女子高生に転生した勇者が魔王に恋をしちゃった話

八木山蒼

女子高生に転生した勇者が魔王に恋をしちゃった話

 邪な瘴気の渦巻く魔王城。
 その最深部。生きる命は2つのみ。

 剣を持ち構える男は勇者。女神の託宣と精霊の祝福を受け、世界の未来を手にした聖剣でただ1人拓く運命を持った勇者。
 対峙するは魔王。巨大な体躯に漆黒の肌、巨大な角、人が夢想しうる邪悪をゆうに越える魔の象徴。この世を破壊し闇に染めんとする魔族の王、人類の天敵にして勇者が討つべき巨悪。

 両者とも満身創痍。勇者は息を荒げ体を染める血は己のものとも仲間のものともわからない。その背後には仲間たちが死体となって転がっている。対し魔王も魔族の青い血で身を汚し、滾っていた莫大な魔力も枯れつつあった。
 永く続いた勇者と魔王の戦い。その決着がつこうとしていた。

「勇者よ……我にここまで抗うとは、見事だ……だがこれ以上続ければ間違いなく、互いに命を失うぞ」

 弱った声で魔王が言い放つ。だが勇者の戦意は微塵も衰えない。

「覚悟の上だ! たとえ俺が死のうとも、貴様を討ち世界に光を取り戻す! それが、勇者としての俺の使命なんだ……!」

 仲間の死をその背に負った勇者。その瞳に迷いなどなかった。だが魔王はその目を嘲笑った。

「いいだろう、貴様はそれで満足なのだろう。だが我は滅びん、ここで命尽きようとも我が野望はけして消えん!」
「なんだと?」

 また魔王が低く笑う。その全身に、これまで見せなかった奇妙な魔力が満ち溢れていく。

「転生の禁術……! 我が魔族が幾星霜の末に作り出した禁術だ。この術により、我は記憶と力の一部を受け継ぎ、新たな生を零より始めるのだ! それも異なる世界でな」
「なんだと?」
「安心しろ勇者、この禁術は我を倒す猛者の出現を予期した術……転生する先はそのような者がいない、遠い遠い世界になるよう作ってある。我も見たことはないが、この世は届かぬだけで幾重にも重なった世界で作られているらしい……我が転生するのはその内のひとつ、この世界とは関係のない異世界だ。この世界の平和は約束されるぞ。満足だろう勇者、この世界を守れるのだからな」
「ぐっ……」

 魔王の全身が白い光に包まれる。勇者は動くことができなかった。

「貴様の勝ちだ勇者、我はこの世界から、この世から逃げる。もとより我はどこでもよいのだ……我が支配し、牛耳れる世界ならば! 貴様はこの世界を守り続けるがいい、我は貴様のいない世界で、我の望む支配を成し遂げてみせる! くく、フハハハハハーッ!」

 魔王を包む光が強さを増した。魔王の命が消え、異なる世界へと移っていく。
 刹那の瞬間勇者は迷った。このまま動かなければ勇者は死なない。世界は守られ、平和になった世界で自身は生き残れる。
 だが勇者は思い出す。幼き頃から支えとしてきた勇者の使命。旅の中で見てきた涙と死、そして仲間との誓い。
 『魔王を討つ』。そのために勇者は戦ってきたのだ。

「逃がすか、魔王ォォォォォォーッ!」

 勇者は光に消えゆく魔王に飛び掛かった。そして振りぬいた聖剣が、不可侵だったはずの禁術を切り裂き、勇者は魔王に肉薄した。

「な、勇者、貴様……!」
「どこへ行こうと必ず貴様を滅ぼす! それが俺の、勇者の……!」

 その瞬間、両者は光に包まれ、消えた。
 この世界での勇者と魔王の戦いは互いに命を落とす引き分け。魔王は消え、勇者とその同胞の命と引き換えにこの世界には平和が戻った。
 ――そう、この世界には。



 転生というものがどんなものなのか、勇者はもとより魔王も正確には把握していなかった。
 魔王にとっては自らの心と力が失われなければなんでもよかった。自身の支配欲を満たせれば、たとえどんな世界だろうと、どんな者に生まれ変わろうと。
 勇者はただ魔王を殺す、その一念だった。
 結果からいうと思惑通り、勇者と魔王はそれぞれ転生した。勇者の念が魔王に食らいつくように、互いに同じ異世界で、それもとても近い場所で。
 だが本来ひとつの命を転生させる禁術に、勇者が無理に割り込んだことで、想定外の出来事がいくつも起こったのだ。
 その結果のひとつが――勇者が魔王に、恋をするというものだった。



 ある日の朝の住宅街。

「いってきます」

 いってらっしゃいという母親の声が返され、女子高生は家を出た。ごく普通の制服にごく普通の鞄を手に持ち、長い黒髪を綺麗に整え、これといって着飾っているわけでもなく目を見張るほどの美少女でもないが、こぎれいといった印象を与える少女だ。
 その家の前、表札のある門の向かいの壁によりかかって彼女を待っている男子がいた。学ランを着た彼は引き締まった長身で、中性的な顔立ちのいわゆるイケメン。男子はいじっていたスマートフォンをしまい、門を出てきた少女を笑みで迎えた。
 だが少女は門を出たところに待ち構えていた男子を見てハッと目を見開いた後、一瞬だけ逡巡するように目を泳がせてから、彼をにらみつけた。

「カイ君、いや魔王! 毎日毎日なんのつもりなの? いや、なんのつもり、だ!」

 何度も言葉を直しその度に恥ずかしそうにためらいつつ少女は言う。少女に魔王と呼ばれた男子、大間櫂はやれやれと肩をすくめた。

「恋人を迎えに来るぐらい、普通だろ? ユウ」

 カイの言葉に少女――八木裕は頬を赤くした。そんなユウを見てカイは楽しそうに笑う。

「だいたい小学生の頃からずっといっしょに登校してるんだぞ、今さらなんだよ」
「そ、それはカイ君が、記憶のない私を卑劣にも罠にはめて……!」
「はいはい、それじゃ行こうか」
「……カイ君の、ひきょうもの」

 結局ユウも強くは拒絶せず、2人は並んで歩き始めた。カイがすっとごく自然に手を差し出す。手を握り合って歩こうというのだ。ユウは当然驚き、たじろぎ、ためらったが――結局はその手を握り返した。
 普通の女子高生ユウは、恋に落ちていたのだった。



 勇者と魔王。転生の禁術に呑み込まれた両者は、同じ世界、同じ日に、この日本に転生した。

 魔王は予定通りに魔力と記憶を引き継ぎ完全なる転生を果たしていた。だが勇者は違った。元々魔王の力を次なる命に転ずるために魔族が作った転生の禁術、割り込んだ勇者は転生こそできたが、その力を受け継ぐことはできなかった。しかもそれは勇者にとって最悪の結果……勇者が持っていた魔力のすべては、魔王の方へと流れ込んでしまったのだ。魔力ばかりでなく女神の託宣と精霊の祝福により身につけてたはずの人智を超える力もこの遠い異世界では無力となり、常人となり下がった勇者は、魔王に対抗する術を完全に失った。

 だがそれで勇者が絶望することはしばらくなかった。希望があったからではない、絶望に気付かなかったから――勇者の転生は記憶も完全ではなかった。生まれてすぐに自らが人間の乳飲み子になっていることを認識できた魔王に対し、魔力を持たない勇者はただの赤ん坊だった。人の忘却が記憶の消滅ではなく記憶を取り出せなくなることを意味するように、勇者は記憶を引き継いだものの、それを取り出すことができなかったのだ。

 さらになんの因果かはたまた勇者の執念か、勇者と魔王が生まれた家族は隣り合って暮らす近所同士だった。

 互いに子供を抱いて話す母親の胸の中、僅かながら残留する魔力で魔王はそこにいる赤子が勇者であることに気付いた。そして勇者に起こった転生の不具合も理解し、魔王は内心で歓喜した。もはや勇者は敵ではない、この世界は自分ものだ、と。もちろん赤子の体ではいかに強大な魔力を持とうとできることは限られるので、十分に肉体が成長してから世界を手中に収めようと魔王は決めた。

 魔王は勇者を始末することはなかった。勇者が完全に無力化されていたこともあり、いつか勇者の記憶が戻った時に滅びゆく世界や死にゆく人々を見せつけその心を絶望に落とし前世の恨みを晴らそうと考えたためだ。

 かつて勇者と魔王だったユウとカイは傍目には仲のいい幼馴染としてすくすく成長していった。魔王にとっては人間の生活など退屈ではあったが子供の体に魔王の知能であるために何をしてもすごいすごいと褒められるのは悪い気分ではなく、性格の根底の部分で(支配できればどこでもいいという理由で転生したように)小物だった魔王は、ユウと隣並びでの転生ライフを満更でもなく楽しんでいた。

 そして2人揃って同じ高校に無事に入学した夏のある日。ユウからカイに、告白したのだ。幼馴染のカイが好き、恋人になって、と。小さい頃は毎日のように遊びに来ていたカイの部屋で顔を真っ赤にしての決死の告白だった。

 当時、すでにカイはイケメンでスポーツ万能な天才としてモテにモテていた。ユウの告白は、それまでただの幼馴染だったはずのカイの周りに異性が集まることで初めて自分の気持ちに気付いてのことだった。

 ユウは絶対に断られると思っていた。カイはこれまで何度も女子から告白されていたがいずれもすげなく断っていた。またユウにとって(これは勇者の力が魔王に流れたからだが)何をしても自分より上手なカイは憧れの存在であり、それと比較してなんの取り柄もない自分に自信がなかった。それでもカイに恋する気持ちは本物で、玉砕覚悟のやっとの思いで想いを伝えたのだ。

 そしてカイはそれを受け入れた。彼が他の女子の告白を断っていたのは、ユウを待っていたからだったのだ。

 ユウはカイと恋人になれたことにまず驚き、そして心から驚いた。だがそのショックからなのだろう。
 唐突に、ユウは勇者としての記憶を取り戻し――今に至るのだ。 



 学校に着いてもカイはユウの手を離さない。他の生徒から見られようと友人からからかわれようと、ユウがいくら顔を赤くしてぽこぽこカイを叩こうと。2人が恋人になってもう1年になるが、ほとんど毎日2人はこうして登校していた。
 教室までの廊下をも2人は並んで歩いた。スポーツ万能・成績優秀で知られ次期生徒会長とも目されるカイとその恋人のユウはすっかり学校では知られたカップルだ。カイは堂々と、ユウは恥じらって顔をうつむきながら歩いていた。

「魔王、貴様……どこまで私、いや俺を辱めれば気が済むんだ」

 小声でユウが呟く。だがカイは涼しい顔だ。

「嫌なら手を離せよ、そう強く握ってないぞ。それともユウは俺が嫌いなのか?」
「お、お前なんか……ううぅ」

 ユウは口でこそ魔王憎らしと吐き捨てるがカイを強く拒絶することはない。ユウが持つカイへの恋心は本物で、ほんの少し前に思い出した勇者としての記憶がそれを打ち消すことはなかった。

「忘れちゃえよ前世のことなんかさ、俺はもう気にしてないんだぜ?」
「そ、そうやって俺を懐柔して世界の支配を目論んでいるのだろう! その野望はこの勇者が必ず止めてみせるぞ」
「だから何度も言ってるだろ、俺はもう世界征服なんかに興味はないって……わからない奴だな」

 ふとカイは立ち止まる。手を繋いだままのユウも当然同じく立ち止まった。

「な、なんで止まった。今度は何をするつもりだ」
「いや、ユウのクラスについたからだけど」
「あっ……フ、フン!」

 カイとユウは別のクラスなのだ。ユウは慌てて繋いでいた手を離し、逃げるように自分の教室に入っていった。早くカイから離れたいと思っていたのならば、自分のクラスについたことを気付かないということはなかっただろう。結局のところ、ユウはカイのことが好きなのだ。
 そして、カイも。

「……かつて世界を恐怖に陥れた魔王ともあろうものが、小娘1人に入れ込むとはな」

 カイは自嘲気味に呟いた。先程ユウに言った「もう世界征服などに興味はない」という言葉は本心だった。カイは、魔王は勇者を弄ぶために恋人になっているのではない。魔王もまた、ユウを本当に愛しているのだ。
 なぜユウを勇者と知っておきながら愛するようになったのか、人間としてもさほど魅力のない少女に恋をしたのか。それは魔王自身もはっきりとはわかっていなかった。だが魔王はひとつ自分の精神に理解していた。

 孤独。

 生まれてからずっと彼は孤独だった。莫大な魔力、強靭な肉体を持ちながらも、いや力を持っていたからこそ、友も家族もいないまったくの孤独の生を送ってきた。かつて魔王は己の感情を支配欲と解釈したが、魔王として君臨したのも、世界を征服しようとしたのも、すべてはどこかで孤独を嫌がったからなのかもしれないと今になって思っていた。
 そしてカイとして生まれ変わり、幼い頃から一緒に育ってきたユウ。最初はカイも無力な幼女になり下がった勇者を嘲笑う感情があったが、何も知らないユウは無邪気にカイに懐き、またカイをキラキラした目で尊敬した。その目と言葉に心を動かされなかったとは思えない。いつでも一緒にいるようになった幼馴染、その存在に孤独を癒されていると気付いた時、魔王の傲慢な心はすっと消えていた。ユウを愛するようになった時があるとすればその頃からなのだろう。

 今のカイの想いはひとつだ。勇者と和解し、ユウと真の意味で繋がり合いたい。そのためには世界などどうでもよかった、いやユウといる場所こそが今のカイにとっての世界だった。
 そんな感じでカイが物思いにふけっていると急に教室のドアががらりと開き、またも顔を真っ赤にしたユウが怒り顔で出てきた。

「い、いつまで教室の前に立ってるの! クラスのみんなにはやしたてられて大変なんだよ!?」

 口調がユウのものになるくらいにテンパっているらしい。カイは悪い悪いと苦笑する。

「じゃあ俺は行くよ、またな」

 カイはあえてあっさりと踵を返し去っていった。あっ、とユウが何かを言いかけたが気にせずに歩く。ユウはああは言ったが、なんだかんだカイと離れたくないという気持ちも持っているのだ。そんなユウがいじらしく、カイはついつい意地悪してしまうのだった。
 ――去っていくカイを、ユウは見つめていた。



 深夜、ユウの部屋。
 ユウが10年以上を寝起きするその部屋は、よく整頓された学習机とベッド、クローゼットが置かれ、枕元にはぬいぐるみ、カーテンなどにはピンク色が用いられた、「いかにも」な女子高生といった部屋だ。そして机の一番目立つ場所には写真立てに収められた写真――初デートの遊園地での、ユウとカイのツーショット写真が飾られている。
 今、ユウは勉強机に向かい、その写真立てをじっと見つめていた。既に入浴後、ファンシーな寝間着に着替えていた彼女。チッ、チッ、という時計の音だけが聞こえる深夜1時、みじろぎもせず、ひたすらに写真を凝視する。写真の中の2人は中学生、幸せそうにピースサインを見せている。
 突然、ユウは右手を伸ばし、筆立てにあったハサミを掴んだ。

「う……うわあああああっ!」

 ユウはいきなり悲鳴に似た声を上げると左手で写真を持って椅子を跳ね飛ばしながら立ち上がり、ハサミを持った手を掲げ、まるで憎い相手に突き立てるかのように写真へと振り下ろした。
 だが――その手は写真に近づくことに遅く、弱くなっていく。やがてハサミの刃は写真に触れることもなく止まった。 中空でむなしく止まった自分の手を見つめながらふーっ、ふーっと荒い呼吸を辛うじて抑える。瞳からは涙がこぼれていた。

「……っくそぉ……」

 ユウは顔を覆い、泣き崩れた。写真とハサミが床に落ちるのを気にする様子もなく、声を殺し、夜に独り、自分の部屋で泣き続けた。



 ――そしてそれは、ある日の放課後のことだった。
 その日ユウは体調不良で欠席した。カイが心配して電話してもユウは出すらせず、一日ユウに会えなかったカイは機嫌を悪くすると共に、少し不穏な気配を感じていた。
 だが放課後、ユウの見舞いに行こうと早々に帰宅しようとしたカイは、自身の下駄箱に1通の手紙を見つけた。『放課後、屋上で待ってる』。それだけ書かれたA4のペラペラの紙には名前すら書いてなかったが、カイにはすぐそれがユウの字であるとわかった。
 そしてカイが屋上のドアを開けると、沈みつつある夕日を受けて――ユウは腰まであるフェンスから身を乗り出して下を眺めていた。

「そっちは校舎裏だろ。何もないはずだが、何を見てるんだ?」

 あえて冗談めかしてカイは切り出す。ユウはゆっくりと振り返る。夕日が後光になりその表情はうまく見えない。

「……カイ君、いえ魔王。なんであなたは、私を……勇者を殺さなかったの?」

 ユウの問いはまた前世のことだった。すっかり慣れっこのカイはやれやれと肩をすくめる。

「決まってるだろ、お前が好きだったからだよ」
「でもそれはしばらく暮らしてからのことだよね。魔王の力なら、生まれてすぐ、赤ん坊の頃でも私を始末できたはず……なんで、好きになっちゃうくらいまで生かしておいたの?」

 問いを重ねてきたユウに、おや、とカイは思った。いつもならば少しでも「好き」と言えばユウは顔を真っ赤にして慌てふためくはずなのに。それに声の調子も人間の感情に疎い魔王には具体的にどうとはわからなかったが、普段と違うように感じた。
 少し考えてから、カイは答えた。

「最初のことを言うなら……必要がなかったからだ。転生の禁術によりお前の力の全ては俺に移り、お前は記憶すらないただの赤ん坊だった。殺す必要はないし、殺すにしても記憶が戻った後にいたぶりながら殺す方がよい……そう考えたんだ。だけど、今はもうそんな気はさらさらないぞ」

 ユウはまだ俺がお前を殺すなんて思ってるのか? カイは苦笑しながら言い、愛してる恋人にそんなことするはずないだろ、と続けた。それはパフォーマンスの混ざった気障なセリフだったが、彼の本心でもあった。
 そう、とだけユウは言った。怒るわけでも否定するわけでもなく、ただただカイの言葉を聞いて受け止めたという印象――それはユウの態度とも勇者の態度とも違っていて、カイは違和感を禁じえない。

「ユウ、どうしたんだ? なんだか今日はおかしいぞ。そもそも体調が悪かったんじゃないのか、なんで学校に……」
「カイ君、もうひとつ聞かせて。なんで……カイ君は、私を好きになったの?」

 カイの言葉にかぶせるようにユウが問いを続ける。ユウの声は落ち着いており激しい感情はない。だがそこには有無を言わせぬ圧のようなものもあり、カイは思わず言葉に詰まった。ユウはともかく勇者はカイがユウを愛することを疑っていたはず、だが今の問いかけはカイの愛が本物であることを前提としたもの――いやあるいは理由を聞くことで本物かどうかを確かめるつもりなのか。いずれにせよ平時の勇者の感情に任せた否定とは違う言葉。カイはひとまずその問いに答えることを選んだ。

「なんで、か……」

 なぜ愛するのか? それはカイにとっても自問が必要な問いだった。愛という感情は理屈で成り立つものではない、言葉よりも先に沸き上がるもの――それはカイが実体験で理解したことだ。だがここではあえて言葉にし、並べ立てる。真の意味でユウに、勇者に届けるために。

「……俺はかつて魔王として君臨していた頃から、どこかで愛を求めていたんだと思う。男女の愛に限らず、親子の愛、友情としての愛……つまり誰かから求められ、自身もまた誰かを求める、そういう感情。でも俺は愛そのものを知らなかった、知らないものを求めていたから、どこかで歪み、捻じれ、壊れて……悪になった。だけど転生してこの世界で、ユウが俺に愛を教えてくれた。ただただ勇者の成れの果てと思い、見下し、嘲笑い、蔑んだユウ。だがそれでもユウは俺を慕い、頼った。俺みたいな悪を、ユウは求めてくれた……愛してくれた。そしてやっと気づいたんだ、俺が求めていたものの正体に。その時に魔王としての俺は滅びた。不思議なことに、力を失ったはずの勇者が魔王をうち滅ぼしたんだよ。今の俺にとっての全てはユウ、お前なんだ。俺はお前を愛してるし、お前に愛されたいと思っている。これは、俺の本心だ」

 カイは隠すことなく己の心中を明かした。さすがのカイでも少し照れ臭く感じるほどのユウへの想いを吐露したのだ。思えばユウに対してこうも正直に伝えるのは初めてのことだった。
 そろそろ夕日にも目がなれ、ユウの表情が見える。ユウは少しだけ頬を赤くして笑いながら――かつ、なぜか悲しげな、複雑な表情をしていた。

「そっか。やっぱりカイ君は、本当に私のことを好きでいてくれてるんだね……八木ユウのことを……そっか……」

 そう言ってユウは少し顔をうつむく。カイが何を言っても魔王だ魔王だと素直に受け止めなかったユウが初めてカイの想いを理解した、そのはずだが表情には影が差していた。
 カイが何か口を開く前にユウはパッと顔を上げ、薄く笑った。

「カイ君が自分のことを教えてくれたから、今度は私が話すね」

 ユウはそう言ってフェンスに腰かけた。また顔をうつむきがちにし、微笑を浮かべながらも眉には悲し気な色をにじませつつ、語り始めた。

「カイ君、私の名前……勇者だったころの俺の名前を知ってるか? うん……知ってるわけないよね、だってないんだもん。前世の俺は『勇者』、それだけの存在。女神の託宣を受けた子供である俺は生まれた時から勇者だった。もちろんそこに愛がなかったわけじゃないよ、両親は俺のことを息子として愛してくれたし、王様も勇者として俺を褒めて……国の人も師匠も、勇者の俺を認めてくれた。勇者でない俺なんて考えもしなかったし、実際、私は最初から最後まで勇者だった」

 その言葉はユウと勇者の言葉が入り混じっていた。ユウ自身それに気付いていないのか、ユウはそのまま続ける。

「勇者の私は小さい頃からずっと訓練と教育の日々を送った……でもそれも辛くはあったけど嫌だとは思わなかった。だって俺は勇者だったから。世界を救う、選ばれた力の持ち主であり、みんなの希望……勇者の使命が、私の支えだった。使命を負った勇者としての責任感が俺にはあった。やがて俺は旅立ち、仲間を見つけ、旅の中でいくつも試練を乗り越え、その度に強くなり……勇者としての使命を果たすため、お前と戦った……」

 魔王も初めて聞く勇者の過去。それは魔王を倒すためだけに生きた、けして地獄ではなくとも、どこか物悲しい男の青春だった。
 ユウはまた顔を上げた。その表情の悲哀はより色濃くなっていた。

「カイ君は……俺に、勇者だった頃のことを忘れて、ユウとして生きろって言うんだよね。うん、私だってもう……勇者であることに意味がないってわかる。私もカイ君のことが好き、大好き。でも……心の奥で、勇者の俺が泣いているんだ……!」

 ユウは胸元に手を置き、ぎゅっと握りしめた。その表情にもはや笑みはなく、悲哀がいっぱいに広がっていた。

「俺が勇者であることを捨てた時……そこに何が残る? ずっとずっと勇者として生きてきたのに。使命のために、使命を果たすためだけに生きてきたのに。目の前に魔王がいるのに、ずっと抱いてきた使命を果たせず、捨てなければならないなんて……!」

 カイはユウに言葉を掛けようとした。だがそんな隙もなくユウの言葉はますます強く、早く、悲しくなっていく。

「わかってる、わかってるよ。もうカイ君は魔王じゃない、討つ意味がない。それに私にも力がない、女神の託宣も精霊の祝福も磨き上げた剣術も何もない……魔王を討てるわけがない。もう俺は勇者ではいられない……でも、ずっとずっと、それだけを支えにしてきたのに……今さら使命を捨てられるわけ、ない!」

 ユウは悲痛を声に込め、カイへと吐き出した。それは勇者として強く生きた男が初めて見せる弱さ――あまりにも儚い感情。
 カイは自身を恥じた。ユウの葛藤も知らず、ただただ恋人恋人と言い続ければやがて勇者と和解し、ユウを真の意味で愛せると考えていたことに心から恥じた。魔王たる己が人の心を理解してないということを、ユウの声と瞳に嫌というほど思い知らされた。

「ユウ……すまなかった。俺はただ、お前を……」
「わかってる」

 カイの言葉をまたユウは遮る。今度は悲しみとはまた少し違う――より乾いた、諦めに近い感情のある声だった。

「わかってるよ、私がどうすればいいのか。勇者の使命を捨てるのは辛く苦しいこと、だけどそれも乗り越えて……ユウとしての自分を受け入れて、自分の想いに従えばいい。カイ君を愛したい気持ちに従えば……でもねカイ君。教えてあげる、愛する気持ちっていうのはね、すごく強いけど……すごく、脆いんだよ」

 ユウはそう言って――微笑んだ。あまりにも悲しく、空しく。

「この中には2人の私がいる。勇者としての私、ユウとしての私……そのどっちも私なの。どちらかを完全に捨て去ることなんてできない。ユウの私はカイ君を愛したいと心から思ってるのに……勇者の私はまだ、魔王を憎んでいる。そしてその逆もそう、勇者の私が魔王を討とうと思っても……ユウの私の、カイ君を好きな気持ちが邪魔をする。どっちも私なの。どっちも、なくならないの……」

 悲しい微笑みを浮かべるユウの頬を、涙が伝った。ひとたび流れ出した涙は止まることなく流れ続け、カイの言葉を失わせた。
 そこにいるのはユウだった。カイが愛するユウだった。だが同時に、魔王を憎む勇者もまた確かにそこにいた。そして愛は、ユウがカイを愛する心は、僅か一片でも残る憎しみを、憎しみを抱く己自身を、許せなかった。
 ユウはカイを愛したい。そう願い、想い、そして――愛せなかったのだ。

「辛い。とっても、辛いんだ。自分の心が2つあって、今にもバラバラに引き千切れそうになる。それを抑えるのは本当に、辛い……せめて私の心が2つになったのを、魔王に責任を求めることができたらどれほどよかったかな……誰かを憎んで暴れる心を発散できたら、どんなに楽だったかな。でも違うの。カイ君の転生に飛び込んだのは私の意思、それでいろんな事故が起きて、今の私ができたのも全部私の責任……私が、悪い……私が辛いのも、全部、私が……」
「……ユウ」

 カイは一歩ユウへと近づき、ようやく声を発した。

「どうして言ってくれなかったんだ。そんなに悩んでたなら、せめて俺に教えてくれたら……」
「言えるわけない」

 ユウの言葉にカイは怯んだ。愚かな魔王である自分が愛する女を苦しませた、その罪悪感が彼の足を凍てつかせた。それを一生悔やむことになるとも知らずに――カイはユウへそれ以上近づけなかった。

「勇者である俺ができるわけがない、憎い魔王に己の弱さを晒すなど……ユウの私ができるわけない、カイ君にそんなこと言ったら、大好きなカイ君にきっと責任を感じさせちゃう……パパにも、ママにも、友達にも言えるわけない。私が転生した勇者なんて、信じてもらえるわけ、ない……」

 顔を覆い、涙で言葉をつかえさせるユウ。カイははっきりと理解した。ユウをここまで苦しめたもの、それはかつて彼を苦しめ魔王を生んだ感情。

 孤独。

 ユウは孤独だった。2つの心を持つ葛藤、憎悪と愛情、勇者とユウ、その間に挟まれ、苦しみ、もがきながらも、それを誰にも吐露できない孤独。感情は吐き出されることなくユウの中でくすぶり続け、えんえんと彼女を苦しめていく。勇者として祝福され、仲間に恵まれ生きてきた勇者にとってそれは恐らく人生で初めて味わう地獄だったのだろう。
 魔王を憎むこともできず。カイを愛することもできず。誰にも理解されず、ただただ苦しみ続け。出口のない暗闇を彷徨い続けたユウが見つけたのは。

「カイ君。ユウは……勇者ほど、強くないんだよ」

 ユウが呟く。さらに続ける。

「魔王。お前の勝ちだ……俺は、もう……」

 勇者もまた最後に言った。カイは動かなかった、動けなかった。

「ねえ。なんでカイ君は、ただのカイ君じゃなかったのかな。なんで私は、ただのユウじゃなかったのかな……そしたらきっと、幸せだったのにね……」

 ユウは顔を上げて、カイを見た。そして。

「さよならカイ君。大好きだよ」

 最期にユウはにこりと、笑った。涙でぐしゃぐしゃの顔で、精一杯、微笑んだ。それはけして幸福には見えなかった。
 フェンスに腰かけたユウの体がゆっくりと傾く。そのまま屋上から消え――カイの視界からいなくなった。
 何かが落ちる音。
 カイの耳に、それはあまりに重く響いた。

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