愛した人を殺しますか?――はい/いいえ

@yumetogi_birt

第60話 嫌悪と畏怖と尊敬 *

「ロゼリィ! 待ってくれよ!」

 怜苑れおんは前で歩くロゼリィの肩に触れた。振り返ったロゼリィの顔には、大粒の真珠のような涙がポロポロとこぼれていた。思わず見とれてしまいそうになるくらい、美しい涙だ。彼女の美麗さと同様、今まで見た涙とは全く違う。
 ラムズのせいでロゼリィまで泣いてしまったと、怜苑の中でさらに怒りが燃え上がった。だが、今は怒るよりも彼女を慰めることの方が先決である。

 燃え盛る炎になんとかふたをして、怜苑は彼女の背中をゆっくりと撫でる。なめらかなシルクの衣の下、ぼこぼことした違和感を感じた。おそらく祭服さいふくの下に何か着ているのだろう。
 怜苑は柔らかい声を出した。

「その、大丈夫か……?」
「大丈夫ではありませんわ。わたくしはあの船で愛を感じられて幸せでしたのに……。それがこんな風に粉々になってしまうなんて」
「あ、愛?」

 彼女から発された言葉に、怜苑は思わず渋面じゅうめんする。なぜ普通に怒る人や悲しむ人がいないんだと、そんな焦りさえ感じた。
 だが、怜苑の思うは、あくまで人間にとってのでしかない。それを他の者に望むのは、この世界では無理のあることだ。

 一方ジウは、怜苑のの通りに怒っていた。
 本来ルテミスは仲間が殺されてもなんとも思わない。しかもそれが戦いで死んだとなれば、尚更怒る理由はない。むしろ殺した相手を「よくやった」と褒めるだろう。
 だが、今回はそれとは違う。これまで信じていた仲間が自分の身を脅かしたのだ。他人が殺されるのは良くとも、危険から自分の身を守ろうとする心は失っていない。
 また、"裏切り"に対する悲しみも、ルテミスはまだ持っていた。化系トランシィ殊人シューマといえど、完全に人間から離れたわけではないのだ。


 怜苑はロゼリィの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き始めた。彼女はしずしずと足を動かす。長い白と金の祭服の布がこすれる音がした。

「ラムズと船員たちは、たしかに愛があったとわたくしは思うのです……。彼らの中には無意識の信頼があったはずなのです。ですが、それが壊れてしまった」
「本当、ラムズはひどいよ。どうして奴隷になんてするんだよ」
「ええ……。今まで愛を与えていた存在を、そんな簡単に裏切ることが出来るのでしょうか」

 あくまで"愛"にこだわる彼女に疑問を覚えながらも、怜苑は彼女の言わんとするところをなんとか噛み砕いて理解した。
 「親友を裏切るなんて酷い」というところだろうと検討をつける。

「なんていうか、ラムズは宝石に溺れて仲間を売ったんだろ。てことは、最初からラムズから船員たちへの愛なんてなかったんじゃないのかな」
「それは」

 彼女はそこで、一度口をつぐんだ。
 ロゼリィの涙はもう乾いていた。彼女が小首を傾げると、絹のような金髪がさらさらと流れた。

「それは違いますわ。そうです、他に優先すべきことがあってもいいのです。何もかもを受け入れることこそが愛ですから。ラムズはラムズの思うように行動しただけ。ということは、つまりそれを受け入れられなかったルテミスたちが、この関係を破綻させたのですわ……」
「はっ?! 待ってくれよ。悪いのはジウたちだってこと?!」
「そうですわ。そう考えると、ロミューとラムズのあいだだけに愛は存在していたのですわ。ラムズを叩いたのは間違いでした。謝らなくては……」

 ロゼリィの考えは、さらに怜苑の理解の範疇はんちゅうから外れていった。
 なぜジウたちが悪いことになるのか。裏切った方ではなく、裏切りを受け入れない方が悪い。もしそれが彼女の主張ならば、例えば浮気や不倫ですら肯定される理論になってしまう。


「ろ、ロゼリィ。そうすると、例えば浮気はしてもいいってことになるのか?」
「そう言いたいわけではありませんわ。ですが、本当に愛しているなら浮気をするその相手さえも受け入れることが必要なのです。浮気をして欲しくないと思う心は、相手を変えようとしているではありませんか」
「そんなの無理だろ……。全部を受け入れるなんて、無理だよ。誰だって耐えられないことくらいあるんだ。悲しむことも喜ぶことも許されないっていうのか?」
「相手に何も望まなければ、可能ですわ」
「相手に何も望まない姿は、本当に愛って言えるのか?」
「何も望まないからこそ、愛なのですよ。お互いに自然でいること、ありのままでいられる関係が愛なのです。そうですね……。レオンは、身近にいた人が急に死んだような経験はありませんか? そしていなくなったあとで大切さに気付いたことは、ありませんか?」

 怜苑は、地球で飼っていた猫を思い出した。ペットのその猫は、彼が生まれた時から家にいた。幼少期はよく一緒に遊び、小学生の頃は餌をあげたり糞を始末したりして世話をしていた。だが、中学生、高校生と成長するに従って、あまり構わなくなってしまっていたのだ。
 そして猫は、怜苑が高校二年生のときに寿命で死んでしまった。

 怜苑の脳裏に暗い思い出がよみがえり、声が沈んだ。

「一応、あったかな……」
「レオンは、その者がいなくなったあとで大切さに気付いたのですか?」
「そうだな。その頃はもうあんまり構ってなかったんだ。いるのが当たり前っていうかさ。近くに寄ってきても大して遊んであげもしていなかったし。前ほど世話をすることもなくなってた。でも、死んだ時に泣いたよ。それで後悔した。もっと可愛がってやればよかったって……」

 大切なものは失ってから気付く──怜苑は猫が死んだ時、そんな言葉を思い出した。そして失ってから気付いては遅いと。それから、なるべく後悔しないように生きようと彼なりに心がけていた。


 両手を胸の前で合わせ、ロゼリィは何かを渇望かつぼうするような目で空をあおいだ。まるで天に祈っているかのようなその姿は、文字通り聖女セイントと呼ぶに相応しかった。

「それが、愛なのですよ……。愛とは本人たちは気付かないものなのです。知らず知らずのうちに受け取り、知らないあいだに渡しているのです。そして片方がいなくなった時、愛を受け取っていたことにようやく気付くのですよ。気付かないくらいの愛が、本当の愛なのです。努力する必要はないのです。
 その者が去った時に涙した気持ち、それを忘れてはいけません。ですが、大切さに気付く必要はないのです。貴方は貴方のままで、いいのです」

 ──愛とは気付かないもの。
 失ったあとに気付くのでは遅いと考える怜苑とは、全く逆の考え方だった。彼女は気付かなくていいと、そう言ったのだ。

 だが、怜苑は彼女の言いたいことも少し理解できた。たしかに、ありのままを受け入れることも愛だろう。
 例えば相手の好みに合わせて自分を常に変えていれば、果たしてそれは本当に自分というものが愛されているのか、実感が湧かなくなってしまう。親からの愛もそうだ。親の期待に応えているから愛されている──それほど悲しいことはない。

 ありのままを受け入れてもらう。それも一種の愛なのかもしれないと、怜苑は思った。


「レオン、聞いて下さってありがとうございました。わたくしの悲しみは晴れましたわ。もう大丈夫です。レオンは愛に対して、また違う考え方を持っているようですね。愛する人のためには、相手の嫌がることをやってはいけない、という感じでしょうか」
「そうだな。ラムズがやったことは、やっぱり間違ってたと思うよ……。ジウたちを愛しているなら、彼らが傷つくようなことはしちゃいけないんだ」

 ロゼリィは立ち止まって、怜苑の顔をじっと見た。彼女の藍色の瞳が間近に迫り、怜苑は慌てて一歩後ずさる。

「レオンは……、レオンはなぜ怒っていたのですの? メアリが言ったように、貴方には関係ないことでしょう?」
「ロゼリィも分かんないのか。ロゼリィは仲間が傷ついているのを見て、何も思わないのか? 怒ってるのを見たり、喜んでるのを見ても、何も思わない?」
「仲間というのは……」
「えっとー。例えば今回船で一緒に航海してきた奴らとか。ラムズでもいいし、メアリでもいいよ。仲良くしている人たちのことだ。ジウは今回落ち込んでただろ。そういうジウたちを見て、何か思わなかった?」
「愛のことは考えましたが、それ以外は特に……。あとは、ラムズが喜んでいたり悲しんだりしていても、何も思いませんわ」

 ロゼリィは申し訳なさそうに目を伏せた。彼女自身も、怜苑と相容れない考え方であることに気付いているようだった。


 その時、怜苑はふと初めに彼女と出会った時のことを思い出した。あれはどうだったのだろうと、怜苑は疑問に思う。

「前にメアリが倒れた時にさ、ラムズのことを助けてやってたよな? あの時は、心配してたんじゃない?」
「そういえばそうですわね。でもあれは、メアリが治らなかったり、ラムズがメアリの焦げた鱗を見たりすると大変なことになるからですわ。こちらに被害が及ぶのです」 
「そんなに大変なのか?! ラムズってメアリのことが好きなのか?」
「ラムズは宝石が好きなのですよ。彼の持っている宝石が壊れたら、ラムズも壊れてしまいますわ」

 「壊れてしまう」の意味が、果たして比喩なのか文字通りの意味なのか、怜苑には分からなかった。顔を歪めながらも、とりあえずは頷く。

「そっか……。まぁとにかく、ロゼリィは他人に対して何も思わないってことだな。でも人間は違うんだ。自分の仲間だと認めた人たちが悲しんだり喜んだりしたら、俺も同じく悲しくなるし、喜びたくなるんだよ」
「どうしてですか? 感情が繋がっているのですか?」
「繋がっている、か──。たしかにそう言われてみればそうなのかもしれない。人間は弱いってよく言われるよな。他の使族しぞくよりも。だからきっと、人間は仲間が欲しいと思ってるんだよ。独りじゃ生きていけないんだ」
「独りじゃ生きていけない?」

 怜苑は深く頷いた。この世界にいなくても、それは言えることだろう。

「人間はさ、ただ一つの、オリジナルの個体なんてないのかもしれない。色んな人に影響されて、色んな人の感情をもらいながら生きているんだ。俺の感情は俺だけのものじゃない。人間は色々なグループに所属しながら、重なり合って生きている。家族とか、仕事仲間とか、友達とか、先輩や後輩だとか。そういう色んな人たちの感情と考え方がごちゃ混ぜになって、俺ができてるんだ。コピーの集まりみたいなもんなのさ」
「全員が何処かで重なって生きているのですね。初めから神がそう作ったのか、それとも人間が自らそれを選ぶようになったのか、どちらなんでしょうね」

 人間の創造に関わる神は、使族の中で一番多い。だからこそ人間には多くの感情があり、そのせいでどんな感情にも共感できるようになったのか。
 それとも、人間は他人の感情に共感できるという特徴があり、そのせいで数多あまたの感情を持つようになったのか。


 怜苑はいつかラムズが言っていた言葉を思い出した。

 ──人間は何にでもなれる、自由だ。
 変わることも変えることも出来る。

 人間はある意味、他の使族にも、他の人間にもなれるのかもしれない。他者の気持ちに寄り添い、同じように喜び悲しむ──それも自身を"変える"ことになるのではないだろうか。

 ロゼリィは変化せずにありのままでいることが愛だと言った。だが人間は常に変わろうとする。相手のために、自分のために変わる。その場所、その空気に応じて様々な顔を持つ。
 そんな人間は本当の愛を育むことは出来ないのだろうか? だが"変わること"は必ずしも悪いことじゃないはずだ──。

 もしかすると、どちらも正解なのかもしれない。正義が数多に存在するように、愛の形もいくらあってもいいじゃないか。
 そしてそんな彼女の愛の形を、怜苑はもっと知りたいと思った。



 怜苑は歩を止めた。ロゼリィは彼が歩いていないことに気付いて振り返る。彼女の後ろにある太陽のせいか、彼女の金髪がいつにも増してきらめく。太陽と彼女が重なって、ロゼリィが太陽に溶け込んだように見えた。


「ロゼリィ。俺と一緒に来てくれないか?」


 長い沈黙に思えた。ロゼリィは端正な顔つきを少し歪ませて、寂しそうに笑った。

わたくしが貴方と共に旅をする理由はありませんわ」
「ロゼリィも……ラムズの方に行くのか?」
「いいえ。彼の傍にいる理由もありませんので。そしてレオン、ここで貴方にきちんと伝えておかなければなりませんね」

 怜苑はごくりと唾を飲んだ。
 ──彼女は最初から、何もかも知っていたのだ。

 ロゼリィは俗に言う罪な女ではない。だから怜苑に思わせぶりな態度も、気を引くような台詞も言ったことはなかった。
 だが、怜苑は彼女に惹かれてしまった。高嶺の花だと知りながらも、知らないうちに彼女を追いかけていた。むしろ高嶺の花であるからこそ、彼女に思慕の念を抱いたのかもしれない。
 きっと同じように恋をした男がたくさんいるのだろう。怜苑は他人事のように、心の中で苦笑した。


 ロゼリィは悲愴ひそうも焦燥も浮かべないまま、その愛くるしい唇から言葉を流した。

わたくしは、貴方の思いに答えることは出来ません。私の使族は愛を育めないのです。誰かを好きになることはないのです。私の思いは、全て"愛"にしか注げません。使族として愛せないことを、どうか分かってください」

 ロゼリィはパチパチと瞼をしばたいた。相変わらず、太陽は後光のように彼女を眩しくさせていた。
 怜苑はにへらと笑って、沸き起こる感情を誤魔化した。

 こうなることを、怜苑はどこかで分かっていた。
 ロゼリィはいつも彼らから一歩引いて笑っていた。普通の人間とは違う空気を、彼女は常にまとっているのだ。
 愛だとか性欲だとか、そういうものから卓越していて、次元を超えたような存在だと、怜苑はそんな気がしていた。彼女の落ち着きも美しさもそこから生まれているのかもしれない。

 きっとそれは、彼女が人間ではないからなのだろう。人間は異質なものを嫌悪し、恐怖する。そしてそれは、知らないあいだに畏怖となり、尊敬になる。地球で信じられていた神と同じだ。
 人間を脅かす自然を美しいと思うのは、自然が人間と全く違うからだ。人間の力の及ばない次元に存在しているからだ。

 きっとロゼリィもそうなのだ。

 彼女が人間ではないから、
 ──人間から一番離れたところにいるから、
 ────惹かれたのだ。


 平然を装って、怜苑は返事をした。

「うん、大丈夫。知っていたよ。ごめんな」
「こちらこそ申し訳ないですわ。この容姿のせいか、好かれることは多いんですの。聖女のようだと言われるので、嬉しいのですけどね……」
「たしかにロゼリィは聖女みたいだよ。俺とは全然違う。なんか、愛の結晶そのものって感じがするくらいだ」

 怜苑がそう言うと、ロゼリィはパアァっと顔を輝かせた。本当に喜んでいるようだ。怜苑は言葉を続ける。

「ロゼリィもさ……エルフみたいな感じなのか? エルフは愛を育めないだろ。全ての中庸ちゅうようを成す者だから。誰かのことを特別に愛せないって」
「そうですわね。ある意味、同じなのかもしれません。わたくしたちは、彼らと同じくらい、孤独なのですよ」

 彼女の陶器のような顔に、小さな寂しさが浮かぶ。だが本当に寂しいと思っているのかどうか、よく分からなかった。

 ロゼリィの使族はたしかに孤独であった。人間に近いように見えて、遠いのだ。人間の感情から生まれたのに、人間から一番遠くあらねばならない。そんな使命のようなものを、彼らは背負っていた。
 ロゼリィたちは一生人間とは相容れない存在だ。人間が人間である限り、彼らは彼らであり続ける。彼らは一生、その性質を背負って生きていくしかないのだ。


 ロゼリィは祭服をひるがえして、怜苑の元から去った。怜苑は今度こそ、彼女を引き止めはしなかった。
 彼女は自分の手の届かない、と、そう自分に言い聞かせて──。

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