アナタトアイタイ
◇彼と彼女の近くて遠い距離◆
その話を耳に挟んだのは偶然だった。
藍色のドレスを着て、黒い髪を編みこんで結いあげてもらったシェラが廊下を歩いていると、二人組みの騎士が雑談をしながら歩いてくるのが見えた。
その内容がかすかに聞こえて、思わずシェラは柱の影に身を隠した。
「陛下のお妃に一番有力だっていうあの黒髪のヴァンピール。エディアナの娘なんだろ?」
「ああ、そういえばそんな話聞いたっけな」
「いやだねえ、ヴァンピールが妃のときはいつも世が荒れる。今回もそうなるんじゃないのか? 陛下に限って、あんなちんちくりんの香りにあてられたとは思いがたいが」
騎士の言葉に、思わずシェラは胸に手をあてた。
自覚があってもさすがに多少は傷つくものだ。
「おい、誰かに聞かれたらどうするんだ」
それを咎めるようにもう一人が言うも、その騎士はさらに続ける。
「エディアナの娘だってだけでも気にいらねーのに。他にも同じように言ってるやつはいっぱいいるよ。ヴァンピールの妃なんてろくでもない、いつもいつもそうじゃねえか」
「エディアナ様自身は何もしていないだろ」
「へー、多くの民を見殺しにして高みの見物をなさってたのは高尚な趣味なんですかねえ」
「おい」
さすがにと思ったのか、片方の騎士が立ち止まりもう片方の肩を掴む。
「なんだよ本当のことだろ。エディアナは吸血種の長だ、あの馬鹿な王を止めることだってできたはずだろ! そうしなかったんだあの女は、そのくせに夫が死んでもケロッとしてやがる、とんでもない魔性だぜ、あれは」
「エディアナ様は幼子を人質にとられて力を封じられるに至ったと聞いている。彼女が悪いわけじゃない」
「なんだよおまえもヴァンピールの餌になっちまったのか? だいたい、それならそれで、俺たちが散々な目にあったのは、あの小娘のせいってことじゃねえか」
ズキリと胸が痛んだ。
エディアナにはそんなことがあったのかということも、つまり元を辿ればシェラが悪いと言われたことにも。
(そうだったのですか……)
シェラは周囲に良く思われていないのだろう。
それだけは確かだ。
エディアナのことも悪く言われて、よりつらくなる。
彼女は、母はきっとシェラさえ居なければ、その前王を殺していたのかもしれない。
「あんな女らしくもない、しかもヴァンピールのガキ」
「おまえ……いくらなんでも無礼がすぎるぞ!」
「なんとでも言いやがれ」
二人は言いあいをしながら去って行った。
シェラはしばらく考えていた。
ローレントのことは好きだ、しかし、彼の立場を思えば、私情だけですむ問題ではない。
(それに……母を悪く言われるというのは、良い気分のするものではありませんね)
エディアナは悪くない。
誰が悪いとか、悪くないとかいう問題ではないのかもしれないが。
その時のシェラは少なくとも幼子で、どうにかできたとも思えない。
けれど同時に、だからこそ最善の選択肢を選ぶべきなのだ。
◇◇◇
その日の午後、ローレントとの時間をとれないかとメディナとエティシャに聞かれたが、シェラは体調が良くないと言い訳をした。
彼に会いたくない。
会うつもりもなかったし、少しよく考えたかった。
メディナとエティシャにも一人にしてほしいと告げた。
けれど、ローレントの代わりに顔をだした意外な人物がいた。
「お姉さま、お姉さま。わたしでも会ってくださいませんか?」
「え……」
扉をノックする音とともに、聞こえたのはミュディスのしょげたような声だった。
「わたしです、ミュディスです。お身体の調子が悪いと聞いて……」
「今、開けます。待っていてください」
シェラが扉を開けると、彼女は勢いよく抱きついてきた。
そのうしろから、ジェシカとエディアナが顔をのぞかせる。
「はァいシェラ、体調はどう?」
「シェラ、大丈夫なのよね……?」
普段通りのジェシカと、この世の終わりかのような顔をしたエディアナの二人を見て、シェラはぽかんとしていた。
その後、エディアナがお茶を淹れてくれた。
シェラの隣に抱きつくようにして居るミュディス、向かいあってジェシカとエディアナがテーブルを挟んでソファに座る。
最初に口を開いたのはジェシカだった。
「で? いったいどうしたわけ? ついこの間まで朝まで愛しあってたほど仲良しだったアンタとローレントがここにきてギクシャクなんて」
「なんです、その勘違いだらけの内容は」
嫌そうに瞳を眇めたシェラに、ジェシカは蛇のように長い舌をだして笑う。
その隣に居るエディアナも口を開いた。
「ごめんなさいね、わたくし……若い二人の邪魔をしてはいけないと思って、しばらく近づかずにいたのだけれど……あなたが体調を崩していたなんて、まさか、子供――」
「違います、断じて違いますからっ」
気恥ずかしさに薄く頬を染め、シェラはじっと二人を睨む。
「いったいなんなのです、二人して私をからかいに来たのですか?」
「まぁさかぁ、あのローレントが落ちこんでるって聞いて、面白そうだから見に来ただけよお? 個人的にはざまぁだし」
「ざまぁ……って? 彼と何かあったんですか?」
シェラの質問に、ジェシカは明後日の方向を見て言う。
「さぁねー、個人間の怨恨にはあんまり首を突っ込むもんじゃないわよシェラ」
「はぁ……」
何かあったのだろう。ジェシカが恨むほどだからよほどのことなのだろうが、彼女が話したくないというのに無理に聞くものでもない。
「けれど……いったいどうしたの? シェラ。ローレントに会いたくないなんて……今まではよく一緒に居たと聞いたけれど」
どこから見聞きしているのかと訝しく思いながらも、シェラは本当であり嘘でもある言葉を告げる。
「たいしたことではありません、やはり町娘風情の私には荷が重いと悟っただけのことです」
実際には、彼のためを思えばシェラであるべきではないが、彼のことを大切に想ってはいる、だ。
その言葉に、ミュディスが大袈裟にびくりと震えて、涙目でシェラを見あげる。
「え……お姉さま、兄さんと一緒になってくださらないのですか?」
ものすごく良心に響く瞳と声音だが、負けじと言葉を紡ぐ。
「え、えぇ……やはり彼は、しかるべき相手と一緒になるべきなのです」
「ど、どうしてですかっ! 兄さんにふさわしいのはお姉さまですよっ、他に誰が居るっていうんですか!」
「シェラ」
不意にエディアナが口を開く。
彼女は困ったような微笑みをうかべて、小さく首を傾げた。
「何か……嫌なことを言われたのかしら? ヴァンピールの妃は良くない、とか」
「まさか。そんなことを言うようなひとが私の身近に居ますか?」
嘘もそれなりに得意ではある。
シェラがそう言うと、ジェシカが額に手をあてて大きなため息を吐いた。
「はァ? そんな迷信いまだに信じてる馬鹿が居るわけ? ヴァンピールの香りにあてられるようなやつが、そもそも王になれるわけないじゃない。あっというまに殺されておしまいよ、そんなやつ」
「ですから、そもそもそんなことは言われていませんよ。ただ、私が無理だと感じたというだけのことです」
ジェシカの言うことはきっと正しい。
けれど、実際その、おそらく迷信だろうことを信じているひとが多いのも事実なのだろう。
シェラはエディアナの娘であるし、良く思わない人物も多いだろう。
「私には、田舎の酒場で働くほうがあっているのですよ」
「そんなぁ……お姉さまぁ……っ」
シェラに抱きつくミュディスの髪を撫でて、困ったように眉を下げる。
彼女には悪いが、彼の傍に居るのは少なくともシェラではないほうがいい。
「そう……あなたがそう言うのなら、わたくしたちに止めることはできないわね。だけど彼、諦めてくれるかしら……? ローレントは、基本的に紳士的だけれど、そうじゃないときもあるから」
「きっと分かってくれますよ。彼にも立場というものがあるでしょうから」
そう言って紅茶を啜るシェラを見つめて、エディアナはまた困ったような顔をする。
「そう……大変なことにならないといいわね」
◇◇◇
三人が帰ったあと、ひょっこりとイストが顔を覗かせた。
扉からではなく、まるで幽霊が現れるかのように、突然。
けれどこの一年で慣れていたので驚きもしなかった。
「シェラ……体調は?」
不安そうな彼にたずねられて、部屋のソファに座っていた彼女は頷く。
「大丈夫ですよ」
「そう、良かった」
そう言って微笑んで、彼は不思議そうにしてシェラにたずねる。
「シェラ、ローレントと何かあったの?」
「いえ……何もありませんよ。ただ……ただ、私は彼にふさわしくないと改めて自覚しただけのことです」
「え……」
イストは銀色の双眸を見開いて、それから少しして、困ったような顔で頬を掻いた。
「……じゃあ、シェラは酒場に戻ってくるの?」
「そうなると思いたいですね」
個人的な希望だが、きっとローレントは分かってくれるだろう。
彼の立場を思えば、シェラの風評を思えば、きっと何が一番良いのか分かってくれる。
少なくともシェラはそう信じていた。
「そっか……」
どこか嬉しそうに笑って、けれどイストはすぐに諦めたような顔をした。
「ううん……きっと、戻ってなんて来れないよ」
「え? どうしてです?」
なぜそんなにもきっぱりと言い切れるのだろう?
疑問に思って問いかけると、イストは寂しそうな笑顔で言う。
「ねえシェラ、少しだけ、手を握っていてもいい?」
「いい……ですけど、どうしたんですか?」
さきほどの質問にも答えてくれていない。
イストがこんなふうに話をはぐらかすなんて珍しいと思った。
彼はすぐ傍まで来ると、片膝をついてしゃがみ、シェラの細い手に触れ……迷うように握った。
「……うん。ぼくはね、シェラに会えてよかった」
「イスト? いったいどうしたんです?」
シェラの質問に、彼は握り締めた手の温度を確かめるように瞳を閉ざした。
「だいすき、シェラ。きみとすごした一年は、とても楽しかった」
「私もあなたが大好きですよイスト、だけど……今日のあなたはなんだかヘンですよ?」
これからシェラはきっと酒場に戻るのに。
それなのに、まるでイストのまとう空気はさよならを告げるもののようだ。
「うん……ありがとう、シェラ」
瞳を閉じたまま、イストは小さくそう呟いた。
◇◇◇
イストが帰ったあと、明日になったら一度ローレントに会えないか聞いてみて、妃になるのは無理だと告げようと決めていた。
ならないと決めたのだから、ここにとどまる理由もない。
そう、思ったのだが……。
「――あの」
深夜、ベッドで眠っていたシェラは頬や首筋に何かが触れるくすぐったさで目をさまし、そして、青ざめてその原因である相手を見つめていた。
「私には会ってくれないのに、ミュディスやエディアナ、ジェシカには会うんだね……イストにさえ会ってあげるのに、私には会ってくれない」
シェラを押し倒して、その薄紫の瞳を見つめる翡翠の瞳は、微笑んでいるのにどこか怒っているようにも見える。
「体調が悪いと聞いたから、心配していたんだが……嘘だったのかな?」
そっと頬を撫でられて、びくりと身体が震える。
奇妙な威圧感を感じるのだ。
「あ、の……陛下」
そう呼んだ瞬間、彼は綺麗な作り笑いをうかべた。
そして、シェラの細い首を指先でなぞる。
きっとこの首を手折ることなど、彼にとっては造作もないのだと思ってまた血の気がひく。
「なぜ……そう呼ぶんだい? まるで、これでお別れかのようだ」
彼にはすべてお見通しなのだろうか。
シェラはなんとか逃れようと、ベッドに縫いとめられた右手を動かそうとするのだが、びくともしない。
「そんなに怯えられると悲しいな。私がきみを傷つけると思っているのかい?」
「……っ」
耳元で低く甘く囁かれ、ぞくりとした感覚が背筋を這いあがる。
それが恐ろしくて、シェラは双眸に薄く涙をうかべて彼を見あげる。
「名前で呼んでほしいな、シェラ。きみには、いつだって呼んでほしい」
「……陛下」
このまま彼のペースに乗せられてはいけない。
シェラはキッと彼を睨むように見据えて、震える唇を開いた。
「私……やっぱりあなたのお妃様にはなれません。町娘風情の私にはあまりに荷が重いのです。ですから、あの町に帰らせてください」
きっぱりとそう言うと、彼は翡翠の瞳を細めた。
そして、シェラの首筋に顔をうずめる。
「帰さないと言ったら?」
「んっ……」
首筋に強く跡をつけられて、思いがけず甘い声が零れる。
恥ずかしさのあまりに口をおさえたくても、それさえ許されない。
「な、ぜ、ですか……あなたなら、分かってくださると……」
「そう思っていたのかい? だとしたら、私の想いはちっともきみに通じていないんだね」
シェラの艶やかな黒髪を撫でて、ローレントは寂しそうに笑う。
「きみが帰りたいのは、きみを悪く言った騎士のせいかな?」
「え……」
どうして、彼がそれを知っているのかと驚いた。
「メディナとエティシャが怒って私の執務室にやって来たよ。厳罰に処すべきだとね……そうしたら、きみはここに残ってくれるのかい?」
「やっ、やめてくださいっ! そんなこと……っ!」
シェラの答えに迷いはなく、即座にそう言うと、彼は困ったような顔をした。
「……きみならそう言うと思ったよ。だから今のところ何もしていないけど、きみが帰ってしまうと言うのなら……どうしようかな」
それは卑怯だ。あまりにも。
「ずるいですよ……ひどいです、そんなの」
苦しそうに表情を歪めたシェラの頬に手を添えて、ローレントは彼女の唇をそっと撫でる。
「シェラ、きみを愛している。この世の誰よりも、きみだけを」
囁かれた言葉に彼女は双眸を見開いて、そしてつらそうに顔をそむけて言う。
「……どうして、あなたは分かってくださらないのです」
彼はきっと正しい選択をしてくれると思っていた。
悪く言う者が多いことを知っているならなおさらだ。
ローレントはそんな彼女を寂しそうに見つめる。
「何度も手放そうとは思ったよ、こうしてきみがつらい思いをすることは分かっていたから。だけど……できなかった」
「つらい思いをしているのはあなたのほうでしょう……っ」
切なそうな彼の言葉に思わず口をついて出たのがそれだった。
そのため、言い訳をしようにもすべてが遅く、どうしようもない。
ローレントは不思議そうな顔をして、シェラの瞳を見つめる。
「私が? 何かつらい思いをしているかい?」
「――しているでしょう、私のせいで、あなたまで悪く言われてしまっています」
どうしようもなくなって、半ば自棄になりながらシェラが言うと、ローレントはなぜか小さく笑った。
「な、なにがおかしいのです?」
シェラが問いかけると、彼は笑いを堪えるように口もとに手をあてて言う。
「……きみはやっぱり可愛いなと思って」
「私は本気なんですよ……?」
何もおかしいことなどないはずだ。
じっと睨みつけると、ローレントは優しい瞳で彼女を見つめて言う。
「悪く言われることなんて慣れているよ。きみのことがあってもなくても言いたい放題に言うひとは大勢居る」
どういうことだろう。
瞳をまたたいたシェラにまた小さく笑って、彼は続ける。
「私はね、少し持って生まれた力が強すぎたのだろう。そのせいか敵も多ければ、悪く言われることも多い。むしろ私は、それできみが傷つくことが恐くて、きみを手放そうと思っていたのに」
ひとのものではないこの世界では、力が大きく権力に影響する。
つまりは、ローレントのように大きな力を持つ者は、妬みや憎しみの対象にもなりうるのだろう。
優しい彼からは想像もつかないようなひどい現実があったのかもしれない。
シェラが悲しそうな顔をしたのを見てか、ローレントは困ったように笑った。
「……他人に悪く言われることより、きみが居なくなってしまうことや、きみに他人のように振舞われるほうが、ずっと傷つくんだよ」
苦しい。
どうしようもない嬉しさと、そして、本来は離れるべきだという葛藤。
けれど結局、そんなふうに言われてしまえば邪険にすることもできずに、シェラは小さく息を吐いた。
「あなたは、とてもとてもずるいひとです」
すんなりと諦めてくれると思っていたシェラは甘かったのだろう。
しようがなく、彼女は彼の頬に手を伸ばす。触れた指先に伝わる温度に、どっと安堵が押し寄せた。
「私が思っていたよりも、あなたはずっと強情でいらっしゃいます」
「それできみが私の傍にとどまってくれるのなら、どう言われても構わないよ」
そう言って、彼はシェラの唇に自らのそれを重ねた。
溶けあう体温が心地よく、彼女は薄紫の瞳を細める。
(良い、匂い……)
ふと、吸血衝動がまた疼いて、シェラは逃れるように唇を離した。
そんな彼女を見て、ローレントは小さく首を傾げて言う。
「シェラ……もしかして、血が欲しいのかい?」
「――ま、まさか、そんなはず、ないでしょう」
まるで棒読みのようになってしまった。
それほど強く、欲しいと思ってしまうのだ。
それを聞いて、彼はくすくすと笑うと身体を起こして襟元を広げてみせる。
「欲しいんだろう? あげるよ」
「っ……ち、ちが……います」
けれど、視線は彼の首筋に釘付けになって、シェラはしばらくしてしぶしぶ身体を起こした。
そして、彼に抱きついてその首筋に唇を寄せる。
「誘ったのはあなたですからねっ」
どこか自棄になってシェラが言うと、ローレントはおかしそうに笑って言う。
「責任なら取るよ」
シェラは彼の首筋に小さな舌を這わせて、ゆっくりと牙を穿つ。
口内に広がるその甘さは、上質な酒のようだと思う。
やがて体内に彼の血が混ざりあってくると、酩酊感にも似た感覚がやってくる。
シェラはとろんと目じりを下げて、ゆっくりと唇を離すが、名残惜しそうに首筋に残った血を舐める。
「シェラ、前にきみに血をあげたとき……吸われるほうがどういう気分になるか聞いたろう? 今日、教えてあげるよ」
また押し倒されて、ローレントは彼女の首筋に顔をうずめてキスをする。
「ローレント……?」
舌ったらずな言葉遣いで彼の名を呼べば、意地悪く微笑む翡翠の瞳が見える。
いったい何をされるのか、頭がぼんやりしてうまく働かない。
そんな彼女に、彼は嚙みつくようにキスをした。
藍色のドレスを着て、黒い髪を編みこんで結いあげてもらったシェラが廊下を歩いていると、二人組みの騎士が雑談をしながら歩いてくるのが見えた。
その内容がかすかに聞こえて、思わずシェラは柱の影に身を隠した。
「陛下のお妃に一番有力だっていうあの黒髪のヴァンピール。エディアナの娘なんだろ?」
「ああ、そういえばそんな話聞いたっけな」
「いやだねえ、ヴァンピールが妃のときはいつも世が荒れる。今回もそうなるんじゃないのか? 陛下に限って、あんなちんちくりんの香りにあてられたとは思いがたいが」
騎士の言葉に、思わずシェラは胸に手をあてた。
自覚があってもさすがに多少は傷つくものだ。
「おい、誰かに聞かれたらどうするんだ」
それを咎めるようにもう一人が言うも、その騎士はさらに続ける。
「エディアナの娘だってだけでも気にいらねーのに。他にも同じように言ってるやつはいっぱいいるよ。ヴァンピールの妃なんてろくでもない、いつもいつもそうじゃねえか」
「エディアナ様自身は何もしていないだろ」
「へー、多くの民を見殺しにして高みの見物をなさってたのは高尚な趣味なんですかねえ」
「おい」
さすがにと思ったのか、片方の騎士が立ち止まりもう片方の肩を掴む。
「なんだよ本当のことだろ。エディアナは吸血種の長だ、あの馬鹿な王を止めることだってできたはずだろ! そうしなかったんだあの女は、そのくせに夫が死んでもケロッとしてやがる、とんでもない魔性だぜ、あれは」
「エディアナ様は幼子を人質にとられて力を封じられるに至ったと聞いている。彼女が悪いわけじゃない」
「なんだよおまえもヴァンピールの餌になっちまったのか? だいたい、それならそれで、俺たちが散々な目にあったのは、あの小娘のせいってことじゃねえか」
ズキリと胸が痛んだ。
エディアナにはそんなことがあったのかということも、つまり元を辿ればシェラが悪いと言われたことにも。
(そうだったのですか……)
シェラは周囲に良く思われていないのだろう。
それだけは確かだ。
エディアナのことも悪く言われて、よりつらくなる。
彼女は、母はきっとシェラさえ居なければ、その前王を殺していたのかもしれない。
「あんな女らしくもない、しかもヴァンピールのガキ」
「おまえ……いくらなんでも無礼がすぎるぞ!」
「なんとでも言いやがれ」
二人は言いあいをしながら去って行った。
シェラはしばらく考えていた。
ローレントのことは好きだ、しかし、彼の立場を思えば、私情だけですむ問題ではない。
(それに……母を悪く言われるというのは、良い気分のするものではありませんね)
エディアナは悪くない。
誰が悪いとか、悪くないとかいう問題ではないのかもしれないが。
その時のシェラは少なくとも幼子で、どうにかできたとも思えない。
けれど同時に、だからこそ最善の選択肢を選ぶべきなのだ。
◇◇◇
その日の午後、ローレントとの時間をとれないかとメディナとエティシャに聞かれたが、シェラは体調が良くないと言い訳をした。
彼に会いたくない。
会うつもりもなかったし、少しよく考えたかった。
メディナとエティシャにも一人にしてほしいと告げた。
けれど、ローレントの代わりに顔をだした意外な人物がいた。
「お姉さま、お姉さま。わたしでも会ってくださいませんか?」
「え……」
扉をノックする音とともに、聞こえたのはミュディスのしょげたような声だった。
「わたしです、ミュディスです。お身体の調子が悪いと聞いて……」
「今、開けます。待っていてください」
シェラが扉を開けると、彼女は勢いよく抱きついてきた。
そのうしろから、ジェシカとエディアナが顔をのぞかせる。
「はァいシェラ、体調はどう?」
「シェラ、大丈夫なのよね……?」
普段通りのジェシカと、この世の終わりかのような顔をしたエディアナの二人を見て、シェラはぽかんとしていた。
その後、エディアナがお茶を淹れてくれた。
シェラの隣に抱きつくようにして居るミュディス、向かいあってジェシカとエディアナがテーブルを挟んでソファに座る。
最初に口を開いたのはジェシカだった。
「で? いったいどうしたわけ? ついこの間まで朝まで愛しあってたほど仲良しだったアンタとローレントがここにきてギクシャクなんて」
「なんです、その勘違いだらけの内容は」
嫌そうに瞳を眇めたシェラに、ジェシカは蛇のように長い舌をだして笑う。
その隣に居るエディアナも口を開いた。
「ごめんなさいね、わたくし……若い二人の邪魔をしてはいけないと思って、しばらく近づかずにいたのだけれど……あなたが体調を崩していたなんて、まさか、子供――」
「違います、断じて違いますからっ」
気恥ずかしさに薄く頬を染め、シェラはじっと二人を睨む。
「いったいなんなのです、二人して私をからかいに来たのですか?」
「まぁさかぁ、あのローレントが落ちこんでるって聞いて、面白そうだから見に来ただけよお? 個人的にはざまぁだし」
「ざまぁ……って? 彼と何かあったんですか?」
シェラの質問に、ジェシカは明後日の方向を見て言う。
「さぁねー、個人間の怨恨にはあんまり首を突っ込むもんじゃないわよシェラ」
「はぁ……」
何かあったのだろう。ジェシカが恨むほどだからよほどのことなのだろうが、彼女が話したくないというのに無理に聞くものでもない。
「けれど……いったいどうしたの? シェラ。ローレントに会いたくないなんて……今まではよく一緒に居たと聞いたけれど」
どこから見聞きしているのかと訝しく思いながらも、シェラは本当であり嘘でもある言葉を告げる。
「たいしたことではありません、やはり町娘風情の私には荷が重いと悟っただけのことです」
実際には、彼のためを思えばシェラであるべきではないが、彼のことを大切に想ってはいる、だ。
その言葉に、ミュディスが大袈裟にびくりと震えて、涙目でシェラを見あげる。
「え……お姉さま、兄さんと一緒になってくださらないのですか?」
ものすごく良心に響く瞳と声音だが、負けじと言葉を紡ぐ。
「え、えぇ……やはり彼は、しかるべき相手と一緒になるべきなのです」
「ど、どうしてですかっ! 兄さんにふさわしいのはお姉さまですよっ、他に誰が居るっていうんですか!」
「シェラ」
不意にエディアナが口を開く。
彼女は困ったような微笑みをうかべて、小さく首を傾げた。
「何か……嫌なことを言われたのかしら? ヴァンピールの妃は良くない、とか」
「まさか。そんなことを言うようなひとが私の身近に居ますか?」
嘘もそれなりに得意ではある。
シェラがそう言うと、ジェシカが額に手をあてて大きなため息を吐いた。
「はァ? そんな迷信いまだに信じてる馬鹿が居るわけ? ヴァンピールの香りにあてられるようなやつが、そもそも王になれるわけないじゃない。あっというまに殺されておしまいよ、そんなやつ」
「ですから、そもそもそんなことは言われていませんよ。ただ、私が無理だと感じたというだけのことです」
ジェシカの言うことはきっと正しい。
けれど、実際その、おそらく迷信だろうことを信じているひとが多いのも事実なのだろう。
シェラはエディアナの娘であるし、良く思わない人物も多いだろう。
「私には、田舎の酒場で働くほうがあっているのですよ」
「そんなぁ……お姉さまぁ……っ」
シェラに抱きつくミュディスの髪を撫でて、困ったように眉を下げる。
彼女には悪いが、彼の傍に居るのは少なくともシェラではないほうがいい。
「そう……あなたがそう言うのなら、わたくしたちに止めることはできないわね。だけど彼、諦めてくれるかしら……? ローレントは、基本的に紳士的だけれど、そうじゃないときもあるから」
「きっと分かってくれますよ。彼にも立場というものがあるでしょうから」
そう言って紅茶を啜るシェラを見つめて、エディアナはまた困ったような顔をする。
「そう……大変なことにならないといいわね」
◇◇◇
三人が帰ったあと、ひょっこりとイストが顔を覗かせた。
扉からではなく、まるで幽霊が現れるかのように、突然。
けれどこの一年で慣れていたので驚きもしなかった。
「シェラ……体調は?」
不安そうな彼にたずねられて、部屋のソファに座っていた彼女は頷く。
「大丈夫ですよ」
「そう、良かった」
そう言って微笑んで、彼は不思議そうにしてシェラにたずねる。
「シェラ、ローレントと何かあったの?」
「いえ……何もありませんよ。ただ……ただ、私は彼にふさわしくないと改めて自覚しただけのことです」
「え……」
イストは銀色の双眸を見開いて、それから少しして、困ったような顔で頬を掻いた。
「……じゃあ、シェラは酒場に戻ってくるの?」
「そうなると思いたいですね」
個人的な希望だが、きっとローレントは分かってくれるだろう。
彼の立場を思えば、シェラの風評を思えば、きっと何が一番良いのか分かってくれる。
少なくともシェラはそう信じていた。
「そっか……」
どこか嬉しそうに笑って、けれどイストはすぐに諦めたような顔をした。
「ううん……きっと、戻ってなんて来れないよ」
「え? どうしてです?」
なぜそんなにもきっぱりと言い切れるのだろう?
疑問に思って問いかけると、イストは寂しそうな笑顔で言う。
「ねえシェラ、少しだけ、手を握っていてもいい?」
「いい……ですけど、どうしたんですか?」
さきほどの質問にも答えてくれていない。
イストがこんなふうに話をはぐらかすなんて珍しいと思った。
彼はすぐ傍まで来ると、片膝をついてしゃがみ、シェラの細い手に触れ……迷うように握った。
「……うん。ぼくはね、シェラに会えてよかった」
「イスト? いったいどうしたんです?」
シェラの質問に、彼は握り締めた手の温度を確かめるように瞳を閉ざした。
「だいすき、シェラ。きみとすごした一年は、とても楽しかった」
「私もあなたが大好きですよイスト、だけど……今日のあなたはなんだかヘンですよ?」
これからシェラはきっと酒場に戻るのに。
それなのに、まるでイストのまとう空気はさよならを告げるもののようだ。
「うん……ありがとう、シェラ」
瞳を閉じたまま、イストは小さくそう呟いた。
◇◇◇
イストが帰ったあと、明日になったら一度ローレントに会えないか聞いてみて、妃になるのは無理だと告げようと決めていた。
ならないと決めたのだから、ここにとどまる理由もない。
そう、思ったのだが……。
「――あの」
深夜、ベッドで眠っていたシェラは頬や首筋に何かが触れるくすぐったさで目をさまし、そして、青ざめてその原因である相手を見つめていた。
「私には会ってくれないのに、ミュディスやエディアナ、ジェシカには会うんだね……イストにさえ会ってあげるのに、私には会ってくれない」
シェラを押し倒して、その薄紫の瞳を見つめる翡翠の瞳は、微笑んでいるのにどこか怒っているようにも見える。
「体調が悪いと聞いたから、心配していたんだが……嘘だったのかな?」
そっと頬を撫でられて、びくりと身体が震える。
奇妙な威圧感を感じるのだ。
「あ、の……陛下」
そう呼んだ瞬間、彼は綺麗な作り笑いをうかべた。
そして、シェラの細い首を指先でなぞる。
きっとこの首を手折ることなど、彼にとっては造作もないのだと思ってまた血の気がひく。
「なぜ……そう呼ぶんだい? まるで、これでお別れかのようだ」
彼にはすべてお見通しなのだろうか。
シェラはなんとか逃れようと、ベッドに縫いとめられた右手を動かそうとするのだが、びくともしない。
「そんなに怯えられると悲しいな。私がきみを傷つけると思っているのかい?」
「……っ」
耳元で低く甘く囁かれ、ぞくりとした感覚が背筋を這いあがる。
それが恐ろしくて、シェラは双眸に薄く涙をうかべて彼を見あげる。
「名前で呼んでほしいな、シェラ。きみには、いつだって呼んでほしい」
「……陛下」
このまま彼のペースに乗せられてはいけない。
シェラはキッと彼を睨むように見据えて、震える唇を開いた。
「私……やっぱりあなたのお妃様にはなれません。町娘風情の私にはあまりに荷が重いのです。ですから、あの町に帰らせてください」
きっぱりとそう言うと、彼は翡翠の瞳を細めた。
そして、シェラの首筋に顔をうずめる。
「帰さないと言ったら?」
「んっ……」
首筋に強く跡をつけられて、思いがけず甘い声が零れる。
恥ずかしさのあまりに口をおさえたくても、それさえ許されない。
「な、ぜ、ですか……あなたなら、分かってくださると……」
「そう思っていたのかい? だとしたら、私の想いはちっともきみに通じていないんだね」
シェラの艶やかな黒髪を撫でて、ローレントは寂しそうに笑う。
「きみが帰りたいのは、きみを悪く言った騎士のせいかな?」
「え……」
どうして、彼がそれを知っているのかと驚いた。
「メディナとエティシャが怒って私の執務室にやって来たよ。厳罰に処すべきだとね……そうしたら、きみはここに残ってくれるのかい?」
「やっ、やめてくださいっ! そんなこと……っ!」
シェラの答えに迷いはなく、即座にそう言うと、彼は困ったような顔をした。
「……きみならそう言うと思ったよ。だから今のところ何もしていないけど、きみが帰ってしまうと言うのなら……どうしようかな」
それは卑怯だ。あまりにも。
「ずるいですよ……ひどいです、そんなの」
苦しそうに表情を歪めたシェラの頬に手を添えて、ローレントは彼女の唇をそっと撫でる。
「シェラ、きみを愛している。この世の誰よりも、きみだけを」
囁かれた言葉に彼女は双眸を見開いて、そしてつらそうに顔をそむけて言う。
「……どうして、あなたは分かってくださらないのです」
彼はきっと正しい選択をしてくれると思っていた。
悪く言う者が多いことを知っているならなおさらだ。
ローレントはそんな彼女を寂しそうに見つめる。
「何度も手放そうとは思ったよ、こうしてきみがつらい思いをすることは分かっていたから。だけど……できなかった」
「つらい思いをしているのはあなたのほうでしょう……っ」
切なそうな彼の言葉に思わず口をついて出たのがそれだった。
そのため、言い訳をしようにもすべてが遅く、どうしようもない。
ローレントは不思議そうな顔をして、シェラの瞳を見つめる。
「私が? 何かつらい思いをしているかい?」
「――しているでしょう、私のせいで、あなたまで悪く言われてしまっています」
どうしようもなくなって、半ば自棄になりながらシェラが言うと、ローレントはなぜか小さく笑った。
「な、なにがおかしいのです?」
シェラが問いかけると、彼は笑いを堪えるように口もとに手をあてて言う。
「……きみはやっぱり可愛いなと思って」
「私は本気なんですよ……?」
何もおかしいことなどないはずだ。
じっと睨みつけると、ローレントは優しい瞳で彼女を見つめて言う。
「悪く言われることなんて慣れているよ。きみのことがあってもなくても言いたい放題に言うひとは大勢居る」
どういうことだろう。
瞳をまたたいたシェラにまた小さく笑って、彼は続ける。
「私はね、少し持って生まれた力が強すぎたのだろう。そのせいか敵も多ければ、悪く言われることも多い。むしろ私は、それできみが傷つくことが恐くて、きみを手放そうと思っていたのに」
ひとのものではないこの世界では、力が大きく権力に影響する。
つまりは、ローレントのように大きな力を持つ者は、妬みや憎しみの対象にもなりうるのだろう。
優しい彼からは想像もつかないようなひどい現実があったのかもしれない。
シェラが悲しそうな顔をしたのを見てか、ローレントは困ったように笑った。
「……他人に悪く言われることより、きみが居なくなってしまうことや、きみに他人のように振舞われるほうが、ずっと傷つくんだよ」
苦しい。
どうしようもない嬉しさと、そして、本来は離れるべきだという葛藤。
けれど結局、そんなふうに言われてしまえば邪険にすることもできずに、シェラは小さく息を吐いた。
「あなたは、とてもとてもずるいひとです」
すんなりと諦めてくれると思っていたシェラは甘かったのだろう。
しようがなく、彼女は彼の頬に手を伸ばす。触れた指先に伝わる温度に、どっと安堵が押し寄せた。
「私が思っていたよりも、あなたはずっと強情でいらっしゃいます」
「それできみが私の傍にとどまってくれるのなら、どう言われても構わないよ」
そう言って、彼はシェラの唇に自らのそれを重ねた。
溶けあう体温が心地よく、彼女は薄紫の瞳を細める。
(良い、匂い……)
ふと、吸血衝動がまた疼いて、シェラは逃れるように唇を離した。
そんな彼女を見て、ローレントは小さく首を傾げて言う。
「シェラ……もしかして、血が欲しいのかい?」
「――ま、まさか、そんなはず、ないでしょう」
まるで棒読みのようになってしまった。
それほど強く、欲しいと思ってしまうのだ。
それを聞いて、彼はくすくすと笑うと身体を起こして襟元を広げてみせる。
「欲しいんだろう? あげるよ」
「っ……ち、ちが……います」
けれど、視線は彼の首筋に釘付けになって、シェラはしばらくしてしぶしぶ身体を起こした。
そして、彼に抱きついてその首筋に唇を寄せる。
「誘ったのはあなたですからねっ」
どこか自棄になってシェラが言うと、ローレントはおかしそうに笑って言う。
「責任なら取るよ」
シェラは彼の首筋に小さな舌を這わせて、ゆっくりと牙を穿つ。
口内に広がるその甘さは、上質な酒のようだと思う。
やがて体内に彼の血が混ざりあってくると、酩酊感にも似た感覚がやってくる。
シェラはとろんと目じりを下げて、ゆっくりと唇を離すが、名残惜しそうに首筋に残った血を舐める。
「シェラ、前にきみに血をあげたとき……吸われるほうがどういう気分になるか聞いたろう? 今日、教えてあげるよ」
また押し倒されて、ローレントは彼女の首筋に顔をうずめてキスをする。
「ローレント……?」
舌ったらずな言葉遣いで彼の名を呼べば、意地悪く微笑む翡翠の瞳が見える。
いったい何をされるのか、頭がぼんやりしてうまく働かない。
そんな彼女に、彼は嚙みつくようにキスをした。
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