季節外れに咲いた黄色の百合は優しく微笑む

寝子

五.

五.
「なんで黙るのよ」
 彼女の一言で現実に戻される。
「いや。なんでもない。もうこの話はやめよう。授業するぞ」
 僕は日本史の教科書を開く。彼女は嫌がるかと思ったら意外にも素直に従った。相変わらず一つも質問をしてこない。僕がただ口を動かす一時間だった。
 帰り際、昨日と同じく塾長にしっかり感謝され、また来ることを半ば強制的に約束させられた。外に出ると暗闇の中で雨粒が地面を叩く音が響いていた。
「大分降ってるな」
 生憎、傘は持っていない。後ろで傘を開く音がした。
「入れてあげようか?」
 彼女は不敵に微笑む。

 無数の雨粒が傘を叩く。右肩にほのかな温もり。左肩は少し濡れていた。
「緊張してる?」
 彼女が言う。
「そんなわけないだろ」
 僕は答える。
「男の人と一つの傘に入るなんて久しぶりだなあ」
 そう言った彼女は寂しげだった。
「……やっぱお前は死ぬなよ」
 そう言って僕は傘を右に傾けた。

「塾長、還暦越えてるようには見えないよな」
「あー、五十嵐さんね。元高校教師で野球部の顧問やってたらしいよ」
「五十嵐? あの人、五十嵐って言うのか?」
「そうよ。知らなかったの?」
 知らなかった。それに元高校教師で野球部の顧問……五十嵐、お前とはやっぱり縁があるみたいだ。

「ねぇ」
 彼女が小さく呟く。
「私にもう一度恋をさせてくれるって本気?」
 雨音だけが闇の中響く。
「……本気だ。僕は君にもう一度恋愛を、恋をしてほしい」
「なんで私なんかのためにそこまで……」
「生きてほしいから」
 彼女は俯いて足を止めた。
「なんで……私は人殺しなのよ? 生きていていい人間じゃないのよ? 存在していい人間じゃないのよ?」
 彼女の表情を見ることは出来なかった。でも、身体が小刻みに震えていることはわかった。
「……もし君が本当に人殺しなら、世間は君を許さないかもしれない。でも、僕には関係ないことだ」
 自分でも彼女にこんな想いを抱く理由は分からなかった。もしかしたら、人殺しだと言う彼女に自分を重ねていたのかもしれない。彼女に生きてもらうことで自分も生きていいという慰めが欲しかっただけかもしれない。それでも、彼女に死んでほしくなかったことだけは真実だった。
「あなたって変わった人ね」
 そう言って彼女は顔を上げる。
「お互い様だろ」
 そう返すと彼女は笑う。
「でもね、ひとつ残念なことがあるの」
 彼女は雨の中に飛び出してこちらを向く。
「私ね……今のあなたは全然タイプじゃないわ」
 そう言った彼女は美しかった。


 午前十一時。長方形の電子機器から発せられるけたたましいアラーム音が僕の鼓膜を揺らす。音が鳴る方へ手を伸ばし、音の発生源を捕らえる。薄い布をなんとかして身体から引き剥がし、重たい足取りで楽園とも思えるような場所から抜け出す。一日が始まる。
 小麦、水、イースト、塩が原料の食材を小麦色に焼く。そこに、化粧をさせるように油脂が原料の白色の調味料を塗る。その二つが組み合わさると、絶妙なハーモニーを生み出す。最後にココアを体内に流し込み、ほっと一息つくと、小さな電子機器を手に取り、メールアプリを開く。すると、数少ない友だちが表示される。友だちと言っていいのかもわからないが。そこから【五十嵐雷道】の文字をタップする。最後に五十嵐に会ったのは高校卒業後の三月の終わりだ。二ヶ月も経っていないというのに、随分と懐かしい気がした。
「五十嵐、お前の爺さんに会ったぞ」
 そう短い文章を打って、送信ボタンを押そうとする。もう俺のことなんか忘れているのではと、一瞬送るのをためらった。が、考えるのも面倒臭くなったので、親指で軽く送信ボタンをタップした。五十嵐からの返信は一分も経たずに返ってきた。
「まじで!? 俺のじいちゃんに会ったのか!? 確かにお前の通ってる大学から近い所に住んでるけど!」
 思い返せば、名字と元教師で野球部の顧問だったということが同じだっただけで五十嵐の爺さんという確証はなかった。早合点だったかと反省した。
「すまん、もしかしたら違うかもしれん」
「いや、そこらへんで五十嵐って名字なの爺さんくらいだしまず間違いねえよ! いやー、すげえ偶然だな! 何処で会ったんだ?」
「学習塾」
「学習塾?」
「お前の爺さんの学習塾で講師のバイトやってんだ」
 そこで返信が一瞬途切れた。が、再び通知音が鳴る。
「人間嫌いのお前が学習塾の講師だなんて……お前も変わったんだな! 俺は感動してるぞ!」
「半強制的にやらされてるだけだ」
「なんだそりゃ? まあ、また夏休みそっち行くからさ! 話聞かせてくれよ!」
「ああ」
「んじゃ! またな!」
 五十嵐とのやりとりが終わると、僕は再び楽園とも思えるふかふかのマットに飛び込んだ。昨日の夜のことを思い出す。よくあんな恥ずかしいことを言えたものだ。そんなことを思う。
 ——黄瀬百合。
 不思議な奴だと思いながら僕は夢に潜った。

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