アナタトアイタイ

野草こたつ

◇二度目の満月と裏切り者◆

 その日のシェラは、朝から緊張していた。
 作戦には一部の精鋭だけが揃えられた、あの巨大な狼に相対するには小規模な部隊編成だ。
 食堂で朝食をとっていたが、うまく喉を通らない。
 それは今日の満月に行われる作戦のこともあるし、先日ローレントと喧嘩してしまってから、ほとんど口をきいていないこともあった。
 あれは自分も悪かった……と、思う。
 門での会話というより、関係ないと言い切ってしまったことだ。
(ですから、きちんと謝ればいいのです……)
 けれどあれからローレントにはあからさまに避けられている。
 アリシャは相変わらず彼にぴったりとくっついているし、シェラとしては苛立ちと不快感が募るばかりだ。
(そもそも、この気持ちは……いえ、今はそんなこと考えている場合ではありません。今日の作戦に支障が出ては困ります、ちゃんと謝りましょう)
 今回の部隊編成には、シェラとは別の部隊だがローレントの名前もある、だからこそ、夜が来る前に和解するべきだ。
(ごめんなさいと……きちんと伝えておかなくては……だって、今日が最期になるかもしれないんですし)
 リヒトはああ言ったが、あの狼に殺されない保証などない。
 朝食を終えて片付けると、シェラは席をたってローレントを探した。
 幸い、彼を見つけることはすぐにできた。
 朝の巡回に行くのだろう、彼はちょうど騎士団の入り口を出て行くところだった。相変わらずアリシャが傍に居るが、それは問題ではない。
「ローレント!」
 大きく名前を呼ぶと、無表情に近い彼がふりかえる。
 それにどうしてか胸が切なく痛んだが、シェラはなんとか踏みとどまり、彼に駆け寄ると頭をさげた。
「その……すみませんでした。あなたを、傷つけてしまったこと」
「……べつに、かまわないよ。こうなったほうが良かったんだ」
 しかしローレントは、不自然な言葉を返してきた。
「え……?」
 こうなったほうが良かったとは、どういう意味だろう。
 シェラの疑問には答えず、彼はまた背を向ける。
 その声音は静かで、拒絶するようなものだった。
「……私も悪かったよシェラ、きみに、近づきすぎてしまった」
「な……何を言っているんです? 私とあなたは仲間です、当然じゃないですか」
 焦って、シェラがそう言うと、彼はそのまま歩みを進める。
「今日は巡回の当番なんだ、行ってくるよ」
「――あ、はい……引き止めてしまってすみません。いってらっしゃい……」
 今までと同じ、というようにはやはりいかないようだ。
 それに奇妙なつらさを覚えて、シェラはまた首を傾げる。
 ローレントは一度も彼女にふりかえることなく、その場を去った。
 そんな彼に、アリシャが笑みをうかべて言う。
「あらまぁ……可哀想なシェラ」
「あなたがそれを言うんですか」
 ローレントは感情を殺したように無表情のまま、アリシャを見おろす。
「ふふっ、あなたがそんなふうに、誰かを想ってイラついたり、落ちこんだり、傷ついたりなんて……面白いものを見れて楽しいわ、今までどんな女性が言い寄ってきても、涼しい顔をしていたのに」
 細く氷のように静かなアリシャの言葉に、ローレントは何も答えなかった。
 ◇◇◇
 深夜、各部隊が揃えられた。
 シェラの部隊にはジェシカとイストも居る。
 ローレントは別の隊で、そちらにはアリシャが居るようだった。
 私語などもちろん発することはできない、結局胸に痛みを抱えたまま、シェラは狼との決戦に臨むことになってしまった。
「……はあ」
 木陰に隠れて狼を待つ、そんなシェラがため息を吐くと、すでに狼の姿に変わってしまっているイストが首を傾げる。
「シェラ? ローレントと喧嘩した?」
 その問いに、シェラは困ったような顔で答える。
「え? ええ……私が悪いのです」
「そうなの? 仲直りは……できた?」
「いいえ」
 そんな会話をしていた二人を咎めるようにジェシカが言う。
「ちょっとアンタたち、あいつらの聴覚って馬鹿にならないんだから、静かに――」
 その時、遠くから聞こえる騎士たちの声、そして、大きな影がさした。
 顔を上げた、その先には……。
 銀の毛並みに、金色の瞳を持つ巨大な狼が。
「――来ましたね!」
 シェラは前もって準備しておいた麻痺毒つきのナイフに手を伸ばす。
 狼はシェラを一瞥して、前の満月のように逃げ出そうとする、そこに、素早く右足を狙って三本のナイフを投擲した。
 相手もシェラの行動を予測していたのか、二本は避けられたが一本が命中する。
『――!』
 一瞬だけ、狼の身体がぐらついたが、すぐにそれは体勢を立て直して森の中へ消えていった。
「――は、ぁっ」
 緊張の糸が解けそうになるが、まだ終わらない。
 これから、裏切り者を探さなければならないのだ。
 ◇◇◇
「シェラ」
 ジェシカとイストとは別れ、それぞれに足を引きずる者を探していたときのことだった。
 うしろから声をかけられて、驚いてふりかえると、そこにはローレントの姿があった。
「ローレント……?」
 なぜだろうか、何か、違和感を感じた。
 けれどそれを気のせいだと振り払って、シェラは俯き気味に視線をそらしたままで言う。
「あ、その……他の……ひとたちはどうしたんです?」
「……大丈夫、みんな無事だよ」
 気配が近づく。
 けれど、そのときにやはり違和感が肯定されてしまった。
 ずる、と、足を引きずるような――音、が。
(え……ローレント……?)
 俯いたシェラの瞳に、出血している彼の右足が映る。
 早鐘のように鳴る心臓の音が、耳から聞こえてくるようだった。
 そんな彼女の耳に届くのは、甘く優しい声だった。
 切なげで、つらそうな……寂しそうな声音。
「シェラ、きみに出逢えて良かった……」
「――ッ! ローレント! あなた……!」
 一気に顔をあげて、シェラは言葉を失った。
 見慣れていたはずの、彼の翡翠の双眸が、金色に染まっていたからだ。
 息が、止まる。
 身体が震え、恐怖と絶望が浸みこんでくる。
 そんな彼女に小さく笑って、ローレントは細いシェラの身体を抱きしめた。
「シェラ……私の本当の名前はね、ドミニクというんだよ。大嫌いな、大嫌いな……名前なんだ。好きでこんなふうに生まれたわけじゃない、望んで力を得たわけでもない、私は……できることなら、人間に生まれたかったよ、そうしたら、きみと一緒に居られた、きみと、本当の意味で仲間でいられたのに」
「ロー……レント、冗談……ですよね?」
 シェラの細い首筋に顔をうずめて、ローレントはまるで確かめるようにきつく彼女を抱きしめる。
 それが、最後であるかのように。
「ローレントという名前のほうが……好きだ、きみが呼んでくれる名前だから」
「な、にを、言っているんですか。そう、私、これから裏切り者を、探さなくてはいけなくて……」
 彼の背に腕をまわして、シェラは震える声で言葉を紡いだのだが、ローレントは首を横に振った。銀の髪が首に擦れてくすぐったい。
「きみが女の子だというのは最初から知っていたし、ヴァンピールだというのも知っていた。全部、全部……きみを騙すための演技だったと言ったら、きみは怒るかな」
 全部、演技……だった……?
 シェラの中で、今までのことが蘇る。
 初めて女性だと知られた日のこと、あれも、彼は最初から知っていたというのだろうか。
 イストに抱きつかれた日、ヴァンピールの話などされなくても、彼は知っていた?
 最初から、なんらかの目的を持って自分に近づいた……?
 同時に、自分が裏切り者だと勘づかれないように……振舞っていた?
「本当……なんですか、ローレント……」
 涙の滲んだ、震える声。
 シェラの問いに、彼は小さく頷いた。
「だけど、最初から誰も……殺すつもりなどなかった。私にとってきみや、きみたちは……大切なひとたちだったから」
 呆然とするシェラの身体をきつく抱きしめて、彼はかすかに震える声で言う。
「シェラ、私がこんなことを言えばきみを困らせると分かっているけれど……」
 ローレントの身体が少しだけ離れたかと思えば、頬に手を添えられて、唇にあたたかい感触が触れる。
「きみのことを、愛していた」
「――っ」
 口づけられたのだと理解したときには、すでに二人の距離は開いていた。
「私が……人間であれば良かった、あるいは、きみがヴァンピールであれば良かったのに」
「ローレント……っ」
 手を伸ばしても、幻のようにその姿が歪む。
 なにをふざけたことを言っているのか、散々自分のことだけ好き勝手に言って、消えるつもりだろうか。
 彼はつらそうに、けれど微笑んで、ことの真相のひとつを告げる。
「シェラ、アリシャという女性は存在しない。彼女の本当の名前はエディアナ……私たちの王の妃であり、きみの母親の名だ。きみが、本物のエトワール、なんだよ、ヴァンピールのね」
「な……」
 混乱しているところにさらに情報を投げこまれ、何から口にしていいのか分からない。
 ただ、待ってと、最初に言いたかったのに、その言葉さえも出てこない。
「いっそのこと、無理矢理にでも血を飲ませて、きみを目覚めさせてしまいたかったよ……そうしたら、一緒に居られたかもしれないのに……だけど」
 ローレントの姿が宵闇に消えていく。
 シェラの薄紫の双眸からは、透明な雫が零れ落ちた。
「――私の、片想いだったからね」
 はらりと、光の破片になって、ローレントの姿は消えてしまった。
 訪れる静寂。
 虫の声と、木々、夜風の音だけが周囲を満たしている。
「……あ、はは……」
 シェラは小さく笑った。
 その頬をいくつもの生暖かい雫が零れて落ちていく。
「あなただった、なんて……いまさら……こんな、気持ち、気づいたって……」
 片想いだと彼は言った。
 けれど、そうではない。
「あの、苦しさがこんな意味なら……もっと早く、気づけたら」
「シェラ」
 ふと、うしろからかかった女性の声……アリシャ、否、エディアナの声に、身体が強張った。
「リヒトにも言ったけれど、ドミニクと真っ向からやりあっても、無駄よ」
 そうだ。
 ローレントが裏切り者であった以上、これからは敵同士なのだ。
「わたくしが手配はしたわ、人質になっていた彼の妹や他の者たちは今、王城の地下牢から出されて、僻地の処刑場に運ばれているはず。彼女を奪還すれば、ドミニクはこちらにつく」
 シェラは薄紫の双眸を見開く。
 そんなことをすれば、いくら王妃であってもただではすまないだろうに。
「……エディアナさん、あなた……なぜ……?」
 ふりかえると、彼女は寂しそうに笑った。
 その瞳は、シェラと同じ薄紫の色をしている。
「わたくし、けっして今の夫を愛していないの……だって、わたくしの愛しい人を殺したのだもの……あなたの、父親であったひとよ。何度も殺してやろうと思ったわ……だけど、一人では敵わなかったの、でもあのひと……わたくしには、甘いのよ」
 ふふっと笑ったその顔は、馬鹿にするようなものだった。
「本当はね、ローレントとあなたを引き離すつもりだったわ。だって、それが一番シェラのためになるもの……彼は裏切り者、それに……彼は人狼で、あなたは少なくともまだ人間なんだもの……」
 なるほどつまり、ぴったりとローレントにくっついていたのは、二人にさせないためだったのだろう。
 エディアナには、最初からローレントに対して好意などないのだ。
 シェラはようやく少しばかり冷静さを取り戻し、彼女に……母に対して問う。
「あの、それなんですけど……私はなぜ、ヴァンピールではないのです?」
 親が魔族なのに、どうしてシェラは人間なのだろう?
 そのことを問うと、エディアナは困ったように笑った。
「あなたはね……今の、わたくしの夫に疎まれて、ヴァンピールとしての素質を封じられてしまったの。きっと……どこぞでのたれ死ねば良いとでも思ったのね、そうしてあなたは人の世に捨て置かれた。それでもね? あなたがわたくしの娘であることには変わりないわ、吸血すれば、あなたは本来の力を取り戻せる……戻りたい? シェラ?」
 その問いには、しばらく迷った。
 きっとヴァンピールとして目覚めれば、シェラは今よりも良い戦力になるだろう。
 だが……。
「いいえ……私が目覚めてしまったら、その、あなたの旦那様が許しておかないでしょう。仲間を危険にさらすことはできません。私一人では、全てを守りきるような力はないでしょうし、ローレントだって、敵わなかったんでしょう?」
 ローレントも、エディアナも、一人では敵わなかったのだ。
 そんな相手に、シェラが敵うはずもない。
 けれどエディアナは首を横に振って、痛ましそうに表情をゆがめる。
「彼は……違うわ。妹を先に人質にとられてしまったからよ。夫にとって、彼は脅威だった。だって、とてもとても強いから……正面からぶつかったりしないわ、卑怯な男だもの」
「……そんなに、強いのですか?」
 今のローレントは敵だ。相対するのを考えると気分が重い。
 あの巨大な狼が彼の本性の一つであったとして、ミンチにされてしまうのはさすがに嫌だ。
「わたくしたちはね、あなたたちと違って血統で王が決まるわけではないわ……弱い王なんて、どんなに良い血を継いでいても……殺されてしまうものね? 人間同士なら、そんなに力の差がないけれど……わたくしたちは、別よ。弱すぎれば、騎士にさえ殺されてしまうわ」
 ふふっと笑って、エディアナはシェラのすぐ傍までやって来る。
「ローレントは強い、けど、王というものに興味を持たなかっただけ。彼はただ、家族と幸せにすごしたかっただけ……そう、だから、その気持ちを逆手に取られたのね。あのひとにとって、ローレントは脅威であることに変わりない……妹を人質にとって、最後には……彼自身も処分するつもりだったわ」
「な……っ」
 驚きに双眸を見開いたシェラに、エディアナは困ったように微笑む。
「こんなことでも、驚くのね、優しいわたくしの娘……けれどわたくしたちの世界では、当たり前のように起こることよ? ローレントだって、分かっていたはずだわ。だからきっと、妹を助け出す機会を窺ってはいたはず……本当なら、そんな機会、訪れるはずもなかった、だけど彼は、あなたを見つけた」
 なぜここで自分が出てくるのか?
 シェラが疑問に思ってエディアナを見つめると、彼女はシェラの頬に手を伸ばして微笑む。
「彼、わたくしに取引を持ちかけてきたの。エトワールを見つけたって……居場所を教える代わりに、どんな方法でも良いから、人質にとられている者たちを地下牢から連れ出してほしいって……わたくし、少しも迷わなかったわ。あなたが本物のエトワールでも、そうでなかったとしても……あの男に、復讐できる機会でもあったから」
 シェラの頬を優しく撫でて、子供にするように額にキスをして、エディアナは薄紫の瞳でシェラを見つめる。
「処刑場はこの人間の世と、わたくしたちの国の境にある、孤島にあるわ。大勢では目立ちすぎて、人質を救うより先にローレントたちを援軍に呼ばれかねない。そうなったら死肉の山ができあがってしまうから……少数の精鋭で乗りこむことになる。激戦になるのは間違いないけれど、それでも行く? わたくしの愛しい娘」
 どちらにしても、その卑怯な王が大軍を見逃すとは思えない。
 少数であれば援軍を呼びはしないかもしれないが、大勢では間違いなく呼ぶだろう。
「行かないわけには、いかないでしょう……」
 処刑場に運ばれているということは、人質は殺されるということだ。
 そして、何も知らない者たちは最後まで駒として扱われ、最後には人質が居ることにして殺されるのだろう。
 その件についてエディアナを責めるつもりはない、彼女の持てる権限では、それが最善だったのだろう。
 とにかく、王城から引き離してくれたことには感謝しなければならない。
 さすがに、敵本拠地の地下に居られては、助ける前にこちらがやられる。
 エディアナはシェラの瞳を見つめて、静かに告げる。
「勝算は、あるわ……ローレントはすでにそのことを知っているし、彼の妹を助け出すことさえできれば、あとは……彼の助力も得られるでしょう」
 ということは、その妹を助けられなければ最悪の窮地に陥るのかもしれない。
 勘づかれれば、敵はきっとその人質たちをその場では殺さずにいて、シェラたちを殲滅するように命ずるだろう。
 けれど、どんなに危険でも、成功すれば最小限の犠牲に留められる。
「行きますよ。どんなに危険だって、ローレントたちをほうっておくこともできませんし、それに、リヒト様もきっと……行くように命じますから」
 頷いたシェラを見つめて、エディアナが考えるように言う。
「リヒト……彼、話の分かるひとね。わたくしの言葉を信じるかどうか、最初は疑っていたけれど。ローレントはあなたを殺せないって……だから、あなたに任せるのが一番良いと言ったの」
「それは……その……」
 先ほどのことを思いだして、殺せない理由はそういうことだろうかと考える。
 ローレントが、自分のことをそんなふうに思っていたなんて、想像したこともなかった。
 恥ずかしさに頬が赤くなる。
「彼があなたを好いているのはすぐに分かったわ。ふふっ……わたくしも、昔は恋焦がれるときがあったもの……意外だったわ、ローレントは、どんな美人が言い寄ってきても気にしないひとだったから……だから、ね、吸血種の香りにあてられたかと最初は思っていたの」
「吸血種の……香り?」
 シェラが首を傾げると、エディアナは小さく頷いて真剣な表情をした。
「捕食対象を誘い出すためにね、生来吸血種は相手を魅了する香りがするの。人間にも効果があるわ。上位の魔族になれば、さほど影響はないけれど……あなたはわたくしとあのひとの娘、特別強い力があるもの、ローレントだって影響なしとはいかないわ」
「え……じゃあ……」
 彼がシェラを好きだと言ったのは、そのせいなのだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。
 だが、エディアナは首を横に振る。
「いいえ? 彼は本気だったのね。いつも涼しい顔をしている彼が、あなたのことになるとイラついたり悩んだりするのだもの、面白くて……つい、意地悪をしてしまったわ。そうそう、紳士的なほうだと思っていたけれど、ジェシカにもひどいことをしたのですってね。ぜひ見てみたかったわ……彼の怒りに染まった顔」
 まさかそれも、ぴったりとくっついていた理由だろうか。
 娘につく悪い虫を追い払おうとしたのもあるのだろうが、彼女は彼女で楽しんでいたのかもしれない。
「せっかく再会できたのに少し寂しいけれど、シェラ、あなたが彼と一緒に居たいのならわたくし、もう邪魔はしないわ。でも、たまには母のことも構ってちょうだいね」
 そう言って、エディアナは子供のように微笑んだ。

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