僕は平凡を投げ捨てた

まさかミケ猫

僕は平凡を投げ捨てた

 白い天井を見上げていた。
 ぼんやりした頭。力の入らない手足。しばらく寝返りを打っていないのか、背中が痛い。
 ‎俺は何してたんだっけ。

「まこちゃん! 目が覚めたのね!」

 聞き慣れた母さんの声。
 ‎まったく、俺のことを『ちゃん』付けで呼ぶんじゃねぇって、いつも言ってんのに。
 ‎文句を言おうと、顔を右に向け──。

「いっ!?」

 首に激痛が走った。
 感覚の戻ってきた右手で首を触ると、何やら硬いものでグルリと固定されているようだ。これはギブスだろうか。

「無理しないで、まこちゃん。あなた事故から一ヶ月も寝ていたのよ」

 事故。
 ‎母さんの口からでたその単語が、俺の記憶を一瞬で叩き起こした。背中に不快な汗をかく。

 俺は平凡な日常に飽きていた。
 ‎低身長の普通顔。頭も悪いし運動もできない。幼馴染にはイケメンの彼氏ができ、俺はひたすら右手で下半身を慰める日々。
 ‎そんな時、友達の勧めでラノベを読んだ。トラックで轢かれた少年が異世界でハーレムを築く夢のような小説。そんなこと現実にはありえないと思いつつ、強く憧れた。

 衝動的。
 ‎学校から帰る途中、俺は気がついたら車道に飛び出していた。


 ピ、ピ、ピ。
 ‎聞こえるのは無機質な電子音と、母さんが漏らす小さな嗚咽のみ。母さんは俺の右手をガッシリと掴んで離してくれない。
 ‎俺はただ天井を見ているしかなかった。

 しばらく時が過ぎた。
 ‎母さんに心配をかけたのは悪かったけど、そろそろ右手を自由にしてくれないかな。
 ‎
 ‎そんなことを思っていると、にわかに廊下が騒がしくなった。俺は耳を澄まして廊下の音を拾う。
 ‎女の人の声が響いた。

『教えてください、お願いします! お願いします! あの日、何があったんですか。お願いですから──』

 廊下から聞こえる悲痛な叫び声。
 ‎胸を締め付けるような声色で何やら必死に訴えているようだ。一体何があったんだろう。

「ちっ、またあの女……」
「え?」
「気にしなくていいのよ」

 母さんは俺の頭をゆっくり撫でる。

「まこちゃんを轢いた運転手の奥さんがね、しつこくまとわりついて来るの。夫が死んだ原因を知りたい、とか言って」

 死んだ……?
 ‎トラックの運転手が、死んだのか。
 ‎ぼんやりした記憶の中から、必死にハンドルを切るおじさんの顔が浮かぶ。俺は一瞬息の仕方を忘れた。心臓がドクドク脈打って、体が震える。

「あの女、生まれたばかりの赤ん坊を抱えてやってきてね。同情を引いて、慰謝料を減額しようとしてるんだわ。意地汚い。あぁ、嫌らしい──」

 母さん?
 俺はゆっくりと体を傾け、顔を母さんの方へと向ける。ボサボサの髪、血走った目。記憶の中の優しかった面影はなりを潜め、一気に年を取ったように深いシワが刻まれていた。
 ‎母さんって……こんな顔してたっけ。

「警察も役に立たないわね。ちょっと黙らせてくるから待ってて」

 母さんは優しそうな笑みを浮かべると、俺の手を離して席を立った。扉へと向かう後ろ姿には勇ましく力が入っている。
 ‎それなのに、なんだかとても小さくて、泣き出しそうな背中に見えた。

「ふぁはん(母さん)」

 呼び止めようとするが、口がうまく動かない。母さんは振り返ってもう一度微笑むと、静かに扉を閉じた。


 だんだんと頭ははっきりしてきた。
 ‎それにつれて、俺は自分の体の異常を自覚する。

 左手の感覚がない。
 ‎唯一動く右手でまさぐると、一応ちゃんと付いてはいる。だけど、力を入れることも動かすことも全くできない。

 下半身の感覚がない。
 ‎足は付いているけど、左手と同じく動かすことができない。触っても全くなにも感じないし──。

 ハッとする。
 ‎俺は右手で自分のペニスを触る。

「嘘だろ……」

 左手や足と同じ状態だった。

 焦燥。
 ‎俺は右手を動かす。
 いつものように幼馴染の顔を思い浮かべるけれど、気持ちがうまく乗らない。こんなことってあるかよ。

「はてよ(立てよ)……」

 口もうまく動かない。
 ‎顔の左半分の感覚もないのだ。

 きっと焦っているんだ。今は気分が乗らないだけだ。心の中でそんな虚しい言い訳をしながら、右手を動かす。
 ‎頼む。お願いだ。頼むから……。

「はってふえお(立ってくれよ)」

 何も感じない。反応しない。

 嘘だろ。
 ‎俺、セックス……一生……。
 ‎頭の中が真っ白になる。

「あ……うぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああ」


 気がつくと、俺の横に男が立っていた。出で立ちを見るに、医者だろう。

 ‎気の毒そうな表情。
 ‎それだけで十分だった。

 ‎俺は微かな望みも残っていないことを悟った。目の前が真っ暗になり、世界は色を無くした。

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