桐島記憶堂

ぽた

6.二転、三転

「相談……僕に?」

「えぇ」

 お兄さんは見た目に似合った眼鏡を直す動作と共に頷いた。
 そして何を言われるのかと身構える僕に、しかしお兄さんは「はぁ」と溜息を吐いて、未成年者を夜遅くまで引っ張るのは大人としてどうなのかと自問自答すると、出て来た結論は明日の日曜にまた呼び出すということだった。

 何も返さないでいる僕に連絡先の入った名刺を渡すだけ渡して、その日はさっさと帰って行ってしまった。

「何だ……?」

 一人取り残された僕は、ゆっくりと去っていく彼の背中をただ見送るばかり。
 どうしてだろう、そういうことであればすぐ近くなので家に招き入れれば良かったとも思うのだけれど、どうにも身体が動かなかった。
 桐島さんの話を聞いた後であるからか、反射的に彼を敵対視しているのかも知れない。
 僕にとって桐島さんが特別善人で味方だというわけではないのだけれど、言葉限りで判断するならば、彼は人の努力を何とも思わないような非情者だ。
 あまり関わりたくない、というのが本音だった。

 直ぐに捨ててしまっても良かったが、後に報復でもされたら嫌だから、とりあえず登録だけして空メールを送っておいた。
 やることはやっておいたから言い訳は成る。僕だと気付かず削除してくれたら、一番いいんだけどな。

「はぁ……」

 葵のカレーの味、忘れちゃったな。



 家につくと疲れが一気に襲ってきて、僕は倒れ込むようにしてベッドに潜り込んだ。
 着替えてもいない、歯も磨いていない、電気も消していない。
 身の回りのことの一切をほったらかして、とりあえずスマホだけ充電器に繋いだ。

 天井の木目を数えていると、次第に眠気も襲って来た。
 少しずつ、少しずつ、抵抗することなく力の抜けていく瞼が下がってくる。

(あ、やば、これ寝――)

 と意識が途切れかけた瞬間だった。
 不意に鳴り響くスマホ。
 昼の繰り返しのように、それは遥さんからの着信だった。

 強制的に覚醒させられた意識で起き上がって通話ボタンをタップすると、同時に遥さんの元気な声が聞こえて来た。

『おーまこと、悪いな今日は』

「何ですか改めて」

『いやな、葵がお前の連絡先表示したまま固まってたもんだからよ、無理やり俺から繋いで、今から葵に代わるとこだ』

 葵が?
 何だろう、忘れ物でもしたのかな。

『ちょ、誰もかけてくれなんて言ってな――』

『ほい、葵』

「遥さん…!?」

 これはやばい。
 遥さん相手だったから少し気の抜けた声で出たが、葵にこれを聞かれてしまうと変に気を遣わわせてしまいかねない。
 
 しかし確実に投げて渡されたそれは、既に葵の手に渡っているわけで、

『えっと……まこと?』

 薄っすらと、スマホから葵の声が響いて来た。
 恐る恐る僕もそれを耳元に近付け、何とか声を出す。

「も、もしもし」

『良かった、出た。あ、その、ごめんね、勝手に兄貴が』

「あぁいや、それは別にいいんだけれど……どうしたの? 用事あった?」

『そうじゃなくてね、えっと……今日のこと、改めてと思って』

 今日のこと?
 駆けつけの家庭教師の話だろうか。

「全然。言った通り、葵の飲み込みあっての――」

『違う、料理の…!』

「料理?」

 料理と言えば、葵が振舞ってくれるから待っとけと言われ、そうしていたら指先を切って――と、あのことだったのか。
 それは別に、もう何度も気にするなと言っているのに。
 律儀さと通り越し、これでは感謝の権化だな。

「見た感じ、縫う程の怪我じゃないけれど、絶対安静は守ってね。開いたりしたらいけないから」

『うん、ありがとう……それと、手伝わせてごめん』

「ごめんは言いっこなしかな。僕が勝手にやったことだし。それに、葵の言葉を借りるなら”ごめん”と”ありがとう”を一緒に置かれるのは、僕としてもちょっと嫌かな」

 それは以前、僕が葵に言われたことだ。
 一緒に置かれるのは嫌だから、どっちかにしてくれ、と。

 自分で言ったことは葵もちゃんと覚えていて、くすりと少し笑うと、

『ありがと、まこと』

「どういたしまして。お大事にね」

『うん。おやすみなさい』

「おやすみ」

 僕の言葉を最後に、通話が切れた。
 葵と話したことで少し忘れかけていたカレーの旨味を思い出すと、少し幸せな気分になった。

 すっかり清明になっていた意識と高揚感のままにささっとシャワーを浴びて、身体と髪を手早く乾かすと再びベッドにダイブ。今度は逆に、帰りがけに桐島さんの兄に出会ってしまったことを忘れていた。
 そんなことよりも、わざわざ電話で葵と話せたことが、葵に礼を言われたことの方が大きくて、相談事なんてどうでも良くなっていたのだ。

 こう言っては我ながら気持ちが悪いのだけれど、今はその声が聴けるだけで気分が高鳴る。
 高々一ヶ月会っていなかっただけで、葵の言ったように少し緊張度は高くなっていた。言ってみればまだ会って一年も経っていないというのに、それだけ葵の事を考える時間が増えていた。
 以前の僕には考えられなかったことだ。
 これはある種、一つの成長と言ってもいいのだろう。

「って、これじゃあ本当に気持ち悪いな」

 乙女でもあるまいし。

 と、不意にスマホが新着メールを知らせる音を鳴らした。

 ふわふわと浮ついた心地はここまで。
 少し現実に戻って、スマホを再び開いてみた。

『新着メッセージ一件:桐島きりしま修一しゅういち

 名前から、お堅い知的な印象だな。
 偏見でものを考える己の脳は無視して、僕はそのままメッセージを開いた

『ご登録、どうも。
 早速と本題なのですが、明日は空いておられますでしょうか?
 もし空いてるようなら午後の三時頃、この場所に』

 文面は至ってシンプルでそれだけ。
 最下段に、位置情報のスクリーンショット画像が添付されていた。
 名に見覚えは無かったけれど、どうやらここからはそう近くない様子。どうしてまた、呼び出す側が僕を歩かせるのだろうか。
 今からでは分かりもしないその理由を探し始めると、また、少し、の怒りを覚えた。

 しかし、僕も意外と馬鹿なもので。
 メッセージアプリと違って、受け取った側の人間がそれを呼んだかどうかは分からないメールは、見なかったフリをして無視しても構わなかったのだけれど、僕はそれでもし桐島さんに何か伝わってしまってはあれだと思い、馬鹿正直に返信をしようと文字を打ち込んでいた。
 桐島さんのあの態度を鑑みると、そんな筈は万に一ない筈なのに。

『分かりました。話はそこで』

 素っ気なく最低限伝わる文字だけ打って、送信。
 思いがけず漏れた深い溜息は、どこへ逃げるでもなく、狭い部屋の空気に溶けて消えた。

―――

 さて。
 そうしてやってきたはいいのだけれど。

「ここ――」

 桐島兄に指定された場所。
 そこは先日、桐島さんとディナーに訪れたお洒落なカフェレストランだった。

「何だってまた、こんな所に……嫌がらせのつもりか?」

 まさか見られていた筈はないと思う半面、桐島さんの『下手をすればあのまま朝まで動かない』という言葉を思い出すと、それもまたあったのではないかと思えて背筋が凍った。

 行きたくない、上がりたくないと願う心とは反対に、両足はしっかりと階段を上がっていく。
 一つずつ、一つずつ、確実に。

 そうして上り切ってしまうと、桐島さんに連れられてやってきた時とは違う色味の店が目に入って来た。
 夕闇の中に灯るライトではなく、晴れ間に覗く太陽に照らされたお洒落な外装は、どうせなら桐島さんか葵と来たかったものだと思わせる。

 恐る恐ると店内に踏み込んだ一歩に、一番奥の席に座るスーツの男性が手を挙げた。
 誰あろう、桐島さんの兄だ。

 姿まで確認されて目も合ってしまっては、もう退くことは出来ない。
 覚悟を決め、そちらへと歩く他なかった。

「時間丁度、ですね。わざわざすいません」

「これでも大学生ですから。それで、相談とは?」

「……えぇ」

 お兄さんはどこか煮え切らない様子。
 一方的ではあるが少し苦手なこの人。僕としては、早いところ話を終えて帰りたいところではあった。

「いや、その前に何か頼みましょう」

 そう言って、本題に入る前にお兄さんは店員を呼んだ。
 僕の存在など、あってないようなものだった。
 注文受付表を手にやって来た店員にお兄さんは、

「フェットゥチーネ、あときのこのチャウダー。デザートに抹茶のフォンダンショコラ」

「…………!?」

「以上ですね。かしこまりました」

 注文を受けるなり、その場を後にする店員。
 前回来た時とは異なり、若くて美人な人だったが――そんなこと、どうでも良くなるくらいの衝撃が僕を襲っていた。

 口を開け、そのまま固まる僕。
 そこに、お兄さんが頬杖をついて口を開いた。

「さぁ神前さん、注文した品が届くまでに時間があります。少しお楽しみと行きましょうか」

 何を――

「今注文した品の中で、私が食べたい物はどれでしょうか」

 ちょっと待て――

「ヒントは二つ。私は嘘を吐きません。そして、ストレスが溜まっています」

 ふざけるな。それは――

「制限時間は、品が運ばれて来るまで。それではよーい――」

「……答えはデザートだろ」

 僕は吐き捨てるように言った。
 どうしてこの場所で、このタイミングで、そのことを知っていて、今僕に問うているのか。
 単純な疑問として、また単純な苛立ちとして、僕はお兄さんを睨みつけた。

「ストレッスドを逆読みした言葉遊び。どうして貴方が、それを知っているんです…!」

 僕の問いに、お兄さんは溜息を吐いて答えた。

「藍に倒語を教えたのは、他でもないこの私だからです」

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