「お前ごときが魔王に勝てると思うな」とガチ勢に勇者パーティを追放されたので、王都で気ままに暮らしたい

kiki

EX6-10 ファクト




 流れた血が刃を伝い、キリルの手を汚し、ポタポタと地面に落ちていく。
 腕を震わせながら、せっかく沈めた剣を引き抜こうとする“殺意”を必死で食い止める。

 動くな。動くな。
 そのまま殺すぐらいなら、いっそお前が死んでしまえ。

 祈る、願う、呪う。
 キリルは自分が普通であるために、必死に自傷・・する―― 

「先輩……い、いやあぁぁああああっ!」

 自らの腹に刃を突き立てたキリルを前に、ショコラは悲鳴をあげた。
 キリルの母は昏倒し、父は唇を震わせながらもその体を支える。
 村人たちは状況に圧倒され、誰もが言葉を失っていた。

「ぐ……グウウゥ、オ、オォォオオオッ!」

 キリルの脳内でノイズが鳴り響く。
 殺せ、殺せ、殺せ。
 肉を裂いて腹を割って腸を引きずり出して、斬って潰して砕いて嗤え。
 それは暴力的な殺意の衝動。
 オリジンに似せた、しかし似て非なる“ただの悪意”。
 その前にキリルは、己を保つために自らを傷つけるしかなかった。
 でなければ、この腕は今すぐにでもショコラ、そして両親をを斬り殺してしまいそうだったから。

 痛みが体を鈍らせる。
 流れ出る血が力を奪う。
 そう、それでいい。
 この肉体に刃が収められている限り、力がショコラを傷つけることはない。
 嗚呼、しかし――この身が鞘であるというのなら、“意思”が剣を抜こうとするのも道理。
 腕力では抑え込めない憎動が、せっかく収めた剣を外へと導こうとする。
 もはやわずかに残されたキリルの意思だけで止めることは不可能。
 ならば――物理的に・・・・止めるしかない。

「グロ、ウ……!」

 刃が分岐し、キリルの体内をかきわけ、根を張っていく。

「先輩っ!? いけません、そんなことしたら先輩がっ!」

 もちろんキリルは無事では済まない。
 いくらオリジンコアで体が強化されているとはいえ、内側からズタズタに切り裂かれては、命すらも危ない。
 しかしそうしなければ止められないのだ。
 そうしなければショコラを殺す。両親を殺す。大切な人を殺してしまう。
 それはキリルにとっての死に等しい。
 何より、クロスウェルに敗北するに等しい。
 嫌だ。嫌だ。ムカつく。あんな急に出てきた気持ちの悪いロン毛男に負けたくない。
 真面目だったり、不真面目だったり、キリルを引き留めようとする感情は色とりどりだ。
 マーブル模様に混ぜなければ、とても一つだけじゃ止められない。

「あ、ああ、先輩……っ」

 内側で根を張る刃が、皮膚を突き抜け体の外にまで飛び出す。

「お、おおぉ、オアアァアアアアアアア!」

 それを引き抜こうとする異形の意思。
 止めるためにさらに根を張るキリルの執念。
 無事な臓腑は心臓ぐらい、全身の骨までもが貫かれ、砕かれ、立っているのも精一杯だ。

「ガアアァァアアアアアアッ!」

 その獣じみたおたけびは、思うように体を動かせない怒りと、痛みに耐えるキリルの情念が吐き出させている。
 嗚呼しかし、キリルにできることはここまでだ。
 ショコラと両親を傷つければキリルの心は死ぬだろう。
 だがだからといって、キリル自身が死んでしまっては意味がない。
 死なずに止める。いつまでそれを続けられる?
 あと十秒か。
 否、五秒ほどだろうか。
 根を張った刃はそれでも体から引き抜かれようとしていて、そうなれば体の中身は全部持っていかれるだろう。
 そして異形に完全に支配されたキリルは、そんな死に体でも、最期の瞬間を迎えるまで殺戮の限りを尽くそうとするだろう。
 最悪だ。最低だ。まっぴらごめんだ。
 だから祈る。
 ひたすら祈る。

「誰か……誰かぁ……」

 もはやそうすることしかできないことは、ショコラにもわかっている。
 だから彼女もその到着を待つ。

「頼む、誰かキリルを助けてくれ……!」

 キリルの父も、ただただ願った。
 村人たちも同じように、この状況を全て打破してくれる、英雄のような存在が現れることを。

 たとえばこの世界にオリジンがいたのなら、事は悲劇のまま終わっていただろう。
 誰も救われず、救いを求める者ほど苦しんで尽き果てていく。
 そういう世界だったから。
 だが今は違う。
 なぜならすでに、この世界は救われている。
 世界に満ちる不愉快な電波も飛び交っていない。
 だから届く。
 祈りや願いは、誰にも邪魔されることなく――

反転しろリヴァーサルッ!」

 絶望を引き裂くように、天より少女の声が響き渡った。
 キリルの両親、ショコラ、そして村人たちは空を見上げ、太陽の光を背に降り立つフラムを見て、思わず感嘆に「おぉ……」と息を震わせる。
 
 かつては触れなければ破壊できなかったオリジンコアも、今のフラムならばこの距離で、たとえ体内に埋まっていたとしても、破片が体内に残らないほど完全に消滅させることができる。
 また、フラムはキリルの体に根を張る刃も同時に、反転によりその存在を消し去った。
 もちろん全身は穴だらけになるため、一気に傷口から血が噴き出す。

「セーラちゃん、キリルちゃんの治療をお願いっ!」
「わかったっす!」

 フラムに抱えられていたセーラは、着地後すぐにその腕から下ろされ、キリルに駆け寄った。
 コアが取り除かれたキリルの体はすでに元の状態に戻っている。
 だが、大量出血、そしてコア使用の反動に耐えきれず、崩れ落ちた。

「せんぱ……い……あれ?」

 ショコラは屈んでキリルの様子を見ようとしたが、そのままがくんと膝を付き、体が傾く。
 そしてそのまま砂の上に倒れると、指一本動かせなくなってしまった。

(あ……やば、もう、喋れない……)

 糸が切れたように、とはまさにこのことを言うのだろう。
 元よりショコラが動けていたのは、死の間際で、痛みすら感じなくなっていたから。
 それをキリルを助けたいという精神力だけで保たせていたにすぎない。

(寒……ああ……お父さんも……お母さんも、こんな感じ……だったのかな……)

 遠ざかっていく意識に、彼女は抗わなかった。
 もはや生きることを諦めていたのだから、それは当然の帰結である。

「こっちもかなりまずい状況っすね……でも……っ」

 セーラは二人を救いたい、だが体は一つしかない。

「キリルちゃんの怪我、外傷だけじゃないの?」

 フラムが尋ねると、セーラは険しい表情で頷く。
 キリルの出血はすでに止まっていたが、なおも厳しい状況のようだ。

「たぶん、オリジンコアの反動なんすけど……全身の筋肉が断裂していて、内臓もどうなってるかわかったもんじゃないっす。ただ剣で刺されただけなら治療は簡単っすけど、これが“消耗”だとするなら、今のおらだけじゃ厳しいっすね」
「わかった、じゃあすぐにコンシリアに戻ろう!」

 事情とか経緯とか説明とか、そういうのは一切合切後回しだ。
 フラムはショコラとキリルをそれぞれ片腕で抱えると、セーラに自分の正面からしがみつくよう指示を出した。
 前なら守れるが、背中だと途中で落ちてしまう可能性があるからだ。
 かなり恥ずかしい体勢だが、セーラはすぐさま従い、フラムに抱きついた。

「フラムさん!」

 一連の流れを見ているしかなかったキリルの父が、フラムに呼びかける。
 ここまで説明はゼロだ。
 事情の一つや二つは聞きたいところだろう。
 だが今はそれを話す余裕もない――『必ずあとで説明する』、そう口を開こうとした瞬間、キリルの父は深々と頭を下げた。

「キリルをよろしくお願いしますっ!」

 それはくすぐったいほどの、英雄としてのフラムに対する信頼だった。
 いや、それだけでなく――キリルの友人へ向ける感情でもあったのかもしれない。

「はい、必ず!」

 フラムはそれだけ伝えると、三人を抱えて空高く飛び上がる。
 セーラは激しい風圧に耐えながら、エターナに指示された通り、ショコラに治癒魔法を使い続けていた。



◇◇◇



「ん……ううん……」

 キリルが目を覚ますと、知らない天井がそこにはあった。
 ただただ白い。ひたすら白い。
 首を横に傾けると、これまた白いカーテンが、自分の眠るベッドの周りを囲んでいた。
 ベッドの隣に置かれた棚の上には、色とりどりの花が飾られた花瓶。
 ようやく目に入ってきた鮮やかな色彩に、少し脳が驚く。
 その感覚で、キリルは自分が長い間眠っていたことに気づいた。

「う……体が重い……」

 ゆっくりと起き上がるが、思うように体が動いてくれない。
 ようやく体が持ち上がると、彼女は「ふぅ」と大きく息を吐いた。
 ひとまず自分の腕を見る。
 傷跡はない。包帯も巻かれていない。痛みも感じない。
 どうやら体の治療自体はとっくに終わっているようである。
 つまりキリルが眠っていたのは、純粋に螺旋覚醒スパイラル・ブレイブの反動ということになるのだろう。
 ブレイブ・リバレイトの時点で三日は寝込むのだ、それ以上の力を出してしまったとなると、五日、一週間、あるいはもっと――かもしれない。

「これで一年寝てました、とか言われてたら怖いなあ」

 カレンダーだけでも見える範囲にあればいいのだが――そう思い、キョロキョロと周囲を見回すキリル。
 するとカーテンがわずかに開き、そこから見えた彼女と目が合った。

「ん」
「あ……」

 キリルの表情がぱあっと明るくなる。

「おはよう、ショコラ」

 彼女は満面の笑みで言った。
 対するショコラは、気持ちの準備ができていなかったのか、少し気まずそうに、しかし嬉しそうに頬を掻きながら応えた。

「おはようございます、先輩」
「何その反応。私に会うつもりなんてなかった?」
「あはは……寝起きに、私みたいな可愛い女の子を見るのは刺激が強すぎるかなって」
「誤魔化すのが下手だね」
「ううぅ……」
「でも、ショコラが無事でよかった。解毒はうまくいったんだね」
「はい……セーラさんとエターナさんが、尽力してくださったおかげです。それでも一週間は眠っていたんですが、今じゃ普通に歩けるようになったんですよ」

 見てみれば、ショコラはキリルと同じ、だぼっとした、薄ピンクの病院服を着ている。
 しかしそれ以上に、キリルはショコラが『一週間は眠っていた』と言ったことが気になった。

「ショコラで一週間ってことは、私――」
「先輩は今日でちょうど二週間です」
「そっか。私、そんなに寝てたんだ」

 どうりで体が重いわけだ。
 しかし思ったよりも短くて少しほっとする。
 いや、それでも十分に長いのは間違いないのだが。

「……」
「……」

 そして、二人の間に流れる気まずい沈黙。
 別に誰が悪いわけでもないのだが、色々ありすぎて、何から話していいのかわからない。
 そんな中、キリルがようやくひねり出した言葉は、

「師匠、元気にしてるかな」

 という、関係あるような、無いような、当たり障りのないものだった。

「お店は休業してるみたいです。私たちが戻ってくるまで、って」
「一時期は師匠一人で回してたこともあったのにね」
「勇者ケーキがありますからね。あれの仕込みはあたし一人じゃ無理だー、って飲んだくれてるみたいですよ」
「飲みたいだけでしょそれ……まったく。早く私たちが戻らないと、二度と店を開けなくなるかもね」
「……あはは、そうですね。それは困ります」

 ショコラの反応がどうにも鈍い。
 病み上がりで元気がないのだろうか。
 それとも――まだ一人で、何かを抱え込んでいるのか。

「ねえショコラ、今回の一件だけどさ――」
「私のせい、ですよね」

 らしくもないネガティブな言葉に、キリルは思わずため息をついた。

「それは無い。悪いのはクロスウェルだから。一方的に私を恨んで、一方的に私に復讐しようとした。それだけだよ」
「ですけどっ!」
「でも、も、ですけども無いよ。これに関して、自分が悪いんだって責めたって何もいいことなんて無い。誰も救われない。誰も納得なんてできない」
「私が……納得、できません」
「うん、でもそれを突き詰めたって、納得できる答えなんてどこにも無いんだよ。だったら、いつもみたいに少し生意気で、めんどくさくて、でも笑顔が可愛いショコラでいてほしいかな」
「なんですかそれ、口説いてるんですか?」

 そう指摘されて、『いつもフラムとミルキットの会話を聞いているせいかもしれない』と考えてしまうキリル。

「ま、真面目に考えないでくださいよっ! 冗談です、冗談! いくらショコラちゃんが可愛いからって、本気にしないでくださいよぉ」
「でも、ショコラのこと可愛いと思ってるのは本気だよ。笑顔は特にね。だから――自分のために笑えないのなら、私のためでもいいから、笑っててよ。お願い」
「だからそういう言い方を口説くっていうんですっ!」

 顔を真っ赤にするショコラ。
 キリルはそんな彼女を見て、穏やかに笑う。

「はぁ……せっかく熱も引いてきたのに、また上がりそうです。私、先輩が起きたって他の人に伝えてきますね」
「もう少しぐらい、二人きりでいたかったな……」
「今のは完全に悪ノリですよね……? もう、先輩なんて知りませんからっ」

 ぷいっと怒ったような仕草で、部屋を出ていくショコラ。
 彼女がいなくなるまで――いや、いなくなっても、キリルは上機嫌に笑っていた。
 そして一人になると、再び枕に頭を乗せて、天井を見上げる。

「ふぅ……よかったぁ、ショコラが助かって」

 今はただただ、それが嬉しい。
 クロスウェルの犠牲者や、蘇った死者、そして故郷のことにと、懸案事項はいくつもあるが、まずはショコラの安否が何よりも心配だったから。

「もうあんなの絶対に終わりだと思った……何なんだろほんと、終わったと思ったらいきなりワープしてるし、私の両親まで巻き込もうとするし、あの男はもー……!」

 そして今さらになって湧き上がってくる、理不尽への怒り。
 五年前のことを恨んでいるのはまあわかる。
 キナのことだって残念だとは思う。
 しかしクロスウェルは、キリルに罪がないと理解した上で、彼女を殺そうとしたのだ。
 経緯としては、まったく脈絡がないわけではない。
 だが理不尽なものは理不尽だ。意味不明なものは意味不明だ。
 キリルだけでなく、ネクロマンシーや、罪なきコンシリアの住民まで巻き込んで。

 結局は何がやりたかったのか。
 どうなりたかったのか。
 きっと、考えるだけ無駄なのだろう。
 つまるところあのクロスウェルという男は、五年前の時点で壊れてしまっていたのだ。
 人生を支えるキナという歯車を失い、もはや空回りするしかなかった。

「……まあ、だからって同情するつもりないけど。こっちだって死にかけたんだから」

 今も、オリジンコアを使ったあのときのことを考えると、寒気がする。
 できれば二度と触れたくなかった。
 たとえ夢想の力で生み出された模造品だったとしても。

 先程までとは打って変わって、浮かない表情でキリルが天井を見つめていると――

「きーりーるーちゃあぁぁぁーんっ!」

 半泣きのフラムが部屋に突撃してきた。
 そして騒がしくカーテンの内側に入ってくると、キリルにぎゅーっと抱きつく。

「よかったよぉー、もうこのまま目覚めないんじゃないかと思って心配だったんだからー!」
「フラム、く、くるし……っ」

 筋力100万のハグは、加減しても強烈である。

「はっ!? ごめんキリルちゃん、あまりに嬉しくてっ!」
「うん、気持ちはすごく伝わってきた」

 苦笑するキリル。
 すると少し遅れて、ミルキットも入室する。

「本当によかったです、キリルさん」
「ミルキット……心配かけてごめんね」
「ご主人様が毎日のように泣きそうな顔をしていて大変でした」
「だってセーラちゃんが『いつ目覚めるかはわかんないっす……』ってすっごく深刻そうに言うから!」
「実際そうだったんだから仕方ないじゃないっすか。体は万全でも、あとは本人の気持ち次第だったんすよ」

 さらに呆れ顔のセーラと、彼女にべったりくっついたネイガスもやってくる。
 二週間前の忙しさの反動はまだ続いているらしく、職場でもこの様子らしい。
 ふとキリルとネイガスの目が合うと、ネイガスは「よかったわね」と小声で言い小さく手を振った。
 それに応え、ぺこりと軽く頭を下げるキリル。

「あんなボロボロだし、治療も大変だったよね。ショコラの分も合わせてありがとう、セーラ」
「おらとしても、助かってくれてありがとうっす。全身の筋肉どころか、骨もボロボロでびっくりしたっすよ。キリルさんの体力がなかったら、コンシリアまでもたなかったと思うっす」
「そんなにすごかったんだ……」
「オリジンコアが偽物だったから、っていうのも理由の一つみたい。まさかシアの魔法を利用してコアを作り出すなんて、キリルちゃんも無茶するよね」
「それぐらいしか、あの怪物を倒す方法は思いつかなかったから」

 キリルとしても、ブレイブ・リバレイトを使った自分には自信を持っていた。
 だがクロスウェルはそれを打ち砕き、彼女を絶望の淵まで追い込もうとしたのだ。
 理由はめちゃくちゃだが、執念は本物である。

「ショコラって子から経緯は聞いたわ。クロスウェルが作り出した空間から出たと思ったら、遠く離れた田舎町まで転移……その上、血縁者しか触れられないクロスウェルの“影”みたいな存在が現れた、なんてどこまでも馬鹿げてるわね。フラムちゃんの反転もそうだけど、シアの魔法も大概よ」

 ネイガスの言葉に、ミルキットも頷く。

「シアさんには申し訳ないですが、今まで以上に悪用されないように気をつけないといけませんね……」
「うん。一度夢想の能力を使えば、エターナさんですら気づかないうちに、意識を操作されてしまう。以前に、その気になればオリジンすら復活させられるって聞いたことあるけど、冗談じゃないんだよね……まあ、その時は私が潰すけどさ」
「でも相手だってフラムおねーさんの脅威はわかってるっす。だからこそ、隔離して居ない間に計画を進めようとするんすよね」
「せっかく世界は平和になったのに、悪いやつはまだいるんだよね。おちおち旅行にも行けないよ。ミルキットとみたい場所がたくさんあるのに」
「ご主人様……私にとっては、ご主人様がいる場所が楽園です。たとえ一生をこのコンシリアで終わらせることになったとしても、ご主人様さえ隣にいれば!」
「ミルキット、そこまで私のことを……うん、私もそうだよ。ミルキットのことを何よりも愛してる」
「ご主人様ぁ……」

 固く抱き合い、唇を重ねるフラムとミルキット。

「なんだか、戻ってきたなって感じがするね」

 そしてほっこりするキリル。

「これに慣れてるおらたちもどうかと思うっすけど」
「あら、セーラちゃんは人のこと言えるの?」
「時と場はわきまえてるつもりっす!」

 現在進行系で密着してる口でそれを言うのか――と心の中で突っ込むキリル。
 その後は――

「あんな男が作った毒の攻略なんて楽勝だった」
「あれ、でもここ最近で一番頭を使ったって言って……んぐーっ!」
「超楽勝だった」

 クロスウェルが自分を操っていたことを根に持つエターナが、インクと共に見舞いに来たり、

「ほんっとうに! 心の底から申し訳なかったわ……この通りよっ!」
「女王が土下座はまずいですよ、イーラさん」
「そうよ! それぐらいマズいのよぉ! 王立の研究所から大犯罪者が出たんだもの、これぐらいじゃ足りないわ! あ、あとでスロウも謝りに来るわ!」

 護衛を引き連れたイーラが、女王とは思えない見事な土下座を披露したり(ちなみに今回の一件で、民衆からかなりの批判を浴びたらしい)、

「クロスウェルは私たちにとっても身内だ、心より謝罪する」
「検問を行う兵士たちにも、さらに徹底した指導を行いますわ。馬車で運ばれていた方々に関しては、軍がしっかりしていれば、もっと前にわかっていたことですもの」
「いえ、何もお二人まで謝らなくても。軍の人たちは、やれることはやっていたと思います。ただ、相手が悪かっただけで」

 イーラに負けず劣らずの深刻さで、オティーリエとアンリエットまで頭を下げに来たり、

「いい部屋に住んでんなあ……勇者ってやっぱタダなのか?」
「師匠、第一声がそれな上にお見舞いにお酒を持ってこないでください」
「消毒に使うって言うだろ?」
「本気で飲むつもりだったんですか!?」

 相変わらずな師匠ティーシェが酒瓶片手に襲来したり、

「あの……ショコラお姉さんなんですけど、ああ見えてとても繊細な人だと思うんです」
「そうだね、私もそう思う」
「ですから、とても偉そうな言い方になってしまうんですが――しっかり、見ていてあげてくれませんか。お父さんが亡くなったこと、自分のせいだって思ってるかもしれませんから」
「そっか、ショコラの父親も……」

 ケレイナ、ティオと一緒に、ハロムがやって来たりもした。
 代わる代わるやってくる人々と話しているうちにあっという間に一日は終わり、軽いリハビリや検査でその後の二日も矢のように過ぎ、キリルはあっさりと退院することになった。

 クロスウェルとの戦いから十七日が経過している。
 久々に歩く町並みは、見慣れているけど少し違うような気がして、時の流れを実感させられる。

 帰る場所のないショコラも、ひとまずはフラムの家に身を寄せることになった。
 エターナとインクが同室を利用しているため、部屋はまだ空いているし、何ならキリルと同じ部屋を使っても構わない。
 共に歩くフラムが「何ならそのままうちで暮らしてもいいよ」と言うと――ショコラは寂しそうに笑った。
 まだ父親の死について、心の整理がついていないのだろう。

 その日、二人の退院を祝して、ささやかなパーティが開かれた。
 少なくともその間、ショコラは楽しそうに笑っていた。
 


◇◇◇



 翌日から、キリルとショコラは店に復帰することとなった。

「いってきます」
「いってきまーす」

 二人が声を揃えると、わざわざ見送りに来てくれた同居者たちは、まるで戦いに赴く人間を見送るかのように言った。

「キリルちゃん、ショコラさん、気をつけてねっ」
「初日なんですから、無理はなさらないよう」
「疲れない程度にがんばれー!」
「毒は完全に取り除いたけど、何か異変があったらすぐに戻ってきて」

 ショコラは一週間、キリルは二週間も寝ていたのだ、まあこの心配度合いも当然なのだが。
 それでも気恥ずかしさを感じずにはいられない。

「熱烈なお見送りでしたね。本当に優しい人たちですよ」
 
 店への道を並んで歩きながら、ショコラが言う。

「色々あったから、誰かが傷ついたりっていうのに、ひときわ敏感なんだと思う」
「そっか、そういうのも……あるんですね。ショコラちゃんの可愛さに魅了されてしまったのかと思ってました」
「それはない」
「おお、いつになく冷たいトーン! 先輩も本調子が戻ってきましたね」
「そこで嬉しそうにするのはどうかと思う」

 そう言いながらも、キリルもようやく日常に戻ってきたことを感じつつあった。
 研究所や軍あたりは、まだまだ事件の後処理で大忙しだろうが、少なくとも街はいつもどおりである。

「あとは、休んでる間にどれぐらい体力が落ちてるかが問題だね」
「そこ、私も心配なんですよね。ただでさえメリハリのあったボディが、寝たきり生活のせいでさらにメリッとなってしまったので」

 ショコラは“痩せた”と言いたいらしい。
 確かに言われてみれば、手足も以前より細くなっている気がする。
 一週間も寝たきりになっていれば、それぐらいの影響は出てくるのも当然だろう。

「その点、先輩はいいですよねえ。それが勇者パワーってやつですか? ぜんぜんステータスも変わってる様子は無い……というかむしろ、戦いを経てパワーアップしてません?」
「基本的に下がることはないから」
「恐ろしいことをさらっと言いますね……それってもしかして、食べすぎても――」
「太らないよ」
「ムキーッ!」

 なぜか怒り狂うショコラ。
 キリル、貴様は全女性の敵だー! と言わんばかりの悔しがりようである。
 試しにキリルは「ふふん」と勝ち誇ってみると、ショコラはさらに鼻息を荒くした。

 そうこうしている間にも、店が近づいてくる。
 そこでふとショコラは足を止めると、変わらぬ様子でキリルに告げた。

「実家に取りにいきたい荷物があるんで、先輩は先に店に行っててください」
「荷物? 使えそうなものは全部運び出されたって聞いたけど」
「それが忘れ物があったんですよ。とっても大事な忘れ物が。そこでお願いがあるんですけど――これ、先に店に持っていってもらえませんか?」

 そう言って、ショコラは手に持つバッグをキリルに差し出した。

「後輩が先輩を荷物持ちに使おうとしている……」
「ショコラちゃんの可愛さは罪なので、それぐらいは――ではなくて。取ってくる荷物が大きいので、このかばんを持ったままでは運べないんですよう」
「そんなに大きいものなら私が手伝う」
「いえいえ、見られたくないものなので! なので先輩は、こちらをよろしくお願いしますっ」

 半ば強引に荷物を押し付けるショコラ。
 仕方なく、キリルはそれを受け取った。

「それではさらばです、先輩っ」
「うん……またあとでね」

 ショコラは、病み上がりとは思えないほど元気いっぱいに走っていった。
 釈然としないキリルは、その背中を見送ると、仕方なく一人で店に向かう。
 裏口から入り、更衣室に向かうと、珍しくそこにティーシェの姿があった。

「うわっ、師匠の幽霊が着替えてる。ついにお酒の飲みすぎで死んだんですか?」
「勝手に殺すな! お前らが戻ってくるからって早めに起きてただけだろ!? つか復帰第一声がそれなのかよ!」

 朝から元気いっぱいのティーシェである。
 しかし“早め”といってキリルと変わらない時間なのは、やはりというか、相変わらずというか。

「ったく、これでもあたしだって心配してたんだからな?」
「心配してる相手の病室で飲酒はどうかと思います」
「そこに酒がある。飲む。世界の摂理だろ」

 どこまでもどうしようもない人間だった。
 ちなみにキリルの病室で飲酒を始めた直後、ティーシェは協会職員の手によってつまみ出されている。

「そういやショコラはどうしたんだ? お前ら同棲を始めたって聞いたが」
「泊まってただけですよ。ショコラなら実家に荷物を取りにいきました」
「一緒に行ってやれよ」
「言いましたけど、見られたくないそうなんで」
「この期に及んでキリルに見られたくない荷物って何だ?」
「……さあ?」

 キリルはどすん、と机の上にショコラの荷物を置いた。
 すると、バッグから、はらりと封筒が落ちる。
 近くに立っていたティーシェは床に落ちたそれを拾い上げると、書かれた文字を見て固まった。

「プライバシーの覗き見はどうかと思います」
「つってもよお、これ『キリル先輩へ』って書いてあるぞ?」
「私に? 直接言わずに、手紙なんて……」
「ラブレターなんじゃねえのぉ?」

 ニヤニヤと笑うティーシェから封筒を奪い取ると、キリルはやや乱暴に開いて中の手紙を取り出した。

「拝啓、キリル先輩。あなたがこれを読んでいる時、私はすでにコンシリアにはいないでしょう。私みたいなゴミクズにはもったいないぐらい優しくしてもらったのに、こんな手紙でお別れを告げることを、どうかお許しください」
「……お、おい。マジでそんなこと書いてあんのか?」

 キリルが無言でそれを見せると、ティーシェは頬を引きつらせた。

「あいつ……自分のことゴミクズとかいうタイプだったっけか」
「……続き、読みますね」



◇◇◇



『私は嘘つきです』

 ショコラは、コンシリアから遠ざかる馬車に揺られながら、キリルに宛てて書いた手紙の内容を思い出す。

『私は馬鹿です』

 馬の手綱を握る御者は中年の男性だ。
 入院中、キリルが目を覚ます前から、すでに計画は進んでいた。
 馬車の手配は、ショコラに後ろめたさを持つ王国や軍の人間に頼めば容易なことだった。

『私は恩知らずです』

 ただし路銭はわずかだ。
 ショコラは給料の大半を父に渡していたが、そのうちの九割超は生活費や酒代に消えてしまったらしい。
 数日分の宿代ぐらいはあるが、移住先ですぐにでも職を探さなければ生活は厳しいだろう。

『本当にどうしようもない、この世に生きている価値もない人間なのに、いくら復讐のためとはいえ、キリル先輩やティーシェ師匠のような立派な人間の近くにいたことは、絶対に許されてはならない罪だと思います』

 コンシリアに残れば、いくらでも生きる道は残されていた。
 しかし、ショコラは罪を犯しながらも甘え続ける自分を許せなかった。

『優しい先輩はきっと否定するでしょうが、実はまだ、私には先輩たちにお話していないことがあります。とても大事なことなのに、私はだまり続けて、結局、先輩を傷つけてしまいました』

 思えば、最初から嘘まみれだった。
 明るいがうざい後輩、というキャラクターだって、キリルに近づくために何となく作り出したものだ。
 元のショコラは、いつかハロムが話していたように、もっと暗くて、人付き合いが苦手な女性である。

『どんなに先輩が私を許しても、私が私を許せません。私はゴミクズです。世界の底辺を這いずる、生きている価値もない蛆虫です。ですが死ぬのは怖いので、ただ無意味に生きているだけなんです』

 ショコラはその手紙を、最初はキリルやティーシェに向けて書こうとしていた。
 しかし書いているうちに、途中から自分の心情を吐きだすだけになっていった。
 ずっと、ごまかしてきた。
 偽りの自分で、偽りの関係を築いてきた。
 それを――キリルに知られるのが、とにかく怖かった。

『そう、怖いんです。だから、私は嘘をつき続けました。先輩に知られるのが、とにかく怖くて。先輩は私に本心をさらけ出してくれたのに、私はちっとも話せていません。卑怯者で、そのくせ自尊心は強くて、そんな私のことが、私は大嫌いです』

 たぶんそれは、きっとショコラの甘えだったのだろう。
 知られたくないのなら、無言で別れを告げればいいだけだ。
 手紙なんて残さずに、そのままコンシリアを出て、二度と戻らなければ。
 でもそうはできなかった。
 ショコラは自分のことを無価値だと思っているけれど、自尊心だけは人並みにあるから、同時にキリルやティーシェに、ずっと忘れずにいてほしいと思うのだ。
 しかし、自分の無価値さが、素直にそう綴ることを許さないから、まるで免罪符のように、自分を蔑む、ネガティブな文言を並べる。
 そうしたところで、ただただキリルたちに嫌な想いをさせるだけなのに。

『そんな私が、先輩や、師匠と一緒に生きていくことはできません。だから私は、この街を去ります。もう二度と戻りません。たくさん優しくしてもらったのに、こんな最後で、ごめんなさい』

 手紙の最後の一文を記すとき、ショコラは泣いていた。
 きっと自分自身で悲劇的な自分に酔っているのだろう、と思い、急激に自分が醜く思えてならなかった。

 何をしても。
 何を言っても。
 何もかもが、自分の醜悪さを浮かび上がらせる。

 そうなったのは、いつからだったか。
 思い出してみても心当たりはない。
 物心ついたときから、ずっとこうだった気がする。
 それに、“誰かのせい”とか、“何かが起きたから”とか、他の理由を探すのもまた醜さだ。
 自分は自分で選んで、今の自分になったのだから。
 その責任を他人に押し付けようなんて、クズのやることでしかない。

「お嬢ちゃん、少し休憩をもらってもいいかい?」

 御者のおじさんが言った。
 膝をかかえて俯いていたショコラは、はっと顔をあげると、慌てて「は、はいっ」と頷く。

「やっぱり……一人になるとこういうことばっかり考えちゃうな」

 かといって、誰かと一緒にいたいとは思わない。
 しかし一人では誰も止めてこれないから、際限なく悪い方、悪い方へと思考が転がってしまう。

「先輩、怒ってるだろうな。今度こそ愛想を尽かしてくれるといいんだけど」

 嘘だ。
 いや、本心でもあるのだろうか。
 それもまた免罪符なのか。
 わからない。
 あるいは、醜い自分はキリルと一緒にいるべきではない――それでも醜くキリルと一緒に過ごしたい――それはどちらも本心なのかもしれない。

「私なんかは……あそこにいるべきじゃない……私みたいな人間は……」

 自己暗示のように繰り返すショコラ。
 彼女はしばらくそうして過ごしていたが、ふいに顔をあげ、退屈そうに地面を眺める馬を見た。

「……おじさん、戻ってこないな」

 あの言い方からして、ただのトイレだと思っていたのだが、それにしては長い。
 かといって、探しにいけば気まずいことになりそうだ。
 黙ってここで待っているしかない。
 すると、それから五分ほど経った後に、ようやく御者が戻ってきた。

「それじゃあ出発するよー」
 
 彼はちょこんと座ると、鞭を握って馬を進ませる。
 その声は間違いなくおじさんのものだったが――

「あの、御者のおじさん……?」
「なんだい」
「縮みました?」

 そう、身長が小さかった。
 まず御者が、180センチ後半はありそうな巨漢だった。
 それが今は、小柄な女性程度のサイズになってしまっている。

「ローブを整えてきたので、そのせいじゃないかい」
「ローブだけでそんなことになりますか?」
「なるねえ」

 食い気味に答える御者。
 ショコラは疑いながらも、ひとまず彼の言葉を信じるしかない。
 なにせ声は一緒なのだ。

「ところでお客さん、女性一人だけで旅なんて珍しいねえ」
「ええ、まあ……」
「観光かい?」
「……いえ。住む場所を探してて」
「平和になったとはいえ、まだまだこのあたりは物騒だ。腕っぷしも強くない女一人じゃあ、悪い男にさらわれちまうんじゃないかねえ」
「それもそれで、運命なのかもしれません」

 どれだけ不幸になろうとも、優先すべきはキリルたちから離れることなのだから。

「知り合いにはちゃんと伝えてきたのかい?」
「……」
「まさか黙ってきたのか。そりゃあ今頃みんな心配してるだろうねえ」
「してるでしょうか……」
「当然だ。心配してるし、怒ってもいるだろうよ」
「私なんかのために……もったいないです。その気持ちは、もっと他の誰かのために使われるべきです」
「そりゃあまた傲慢な考えだ」
「傲慢、ですか?」

 ショコラは意外そうに御者の背中を見つめた。
 
「誰に気持ちを向けるかなんて、他人に指図されることじゃあない。その人は好きでやってるんだ。その“好き”を、たとえその相手本人であっても、そこまで否定されたんじゃ面白くないだろうよ。そんなの聞かされたら、もっと怒るに違いない」
「でも……やっぱりもったいないです。フェアじゃないんですよ、私と先輩は」
「何か隠し事でもあるっていうのかい」
「はい、あります。まだ一番大事なことを、一番ひどい嘘を、私は話せていないんです。話すって約束したのに、私は、卑怯者だから……」

 うつむき、強く拳を握るショコラ。
 そんな彼女の様子をうかがうように、御者はしばし黙り込んだ。

「まるでお互いに全部吐き出しました、みたいな顔をしておいて、私だけはずっと隠してたんですよ。こんな自分が嫌になります。死んじゃえばいいのに。消えちゃえばいいのに。でもそれは怖いからって、こうやって……誰も居ない場所に逃げようとしてます」
「……どうして、話そうとしなかったんだい」
「私が醜いからです」
「違う」

 顔もろくに知らない御者は、そう言い切った。
 なぜ他人のくせに、そこまで勝手に踏み込んでくるのか。
 ショコラは懐疑を通り越して、彼に怒りめいた感情を抱きつつあった。

「嫌われるのが怖かったんだろう」
「それは……もちろん、それも、ありますけど。だとしても、あなたに何がわかるんです!?」
「要するに、まだ一緒にいたかったわけだ」
「それはそうですけどっ! 考え直したんです、そんなことしたって先輩のためにはならないって!」
「その先輩とやらは、あんたの秘密を受け止められないぐらい器の小さいやつなのかい?」
「そんなことは、ないと思いますけど……そうじゃないんです。先輩がどうだったとしても、私みたいなのはあの場所にいちゃいけないんです!」
「決めつける前に言ってみればいいじゃないか、全部、正直に」

 御者が手綱を引くと、馬が足を止める。
 そしてフードを外して首を振ると、金色の髪がふわりと躍った。

「じゃなきゃ、私だって納得できないから」

 ショコラはよく知るその横顔を見て、目を見開き、口を半開きにして呆然とする。

「せ……せ……」

 振り返り彼女を見たキリルは、不機嫌そうな顔で「まったく」とぼやいた。

「先輩ぃっ!? ど、どうしてここにっ!? 声は完全におじさんだったじゃないですか!」
「魔法で声を変えた」
「何でもありですね……じゃあさっきまでのおじさんは?」
「頼んで待ってもらってる。まさかこんな形で勇者のネームバリューを利用することになるなんて」
「そこまでして、なんで……」

 その言葉に、今度は頭を抱え、大きくため息をついたキリル。
 すると彼女はショコラの目の前にまで移動すると、べちんっ! と両手で彼女の顔を挟んだ。
 「いひゃっ!?」と声をあげ驚くショコラに、キリルは至近距離で、いつになく強い語調で言い放った。

「大切じゃない相手に賭けられるほど、私の命は安くないッ!」
「ひゃ、ひゃいっ!」
「ショコラは過小評価しすぎ! 自分の価値も、周囲の人間がどれだけショコラのことを思ってるのかも、全部小さく見積もりすぎなの!」
「だって、私……本当に、そんな価値なんてなくて……」
「だからそれを過小評価って言ってるのに。少なくとも私や師匠は、ショコラがいないと困る。とにかく困る!」

 キリルに押されっぱなしのショコラだったが、胸元で強く手を握ると、負けじと反論する。
 
「でも……それって、先輩が知ってる“私”ですよね。本当の、どうしようもなくクズで、役立たずで、生まれてくる価値もない私じゃないですっ! 私、先輩の前じゃ、まるで明るくて活発な後輩みたいな顔してましたけど……本当は違うんですよ。あれは、元の自分がどれだけ駄目かを知ってたから、先輩に近づくためにやってた演技だったんです!」
「知ってる。わかってる。そのうえで言ってんの!」
「だ……だとしても、まだです。まだ私、先輩に話してない嘘があって――」
「ハロムちゃんに聞いた。ショコラ、昔はよく公園に顔を見せてたらしいね。それって本当は、家にいたくなかったんじゃない?」
「それは……」

 目をそらすショコラ。
 しかしキリルの両手は彼女の頬を押さえているので、嫌でも目を合わせられてしまう。
 
「もしかしてショコラ、元々父親とうまくいってなかったんじゃないの?」
「う……」
「つまり、ショコラが蘇った母親に求めていたのは、『以前の生活』が戻ってくることじゃない。ずっと仲が悪かった家族が、まるで普通の仲のいい家族のように振る舞う時間――つまり『自分が持ち得ない理想』を求めていた」

 それが、ショコラのついた一つ目の嘘。
 彼女は怯えたように唇を噛み、やはり頑なに視線を外す。

「些細なことだよ。ショコラにとっては大きな違いだとしても、私にとっては些細なことだ。私がそれぐらいで、ショコラのことを嫌いになると本気で思ってる?」
「違います」
「違わない」
「違うんですっ! それだけじゃ……ないんですよ。私は、先輩に、もっと、ずっと大きな嘘をついていて……」
「じゃあ言って。どうってことないって、目の前で私が証明するから」

 怯えるように体を縮こまらせ、キリルを横目で見るショコラ。
 一方でキリルは、ただただ真っすぐに彼女を凝視している。
 ショコラは荒い呼吸を何度か繰り返すと、決心――いや、観念したように、目を伏せてぽつりぽつりと語りはじめた。

「うちの家族は、先輩が言うように、ずっと、仲が悪かったんです。まず、結婚した経緯からして、そうですもんね。お母さんには恋人がいたらしくて、でも、お父さんの子供ができてしまったから、結婚するしかなくなって……そうやって生まれたのが、私、でした」

 望まれない子、と言うほど過酷な環境だったわけではない。
 少なくとも母はショコラに愛情をもって接していたし、父もたまには父親らしい顔を見せることがあった。

「お父さんは、結婚前からお母さんに暴力を振るっていて、それは私が生まれてからも……少しはマシになったそうですが、ずっと、続いていました。お母さんはそんなお父さんから私を守ろうとしてくれて、けど、やっぱりそれにも限界があって……」

 一度話し出すと、不思議なことに言葉は止まらなかった。
 ひょっとすると、誰かに向けて吐き出したい気持ちも、心のどこかにずっとあったのかもしれない。

「ある時、まるで何かが切れたみたいに、お母さんの目つきが変わりました。そしてお母さんは、まるでお父さんみたいな表情をして、私を殴ったり、叩いたり、罵ったりするんです。『お前なんて生まなければよかった、お前さえいなければあの人と結ばれたのに、死ね、死んでしまえ』って。けど、そのあと、必ずお母さんは泣いてました、まるで子供みたいに。私はそんなお母さんに寄り添って、ずっと、背中をさすることしかできませんでした。無力なんです。どれだけ私がお母さんを支えようといたって、私の存在がお母さんの不幸である以上、私にできる親孝行なんて……死ぬこと以外にないんですから」
「……それは無いと思うよ。ショコラがいなかったら、たぶん、とっくにお母さんは壊れてたんじゃないかな」
「私が、支えだったってことですか?」
「うん」
「じゃあ、やっぱり……私なんていないほうがよかったんですよ。お母さんは、早く壊れてしまったほうが幸せだった」

 その絶望は、底が見えないほど深い。
 簡単に踏み込めないキリルは、何も言うことができなかった。

「それに、私は本当に薄情な娘でしたから……支えなんて、おこがましい」
「ショコラ……」
「少し大きくなると悪知恵がついて、お母さんがお父さんに暴力を振るわれて、『ああ、そろそろお母さんが耐えられなくなるな』と思うと、逃げるようになったんです」
「ハロムちゃんと出会ったのは、その頃?」
「はい。幸せそうに公園で遊ぶ親と子の姿を見て、世の中には普通の家族もいるんだって、びっくりしました。憧れました。あんな風になりたいって……そう、思ってしまいました」

 それが、ショコラが一日でも長く、家族三人で過ごすことを望んだ最大の理由だった。
 結果として、彼女の父は犠牲になってしまったが、そう願ってしまう気持ちを、キリルは痛いほど理解する。

「五年前も似たような状況でした。その頃になると、私は外で友達もできていて……お母さんはずっとあのから逃げられないのに、私には居場所があったんです。でもオリジンの影響を受けて、友達は目の前で死にました。それを見て、両親が心配になった私は、家に帰って……それを、見たんです」
「お母さんが、死んでたんだ」
「……はい。お父さんはお母さんに馬乗りになって、首を絞めていました。お父さんが言うには、お母さんが急におかしくなって襲ってきて、仕方なく殺してしまったそうです。それから私は、お父さんと一緒に王都から逃げて、生き延びて。だけど――」

 ショコラは瞬きを忘れたように目を見開き、何もない場所を見つめながら言う。

「お父さん、無傷だったんですよ」

 あの日の、今もまだ鮮明に記憶するその姿を、思い出しながら。

「それって……」
「私は、逃げました。気づかないフリをして、都合の悪い現実をから目を背けて。逃げて、逃げて、逃げ続けました。五年前も、今も、変わらずに。先輩。本当に、ごめんなさい。私、最初からわかってたんですよ。お母さんが死んだのはオリジンのせいじゃない――お父さんが、自分の意思で殺したからだ、って。なのに……復讐とか、被害者ぶったことをして! 私だって共犯なのに! ずっとごまかし続けてきた人殺しなのにぃいいっ!」
「ショコラ、落ち着いてっ!」

 錯乱するショコラを、キリルは優しく抱きとめた。
 だがショコラは腕の中でもがき、暴れる。
 
「やめてください、触らないでくださいっ! 私なんかに触ったら、先輩まで汚れてしまいます!」
「そんなわけないから!」
「私はぁっ! 生まれた時から選ばれてた先輩とは違うんです! 私は消えたい! でも消えるのは怖い! だから誰もいない遠くまで行くしかないっ! 離してくださいっ、離してくださいぃ、やっぱり私はここにいるべきじゃない!」
「ショコラがどう思おうが、私も師匠もここにいてほしいと思ってるの!」
「そんなわけがっ!」

 口答えするショコラを黙らせるように、キリルは彼女の頭を強く胸にかき抱いた。

「そんなわけあるかどうかは、私が決めるッ! ショコラはここにいるべきだ! いちゃいけないと思うんならなおさらに、そんなショコラのことを私たちは放っておけない!」

 生まれたから十八年間も染み付いてきた劣等感を、この場だけで払拭するなんて不可能だ。
 どんな言葉をかけようと、どんなに必死に抱きしめようと、ショコラの自己嫌悪は消えることはないだろう。
 だからきっと、今の彼女に必要なのは、“強引さ”なのだとキリルは考える。

「逃げようとしたって逃さないから。私たちはショコラと一緒にいたい!」
「うっ、ううううぅ……」

 ショコラはキリルの胸の中で涙を流す。
 体を震わせる彼女の頭を優しくなでながら、キリルは問いかけた。

「というか、一人でコンシリアの外に出てどうやって生きていくつもりだったの?」
「体を、売れば……どうにか、なるかと……」
「だったら余計に逃せない。ちゃんと縛り付けとかないと」
「ひどい……先輩、ですね……」
「私が身勝手なのは知っての通りだから。誰にどう言われようと、やりたいようにやるよ」

 そんな言葉と、キリルの体温を感じていると、ショコラの心は彼女に寄りかかっていく。
 これじゃ同じだ。
 また、違う依存先を見つけるだけ。
 けれど人間なんてそんなものなのかもしれない。
 一人じゃ生きていけない。
 だから、酷い人間だと知っていても、母を殺していたとしても、ショコラは父についていくしかなかった。
 そして次の宿り木に選んだ先は、これまでよりもずっと暖かくて、心地いい――

「私……お父さんが死んで、すごく、悲しかったんです。でも、同時に……肩から重荷が下りて、すっごく、心が軽くなった自分もいて……はは、父親が死んで喜ぶなんて、最低ですよね……」
「別に。よく今までそんな父親に付き合ってたな、と思うよ」
「……逃げてただけです」
「人間ってそんなものでしょ」
「先輩には、芯があるじゃないですか。やりたいことをやる、って」
「前も言わなかったっけ。これ、他の人からの受け売りだから」
「そう、なんですか? じゃあ、フラムさんとか……」
「違うよ。もっと幼い女の子だった。もう死んじゃったけど」
「あ……」
「気にしないで、そうするしかなかった子だから。でも、あの子に出会わなかったら……私は今も、自分が嫌いな自分のまま、勇者っていう役目に潰されて、沈んでたのかもね」

 五年前のことを思い出しながら、しみじみとキリルは語る。
 方法は正しくなかったかもしれない。
 けれど、考え方まで否定される必要はないだろう。
 やりたいことをやる。
 責務や役目に引っ張られすぎると、人はいつか壊れてしまう。

「人って変われる生き物だけど、一人で勝手に変わるわけじゃない。人間を作るのは出会いなんだって、私は思う。誰と出会って、誰と繋がって……身も蓋もない言い方をすると、“運”なんだけどさ。きっと、ショコラはこれまでアンラッキーだったんだね」

 誰かが悪いわけではない。
 運が無かっただけ――そんな楽観的な考え方は、少なからずショコラを救っている。

「じゃあ……先輩や師匠と出会えた今の私は、ラッキーなんですね」
「それはどうだろう。師匠はだらしないし、私も意外と雑なところあるから……」
「そこはラッキーだって言ってくださいよぉ、話が締まらないじゃないですか」
「あはは、そこで肯定したら、“いい先輩”にならなくちゃって重圧になるから。私は今後もいつもどおり、適度に適当な、そこそこの先輩としてやってくからよろしくね」
「じゃあ私も、うざめの後輩としてやっていきます。本当のことを言うと……私も、これが演技なのか、本気なのか、わかんなくなってますから」

 ショコラは、今さら今の自分以外の性格で、キリルと接することはできない。
 最初は間違いなく演技だったのだろう。
 だが、キリルやティーシェと過ごすうちに、そういう自分が染み付いて、意識するまでもなくそう振る舞うことができるのなら――もはやそれは、ショコラそのものと言っても過言ではない。

「私、先輩や師匠と出会って、もうとっくに、変わってるのかもしれません」

 ショコラはキリルの顔を見つめると、目を腫らしてながら笑う。
 キリルは、これまで誰かに変えられてばかりいた。
 フラムやミュート、そしてミルキットにも迷惑をかけて、支えられて。
 それでようやくここまで来て――初めて、キリルという、勇者の力を差し引いた“個”が、誰かを救えたような気がする。
 そんな心地よい達成感で胸を満たしながら、キリルはショコラの手を取って、コンシリアへと戻っていった。

 ちなみに――店に戻ったあと、ショコラが微妙に酒臭いティーシェに絡まれたのは言うまでもない。



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