強面男と白蛇女は雪解けを待ち望む

アウトサイダーK

強面男と白蛇女は雪解けを待ち望む

早朝の日差しがほんのりと差しこむ、岩がむき出しになった洞窟の地面の一角。
自然の洞窟としては不自然なことに、六じようたたみが敷かれている。
その上には大の大人が三人は入ることができそうな大きさの布団。そこに、男が寝転がって岩の天井をにらんでいた。


その男、たいそう凶悪な顔をしている。ぼさぼさの真っ黒な頭髪。太いげじげじまゆ。その下の目はさんぱくがんかつがんこうするどく、目線を向けるだけで何人もの子供を泣かせてきた。ばなは鼻息一つで善人を吹き飛ばしてしまいそう。唇は大きく分厚い。口の周りとほおには硬そうなしようひげしげっている。
布団の中に今は隠れているが彼は体格も立派であり、見る者に威圧感を与えるのが常だった。


顔の恐ろしさをこらえ、よく見れば、その男はまだ三十歳手前の若さにあることが分かる。
そんな男が、布団に入ったまま天井をじっと睨んでいた。
実際は睨んでいるのではなく、ただ考えこんでいるだけなのだが、他の人が見ればそうは思ってくれないだろう。


男は布団の外に出している右腕を持ち上げようとした。右腕は着物の上からがくくりつけられており、服の下にはさらしが巻かれている。
そろりそろりと右腕を動かして何ともないことを確認した男は、腕を持ち上げようとした。痛みが走り、うめき声を上げ眉をひそめる。


「んー、どないしたん?」


洞窟の奥から鈴が転がるような女の声。男は声の方へ顔を向けた。
ここは大人一人がある程度余裕を持って歩き回れるくらいの高さを有する、岩肌がむき出しである自然の洞窟だ。
外では雪がしんしんと降っているが、洞窟内はある程度温かい。入り口部分は人二人が並んで通れるほどの狭さだが、奥は広く部屋一つほどの面積がある。
声が聞こえたのは、光の差しこんでいない奥の方からだ。
洞窟そのものは天然のものだが、そちらには人工物も置いてある。
うるしられ、ふたには金で小鳥が描かれたながもち。何てことないように置かれているみずがめは、白地に青色でせいな絵付けがされた磁器だ。
それらは一目見て高価な物だと分かるが、壁際に置かれた木製の小さな棚は素人が造ったことが明白なほど歪んでいる。


「いえ、腕の様子を見ようとしまして。まだ駄目なようです」


「焦らんでええ」


優しい声に、男の表情が一瞬やわらぐ。しかし、男は小さく首を横に振り、真面目な表情――どのような顔をしてもその怖さは変わらないが――をして、口を開く。


「御前、自分は脚はもう平気です。ずっと寝ていては体がなまっちまいます」


「あらあ、あかんえ。人間は体が弱いんやさかい、大事を取らな」


女の声の後、洞窟の暗い奥から人影が現れた。まずは上半身が光の下にさらされる。
長い白髪は後ろでわえられ、病的なまでに白い肌はきめ細かくしみ一つない。血のように真っ赤な目はぱっちりと開いている。鼻筋はすっと通っており、口も赤くみずみずしい。美しい女だが、その顔はのうめんごとく表情がなく、それが冷たい印象を感じさせる。


岩がむき出しの洞窟であるのに女の足音がしない。


綿でふくらんだ赤い着物の下、すらりとした脚が期待される場所にあるのは、白い鱗の大蛇の胴。尻尾の先まで白い蛇体が女の上半身につながっている。


半人半蛇の白い女は布団で寝ている男に音もなく近付く。その手には一食分の干し肉が握られている。
するりと蛇体で男の周囲を取り囲むと、女の上半身が男の体に密着する。手を貸して、男の上半身を起こさせた。


「んー、ぬくいわあ。はい、へいはん。あーん」


無表情ではあるが楽しそうな声を上げた蛇女は、干し肉を簡単に引きちぎると男の口元へ差し出した。
平太と呼ばれた男は泣く子も黙るような顔をしかめる。
右腕を満足に動かせないので、もう何度も食事を食べさせてもらってはいる。しかし、美しい女に食べ物を手ずから与えられるのは何度経験しても恥ずかしかった。


「ん? どないしたん?」


彼女が表情のないまま首をかしげる。恥ずかしさに耐えながら、平太は半人半蛇の女の手中にある干し肉にかじり付いた。かたい。
何か香辛料が塗りこんであるのか、臭みは強くない。しかし噛むのも一苦労なほど硬かった。


女の白い手がこれを軽々と引き裂いたことを平太は思い出し、改めて妖怪と人間の力の差を感じた。彼女がしも望めば、自分なんぞひとまりもないのだろう、と。
そんな女性に甲斐甲斐しく世話をしてもらっていることを申し訳なく感じていた。利き腕さえ動けば、と思う。そうすれば、彼女の手を煩わせることもない。


(……いや、腕を折らなければ、御前とこのように会うこともなかったか)


腕を折らなければ。彼は硬い肉をしやくしながら、右腕に災いが降りかかった時のことを思い返し始めた。



† † †



一週間前。平太は雪がちらちらと降る中、雪深い山道をとうしようとしていた。
一歩進むたび、すねの半ばまで積もっている雪に埋まるので、その歩みはとしている。


時折、彼は凶悪な顔面を背後に向け、鈍い陽光が照り返す背後の雪道へ目を細め、人影がないか確認する。
これまでのところ見えるのは、冬でも細い葉を落とさぬ枝に雪が積もっている木々だけ。静かな山中には動物の気配もない。
雪が降ることでかろうじて時間が止まっていないことが分かるせいひつな世界を、平太は白い息を吐きながら、先を急いでいた。


もう何度目になるのか、平太は歩きながら後ろを振り返る。
初めて歩む道であり、前を見ておらず、そして雪が辺り一面に積もっていたため、彼は正しい道が大きく曲がっていることに気が付けなかった。


踏み出した足が、雪の下に地面がないことを感知した時には既に遅かった。


足を踏み外した平太は、音を立てて山肌を転がり落ちていく。平太の体にぶつかられた木の枝がボキリと折れた。


「がはっ」


谷へ落ち、ようやく止まった。うつ伏せの状態で冷たい雪の中に倒れている。
平太は体中が痛むのを無視して立ち上がろうとしたが、右腕に力をめようとして、激痛が走る。
目を向けると、右腕が本来曲がるべきではない方向へ曲がっていた。右腕に負担がかからないよう、左腕と両脚で何とか上体を起こした。雪の上に座りこむ。
頭を切ったため、凶悪な面相が血にれ、さらに恐ろしげになっている。


「ぐう……くそっ……」


体のあらゆる場所が痛みを訴えていた。今は気力で何とか動けたが、果たして歩き続けられるのか。
平太はそこではっと気付き、動く左腕で懐から紙の包みを取り出した。念入りに確認し、破れたり汚れたりしていないことに安堵した。


「よかった、無事か。いや、これがあっても、これでは……」


平太が上を見上げると、元いた道には戻れそうにない高さを転がり落ちてきたことが一目で分かった。そして、彼が今いる場所は狭い谷間であり、人の通る場所には見えない。


しかし絶望している暇はない。それにじっとしていては寒さで凍え死んでしまうだろう。
自分の使命を思い、平太は立ち上がろうとした。脚に痛みが走り、立ち上がるのを中断する。
雪が体に積もっていく。視界がぼやける。眠気を感じた。


「いかん……」


平太は何とか意識を保とうとした。左手で思いっきり頬を叩く。
しかし、目を開けているのもおつくうになっていく。視界がせばまっていく。


「あらあ、音がした思うたら、おもろいもん見つけたわあ」


女の声。平太がかろうじて目を動かすと、雪景色の中にひときわ白いものを見た気がした。
意識を保てたのはそこまでだった。




平太はぼんやりと意識をかくせいさせた。
久しく感じていないものを感じる。温かさだ。全身を優しく抱きしめられている感覚がする。
その温もりは、幼い頃に亡くした母を連想させた。
本能的に、その温かさへほおをすり寄せる。


「あらあ。えらい大きゅうてひげがじょりじょりした子やこと。かいらしいなあ」


すぐ近くで聞こえた女の声に驚き、平太は目を開けた。
目の前に、美しいが表情のない、肌が病的に白く赤い目をした女の顔がある。
彼の三十年弱の人生において、女性とここまで接近したことはなかった。
きようがくし、飛び起きようとするが、折れた右腕に力を籠めてしまい激痛に襲われる。


「ぐっ……」


「ああ、何してはるの。あかんよ、あんたん腕は折れとるのやさかい」


「いえ、自分のようなおっかねえ男の顔など、ご婦人に見せるわけには……」


「おっかない? へえ、あんたん顔はおっかないん? どんな顔なんやろなあ」


女は透けるように白い肌をした手を伸ばし、平太の顔を無遠慮に触り始めた。
頬に手を当て、じょりじょりとしたしようひげの感覚に、表情は変えないままくすくすと楽しそうな笑い声を上げる。


「その、髭は、ここ何日もれておりませんので。ご容赦を」


「えー、こない楽しいんに?」


女に肌を触れられている。それは平太にとってめつにあることではなく、顔が赤くなるのは避けられなかった。
それに、こんなに美しい顔をした女なのだ。
照れくささに耐え、平太が女性の顔に注意を向ける。それでようやく、女のぱっちりとした目が自分の目ではなく、顔の辺りのどこかを見ていることに気が付いた。そういえば、一度も目が合っていない。


「ええと……ひょっとして、目が見えないんで?」


「人間がものを見とるようには見えてへんらしいねえ。人は『色』とか『形』とかいうもんを見てんそうやけど、うちには何のことやか分からへん。形は触っとったら何となく分かるけど」


満足したのか、女は平太の顔から手を離した。


「いやあ、あんたほんまぬくいわあ。人間ってこないにあたたかかったんやねえ」


平太を「抱きしめる」力が強くなる。
何かと疑問に思い、平太が視線を下に向けると、赤い着物を着た女の上半身に続いて白い蛇体が見えた。その大蛇の体が自分の体に巻き付いている。


「へ、蛇っ?!」


「ふふふ、そや。うちは蛇やで。怖いやろ。どないするん?」


女は無表情のまま、楽しそうに笑い声を上げる。心なしか、平太は蛇体が自分を締め付ける力が強くなった気がした。


「どうって言われましても。別に、何も」


平太は凶悪な顔の太い眉を、心底困ったというように寄せた。
女が首をかしげる。


「んー? 何もせんの? 食べられてまうで?」


「食べるつもりなら、とっくに食べてらっしゃるのでは?」


「えー。獲物が怖がるんを楽しみながら食べるんが趣味なんかもしらへんで。人の悲鳴が一等の美酒やとか」


「自分には、あなたがそのような人だとは思えません」


「ふーん。おもんないなあ」


女は相変わらずのうめんごとき表情のなさだが、声は不機嫌そうではなく、ただつまらないだけのようだった。


「怪我をした自分をかいほうしてくだすった方が、たとえ妖怪であろうとも、悪い方であるはずがありません」


「さすがに目の前で死なれたら夢見悪かったさかい。それで連れて帰ってみたら、あんたぬくいさかい。離れとうなくなってなあ。なあ、冬の間ずっとここにいーひん? 寒いのは好かんのよ」


女は、平太が痛みを感じるほどではないが、ぎゅうぎゅうと蛇体で彼を抱きしめた。


「いや、自分は……」


「ああ、せや、名前を聞いてへんかった。あんた、何ていうん?」


「へ、へえ。自分はがわへいと申します」


「平太はんか。よろしゅう。うちは、せやな、しろへびぜんとでも呼んでや」


「白蛇御前。へえ、仰せつかりました。それで、その、申し訳ありませんが、少し離れていただけませんか?」


「ん? なして?」


明るい声のまま、白蛇御前が聞き返す。


「その、自分のような男を見るのは不快でしょうし」


「何を言うてんのか分からへんわあ。おっかない顔をしとるんやって? 人間なんて恐ろしゅうないよ」


「じ、自分は、あなたのようなお美しい方がこんなに側にいらっしゃるのは初めてなもので。自分の心臓に悪いのです」


「美しい?」


白蛇御前は不思議そうな声を上げ、しばらく黙り、そしてくすくすと笑い声を出した。


「あらあら、かいらしいなあ。うち、表情というんがないんやろ? それなのに美しいん? ふふふ、おかしい人。うちを温めてえな」


嬉しそうにくすくすと笑い続けながら、彼女は女の姿をした上半身で平太に抱きついた。折れた右腕には触れないように気を使ってはいるが、白蛇御前の胸元に男の顔がちょうど当たる。
平太は赤面し困惑しながらも、命の恩人には逆らえず、大人しく彼女の望みであろう熱源となった。



† † †



「どないしたん? いん?」


干し肉のしやくを止めた平太を、白蛇御前は無表情に見つめている。その心配そうな声音により、平太は過去から現在へ帰ってきた。


「いえ。とても美味しいです」


「そうかあ、よかったわあ」


女は穏やかな声を出して、干し肉を一口一口、時間をかけて全て食べさせた。
平太は本心では米が恋しかったが、どうもこの洞窟には米どころか炊事道具もないようだ。白蛇御前を困らせることになるのは目に見えているので、肉以外が食べたいと口に出すことはしていない。


「すみませんが、水をいただけませんか?」


「水な。ちょい待ってて」


ゆっくりと平太から離れた白蛇御前は、寒そうに体を震わせた。棚から湯飲みを一つ取り、美しい磁器の水瓶から柄杓で水を注ぐ。
彼女は湯飲みを大事そうに持つと、平太の元へ戻り、それを手渡した。
彼は湯飲みを左手で受け取り、冷たい水をちびちびと飲む。


「平太はん。うち、水がなくなりそうさかい汲んでくるわ。大人しゅうしとってな」


「はあ。外は寒そうですが、大丈夫ですか?」


かまへん。人間は毎日ぎょうさん水を飲まな死んでまうんやろ? うちに任せとき」


白蛇御前は平太のぼさぼさの髪を撫でると、湯飲みを取り、残った水で洗って棚に戻した。
そして、長持からかさを取り出す。笠の周囲からは黒色の薄手の布が垂れており、光に弱い彼女が日光のまぶしさから目を守れるようになっている。
笠をかぶり、両腕で水瓶を抱え持つと、洞窟の一つしかない出入り口へするすると向かう。
外へ出る直前、立ち止まると白蛇御前は体を震わせながら平太の方を振り向いた。


「うう、やっぱし寒いわあ。ほな行ってくるさかい、大人しゅう待っててな」


それだけ言うと、白蛇御前は外へ出て行った。
静かになった洞窟の中、平太は布団の上に腰かけたまま、ぼんやりと外を見た。雪が静かに降っているのが見える。
雪を見ながら、左手で着物の上から懐に入っている物を撫でた。


「御前に救われた時も雪が降っていたな。追っ手はまだ諦めていないだろう。雪で痕跡が消えていればいいのだが」


右手は動かせないため、平太は左手で懐から紙の包みを取り出した。白い紙包みは多少しわが寄っているが、まだしっかりと中身を保護している。


「旦那様。この平太が必ずやせつじよくを果たしてみせます。どうか見守っていてくだせえ」


凶暴そうな顔のけんのんさが増す。平太は紙を強く握りしめた。
はっと気付いた時には紙が折れ曲がってしまっており、平太は慌てて脚の上に紙包みを置いた。利き手ではない左手で苦労してしわを伸ばす。無論、元通りにはならないが、納得できる程度までやると、懐にしまい直した。


そして平太は、外を眺めたまま今後どうするかを考えていた。命を捨てる覚悟すらしていたはずなのに、半人半蛇の妖怪、白蛇御前と名乗った女性のことをどうしても考えてしまう。


「……ん? まだ帰ってこられていないのか?」


平太はまだ白蛇御前が戻ってきていないことをいぶかしみ始めた。水場は近くにあるらしく、いつも通りであるならとっくに帰ってきているころいだ。心配になり、平太はそろりと立ち上がった。


布団の敷かれているたたみのわきに、彼がここまで履いてきたわらぐつが置かれている。片手で苦労してき、洞窟の入り口へ。
外は雪が降りつつも日も照っており、積もった雪で日光が反射し照り返している。一週間ずっと洞窟で過ごしていた平太のさんぱくがんは眩しげに細められる。目がくらみ何も見えない。


「あらあ、何してはるの。出迎えてくれたん? 嬉しいなあ」


平太が視界を取り戻すと、水がたっぷりと入った水瓶を軽々と持った白蛇御前が、洞窟の入り口へと至る上りの坂道の下にいた。
音もなく坂を上り、瞬く間に側まで来た彼女にうながされるまま、平太は洞窟内へ戻る。
壁際に水瓶をぞんざいに置き、頭にかぶっていた笠をぽいっと放り投げた白蛇御前は、わらぐついたままの平太を布団に押し倒した。あっという間に男の体に蛇体を巻き付ける。


「……冷えてますね」


「外に出とったさかい。温めとくれ」


「自分でよろしければ」


「ふふふ、優しいねえ」


白蛇御前が自分の顔を平太に近付けると、彼は恥ずかしそうに凶悪な顔を赤らめた。
御前の目が悪くてよかった、と平太は思う。自分が赤くなっているのを気付かれないと彼は考えていた。
実際は、白蛇御前は色や形はよく見えずとも、温度は敏感に感知できる。そのため、平太の顔の温度が上がっていることは彼女にも分かっていた。くすくすと笑い声を上げる。


「平太はん、良い人はいるん?」


「へ? いえ、自分のような怖い顔をした者の嫁に来ようとするによにんはおりません。旦那様が縁談を組もうとしてくださったこともありましたが、相手がびんですので断りまして」


「あらあ。さよかあ」


白蛇御前の表情は変わらないが、その声を聞けば彼女が喜んでいることは誰でも分かるだろう。
密着させている体を白蛇御前はさらに近付け、彼の耳元へ口を寄せた。


「なあ、ずっとここにいーひん? うちが世話をしたるさかい、うちをずっと温めて」


つやっぽい声で、女は男の耳元でささやいた。


「な、何を仰います……」


うろたえた声を出すが、体を離そうとはしない平太を、白蛇御前は可愛らしく思う。


「うち、平太はんをえらい気に入ってん。ずっと側に置いときたいわあ。なあ、だめ?」


「いえ……まあ、自分は帰る場所も既にない身ですので、誰も困りはしませんが、しかし……」


「あらあ、そうなん? 人の世との縁が薄いんは好都合やわあ」


体全体の体温が上がりつつある平太の様子を、白蛇御前は尻尾の先を左右に揺らしながら楽しく眺めていた。
同時に、からかいすぎたかと少しだけ反省する。
結論を急ぐこともない。白蛇御前は話題を変えることにした。


「ああ、そういえば、水をみに行ってん途中でけったいなもんにおうたで」


「へえ。どうなさいました?」


「人間におうたの。男が三人やったわあ。怖い声をしとった。うちは怖うなかったけど」


井戸へ行ったら猫を見たとでも言うような気軽さで、白蛇御前はくすくす笑いながら語る。
ものがよく見えない彼女は、平太の顔がこわったことには気が付かない。


「どんな男だったんです?」


「んー? せやなあ、何か探してんようやったなあ。あないな大声上げとったら動物はすぐ逃げるさかい、猟師とはちゃうんやろなあ」


「奴らは何を話してました?」


「えー、そないちゃんと聞いてへんさかい分からへんわあ。ああ、悲鳴は愉快やったで。うちがちょいとおどかしたら、偉そうな声を上げとった男が甲高い悲鳴を上げてなあ。みんな我先に逃げていって」


平太はまゆを寄せ、黙りこんだ。白蛇御前もようやく彼の異常に気付き、無表情のまま、どうしたのだろうかと思案する。


「平太はん? どないしたん?」


「そいつらは、自分の追っ手かもしれません」


白蛇御前には見えないが、平太は深刻そうな、苦悩しているような顔をしている。凶悪な顔がさらにすごみを増していた。


「追っ手? あんた、追われてん?」


「へえ。追っ手がすぐそこまで来ているとなると、もう一刻もゆうはありません。すぐさまここを立たなければ」


「何を言うてんの」と白蛇御前は驚いた声を上げる。「追っ手がおるんなら、隠れてん方が安全や。安心しい、うちが守ったるさかい、ここにおったらええ」


「ごこうはありがたいのですが、時間が経てば追っ手の数が増すかもしれません。もう脚の怪我は治りましたので、歩くのに支障はありません」


どうやら平太の決意は固いらしいと気付き、白蛇御前は慌てた。思わず平太の肩をつかむ。彼が痛そうな声を上げたため白蛇御前は掴む力を弱めるが、離しはしない。


「待ちいな。腕はまだ治ってへんのに、無茶やで。追っ手もおるのに、そないに急いで行かなあかん所があるん?」


「へえ。自分をでつの頃から可愛がってくれた旦那様の汚名をそそがねばならないのです。旦那様に着せられたのが無実の罪であったこと、それを仕組んだのがあのれつな沼井屋であることの尻尾は掴みました。ここに証拠があります」


平太は、折れていない左手で着物の懐の辺りを叩いた。


「後はぎようしよにたどり着き、うつたえるだけ。奴らは何としても自分にさばきを起こさせまいとやつになっていることでしょうが、自分はこの身に代えても行かねばならないのです」


「ふうん……」


白蛇御前はこれまで通りの無表情であったが、その声はめんぼう同様の冷たさを帯びつつあった。


「御前が自分にをかけ、命を救い、かいほうまでしてくださった恩は一生をかけても返せるものではありません。しかし、自分は行かねばならないのです」


「どないしても行かなあかんの? 人間のはかない命を危険にさらしてまで?」


「旦那様の無念を晴らさねば、自分はこれから胸を張って生きていくことはできません。自分は――」


「さよか。よう分かった」


平太の言葉を遮り、白蛇御前はぴしゃりと言い放つ。


「百年も生きられへん小さいもんが犬死にしに行くとしても、うちには関係あらへん。勝手に行けばええ」


白蛇御前は平太から体を離すと、距離を置き、彼を無表情に見つめた。
洞窟の入り口から冷たい風が吹きこんだ。


「御前、その、自分は……」


平太は右腕に力を入れないように注意しながら体を起こす。くついたままであるのでそのまま立ち上がるが、次の一歩がみ出せない。


「腕以外も折れたないなら、はよう出て行った方がええで。人間の世界に戻りたいならな」


拒絶の言葉。平太は言おうとした言葉を飲みこんだ。彼女の顔を見るのもつらくなり、うつむいてしまう。すっかり自信を失ってしまったのだ。
彼はその恐ろしいようぼうゆえ、いくとなく他者から拒絶の言葉を投げかけられてきた。何とか受け入れてもらおうとしても逆効果だったため、彼はこれまでの人生で諦めることを学んだ。
今回も、気まぐれに興味を向けられたがそれも冷めたのだろうと考え、彼は大人しく去ることにした。


「……大変お世話になりました」


平太は深々と頭を下げ、礼をした。白蛇御前はふんと鼻を鳴らすことで答える。
優しいお方の姿を、最後に一目。
平太がそろりと頭を上げると、ぎょっとした。
白蛇御前はその赤い目からぽろぽろと涙を流していた。


「ご、御前……?」


「なんや?」


「泣いて、いらっしゃるんで?」


「泣く……?」


不思議そうに呟いた白蛇御前は自分の顔に手を当てた。その手がれる感触により、頬を水がつたっていることに気付く。


「あらあ。こら悲しいと人が流すちゅうやつ? うちん目からも出るんや。驚いたわあ」


彼女は平太に語りかけるのではなく、独り言のようにそう言った。


(御前は悲しんでいる……?)


平太はたいそう驚いた。
悲しんでいる? 何に対して? 自分が去ることをしんでいる?
もし、そうなのなら。自分がいなくなることについて、涙を流してくれているのなら。
平太は勇気を振り絞った。


「御前。お願いがあります」


「ん? なんや?」


着物のそでで涙をぬぐいながら、白蛇御前がおざなりに問う。
そんな彼女には、平太の恐ろしい顔がしんけんみを帯びていることは見えていなかった。


「自分は命を落とすことになるかもしれません。しかし、もしも旦那様のかたきってもこの命があったのならば、その時は、ここに帰ってきてもいいでしょうか」


「え? 戻ってくるん?」


白蛇御前は顔を上げた。平太の方を向いたその顔には変わらず表情はないが、その声は明らかに驚いていた。


「もちろん、御前のお許しがあればですが。自分は人間で、御前にしてみれば小さな存在なのでしょうが、自分は命を救っていただいたご恩をお返ししたいのです。一生をかけてでも。人の短い生ですが」


「……ちょい待ってえな」


自嘲気味に語る平太に対し、静かに白蛇御前は待つように言った。
長持へり、ふたを開け、ごそごそと中をあさる。
何をしているのか分からずにいる平太が見守る中、彼女は白いはくへんを手にし、彼の側へ戻ってきた。


「これあげるわ」


「これは……?」


「うちん脱皮した皮」


「御前の皮?!」


驚愕している平太の手中に、白蛇御前は白くて半透明な脱皮した皮の一部を押し付ける。平太の大きな左手のひらに収まるサイズに折りたたまれた皮は、触れれば破れてしまうのではないか心配で、平太はどうすればいいか迷った。


「知らへんけど、うちん皮は幸運のお守りになるらしいの。あんたを危険から守ってくれたらええな思て」


優しい声で白蛇御前が言う。


はよう帰ってきてや。あんたがいーひんと寒うてかなわへんさかい」


「で、では……!」


「うちん気が変わらへんうちにはようお行き」


恥ずかしそうに白蛇御前は言い放った。ぷいと顔をそむけ、尻尾の先をゆらゆらと揺らす。
自分はここに戻ってきてもよいのだとようやく自覚した平太は、嬉しそうにはにかんだ。凶悪な顔がはにかむ様子はそれはそれは恐ろしいものだったが、白蛇御前は彼の表情を見るのではなく笑い声やいきづかいを聞いているので問題はなかった。


「へえ。幸運のお守りだってあるのですから、必ず戻ってきます」


「ん。気ぃ付けてや」


平太は手中の白い皮を一通り眺めてから、左手だけでゆっくりとそれを懐にしまった。
そしてかがみ、自分がくつをしっかりとけていることを確認してから、一歩一歩進み出す。洞窟の外、弱い日が差すもとへ。必ず帰ってくるという決意を胸に、彼は振り返ることなく雪道を歩き出した。


一人になった洞窟の入り口から、白蛇御前は彼の遠くなっていく熱をずっと見ていた。必ず無事に帰ってきてくれと願いを籠めて。

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