。
「華さんは、だれ?」
青年の問に、僕は笑って答えた。

彼女は金木犀の妖精。
僕が愛した、最初で最後の人だよ。

と。

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