季節外れに咲いた黄色の百合は優しく微笑む

寝子

一.

一.
 目が覚めた。僕の身体をゆったりと包み込むLサイズの真白なTシャツが多量の水分を含んでいる。夢を見たらしい。内容は覚えていない。

 ——夢を見て汗をかくなんて。僕はまだ生きているのか。

 そのことに絶望を覚えた。

 いつもより重たいシャツを脱ぐ。他の衣類とともに穴のある四角い機械に放り込む。半透明の水色の液体とそのまま嗅ぐと鼻につく香りのする液体を入れてボタンを押す。勢いよく水が飛び出す。瞬く間に布が濡れ、溺れていく。不規則に回って踊り続ける衣類を見て僕は吐きそうになった。
 浴室に入る。水色のバルブと赤色のバルブをひねり、少し熱いと感じるようなお湯を作り出す。はじめは戸惑ったこのシステムも一ヶ月も経てば慣れたものだ。人工の熱い雨の中に頭を突っ込む。体に強く打ち付ける熱い雨は心地よかった。このまま溶けてしまいたかった。
 まだ濡れた頭を拭きながら、備え付けの小さい冷蔵庫から鶏卵を取り出す。炎の出ない天板に食べられないパンを置き、その上に鶏卵を割り落とす。時計の短針はすでに一番高いところをまわって右に傾いている。
「今日も遅刻か」
 息を吐くように呟いたその一言は目玉が焼ける音に掻き消された。
 手早く遅めの昼食を済ましたら、黒色のリュックに手を伸ばす。ぐしゃぐしゃになった留学の案内を取り出して塵箱に放る。余裕のできたリュックの中に今日必要な紙の束を詰める。背負うとその重さが憂鬱を連れてくる。鍵と小さな電子機器を左手に持って僕は扉を開けた。

 暑い。まだ五月だというのに蝉が五月蝿い。何をそんな必死に鳴いているのだろうか。その叫びは誰かに届いているのだろうか。そんなどうでもいいことに考えを巡らせていると最寄りの駅に着いた。
階段を上り、改札前まで歩く。

 ——整った顔の少女が目を瞑り、顔を上げて立っていた。

 見惚れた。恋をしたとかそんなことはなかった。ただ美しいと思った。少女は近くの高校の制服を着ていた。平日。十四時。こんな時間に校外にいるなんておかしいと思ったが、そこは早帰りか何かだったのだろうと自己解釈した。美しい少女を眺めたことだけを記憶した。

 自宅から大学までは一駅。涼香すずか大学。それなりに有名な私立大学。偏差値も決して悪くない。まあ、私立大学の偏差値などあてにならないが。地元を離れるためにこの大学へ進学した。在籍する経営学部のキャンパスは建て替えられたばかりで人目を惹いた。
 講義室に入る。四限はとうに始まっていた。一瞬、視線という刃が自分に集まる。すぐに視線は教授に戻る。いっそのこと本物の刃で殺してくれよ。そんなことを考えながら右端の奥の席に腰掛ける。
「今日も重役出勤とはいいご身分ですなあ」
 背後から明るく楽しそうな声が僕の耳に届いた。
 香月康介かづきこうすけ。明るめの茶髪に、今どきのファッション。元気のいい性格。整ったルックス。男子からも女子からも人気の存在。どう考えても僕と接点などない。だが、何故か香月は僕といる時間が多い。香月曰く僕といるのが一番楽だから。人気者の考えることは分からない。
「なんだよ香月」
前を向いたまま返事をする。
「いやー、久しぶりにお前の顔を見たなって思って!」
「……昨日も見ただろ」
「あれ? そうだっけ?」
呆れて溜息が漏れる。
「また楽しそうにしてるわねあんた達。仲がいいこと」
通路を挟んだ席から女性の高い声が飛んできた。
 星宮楓ほしみやかえで。香月や僕と同じ涼香大学の一回生。香月とは幼稚園から一緒の腐れ縁らしい。気の強い性格だが、顔立ちは整っており、異性からの人気も高い。僕から見ればどう考えても香月に気がある。だが、香月が気づく様子は一切ない。少しだけ気の毒な気もする。
「そうか? こっちすら向いてくれないんだぜ? 冷たくない?」
 香月が不貞腐れたように言う。
みなとが会話してくれるなんてあんたぐらいよ。最近は私ともしてくれるけど」
 その通りだ。僕は人との接触を避けている。人と関わりたくない。人と関われば面倒くさいことになる。不幸が訪れる。あんな思いはもうしたくなかった。誰も傷つけたくなかった。でも何故か香月だけは無視できなかった。理由は分からない。これが人気者の力なのだろうか。
「お前、顔はかっこいいんだからもう少し明るくなればモテるぜ!」
 香月が言う。僕はモテたいなどと一切言っていない。
「彼女ができたことないやつに言われてもな」
 僕はそうやって毒づいた。
「う、うるせえ! 俺だって作ろうと思えばなあ!」
 香月が顔を紅く染める。驚くことに恋愛経験で言えば僕のが豊富だ。その顔を見て星宮が笑う。
「そこ! うるさいから出ていけ!」
 教授の怒号が飛んできた。その怒号とともに再び視線の刃が僕を貫いた。

「あーあ。追い出されちまった」
「香月のせいだけどな」
「なっ。お前が人の気にしてること言うから……」
「お前モテるんだから彼女の一人くらい簡単に作れるだろ。なんで作らない?」
 僕は聞く。星宮は香月の返事に耳を澄ましている。香月は少し黙って口を開いた。
「好きでもない人と付き合うなんて失礼だろ」
 綺麗だなと思った。ここまで汚れていない大学生も珍しい。星宮が口を開いた。
「好きな人、一人もできたことないの?」
「……好きってよくわかんねえ」
 香月も星宮も黙ってしまった。僕も口を開くことはなかった。

 この世には好きだとか愛だとか恋だとかたくさんの言葉が散らばっている。その言葉の意味を正しく理解し、説明できる人間がどれだけいるだろうか。こんなことを考え始めたらいくら命があっても足りないだろう。キャンパスを出ると太陽が僕達を照らし、未だに蝉が何かを訴えるように叫んでいた。

「ところで、お前バイト探してるんだろ?」
 香月が唐突に切り出す。
「……飲食とかは無理だぞ」
「大丈夫大丈夫。お前に向いてる仕事だよ」
 そう言って香月は白い歯を見せる。
「とりあえず今日ここに行ってみろ」
 そう言うと香月は乱雑な文字が記された小さい紙切れを僕に手渡した。

 渡された紙切れに書かれた住所にたどり着くとそこには小さな学習塾が建っていた。
[生徒募集! 小・中・高問わず教えます!]
 そんな張り紙が貼られている。どうやら開かれたばかりらしい。
「どうしたら俺が学習塾の講師に向いていると思うんだ」
 僕は真新しい建物に背を向けた。家に向かって歩を進めようとした瞬間だった。後ろから急に腕を掴まれる。強い握力。マメのできた硬いてのひら
「康介君に紹介されて来てくれた人かな? 待ってたよ!」
 声とともに僕の身体は建物に引きずりこまれていく。
(香月を信じたのが間違いだった)
 心にはそんな後悔だけが渦を巻いていた。
中に入る。そこには無数に仕切られた空間が存在した。この学習塾はマンツーマンで教える方式を採っているようだった。
「来てくれてありがとう!」
 そう言いながら僕の手を振り回す髭を生やした小さな中年らしき男性。どうやらこの人が塾長らしい。笑う度に見える白い歯が香月を連想させた。
「申し訳ないですが、僕に講師は出来ないです」
 断るのは心苦しかったが仕方がない。明らかに僕には向いていない仕事だ。
「そんなこと言わずに今日は講師の仕事を体験してみてくれ!」
「でも僕は教えられるほどの頭もないですし」
「涼大生なら問題ないよ!」
 逃げることは叶わなかった。

 小さく仕切られた小さな空間の中で僕は大きな溜息をついた。
「どうしてこんなことに」
 あの後、得意科目だけ聞かれ、
「じゃあ今日は高校生に日本史を教えてもらうから!」
 塾長はそう言うと日本史の教科書を置いて僕をこの空間に閉じ込めた。
(今日だけだ)
 自らをそう慰めた。

 やがて、ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
 ドアは軋む音を立てながらゆっくりと開いた。
 ——絶句した。
 目を離すことができなかった。離したくなかったのかもしれない。僕の瞳は昼過ぎに改札前で見た、美しくも儚げな少女を映しだしていた。

 長い沈黙を破ったのは少女だった。
「あの。座ってもいいですか」
 落ち着き払ったその声はとても高校生とは思えなかった。
「あ、あぁ。どうぞ」
 僕は動揺を隠しつつ教科書を開いた。長い髪。整った顔立ち。近所の高校の制服。間違いなく、改札前にいた少女だ。
「これ、塾長から渡せって言われたファイルです」
 少女は青色のファイルを僕の目の前に置く。
「ありがとう」
 ファイルを手に取り、目を通す。そこには生徒プロフィールと称された書類が存在した。
 ——黄瀬百合きのせゆり。それが彼女の名前だった。十七歳。高校三年生。得意科目は英語。苦手科目は日本史。学校の成績も載っていた。三百五十七人中三十六位。彼女の通う学校は県内有数の進学校だったはずだ。その学校でこの順位。学習塾に通う必要などないように思えた。
「なんで塾に?」
「親が行けと言うので」
 彼女は素っ気なく答える。愛想なんてあったものではない。
「そうか。とりあえず苦手科目にある日本史の授業をするよ」
 日本史の教科書を手に取る。
「どこか苦手な時代はある?」
「特には」
 改札前の少女の印象はもう消えていた。

 僕が一方的に喋り続ける授業はある意味楽だった。質問も来ない。ただただ日本の歴史を喋り続けた。そうして二十分ほど経った頃だった。
「ねぇ、生きてて楽しい?」
 彼女は僕にそう問いかけた。

 ——生きてて楽しい?

 こんな質問は想定していなかった。彼女は僕を見据え、返事を待っている。
「……楽しくないね」
「死にたい?」
 彼女がこんなことを聞く意味がわからなかった。答える義務もなかった。でも、彼女の目は真剣だった。一瞬の沈黙。
「死にたいね」
 出会って二十分の少女に何を言っているんだ。彼女に死にたい願望を晒して何になる。
「ごめん。つまらないことを言った。授業に戻ろう」
 そう言って、僕が教科書を開きかけたときだった。
「私があなたを殺してあげる」。
 そう言うと彼女は僕の方に椅子を寄せた。
「……どうやって?」
 彼女を怖いとは思わなかった。可哀想とも思わなかった。哀れみだってない。ただ、少し怒りを覚えた。
人が死ぬ時は一瞬だ。でも人を殺すことは簡単じゃない。人を殺した人間は普通ではいられない。彼女が短く息を吸う。

「私は人殺しなのよ」

 また少し怒りを覚える。
「それなら君はここにいられないだろう」
「みんな私が殺したことを知らない」
「そんなことが有り得るのかい」
 短い間ができる。
「……私とキスをした人は死ぬの」
 彼女が僕を見る。

 ——キスをした人は死ぬ。

 有り得ないと思った。非現実的だ。夢でも見てるのか。彼女は精神を患っているのか。怒り、困惑、反撥はんぱつ憐憫れんびん。様々な感情が僕の身体をなぞる。二人の間に沈黙が流れる。
「つまらない冗談を言うね」
 気付けばそんな言葉が口を衝いていた。
「嘘じゃないわ」
「私とキスをすればあなたは死ぬ」
 有り得ない話だったが、信じていないわけではなかった。彼女とキスをすれば僕は死ぬ。その希望に縋りたかっただけなのかもしれない。
「分かった。じゃあ殺してもらおう」
 僕は席を立った。彼女の頬に手を添える。冷たかった。嫌がる素振りはない。人生最後に美しい少女と口付けを交わせるなんて幸せじゃないか。そう思いながら彼女との距離を詰める。そのときだった。
「一つ約束して。あなたが死ぬ前に私を殺して」
 時刻は二十一時を回っていた。
「それは無理だ」
 彼女から離れる。
「どうして」
「君の話を信じていないわけじゃない。でも、君を殺して僕が死ななかったら僕は今以上に苦しむことになる」
 僕は続ける。
「それに君のような女の子を僕は殺せない」
 彼女が下を向く。表情を見ることは出来なかった。
「そう。ならいいわ」
 彼女が短く呟く。僕は聞く。
「どうして死にたいんだい」
「人殺しだからよ」
 彼女は続けた。
「それに……恋ができない人生に何の意味があるの」
「恋?」
「そうよ。恋よ。恋愛よ。この身体じゃ恋なんてできやしない。でも、もう一度恋がしたい」
 彼女の頬に流れるものを見た。二十一時半。

 ——ああ、この人を死なせてはいけない。
 ——死にたいなんて思わせてはいけない。

 そう思った。
「もし、もし僕が君にもう一度恋を、恋愛をさせることができたならば、君は生きたいと思ってくれるか」
 自分でも何を言っているのか分からなかった。
「……今のあなたじゃ無理よ」
「それに私は生きていていい人間じゃない」
「それは僕も同じだよ」
 彼女が僕を見る。
「何を言っているの?」
「……とりあえずもう時間だ。外に出よう」
 僕は荷物をリュックに詰めた。

「いやー、ひいらぎ君ありがとう! 助かったよ!」
 塾長が僕の手を握る。ほとんど教えていないことに少しばかりの罪悪感を覚える。
「それで次はいつ来てくれるかな?」
「あー……」
 僕が答えを濁していると、
「明日も教えてあげるって言ってくれました」
 後ろから少女の声がした。.
(こいつ……)
「そうか! ありがとう!」
 塾長は再び僕の手を振り回す。苦笑いをするしかない。そうして外に出る。
「おい、随分と勝手なことを言ってくれるな」
 帰ろうとする少女を引き止める。
「だって、まだあなたと話したいことがたくさんあるもの」
 悪びれる様子もなく返事をする彼女は少し微笑んだ。僕は小さな溜息をつく。
「家はどこなんだ」
「えーっと、ここよ」
 彼女は僕に四・七インチの画面を見せる。
「僕の家と同じ方向か。送っていくよ」
 そう言って僕は歩き出す。
「いいわよ。一人で大丈夫だわ」
「道が同じだから一緒に帰るだけだ」
 仕方なさそうに彼女は付いてくる。

 しばらく歩くと彼女が口を開いた。
「さっき、『僕も同じだ』って言ったわよね。どういう意味なの」
 少し間を置いて言う。
「そのままの意味さ。僕は生きていていい人間じゃない」
「……どうして」
 僕は空を仰ぐ。
「僕も人殺しだからさ」
 満ちた月が僕達を明るく照らしていた。


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