アナタトアイタイ

野草こたつ

◇満月の夜◆

 その日のシェラは真っ白なドレスを着て、髪を綺麗に結いあげて城内を散策していたのだが、ふと、城の裏庭に奇妙なものを見た。
 それは白く大きな塊で、いったい何だろうと彼女はそちらに足を向ける。
 胴体らしき部分がかすかに上下しているところを見ると、呼吸をしているのだろうか?
『……シェラかい?』
 突然名前を呼ばれて、シェラはびくりと身体を強張らせた。
 聞こえた声は、たぶんローレントのものだった。
 そういえば、彼は人狼であったと思いだす。
「はい。今日は満月でしたね」
『……恐くはない?』
 物音もたてず、風を揺らすこともなく顔をあげた彼。
 それはもう、見たこともないほど大きな銀色の狼だった。
「ちょっとびっくりしましたけど、大丈夫ですよ」
 そっと彼の前足あたりに近づいて、そこに座ると、彼は金色の瞳を細めた。
『そうか。良かった……きみを恐がらせるのは嫌だったんだ』
 静かにそう言って、シェラを見つめる彼に、疑問をぶつけてみる。
「でもローレント、あなたの瞳、本当は金色なんですね? なぜ普段は翡翠にしているのです?」
 純粋な疑問だったのだが、それに彼は少しだけ俯いた。
『私がまだ人間の騎士団に居た頃は、あの色にしていたんだ……だから、きみにはそちらのほうが馴染みがあるのではと思ってね』
「――ローレント」
 胸が切なく痛んだ。
 きっと彼は思いだしてほしいのだろう。シェラに、過去のことを。
 過去をなかったことにして、まったく新しく関係を作ることもできたはずだが、彼はそうしなかった。
 シェラはそっと彼のふかふかとした銀色の毛並みに触れる。
「すみません、私……なにも覚えていなくて……」
『いいんだ。シェラ、きみが生きてここに居てくれる……それだけで私は幸せだから』
 彼の甘く優しい声音に、かすかに頬が赤くなる。
 いい加減慣れてもいいのではないかと思うのだが、どうしても気恥ずかしいのだ。
「……もう少し、ここに居てもいいですか?」
 問いかけると、彼は頷いて、シェラを包むようにして丸まった。
『いいよ。きみとすごせるだなんて思ってもいなかった』
 手触りの良い毛並みが頬に擦れて、くすぐったさを覚える。
 シェラは、今は銀の狼となった彼に寄りかかって、しばらくじっとしていたが……やがてこくこくと船をこぎ始めた。
『シェラ』
 そんな彼女をじっと見つめていたローレントが声をかけると、眠そうな双眸が見つめ返してくる。
『こんなところで寝てはいけない。身体に悪いよ』
「でも……あなたの体温が心地よくて」
 あたたかくて、ふかふかしている。
 このまま眠ってしまいたい、そんな彼女に、ローレントは小さく息を吐いた。
『ダメだ……って……もう眠って……』
 咎めるように告げたのだが、彼女はすでに夢の世界だった。
 しようがなく、彼はメディナとエティシャを呼んだ。
 事情を聞いた彼女たちは顔を見あわせて、同じように手をあわせて言う。
「まぁ、それでしたら!」
 先に声をあげたのはメディナだった。
「毛布をお持ちしましょう」
 次にエティシャが言うと、ローレントは頭痛を堪えるように唸る。
『……きみたちは……』
「だって、せっかくのお二人が一緒にすごせる時間ではありませんか。陛下だって、シェラ様と一緒に居たいでしょう?」
 メディナの言葉に、彼は顔をそらして身体を低くして、眠る体勢をとった。
『……任せるよ』
「はい」
 エティシャが返事をするなり、二人は城へ駆け戻っていく。
 残されたローレントは夢の世界に居るシェラを見つめたあと、瞼を閉ざした。
 ……。
 夢を見ていた。
 何の夢だろう、シェラは黒い制服を着ていて、食堂のような場所でなぜか同じ制服を着たローレントと言い合っている。
『シェラ、好き嫌いはダメだ、大きくなれないよ』
『たったのピーマン二切れで身長は左右されませんよ!』
『だったら余計にきちんと食べるんだ。たったの、二切れだろう?』
 なんて男だろうとシェラは頭を抱える。
 ああ言えばこう言うとはまさにこのことだ。
『だったらローレントが食べてくださればいいのです!』
『それでは意味がないだろう、ただでさえきみは細くて小さいんだから』
 その言葉にシェラが眉間に皺を寄せ、席を立とうとした瞬間のこと。
『余計なお世話――んむっ』
『隙だらけだねシェラ』
 彼女の口に素早くピーマンを押しこんだローレント。
 そんな彼を青ざめたシェラが恨みがましく見つめ返す。
 吐きだすわけにもいかないので咀嚼して飲みこんだあと、シェラは小さくむせた。
『――っ、けほ、にが……にがいです……』
 口もとをおさえて苦味をやりすごしていると、ローレントの大きな手がシェラの頭を撫でる。
『よしよし、よくできました』
『よくできましたじゃありませんよっ! やったのは私じゃないでしょうっ!』
 どうにも、夢の世界のシェラは今のシェラよりお転婆だ。
『きみを見ていると妹を思いだすよ、あの子も苦味の強いものが苦手だった』
『妹じゃありませんよ、私は』
(いもうと……)
 シェラの意識がようやく現実に引っ張り戻される。
 思い起こせば彼は、シェラほど慌てたり焦ったりなんてしない。
 いつも優しく接してくれている。
 そんなことを思いながら、シェラはゆっくりと薄紫の瞳を開いた。
(ん……頭、撫でてるの……なんでしょう?)
 寝起きだから、まだ夢の世界に片足を突っ込んでいるのだろうかと考えたのだが、瞳を開いてシェラは絶句した。
「――!」
「おはよう、シェラ」
 なぜ。
 どうして?
 いつもシェラが眠っている部屋ではない、おそらくローレントの部屋であろうベッドで、シェラは眠っていたようだ、彼と一緒に。
 至近距離にある優しい翡翠の瞳に、一気に赤くなり、耳まで熱くなる。
「お、おは、よう、ござ……い、ます」
「私の名前を呼んでくれていたけど、どんな夢を見ていたんだい?」
 さらりと髪をすくわれて、シェラの頬はさらに熱くなる。
 いったいどんな言い訳をすればいいのだろうか。
「ふ、不思議な夢です……私とあなたが同じ制服を着ていて……あ」
 そこまで言って、それは過去の夢かもしれないと思った。
 けれど彼は予想していたように、言葉を継ぐ。
「それは、私が不意打ちできみにピーマンを食べさせたときのものかな」
「え……どうして」
「にがい。やったのは私じゃないでしょうって……言っていたから」
 苦笑してそう告げた彼に、シェラは視線を泳がせた。
 過去にはそんなやり取りが実際にあったのだと思うと、妙に気恥ずかしい。
 今も苦味の強いものは苦手だが、残すほどではないのだ。
 そんな彼女を愛しそうに見つめて、ローレントは静かに言う。
「きみに思いだしてほしいのも本当だが、思いだしてほしくないという思いもあるんだ」
「なぜです……?」
 問いかけると、彼はしばらくの沈黙のあと、口を開いた。
「きみが、とても恐い思いをしたからかな」
 恐い思いとはなんだろう。
 分からないけれど、彼が自分を気づかってくれているのは分かる。
 それが恥ずかしくて、シェラは毛布で顔を半分隠した。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品