素松屋 十兵衛

Shran Andria

生きるということ

その壱

1989年も暮れが押し迫っていた。
都内のある格式ある老舗ホテルには、一般客の立ち入れないエリアがあり、そこには特別貴賓室がある。
その大きな部屋には大きな食卓と、一人の男がいた。
大河原 十兵衛。不動産を手掛けここ数年は、不動産の急騰にのって、多くの物件を売りさばいた。
高騰は続き、買っては売りさばくもの、長年の貯蓄をここぞとばかりに投資する者様々であった。何れにしても、誰一人損益を被るものはなく、十兵衛は神のように崇められていた。
食卓には、北京ダックが丸々5羽並ぶ。しかし、彼の皿には、尾羽の皮の部分がとりわけられる。
中国では、通例円卓に座る位置は厳密だ。ホストと、その横に主賓が並び、料理の最初はその前に並べられ、主賓たちが口にしたあと、円卓が回転していく。その席で、この味を覚えた十兵衛は、希少部位のこの部分のみをたべるようになっていた。
また、中国では白酒ばいちゅうという非常に度数の高い酒がふるまわれる。中国ではこの酒が嫌いでたまらなかったが、帰国後は、何故かこの酒を好むようになっていた。
十兵衛は、尾羽を口にして、その溶けゆく脂肪を味わいながら、正に今の時代を感じていた。果たして、溶けゆく脂肪は身につくのだろうか。
十兵衛は、いつしか政界に通じる人脈も出来ていた。年が明ければ、全てが変わる。そう、全て溶けゆくのだ。年内で、従業員は全て解雇していた。そして、最後に顧客リストと、保有資産などをまとめたリストを作らせていた。
千人を超えるリストだったが、全ての人、その人の状況を把握していた。
売れ残ったのは、都内の下町にある古い旅館だけだ。どんな物件もまたたくまにうれ、その価値を上げていた。
神と崇められた十兵衛は、間も無く、悪魔と呼ばれるだろう。
千人を超えるリストから、来年のある日を境に地獄に落ちるであろう256人にチェックをした。
彼は、大晦日に事業をたたみ、会社の資産を256等分して来年の四月に振り込むよう銀行に手配した。
銀行側は最初当惑したが、十兵衛さんのことだから、また何か考えているのだろうと、承認した。
ただし、売れ残った古旅館の素松屋だけは、自分の名義にした。
仕事に明け暮れ、家族も設けなかった十兵衛は、結局誰一人幸せに出来なかったと、涙を流した。

やがて、外は雪交じりの天候になっていた。

年が明け、1990の3月、大蔵省から「土地関連融資の抑制について」が通達されると、十兵衛の考えていた通り人々の夢は尾羽の脂肪のごとく溶けていった。

つづく。

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