「お前ごときが魔王に勝てると思うな」とガチ勢に勇者パーティを追放されたので、王都で気ままに暮らしたい

kiki

114 ビヨンド・ザ・スカイ

 




 ミルキットと、インクの手を引いたエターナは一気に階段を駆け上る。
 背後からはシャン、シャンと錫杖を鳴らしながら、カムヤグイサマがゆっくりと近づいてくる。
 だが敵は階段で仕掛けてくることはなく、無事に上のフロアへとたどり着いた。
 そこには――

「こ、ここは……」
「そんな……まだ地下だったはず」

 高層ビルの立ち並ぶ、実に現代的な――しかしエターナたちにとってはあまりに異質な光景が広がっていた。
 灰色の地面、空で輝く太陽、道路を横切る鉄の塊。

「なんか、変な匂いがする。音も聞いたことのないものばっかりで、それに風の吹き方もまるで外みたい」

 インクの感覚に頼って、道を探ることもできそうにない。
 しかし、三人の後ろ――雑居ビルの地下に続く階段には、変わらずカムヤグイサマが追ってきている。

「とりあえず、逃げるしかない」

 さすがのエターナも戸惑いを隠せなかったが、今は深く考えず、ここから離れることにした。
 おそらくこれは、カムヤグイサマが見せる幻覚だ。
 だが、たとえこれが魔法によって成された現象だとしても、五感全てに干渉する幻など聞いたことがない。
 本当にあれは神なのではないか――エターナですら、ついそう信じてしまいそうになる。

 カムヤグイサマとの距離を考えて、先頭を走るのはミルキットだ。
 彼女は時折、向かいから歩いてくる人間たちにぶつかっていた。
 そう、驚くべきことに、彼らはそこに存在しているのだ。
 もっとも、ぶつかってもミルキットに視線すら向けないあたり、再現されているのは肉体だけのようだが。

「ここ、なんなんでしょうか。王都でもこんなに大きな建物はみたことがありません」
「未来だったりして?」
「逆。過去かもしれない」
「昔、この世界には私たちより進んだ文明があったってことですか」
「今の文明じゃ、オリジンなんてものも生み出せない。むしろ無い方が不自然」

 地下に埋まっている遺跡にしてもそうだ。
 現代の建築技術では作るのが難しい施設が、いくらでも埋まっている。
 おそらく栄えた文明は、オリジンによって一度滅びたのだろう。
 つまり――カムヤグイサマは、それより古い神ということになる。

「おそらくは自分が信仰されていた頃の記憶を呼び覚まし、私たちに見せている。でも……」

 そんなことがわかったところで、脱出路が見つかるわけでもない。
 三人が走っていると、横断歩道の信号がちょうど青に変わった。
 手前で待っていた人々が一斉に道路を渡りだす。
 エターナたちも一緒に渡ろうとしたが、

「待って、なにか近づいてくる!」

 インクの声で足を止めた。
 ガタンゴトン……ガタンゴトン……と音を立て、地面を揺らしながら、彼女の言ったなにか・・・が姿を現す。
 それは、水色の、車輪がついた鉄の箱――すなわち電車であった。
 レールの上ではなく道路を、アスファルトを砕きながら進み、そのまま横断歩道を渡る人々に突っ込む。
 ガリガリガリィッ!
 人体を車輪に巻き込み、骨を砕く音が響き渡る。

「う……」

 ミルキットは後ずさり、右手で口を押さえた。
 跳ねられた人間が四肢を散らしながら宙を舞う。
 車体に押しつぶされた人体が水風船のように中身をぶちまけながらひしゃげる。
 これだけ凄惨な光景が広がっているというのに、歩行人たちは誰ひとりとして見向きもしない。
 巻き込まれた人間も、断末魔すらあげずに、無抵抗に、無気力に死んでいく。
 それが余計に、ミルキットの恐怖を煽っていた。

「わけがわからない、なんのためにこんなことを……」

 エターナですら理解できない。
 いや、意図はわからないでもないのだ。
 おそらく電車で三人を轢こうとしたのだろう。
 だが、だからといって歩行人を巻き込む必要があったのか。
 それとも、そう考え込んでしまう時点でカムヤグイサマの術中にハマっているのだろうか。

「二人とも、まだ来てる!」

 足を止めたエターナとミルキットに、インクが強めの口調で言い放つ。
 彼女は目が見えないおかげか、二人ほどショックは受けていないようだ。
 そしてインクの言葉通り、今度は二両の電車が迫っていた。
 一方は車道を進み、このままでは先ほどの電車と衝突してしまうだろう。
 さらにもう一両は、現在進行系で街路樹を倒し、歩行人を撥ねながら、歩道を強引に直進している。
 そんな異様な光景の中、カムヤグイサマは相変わらず変わらぬ速度で、錫杖を揺らしながら三人との距離を詰めていた。

「ミルキット、わたしにつかまって」
「わかりましたっ。これでいいですか?」

 ミルキットが服にしがみつくと、エターナは頷く。
 そして「アクアスフィア」と唱え、水の膜が三人を覆った。
 さらに「アクアテンタクルス」を発動、水の触手がビルの屋上まで伸び、フェンスに絡みつく。
 そのまま触手によって、膜内にいる三人はビルの屋上まで引き寄せられていった。

 ここが洞窟なら、すぐに天井にぶつかるはずだ。
 それを確かめるためでもあった。
 しかし、結局は衝突することなく、エターナたちは屋上まで移動できてしまう。

 これで、自分たちが見えているものが幻などではないことが確定してしまった。
 すなわち幻覚ではなく、現実の改変――カムヤグイサマは、そんなことまでやってのけているのだ。

「ふざけてる」

 エターナは、ビルの壁を垂直に歩いて上ってくる敵を睨みつけながら言った。

「いくら作り物でも、こんなのはひどいです」

 一方でミルキットは、電車に轢かれる人々を見ながら嘆く。
 エターナとミルキットの言葉は微妙に噛み合っていない、しかし怒りは同じ場所に向いている。

「また音がする」

 そんな中、インクがぼそりと言った。
 この常識が通用しない空間では、もはや彼女の感覚だけが頼りだ。

「どこから来てる?」
「後ろにあるドアの向こう、何人かが階段を上ってきてる」

 彼女が言い終えたのとほぼ同時に、バタンッ! と鉄のドアが勢いよく蹴り開けられた。
 人間は――出てこない。
 だが奥から、黒い筒状の物体が投げ込まれる。
 正体はわからないが、エターナはすぐさま『敵の攻撃だ』と判断し、アイスシールドを展開した。
 すると物体は突如破裂し、強烈な光と音を周囲に撒き散らした。
 こればかりは、氷の盾では防げない。

「づぅっ……!」

 一番ダメージが大きかったのは、聴覚が優れているインクだ。
 彼女は思わずしゃがみ込むと、両手で耳を押さえた。

「あ……ぅ、あ……」
「今のは……なに……魔法……?」

 エターナとミルキットも視界が潰れ、耳もまともに聞こえなくなっている。
 投げ込まれたのはスタングレネード――それも、実際に存在したものよりも遥かに威力が増している。
 三人がひるんだ隙を見て、十人ほどの男たちが屋上に流れ込んできた。
 そして手にした自動小銃を向け、発砲。
 朦朧とする意識の中で、エターナは左腕でインクとミルキットを抱き寄せ、庇うように覆いかぶさった。
 パァン! という銃声が鳴り響き、弾丸はアイスシールドに防がれる。
 しかし相手の人数が多い上に、狙いが的確すぎる。
 繰り返し、一点に銃弾が撃ち込まれることでシールドを貫通し、エターナの肩に命中した。

「ぐ……っ!」

 強い痛みと衝撃を、彼女は歯を食いしばりながら耐える。
 シャン、シャン――カムヤグイサマ自体も、屋上のすぐそこまで迫っていた。
 そろそろ動かなければ、命が危うい。
 銃撃のダメージのおかげか、エターナは少しだけ、スタングレネードの影響で失った、まともな平衡感覚を取り戻していた。
 再び水の膜が三人を覆う。
 そして左手を伸ばすと、水の触手が隣のビルまで伸び、膜ごと彼女たちを移動させた。
 どうにか逃れた――と思いきや、その建物に飛び移った瞬間、ビルごと、はじめからそこに無かったように消失する。

「またそういうことを……!」
「エターナさん、このまま落ちると危ないです!」

 エターナたちは自由落下していく。
 その下には、先ほどまで存在しなかった、赤錆びたプロペラが高速で回転していた。
 ビルの中に配置・・されていたと思われる人たちも落ち、次々とミンチへと変えられていく。
 ミルキットの言葉でそれに気付いたエターナは、「チッ」と舌打ちをした。

「ブリザード!」

 かざす左腕。
 放たれた冷気がプロペラを凍らせ、動きを止める。
 エターナたちはその上に落下し、水の膜はボールのように跳ねて衝撃を吸収した。
 直後、両側のビルの壁が、ゴオォッ! と高速で押しつぶしてくる。

「アイスピラー!」

 即座に無数の氷の柱でそれを受け止めるエターナ。
 だが柱も長時間は持ちそうにない。
 水の触手を、通りの電柱に伸ばして脱出、広い道に戻った。
 そこには、三両の電車が横転し、さらに無数の死体が転がる地獄絵図が広がっている――はず、だった。
 しかしそこに、見覚えのある景色は無かった。
 彼女たちがいたのは、透明のトンネルの中。
 その外側では、地下で見つかったジェネレーターに似た装置が音を立てながら稼働している。

「また、違う場所に飛ばされたみたいですね」

 周囲を観察するミルキットの視線が、背後を見た瞬間に止まった。
 ギザギザの突起がついた金属のローラーが上下に設置され、回転している。
 巻き込まれれば人体はたやすく潰されてしまうだろう。
 そして足元はベルトコンベアになっており、動かずともローラーへと勝手に接近していた。

「エターナ、前からあいつが来てる」
「挟み撃ち……なら、この透明の板を破壊する。アイシクルブレード!」

 ズガガガガッ!
 エターナの作り出した氷の剣は、板に衝突すると粉々に砕け散った。
 相当な強度があるようだ。
 諦めずに、今度はアイシクルハンマー――氷による打撃で破壊を試みるが、びくともしない。
 すぐさま後ろを振り向き、ローラーへ魔法を連発する。
 氷だけではなく、水で破壊できないかと何度も試行するも、どれも通用しない。
 見た目以上の丈夫さだ。
 あるいは、例の“神の領域”とやらで攻撃が通らないようになっているのだろうか。
 そうしている間にも前からはカムヤグイサマが近づき、背後にはローラーが迫る。

「どうにもならないの、エターナ」
「……諦めたくはない」

 エターナは唇を噛む。
 最悪の場合、自分が囮になって二人を逃がす覚悟はできていた。
 だがこの場所で、カムヤグイサマの脇を通って逃げたところで、その背後に出口があるとは限らない。
 それに、仮に脱出しても、まともに魔法すら使えないミルキットとインクでは、外まで出るのは困難だろう。

「こうなったら、ありったけの魔力をあいつに……!」

 一か八か。
 これが効かなければ、もう打つ手はないという最終手段。
 しかし、出し惜しみして死んだのでは元も子もない。
 覚悟を決めたエターナは左手をかざし――ふとそのとき、頭上に、木製の扉があることに気付く。
 透明の板に取り付けられているわけではなく、扉が浮いているのだ。
 そんなもの、先ほどまで無かったはず。
 同じく気付いたミルキットも扉を見上げる。
 するとドアノブが回り、その向こうから髪の長い、白い服を着た女性――シアが姿を現した。
 彼女はエターナたちから見て垂直に立ち、三人を見下ろしている。
 実際のところ、彼女は普通に床の上に直立しているだけだ。
 異常なのは、エターナたちの方なのである。
 だが今はそんなことどうでもいい。
 エターナはあの水の膜で三人を包むと、触手で体を引き上げ、一斉に扉に飛び込んだ。

「きゃああぁっ!」
「ひゃうっ」

 部屋に入った瞬間、重力が九十度切り替わる。
 急な変動に対応できなかったエターナたちは、床に倒れ込んだ。
 幸い、水の膜のおかげで怪我は無い。

「だ、大丈夫?」

 シアは屈みながら、恐る恐る三人に声をかける。
 周囲に広がる光景は、先ほどまでの異常なものではなく、最初にミルキットたちがいた地下二階の倉庫と似たような作りだった。
 どうやら彼女のおかげで戻ってこれたらしい。

「……誰?」

 顔が見えないほど長く前髪を伸ばした女は、エターナの目から見れば怪しいことこの上ない。
 睨みつけてしまうのも仕方のないことだ。

「シアさんって言って、さっき地下で私たちを助けてくれたんです」

 ミルキットが「ですよね?」と彼女に問いかけたが、挙動不審に「あ、いえ、その」とわたわたするばかりで返事らしい返事は無い。

「助けてくれたのならお礼を言うけど、どうしてあんな場所に扉なんて作り出せたの」
「カ、カムヤグイサマの、つく、作り出した空間になら、す、すこしだけ、その、干渉できるから。私、巫女で」
「カムヤグイサマの巫女?」

 エターナが訝しみながら聞き返すと、シアは怯えたように「はひっ」と言う。

 幸い、カムヤグイサマの錫杖の音はどこからも聞こえてこない。
 撒けたのだろうか――本来の目的は自分たちが囮になりつつ脱出することだったので、あまり喜べはしないのだが。
 だが今は、シアからカムヤグイサマについて聞き出す方が先である。

「つまり、あなたがカムヤグイサマを呼び出したということ?」

 エターナの問いに、彼女は首肯で答える。

「エターナさん、彼女、“夢想”っていう希少属性みたいなんです。もしかしたらその力が関係してるんじゃないですか?」
「フラムと同じってことだ」
「夢想……想像を具現化させる属性ってこと?」

 シアは三人の会話について行けない様子で、目しか見えないが、ぽかんとした表情をしている。

「あの、どうしてあなたたちは、私の名前……わ、わかったの?」
「スキャンを使ったからですよ」
「すきゃん……?」

 首をかしげるシア。
 ミルキットもフラムに出会うまでは使えなかった魔法だが、彼女の場合は魔力が5000近くあった。
 意図的に鍛えなければたどり着かない数値だ。
 だというのに、スキャンの存在を知らないことがありえるのだろうか。

「肌の白さ、伸びっぱなしの髪、そして他人と話慣れてない雰囲気……もしかして、ここにずっと閉じ込められてた?」
「そ、そんな、閉じ込められては、ないよ。ただ、外には出たこと無いけど、その、外の世界には、穢れが、あるから」
「なるほど。カムヤグイサマ信仰を教会に悟らせないために、巫女の存在そのものを秘匿したってこと」
「え、えと、何のこと?」
「わからないならいい。でも、巫女だと言うのなら、どうして生贄であるわたしたちを助けた?」

 核心を突く質問に、俯きながら「それは……」と口ごもるシア。
 そして彼女は小さな声で、ぼそぼそと理由を話し始める。

「い、今まで、カムヤグイサマがこんなにはっきり、姿を、現したこと……無くて。小さい頃から、儀式のときに、ちょっと出てくるだけだったから……わかんなかった」
「なにがわからなかったんですか?」
「確かに言い伝えは、あ、あって、カムヤグイサマは生贄を求める、って。でも、実際にそんなこと、したり、みんなが“加護”を得て“神の領域”に守られたのも、つい、二週間ぐらい前だから……私、本当にびっくりした。それに、さっきみたいに、違う世界を作り出すのも、はじめてで」
「つまり、今みたいにカムヤグイサマがはっきりと姿を現したのは二週間ほど前で、その前は生贄を要求することもなかった、と?」
「う、うん、そう」

 コクコクコク、と三度頷くシア。

「生贄を、勝手に村の人達が、ささ、げることは……あった、けど。で、でも、それは鳥とか、ネズミとか、動物で、カムヤグイサマがそれを食べることも、なくって」
「だけど二週間前に急に実体を持って、人間を食べるようになったんだ。というかその時期って、オリジンが復活した頃だよね」

 インクの言う通り、カムヤグイサマの発現とオリジンの封印解除の時期は一致している。
 エターナは、シアがコアを使用している可能性も疑ったが、しかし彼女にその兆候は無かった。

「オリジン?」
「はい、そういう神様……というか、化物が外にいるんです。その封印が解けて、王国は今、非常に危険な状態にあります」
「そ、そっか、それで、村のみんなは、必死で生き残ろうとして……ああ、で、でも、良くない。人が死ぬのは、良くないよ……」

 長い髪を揺らしながら、シアは頭を左右に振った。
 どうやら三人を助けた理由はそれらしい。
 彼女は人間を生贄にすることを望んではいない。
 そして、触れることすらできなくなる紫のオーラ――“神の領域”を纏っていないのも、それが人間を生贄にして得た力だからなのだろう。

「“夢想”の影響でカムヤグイサマが生み出されたのなら、シアの認識さえ変われば問題は解決すると思ったけど……そうでもないかもしれない」
「他にも要因があるんですか?」
「でも、あれが魔法って言うなら、使った張本人が解除すればいいだけじゃないの?」
「ただの魔法ならそう。でも、さっきちらっと見たけど、シアの魔力は5000程度。その程度で、あんな無茶な魔法が使えるとは思えない」

 滅茶苦茶な魔法――それは今まさにエターナたちが見てきた、改変された現実である。
 あれは幻などではなく、確かにそこに存在していた。

「それに、シアが人殺しを拒んだ時点で、カムヤグイサマはそれを止めているはず。シア、さっき“儀式”のときにカムヤグイサマは姿を現すって言ってたけど、他のときも出てきたりした?」
「う、ううん。無かった。カムヤグイサマは、みんなの前でしか出てこなくて、だから、ほとんど儀式のときだけ」
「シアが生まれる前は?」
「無かった、って。だ、だから私が、巫女になった」
「じゃあその前は、完全に言い伝えだけの存在だったということになる。ちなみに、あのカムヤグイサマの外見は、村に伝わってる通りのもの?」
「う、うん。壁画や、書物に残ってて、ほぼそのままだったと思う」
「錫杖を鳴らす、一定の速度で歩いてくる、人を喰らう、近づくと怪奇現象が起きる……他の特徴も、言い伝えと同じ?」

 シアが首を縦に振ると、エターナは「ふむ」と言いながら顎に手を当てる。
 ミルキットは緊張した様子で彼女の顔を見つめ、インクはよくわからなかったのでとりあえずエターナにしなだれかかっていた。
 ここまでずっと心をすり減らし続けてきたのだ、隙を見て癒やしておかなければ、いつ甘えられなくなるかわかったものではない。

「……カムヤグイサマの正体、大体わかったかもしれない」
「し、正体なんて無いよ。カムヤグイサマは、か、神様、だから」

 シアは外見からして、おそらく二十歳は越えているだろう。
 実際に話してみると、不気味な幽霊ではなく、引きこもりで他人との会話があまり得意ではないだけの女性だった。
 おそらく生まれてからほとんどの時間を、村人の信仰のためにここに閉じ込められて過ごしてきたのだ。
 人殺しは否定したいが、カムヤグイサマは否定したくない――そんな複雑な心境を抱いているに違いない。
 しかし、エターナは容赦なく彼女の未練を斬り捨てる。
 生き残るために、それが必要なことだから。

「違う。カムヤグイサマはシアが生み出した魔法、それは間違いない。でも一人の魔力では賄いきれない存在だから、他者の魔力を使用する必要があった」
「それが生贄ってことですか?」
「半分正解」

 カムヤグイサマは人を喰らい、魔力を補給する。
 だが、それだけなら“恐怖に満ちた人間”を狙う必要などないし、何より、よほど魔力の高い相手を取り込まない限り、十分な量は手に入らないだろう。

「じゃあ、残りの魔力は誰から手に入れてるの?」
「村人……いや、正確にはカムヤグイサマの存在を信じている人たち。その全てから少しずつ魔力を吸い取って、あれは具現化してる。おそらくそれが、シアの夢想という力の正体」

 あくまでそれはエターナの仮説に過ぎないが、それ以外に大量の魔力を集める方法が思いつかなかった。
 儀式のときだけ姿を現していたのは、人々が強くカムヤグイサマをイメージしたため。
 そして、オリジンの復活後に実体化するまで至ったのは、恐怖から村人たちがカムヤグイサマに縋ったため。
 もっとも、村人から与えられた魔力だけで、あれほどの魔法を使えるとは思えない。
 別の――下手をするとエターナ以上の魔力の持ち主が、その存在を信じている可能性がある。

「そ、それより、神様が、人間の世界じゃないどこか、から来た方が……現実味が、ある、と思う」
「その可能性もゼロじゃない。この世界にはわたしの知らない存在も法則もまだまだ存在する。でも、今回に関しては違うと断言できる」
「ど、どうしてっ?」
「都合が良すぎるから」

 エターナが自信を持って『カムヤグイサマは魔法だ』と言い切れる最大の理由がそれだった。

「仮に過去にカムヤグイサマという神様が実在したとしても、この遺跡の状態を見る限りでは、おそらく数千年も前の話。その間、途切れず言い伝えられたとしても、伝承というものは必ずどこかで歪んだり、付け加えられたりする」

 言葉も変われば、価値観も変わる。
 信仰などと言うものは、時代に応じて都合よく変化するものなのである。

「つまり現代に伝えられているカムヤグイサマは、すでに最初とは別物になっているはず。なのに現れたカムヤグイサマのは、現代に伝えられている特徴と完全に一致・・・・・していた」
「だから、都合が良すぎるんですね」
「そう。今ここで人を喰らい、ファースの人々を神の領域で保護しているのは、村人が望んだカムヤグイサマであって、実在する神様ではない」

 あくまで仮説は仮説。
 しかし強い説得力を感じてしまったのだろう――話を聞き終えたシアは、どこかしょぼんりと落ち込んでいるように見えた。

「じゃあ、カムヤグイサマは……じ、実在、し、しないの? ほ、本当に?」
「うん、実在しない」

 エターナは断言する。
 これで、シアの信仰が揺らげば、多少は魔力供給が減るはずである。

「最大の問題は、実在しないことをどうやって村人に信じさせるか。もしくは、生贄は無駄だと信じ込ませるだけでもいい。おそらくそれだけで、カムヤグイサマは人を殺さなくなる」
「ていうことは、カムヤグイサマが人をこ、殺した、っていうのは……村のみんなが、の、望んだ、こと、なんだ……そして、私も……」

 ひっそりと、外に漏らすこと無く全員がカムヤグイサマを信仰していたような村だ。
 非常に閉鎖的な性質を持っていてもおかしくはない。
 そんな彼らがオリジンの封印が解け追い詰められた結果――『本性をあらわした』と言うと聞こえは悪いかもしれないが、よそ者の命を奪うという形で、その性質が出てしまったのだろう。
 自分たちさえ助かれば他はどうでもいい。
 自らが命に危機に瀕すれば、少なからず誰だって思うことだ。
 そう考えることは責めないが――実行まで移してしまえば話は別だ。
 少なくともエターナに村人をどうこうするつもりはないが、他の人々が何をするのかまで関わるつもりもない。

「落ち込んでも仕方ない。そういう珍しいタイプの希少属性は、制御できないことが多いから、その責任を感じる必要は無い」

 フラムもそうだし、呪いの装備が無ければいまだって扱いきれないだろう。

「……は、はい」

 ぽんぽんと頭を撫でて、シアを諭すエターナ。
 まるで年上のようである。

「インク、カムヤグイサマの音は聞こえる?」
「遠くに聞こえるような気もするけど……あんまり近くないと思うし、近づいてきてるって雰囲気でもなさそうだよ」
「そう……じゃあとりあえず、見つからないようにしながら上を目指す。インク、頼りにしてるから」
「うん、頼られたっ」

 満面の笑みを見せるインク。
 エターナに頭を撫でられると、その表情はさらに輝いた。

「村の人たちの説得はどうするんですか?」
「それは行きながら考える。カムヤグイサマはわたしたちの居場所を知ってるはずなのに、追ってこないってのがどうにも引っかかって嫌な予感がする。今は地上に出ることを優先したい」

 そう言って、エターナはインクの手を引いて立ち上がる。
 そしてシアを加えた四人は、地上を目指して部屋を出た。



 ◇◇◇



 そこから先は、拍子抜けするほどあっさり進むことができてしまった。
 とはいえ安心はできない。
 シアいわく、本来このフロアには常に数人の村人がおり、逃げようとする生贄を妨害、あるいは殺害していたのだという。
 だが今はフロアに人の気配は無く、インクが言うにはカムヤグイサマも一足先に上へ行ってしまったそうだ。
 つまり、地上で何かが起きているのだ。

 階段までたどり着くと、例のごとく鍵穴が複数ある鉄格子が道を阻んだ。
 エターナは氷の塊でそれを破壊。
 それを見たシアはかなり驚いていた。
 ずっと地下にいたのだ、普通の魔法を見る機会もほとんど無かったんだろう。

「こ、ここから先、わたし……行くの、初めてかもしれない」

 シアは緊張気味に言って、ミルキットのボロボロになったメイド服にぎゅっとしがみついた。
 その状態のまま、階段を上る。
 先にあった木の蓋を退かすと、爽やかな空気が一気に入り込んでくる。
 ようやく地上にたどり着いたようだ。
 村にある住宅の中なのだろうか、周囲には生活感が溢れている。
 だが部屋に、人の姿は無い。
 なるべく音を立てないように、四人は慎重に外を目指して前進した。
 外の明かりを浴びるのは初めてらしく、シアは非常に眩しそうに目を細めている。

 廊下に出て窓際に近づくと、エターナは外を覗き見た。
 近くには誰もいないが、少し離れた広場らしき場所で、奇妙な赤い化粧を施し、紫のオーラを纏った村人たちが円形に並んでいる。
 インクの耳には、『オン、メ、グイ、ホウ』という気味の悪い呪文が聞こえていた。

「カムヤグイサマは見えますか?」
「いいや、でも村人たちの中央に……あれってヒューグ?」

 村人たちは、なぜかヒューグに拝んでいる。
 膝を付き、繰り返し呪文を唱え、まるでカムヤグイサマを崇拝するかのように。

「なんでヒューグがここにいるんですか!?」
「あたしたちを追ってきたんじゃないかな」
「でも、なんでヒューグに祈ってるのかがわからない。あいつみたいなオリジンの化物に襲われないために、カムヤグイサマの加護を求めたはずなのに」

 しかし妙なのは、ヒューグ自身が村人に危害を加えようとしないことだ。
 いや、神の領域があるため、攻撃をしても無駄なのは確かなのだが――だとしても、頭のイカれたヒューグが、その程度で諦めるだろうか。

「う、うわ……あの腕、ちょ、ちょっと、カムヤグイサマに、似てますね」

 外を見たシアが、何気なくそう言った。
 エターナは、背筋にぞくりと寒気を感じる。

「ねえインク」
「ん?」
「あそこで話してる内容は聞こえる?」
「よくわかんない呪文みたいなのは聞こえるよ。でも話は……あ、いや、ちょっと聞こえるかも」

 エターナは水の触手で、音を立てないよう慎重に窓の鍵をあけ、かすかに開く。
 すると外の音が、さらに鮮明にインクの耳に届いた。

「ありがとエターナ。うん、聞こえる聞こえる。えっと――『おぉ、素晴らしい。その腕、まさにカムヤグイサマの化身』とか言ってるけど」
「……まずいかもしれない」
「なんで?」

 首をかしげるインクに、青ざめるエターナ。

「あっ、カ、カムヤグイサマが出てきた」

 そうしているうちに、窓の外――広場の方にカムヤグイサマが姿を現す。
 シャン、シャン、と錫杖を鳴らしながら歩くその化物に、村人たちは感涙しながら地面を頭に擦り付けていた。
 一方でヒューグは、ぶつぶつと何かを呟きながら、真正面に向き合っている。
 やがてカムヤグイサマとヒューグの距離は縮まっていく。
 そして――

「そのまま潰し合えばいいのに」

 エターナの願いも虚しく、カムヤグイサマはヒューグに触れた瞬間に、吸い込まれるように消えた。
 残されたヒューグの体から、紫色の煙のようなオーラが立ち上る。

「え? あ、あれ、合体したんですか……?」
「村人たちにそう望まれたから、ヒューグがカムヤグイサマの化身であるという妄想が現実になってしまった。つまり今のヒューグは――」

 もはや隠れても無意味だと悟ったのか、エターナは堂々と立ち上がり、窓の向こうの男を見据える。
 すると彼女たちのいた民家が突如粒子となって消え、周囲が全く異なる光景に切り替わった・・・・・・
 それは、オリジンが復活したあの夜の再現。
 数多の命が失われ、法も倫理も失せた惨劇――すなわち彼にとって・・・・・の楽園・・・である。

「気持ちいいね、ヒューグ」

 村人たちが集い、ヒューグの立つ村の広場は、王都の王城前広場に。

「私は欲望を満たしたかっただけだった。他者から必要とされることは無いから、自分の欲望を満たす以外に生きる価値が見いだせなかったんだ、そうだろうヒューグ」

 エターナたちがいた民家は、遮蔽物などなにも無い、王都の大動脈たる大通りに。

「あぁ……あぁ……はっ……あぁぁ……ママ……ママだ……!」

 そして空からは――巨大な女性の顔が、こちらを見下ろしている。
 ヒューグはそれを見ながら、両手を上げ、きゃっきゃとはしゃいでいた。

「ママッ、ママッ、ママッ、ママアァァァァァァァッ!」

 全てはヒューグが作り出したものに過ぎない。
 その異様な、空を埋め尽くす顔を見てわかることは、彼の歪みの根源が母にあるということだけだ。

「どうしてぇっ、どうして僕を愛してくれなかったのおぉ! どうして僕はいらなかったのおぉ!? ごめんよ、ごめんよぉ、お金にすらなれない役立たずでぇぇっ!」

 まるで子供のように甘えた口調で、天に向かって語りかけるヒューグ。

「ママ、ママ、僕はただ、ママに愛されたかっただけなんだよぉ、そうだろう、ヒューグウゥゥゥゥ!」

 彼がそう叫ぶと、母の口が動いた。

『愛しているわ』

 響き渡る声は、おそらく“音”ではない。
 頭に直接語りかけてくる類のものだ。
 だがそれは、その場にいる全員の脳に届いていた。

『私はあなたを愛している。あなたが必要。必要だからあなた。ヒューグは私の子供。決してサトゥーキを脅して金をせびろうとして産んだ子供なんかじゃないわ。必要だから、必要なの。あなたは必要、必要として必要。欲しい、あなたはいい子だもの。よかった、あなたが子供で、私の。嬉しい、欲しい、愛している』

 繰り返される自己・・肯定。
 自分で作り出した母の紛い物にそれを言わせるのは、いわば自慰行為のようなものだ。

「おぉ……おおぉ……おおぉおおおおおんッ!」

 だから彼はあえぐ。
 涙を流しながら、体を震わせ、のけぞりながら。
 どこまでも気持ち悪く、おぞましく、すなわちヒューグらしく。

「愛されたぁ! 僕、愛されたよママぁ! 満たされた、満たされている、そうだよねヒューグ、そうだよヒューグ、そぉうなんだよぉおおおお! ずっとそうしたかったんだよねぇ、ヒューグぅ!」

 “母”に褒められたことで、彼のテンションは最高潮に達する。

「うわあぁぁぁあああ! ああっはああああぁぁっ! これが、これが欲しかった! 僕はぁ、私はぁ、俺はぁ、それがっ、そうなりたかったぁぁぁぁあ!」

 金色の髪を振り回しながら、笑っているのか絶叫しているのかもわからない、奇声をあげつづけた。
 しかし急に、彼の動きがぴたりと止まる。
 そして真っ直ぐにエターナの顔を見ると、驚くほど無感情な声で言い放った。

「――あとは人を殺して肉を犯そう」

 避難民たちを逃がすために小賢しく時間を稼いだ彼女のことを、彼は明確に“敵”として認識しているらしい。
 殺すと気持ちのいい肉、犯すと具合のいい肉だと考えると同時に、『うざったい羽虫だから潰しておきたい』と思う程度には憎んでいる。
 それはある意味で、エターナたちにとっての幸運でもあった。
 彼女一人が囮になって、インクやミルキットを逃がすことができるのだから。

「ミルキット、インクとシアを頼んだ!」
「は、はいっ!」

 二人を連れて走り出すミルキット。
 ヒューグの、あらゆる死体を寄せ集めて作った腕は、エターナと彼女たちを分断するようにしなり、叩きつけられた。
 何十棟もの民家が押しつぶされる。
 その中から、まるであの夜を再現するように、無数の叫び声が聞こえてきた。
 悪趣味だが、その音はヒューグにとって心地よいもののようで、「あっはぁ!」と気持ちの悪い喘ぎ声を漏らしている。

「アイスアロー!」

 まずは低位の氷魔法で様子を見るエターナ。
 案の定、放たれた氷の矢はヒューグの腕を通り過ぎ、当たることすら無かった。
 神の領域が彼を守っているのだ。
 一方であちらからの攻撃は普通に当たる、理不尽極まりない。

「あれが魔法だとすれば、防げる攻撃の量は無限じゃない。限界量があるはず」

 自らの魔力を全て叩き込めば、あるいは。
 すなわち――法外呪文イリーガルフォーミュラだ。
 魔族領にいる間に教わったあれを使えば、領域を突破できるかもしれない。
 しかしできなければ――貴重な魔力を失うことになる。
 ヒューグに追跡されてから今にいたるまで、エターナは一瞬たりとも休んでいない。
 もちろん、魔力も回復していないのだ。
 インクたちの前では可能な限り平気な顔をしていたが、相当体力を消耗している。
 今だって、ヒューグから距離を取るために走るだけでも、全身がズキズキと痛む。
 速度だって、調子がいいときの半分も出ていないかもしれない。

「小さい体はとても締りがいいんだ、そうだろうヒューグ」

 ズガガガガァッ!
 軽く前に振りかざしただけで、彼の異形の腕は障害物を破砕しながら一直線にエターナに迫る。

「この変態。わたしの体に触っていいのはインクだけだから」

 足元から勢いよく氷の柱がせり出し、彼女の体がふわりと浮き上がる。
 さらに首を傾け、同時に放たれる正義執行ジャスティスアーツ浄化の刃スコッチメイデンを避ける。

「特定の相手がいた方が気持ちいいんだ、知らないのかいヒューグ」
「訂正、ド変態だった。フェアリーオンアイス!」

 空中に氷のレールが浮かび上がる。
 その上を滑りながら、薙ぎ払われた腕を踊るように避けていくエターナ。
 確かにヒューグの腕の威力は驚異的だが、大きいだけに連発はできない。
 それはライナスと戦っているときも指摘されたことだ。
 ヒューグの頭はぶっ壊れているが、知能が失せたわけではない。
 彼とて、その程度は理解できているのだ。

「なあヒューグ、相手が思い通りに動くって気持ちいいよね」

 伸びた腕が、バラバラに分裂する。
 散らばった腕を構成する死体は蠢き、いくつかの破片同士が組み合わさって、キマイラめいた化物に姿を変えた。
 個々の耐久力は大したことないし、動きだって決して早いわけではない。

「アイシクルレイン」

 空中で舞うエターナは、体を捻りながら左腕をかざす。
 すると無数の氷の矢が浮かび上がり、一斉に地上に叩きつけられた。
 それらはヒューグの作り出した化物に命中――せずに、通り抜けて石畳に衝突し、砕ける。
 確かに耐久力は低いだろう。
 しかし、攻撃が当たらなければ無敵も同然。
 化物にくっついた犬の、猫の、馬の、鳥の、そして人間の口が――一斉に、唾液の糸を引きながら、笑うように、にちゃりと開いた。
 そして適当な手足のパーツを組み合わせて作った四肢で、エターナに向かって飛び上がる。
 彼女は水の触手を近くにあった民家の煙突に巻きつけると、巻き取り高速でそこまで移動する。

「体が軽い、君を犯すにはこれがちょうどいいよ、なあヒューグ」
「っ!?」

 気づけば、ヒューグがエターナの横を並走していた。
 先ほどまでと明らかに速度が違う。
 腕を切り離しただけで、ここまで変わるものなのか。

「まずはその引き締まったお腹を裂いて、綺麗な大腸を引きずり出そう」

 捻れ、鋭く尖った腕による刺突。
 空中で自由に身動きが取れないエターナは、アクアテンタクルスを解除、さらに体をひねることでギリギリの回避に成功した。
 だが、遅れて不可視の斬撃が彼女の首を襲う。

「ポッピングバブルッ!」

 無数の泡がエターナの目の前に現れ、弾ける。
 その風圧で彼女は押し出され、地面に落下していく。
 そこはどこか見覚えのある王都の路地だった。
 浄化の刃スコッチメイデンはどうにか避けることができたが、地表には例の化物が待ち受けている。
 さらにヒューグは「はへへへ」と無表情のまま声だけで笑いながら、その場で腕を振り回す。
 一見意味のない行動のようにも思えるが、ただそれだけで、エターナの首を狙って何本もの刃が襲いかかってくる。
 あまりにシンプルな殺意。
 それだけに、力で勝る相手にはあまりに有効だ。
 エターナにできることは、やはり水の触手をロープのように使い、強引に体を引っ張るしかない。
 伸びた二本の触手が民家の壁に張り付き、彼女を着地させることなく、前方へと移動させる。
 一方で地面に降り立ったヒューグは、猛スピードで彼女の足元に迫った。
 どれだけエターナが急ごうとも、その速度を振り払うのは不可能である。
 ならば、と――すでにインクたちは遠く離れたものと判断し、大規模な魔法を発動する。

「王都じゃ使えなかったけど――埋め尽くせ、フラッドディザスター」

 その瞬間には何も起きない。
 しかし数秒後、エターナを追跡するヒューグの背後から、ゴゴゴ……と地鳴りのような音が聞こえてきた。
 かと思えば、狭い路地を埋め尽くす大量の水が押し寄せる。
 無論、神の領域に守られるヒューグたちには効果は無いが、エターナは氷で作ったボードでその波に乗り、加速した。
 一気に二人の距離が離れていく。
 すると彼はニィっと笑い、

「健康的な女も悪くない、筋が固くて斬りごたえがあるよね、ヒューグ」

 そう言って、腰を低く落とした。
 ギアを一段階上げた――つまり本気を出していなかったのだ。

「わかってたけど、これでも引き離せない」

 流れる大量の水は曲がり角で民家にぶち当たり、激しく飛沫を散らす。
 舞い上がる水の粒子が二人の視界を埋め尽くした。
 そしてエターナの乗る氷のボードが角に差し掛かり、減速したところを見計らい――ヒューグは飛び上がる。

「ようやく届いた。エクスタシーの時間だ、ヒューグ」

 逃げ場は無い。
 腕をなぎ払い、腹部が切り裂かれる。
 さらに浄化の刃スコッチメイデンが首を切断し――エターナの姿を映した氷の鏡・・・は砕けた。
 実物・・の彼女は、波の飛沫に紛れて飛翔し、ヒューグの頭上を浮かんでいる。
 エターナが左手を地上に向かってかざすと、フラッドディザスターによって呼び出された大量の水が吸い寄せられ、彼女の頭ほどの大きさにまで凝縮される。
 さらに切断された右肩から水の腕が生え、拳を握った。

「アクアブラスター・イリーガルフォーミュラッ!」

 水の球体に、拳が叩きつけられる。
 すると凝縮された大量の水が、至近距離でヒューグに向かって溢れ出した。
 その威力は地面を深く抉り、底の見えない穴を作り出すほどで――キリルのブラスターを思い出させる。
 実際、この魔法はブラスターを参考にエターナが作り出したものだ。
 現在、彼女が使うことのできる最大威力の魔法。
 これが効かなければ、もはや今のヒューグを倒すことは不可能だ。
 ああ、しかし――現実というのは、いつも残酷なものである。

「いた」

 ヒューグは水の奔流の中から腕を伸ばし、エターナの首をつかんだ。
 うごめく数多の死体が、彼女の肌を不快にくすぐる。

「だき」

 あまりに強い握力に、声すら出せない。
 必死でもがくも、触れることすらできない状況において、逃れられるはずがなかった。
 彼女の顔色はあっという間に赤黒く変色していく。

「まぁす」

 一旦顔を近づけてそう言うと、彼はエターナの体を地面にぶん投げた。

「がっ!?」

 背中や後頭部を強打し、意識がホワイトアウトする。
 すかさずヒューグは彼女に馬乗りになった。
 そして今度は両手で、念入りに首を絞める。

「ママ、見てるぅ!? 僕はっ、あなたの息子はぁっ、こんなに立派になりましたよぉおお!」

 天上の、潰れた母の顔を見上げながら、彼はそう吼えた。

『よかったわね。愛しているわ、ヒューグ』

 唯一無事な口が動き、彼が求めるままに愛を囁く。

「ママが愛してくれる、そして人を殺せる、女を犯せる! あぁぁぁああっ、人生においてぇっ! 私の、僕の、俺の人生においてぇ、こんなに幸せなことはあったかい、ヒューグ! いいや無かった、無かったさ、そうだよねヒューグゥ! あぁお、おおぉっ、エレェクショォンッ!」
「つ……ぅ、ぐぅ……!」
「刺し殺すのもいい、斬り殺すのもいい、絞め殺すのはもっといい、そうだろうヒューグ。ああそうだった、今までもそうだった、他人の命を奪い、支配し、蹂躙する感触を手のひらに感じることができる扼殺こそがベターではなくマァスト! ヒューグ、そうだったよなあ、ヒューグ!」
「お……ご……」

 もはや抵抗は無い。
 変色した顔、裏返った目に、でろんと唾液とともに外に出た舌。
 体はぴくぴくと痙攣している。
 エターナはただ、ほぼ喪失した意識の中で苦痛だけを感じながら、死を待つことしかできない。

 まあ、頑張った方ではないだろうか。
 そもそもファースに辿り着く前、ヒューグと戦っている時点で、エターナに勝てる見込みは無かった。
 インクたちが逃げられるよう気を引きながら逃げるので精一杯だったのだ。
 そこにカムヤグイサマの力まで手に入れられてしまったら、完全にお手上げだ。
 そんな敵を相手にして、逃げる時間を稼いでみせた。
 うん、頑張った。
 褒めてやろう。
 しかし、インクの体を診てやれないことだけが心残りだ――そう考えながら意識を手放そうとした。

「エターナぁぁぁぁぁぁっ!」

 そんなエターナの耳に、聞こえるはずのない声が届く。
 ぼやける視界の向こうで、誰かが動いている。
 目が見えないせいか、壁に肩をぶつけながら、おそらくは音を頼りにこちらに近づいてくる。
 瞬間、気を取られたヒューグの手の力がゆるんだ。
 ――逃げるなら今しかない。

「アクア、テンタクルスッ!」

 地面から伸びた水の触手がエターナとインクの体を巻き取ると、遠くへと、同じ方向にぶん投げた・・・・・
 宙を舞いながら、さらに別の触手を伸ばし姿勢を安定させ、左腕でインクの体を抱きとめる。

「無茶、しすぎ」

 そう言って、エターナはインクと額同士をコツンとぶつける。

「あいたっ」

 痛がりながらも笑うインク。
 地上ではヒューグの作り出した化物が蠢き、二人を追っていたが、今は視界にすら入っていない。

「だ、だって、エターナが危ないと思ったら我慢できなかったから」
「死んでたかもしれない」
「それはエターナだって一緒だよ」
「……確かに」

 納得せざるを得ない正論である。

「ありがとうインク、助かった」

 もはや素直にお礼を言うしか無かった。

「へへん、どういたしましてっ」

 笑いながらエターナに抱きつくインク。
 水の触手による移動は続き、ヒューグに首を絞められた場所からはずいぶんと離れたが――

「ねえエターナ、ヒューグの音がしないんだけど」

 エターナが振り向くと、すでに彼の姿はなかった。

 今のヒューグなら、エターナを仕留めることは可能だろう。
 インクという足かせがあれば、なおさら殺すのはたやすい。
 だが面倒・・だ。
 今回の戦闘で、彼はそれを学んだ。
 だから、後回しにした。
 先に簡単な獲物から始末し、味わう。
 つまり狙いは――

「まずい、ミルキットとシアが危ない」
「でも、今のエターナじゃ無理だよ!」

 目つきは虚ろだし、声にも覇気が無く、魔力だって残っていない。
 戦闘続行は難しいだろう。

「だけど私が行かなきゃ……フラムと会わせるまで、ミルキットを守り抜かないと」
「エターナ……」

 インクとて、守れるものなら守りたい。
 だが、無理なものは無理だ。
 それでエターナが死んでしまえば、インクが死んだも同然だし、その後でミルキットも命を落とすだろう。
 だったらいっそ、エターナだけでも生き残ってくれた方がいい。
 わがままだと理解しながらも、インクはそう願わずにはいられない。
 彼女が心の中で葛藤する中、ヒューグの母の潰れた顔が覆う不気味な空を、一筋の光が駆けていく。

「なにかがすごい速度で通り過ぎていった……?」
「流れ星……いや、違う。あれはまさか――」



 ◇◇◇



 インクと分断・・されたミルキットとシアは、壁の前で途方に暮れていた。

『エターナが死んで、あたしだけ生き残ったって何の意味もないよっ!』

 彼女の気持ちはよくわかる。
 例えばここで戦っていたのがフラムならば、ミルキットもそうしただろう。

『あたしの体の面倒を見てくれただけじゃない。あたしに、知識や、感情や、心、言葉――エターナはとにかく、たくさんの物を与えてくれた』

 狭い世界で生きてきたインクとミルキットの境遇は少し似ている。
 ミルキットの中身も、フラムに与えられたもので溢れているのだから。

『止めたって行くから。死んでもいい、どうせ死ぬなら一緒がいい。重いって言われたって構わない。離れ離れになって、前よりエターナの存在が大きくなってるのを感じるから、きっとそれは事実だもん!』

 それだけに、失ったときの喪失感も大きい。
 一緒に死んだ方がマシだと思えてしまうほどに。

『ただでさえ負担になってるのに、右腕まであたしのせいで無くなっちゃって。エターナは笑って『気にする必要はない』って言ってくれるけど、そこまでしてくれる人を、あたしは、一人で死なせたくなんかないよ!』

 インクはそう言って、止めようとするミルキットを振り払って戦闘の音がする方向へと走っていった。
 そして、すぐに追いかけようとしたが、突如現れた壁が行く手を阻み――今に至る、というわけである。

「インクさん、大丈夫でしょうか。そうだ、シアさんの力で追いかけることはできませんか?」
「ご、ごめん。あの、外に出てから、思うように力が使えなくて。地下なら、は、把握してるから、色々、できたけど。ここは、どこからどこにいけばいいかも……わ、わから、ないから」
「そうですか……でしたらやはり、迂回路を探すしかありませんね」
「道は、わ、わかる?」
「幸い、このあたりは王都の西区を再現してありますから、案内できると思います」

 正確にはヒューグの脳内にある崩壊した西区なので、建物が崩れていたり、細部がぼやけている部分もあるが、大まかな作りは変わっていない。
 壁に背を向けて走り出す二人。
 まだ王都を出てからさほど時間は経っていないはずなのに、この景色を見ていると懐かしさがこみ上げてくる。
 いつか帰れる日は来るのだろうか――と。
 リーチから貰ったあの家を見ずに済んだのは、不幸だったのか幸運だったのか。
 何度もフラムと歩いた通りを、路地を、店の前を進み、インクの走り去っていった方向を目指す。
 そして、彼女を見つけ出す前に――上空から、絶望が堕ちてきた。

「こっちの肉は柔らかそうだが、そういう高級志向もたまにはいいよね、ヒューグ」

 二人して呼吸が引きつり、声も出ない。
 ミルキットはすぐにシアの手を握って彼に背中を向ける。
 だがその速度は、ヒューグの本気に比べると止まって見えるほど遅い。

「はっ、はっ、はっ……死にたくない、こんなところで、死にたくない……!」

 言い聞かせるようにそう繰り返すミルキット。
 彼女の頭の中に浮かぶのは、もちろんフラムの姿だ。
 どうやら彼女は、マリアにさらわれてしまったらしい。
 けれど、ミルキットは信じていた。
 ご主人様は絶対に生きている。
 生きて、私を探してくれている、と。
 だから自分も生き残って、主を探さねばならないのだ。
 少なくとも、さらわれたまま死んだなんて微塵も考えていないし、考えてはならない。
 なぜならその瞬間、ミルキットという人間の存在価値は消え失せてしまうのだから。

「ご主人様……ご主人様ぁ……っ」
「ひっ……は、あ……っ」

 ボロボロのミルキットはもちろん、体力の無いシアの足取りも危うい。
 ヒューグは徒歩で、まるで二人の必死さを楽しむようにゆっくりと追跡していた。
 あるいは、取り込んだカムヤグイサマの、『獲物に恐怖を与えてから捕食する』という特性が多少影響しているのかもしれない。
 珍しくヒューグは自らの意思で、ミルキットに対して声をかける。

「ご主人様というのは、フラム・アプリコットのことらしいね、ヒューグ。そうだね、あの死んだフラム・アプリコット」
「死んでませんっ、ご主人様は生きてます!」
「マリア・アフェンジェンスにさらわれた。あれはオリジンの贄になるためだったと記憶しているよ、ヒューグ。そうだねヒューグ、接続されて、あれはオリジンの一部になったんだ」
「なってません! 絶対に! だってご主人様は……いつだって私のそばにいて、守ってくれてきたんです!」
「だったらどうして今は助けてくれないんだい、ヒューグ。きっと死んだからだよ。生きていたら、真っ先に助けに来てくれるはずだよね、ヒューグ」
「それは……それはぁ……っ、きっと、どうしようもない事情があって……っ!」

 ミルキットの言葉は苦しくなり、足も止まった。
 乾いた喉のせいで言葉が詰まるだけでなく、ヒューグの言葉を聞くたびに弱った心も揺らぐのだ。
 本当は、知っている。
 あんな連れ去られ方をしたんじゃ、生き残れるはずがないことも。
 生きて、こんな奇跡みたいなタイミングで自分を助けにきてくれるより、もうオリジンの一部になってる可能性の方がずっと高い。
 でも、ほんの少しでも生きている可能性があるのなら、信じないと。
 じゃなきゃ、心が闇に閉ざされて、呼吸すらできなくなってしまう。

「生きてるんですっ、ご主人様は絶対に!」
「いいや死んだよね、ヒューグ。ああそうさ、彼女は死んだ」

 言いながら、ヒューグは一歩前に出た。

「死んでないんですっ!」
「なぜ言い切れる?」

 尋ねながら、また一歩前に出る。
 じりじりと、ミルキットとの距離を詰めていく。

「ご主人様は、私の全てで……今の私の何もかもを作った人で……英雄、だからです」

 “世界を救う”とか、“神を殺す”とか、そんな話じゃない。
 ミルキットという個人にとっての、英雄。
 フラムが等身大の、一人の人間であることはよく知っている。
 だがそれでも――

「危ないときは、いつだって助けてくれるんです。辛いときは抱きしめて、慰めてくれるんですっ。私みたいな奴隷を、心の底から愛してくれるんですっ!」

 そんな相手を、英雄と呼ばずに何と呼ぶべきなのか。
 他に相応しい言葉があるだろうか。

「そんな人が死んだなんて、誰がどう言おうと、信じられるわけがないじゃないですか! だから私は信じます。死んでも信じ続けます。必ずまた――世界の誰よりも大好きなご主人様と、会えるんだって!」

 ヒューグが彼女の言葉を最後まで聞いたのは、『その方が身が美味しくなる』と判断したからだ。
 死の間際の願いが必死で美しくあるほど、死は彼の欲望をより満たす。
 あるいは彼が、欲望を満たすことではなく、殺すことそのものを目的としていたのなら。
 あるいは彼が、周囲にアンテナを張り巡らせ、その存在に気付いていたのなら――結果は変わっていたかもしれない。
 全ては紙一重。
 互いの些細な決断が、明暗を分けた。

「ッ!?」

 ゴオォォオオッ!
 風を切る音と共に急接近する殺気に気づき、振り返るヒューグ。
 バヂイィィッ!
 彼の腕と黒い刃がぶつかりあい、激しく光を放った。

 刃を振るうのは――吹っ飛んできた・・・・・・・フラムだ。

 そう、自分の足で駆けてきたのではない。
 魔法――おそらくはジーンとネイガスあたりに頼み込み、風の魔法でここまで射出・・されたのだ。
 ヒューグがここにいることに気付いて――いや、ミルキットの存在を、その“感覚”で感じ取ったのかもしれない。
 いずれにせよ、事実はたった一つ。

 フラムはここにたどり着き、ミルキットの窮地を救ったのだ。

 ヒューグは目を見開き驚愕する。
 ――なぜ触れている・・・・・・・
 神の領域によって、この世からは隔絶された今の彼には、いかなる攻撃も当たらないはずだった。
 だがその刃は確かに腕に食い込み、“痛み”と“重み”を彼に与えている。

「あぁ……ああぁ……」

 ミルキットの瞳に涙が浮かび、感嘆の声が漏れる。
 胸が詰まって思うように声が出なかったが、お腹にきゅっと力を込めて、ミルキットは精一杯、彼女を呼んだ。

「ご主人様あああぁぁぁっ!」

 叫ぶような呼び声を聞いて、ニィっと歯を見せて笑うフラム。
 すぐにでも抱きしめたい、泣きながら何十回も何百回も互いの名前を呼び合って、好き、大好き、愛してる、一生離さないと伝えたい。
 だがそうするのは、この障害物を排除してからだ。

「ヒューグ! なんであんたが、カムヤグイサマの力を手に入れてるのかは知らないけど――」

 紫色のオーラで、それはすぐにわかった。
 それでも、フラムは突っ込むことに躊躇はなかった。
 なぜなら――

「オリジンだろうと、カムヤグイサマだろうと、この剣が神喰らいを名乗るのなら、神を殺せないはずがない!」

 ――理屈がある。
 屁理屈と言われようが、こじつけと言われようが、カムヤグイサマとて元はそういうものだ。

「そしてぇッ!」

 だが、攻撃が当たる真の理由はそれではない。
 魔力量が多いから、プラーナが有効だったから、呪いが領域を溶かしたから――探せばそれらしい説明は見つかるだろう。
 しかし、そのどれでもないのだ。
 全てを凌駕するのは、もっとシンプルで、説得力のある“想い”だ。

「ミルキットを傷つける奴をっ、私はぁッ、絶対に許さないんだからぁぁぁぁぁあああッ!」

 ザシュウッ!
 神喰らいが完全に神の領域を突破し、ヒューグの腕を切り落とす。
 さらに周囲の景色が歪み、剣風にかき消されるように、偽りの王都は消滅した。

「がああァァあっ!」

 ヒューグが初めて、人間らしい苦悶の声をあげる。
 腕を切り落とされた痛みはもちろん、神喰らいの呪いにより相当な苦痛が脳に溢れたのだろう。
 フラムはミルキットを守るように彼女の前に立ち、刃をヒューグに向けた。
 すでに彼の切断面から、新たな腕が生えようとしている。
 決着はまだついていない。
 しかし――たった一言、フラムはミルキットに伝えたい言葉があった。

「ただいま、ミルキット」
「おかえりなさい、ご主人様っ!」

 満面の笑みを浮かべるミルキットの頬を、歓喜の涙が流れていく。
 後ろに彼女がいて、“大好き”の想いを向けてくれるだけで、フラムは自分が無敵になれるような気がしていた。





「「お前ごときが魔王に勝てると思うな」とガチ勢に勇者パーティを追放されたので、王都で気ままに暮らしたい」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く