アナタトアイタイ

野草こたつ

◇魔族の女◆

 このまま何事もなく平和な日常が続くかと思われたが、それは突然の甲高い女性の悲鳴に掻き消された。
「魔物よ! 誰か! 誰か助けてっ!」
 女性の悲鳴、火が放たれたのか、煙の匂いが辺りに漂い始めている。
 火事、火事だ、と周囲からも市民の声がする。
 シェラはすぐにダガーを抜くと、ローレントを置いて駆けだす。
「ローレント! 消火のほう、任せましたよ!」
「シェラ! 一人では危険だ!」
「言ってる場合ですか! 急がないと、火の手がまわってしまいます!」
 場所は下町、密接して建物が並んでいるのだ。一度火事になってしまえば、被害は甚大。
 そして下町の住人など、上層部の多くは助けてくれない。
 のらくらやっている間に、住む場所を無くし、暴徒も、飢えて死ぬ人間も出てくるだろう。
 危険なのは分かっていても、今ここで早急に対処しなければならなかった。
(こういう時、人間というのは不便でなりませんね……!)
 もしも魔物と言わずとも魔族が居れば、水の魔術を扱える者も居たかもしれない。
 だが、全てが全てではないとは言え、魔族と人間が争っているこの時代、そんな助力は到底望めたものではない。
 悲鳴が聞こえたあたりまで来たシェラは周囲を確認する。
「――敵は」
 煙が立ち込める中、目を配らせるも、敵影らしきものはない。
 どうやら燃えているのは雑木林のようだ。
 火を放つくらいなのだから、それなりに知恵のある者であるのは間違いないのだが。ふと、咳き込む音が聞こえて視線を煙の先に向けると、先程悲鳴をあげていた女性がそこに居た。
「大丈夫ですかっ⁉」
 慌てて駆け寄るシェラに、赤く長い髪に青い瞳の、町娘らしき女性は口もとに手を当てたままで言う。
 シェラは一瞬考えて、利き手である右ではなく左を差し出した。
「大丈夫……」
 差し伸べられたシェラの左手を掴み、そして――女は嗤った。
「なぁんだ、強敵だって言うから期待したのに、ただのおバカさんじゃない」
「っ⁉」
 掴まれた手がミシリと嫌な音を立てる、シェラは咄嗟に右手に構えていたダガーを女の腕に突き刺した。するとその手が離れ、人間とは到底思えない速さで女は身を翻す。
「いったぁーい、何よ、アタシ、まぁだなにもしてないじゃない?」
「こんなに建物が密集したところに火を放った時点で……あなたの悪意が見えますよ」
 幸い、念のためにと左手を差し出したのは正解だったようだ。これではしばらくまともに動かせそうにない。これで何もしていないと言うのだから、魔物というものの感覚を疑う。
 こんなところに一人だけ、逃げ遅れたにしては不自然だと感じたのだ。
 衣服も汚れが目立たず、咳きこんではいたがさほど苦しそうではない。
 無事だった右手でダガーを構えなおし、シェラは女と相対する。
 女はひらひらと片手を振って、もう片方の手を腰に当てて言う。
「悪かったわよぅ、だけどぉ、同族を大勢殺されているこっちの気持ちもちょっとは汲んで頂戴な?」
 小首を傾げて可愛らしく言う女に、シェラは無言のまま斬りかかる。
 これから殺そうという相手と会話などしても無駄だ。どうやらその辺にごろごろしている雑魚とは異なるようだが、殺せなければここで死ぬ、それだけだ。
「待って、待ぁってよぉ!」
 蛇のように長い舌を出して笑い、女は軽々とシェラのダガーを避ける。
 どこか小馬鹿にしたような口調で、女は言う。
「アタシ、お話に来たんだってば騎士サマ」
「そうですか。私にはあなたと話すようなことは何もありません」
 それだけ言って、再度ダガーで斬りつけようとすると、女は避けながらも不満そうに言う。
 どこか雑で乱暴な身のこなしだが、戦闘自体には慣れているようだ。
 何かの流派ではなく独自の動きなのだろうと思うと、少々厄介だ。
 女はいかにして息の根を止めるかに集中しているシェラと反対に、茶でも飲みに来たかのような口調で言う。
「ねェ? 魔物っていうのも人間と同じで一枚岩じゃないのよ? あんたたちに戦争吹っかけたやつらと、それに反対してるやつらが居たって知ったら、あんたたちも少しは考えを改めてくれなぁい?」
 女の言葉に、シェラはすぐに問いかける。
「――あなたはどちらです?」
「反対なほうよぉ! そーじゃなかったらどうしてこんな危ないところに単身乗り込むわけ? ここは王都、騎士団総本部のお膝元じゃなぁい?」
 魔族には魔術があるが、人間には兵器というものがある。確かに、危険をおかしてやって来たのは事実だろう。
 警戒は解かないままでシェラは一度動きを止めた。女はそれに笑って言う。
「アタシの名前はジェシカ、騎士サマがその物騒な獲物をおさめてくれるならぁ……この火、すぐにでも消してアゲル」
 信じるか否か、一瞬迷った。
 だが、ここで信じて、裏切られたとしてもシェラが死ぬだけだ。
 逆に、ここで信じずに、一縷の望みに賭けなければ大勢の人々が苦しむことになる。
 シェラの判断は早く、すぐにダガーを投げ捨てた。
 それにジェシカと名乗った女はにこりと微笑み、赤い唇を指先でなぞった。
「あらまぁ話の分かるオンナノコは好きよ?」
「っ」
 女だということまで相手には知られているようだ。
 ジェシカは約束どおり、どこからともなく現れた水を操って全ての火を消し去った。どうやらまだ民家まで燃え移ってはいないようだが、周囲の木々は犠牲になった。
「それじゃ騎士サマ、ちょおっとだけ……人質になってよネ?」
「――……私の命など、上層部はすぐに切り捨てますよ」
 その言葉に、彼女は青い瞳を意地悪く細めてシェラの耳元に唇を寄せた。そして耳に吹き込むように、囁いた。
「そうかしらぁ? 騎士って男しかなれないんでしょう? それなのに女のあなたがそこに入り込んでいるってだけでもぉ? 役に立ってくれそうだけどネ。それに、知ってるのよォ? アンタはリヒト王子のお墨付きだって……」
「!」
 ジェシカは丸腰のシェラの腕を掴むと、隠していたのだろうロープでその身体を拘束する。
 きつく縛られて身体は痛むが、それでも下町の被害が最小限ですんだことはまず安心できる要素の一つだった。
 リヒトはきっと、シェラの命などかえりみない。そうしてくれるはずだ。
 シェラは覚悟を決め、ジェシカがシェラの身体を抱きかかえようとした、そのとき……。
「さてと、準備完了っと……ッ」
「シェラに、触れるな」
 一瞬のことだった、刃物と鉱物がぶつかるような音が響き渡る。見れば、鱗に包まれたジェシカの青い腕とローレントの剣が火花を散らしている。
 ローレントの表情は先程までと打って変わって冷酷なもので、容赦なくジェシカの腕ごと身体まで切り伏せそうな勢いだった――シェラが人質になっていなければ。
 その翡翠の瞳は今まで一度も見たことがないほど冷え切ったもので、シェラのも驚きに薄紫の双眸を見開く。
「ちょぉっと! レディに対してあんまりじゃないのっ!」
「魔物の事情など、知ったことではないよ」
 ローレントは一度身を引いてジェシカの前面にまわると、身体が硬化することを知ったからか、その腹部に容赦なく一突きを入れる。
 シェラには傷一つつけないところが、彼の腕前を物語っていた。
 おそらく、傷つけない自信があっての行動であったのだろうし。
「ッ、最低な男ねェ……ッ!」
 力で押し負けたジェシカが吹き飛ばされ、シェラの身体が解放される。
 ローレントはすぐに彼女を拘束していたロープを切ると、心配そうな声音でたずねる。
「ケガは? シェラ」
「左腕をやられてしまいましたけど……あなたも無茶なことをなさいますね」
 こういうときだからこそと、ふふっと苦笑をこぼして答えるシェラに、彼の表情が険しいものになる。
「左腕……」
 だらりと垂れたシェラの腕を見て、ローレントの翡翠の瞳に暗い色が滲む。

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