桐島記憶堂

ぽた

4.散歩と

 朝食を摂り終えると、桐島さんの当初の目的である”取材”をするため、早くからヴェネツィアの街に繰り出していた。
 二日目の今日、回りたいところは沢山あるからと誘われた。
 別に一人にするもりもなかったけれど。

「溜息橋です」

 桐島さんがカメラを構えるは、昨日訪れたサンマルコ広場はドゥカーレ宮殿南の”ポンテ・パリア”に出た所にある溜息橋。
 ドゥカーレ宮殿の裏側、川を挟んで尋問室と牢獄を結んでいる、格子戸つきの橋だ。
 捕らえられた囚人が投獄される際にこの橋を渡った。その最期の瞬間に、ヴェネツィアの景色を見て、美しいこの世の世界との別れを惜しんで溜息を吐いたことが、名前の由来だとされている。
 地元民曰く、恋人がこの橋の下でゴンドラに乗ってキスをすると永遠の愛が約束されるという言い伝えまであるのだとか。
 発端を知っていれば、少し心も痛む話だ。

「綺麗な話ですね」

 と、真正面から一枚シャッターを切った桐島さんが、カメラを降ろしながら言う。

「恋人の噂ですか?」

「いいえ、元の話の方です」

「囚人の?」

「ええ。故意にせよ過失にせよ、その生涯の最期だけでもこの景観に目を向けられるのは、とても素晴らしいことだとは思いませんか?」

「と、言いますと?」

「私は思うのです。溜息の意味は、どうしてこんなことをしてしまったのだろう、やらなければよかった、といったものかと。この美しい街をよくよく眺めて心を落ち着けていればと、そんなことを考えて、つい深い息が漏れてしまったのではないかと」

「それは――」

 歴史上、ここで溜息を吐いた本人たちに確認しなければ分からないことだ。あくまで推論、想像上の話。
 けれど――そうであるなら、どれほどいいか。
 囚人たちがこの街に、最低でも一度は目を向けたということなのだから。
 どれほどの状況にいようとも、この景色を眺めることで、少しは心落ち着いて、穏やかな気持ちになれていたのではないだろうか。

 もっとも、そんな伝承それ自体がデマと言う話ではあるけれど。
 恋人云々といったものよりかは、よっぽど人間らしくて良い。

「次のスポットに参りましょうか」

「一枚で良いのですか?」

「一枚? 五枚ほどは撮りましたが」

 いつの間に、と思った刹那、桐島さんの手元を見ると、僕が自分で解説しておいた機能を思い出して納得した。
 バリアングル液晶の性質を大いに利用して、下げた手元で大人しく操作する指先が見えた。
 素敵な話が”ながら”だとは、流石というか、この場合少し失礼というか。
 満足したのならいいけれど。

 続いて連れていかれたのは、サンマルコ広場から約三百メートル程の所にあるサンタ・マリア・フォルモーザ広場。
 サン・マルコに次いで広い面積を持つここは、点々とカフェが存在し、野菜を売る商人がいたりと、ヴェネツィア市民の憩いの場となっている。
 中央に構えるサンタ・マリア・フォルモーザ教会の隣にある鐘楼は、余分な装飾はなくシンプルで、どっしりとしている。教会自体は、ヴェネツィア中に数多く存在する教会群の中でも、最も古い教会の一つで、こちらも豪華とは程遠い味気のないデザインだが、それは未だ下根気で使用されている為に実用性が第一に考えられているからだ。

 桐島さんが言うには、今日のメインはここ、フォルモーザ広場。
 気になるものがあって、それを是非とも写真に収めておきたいのだとか。

 ヴェネツィアには多くの教会が存在し、そのほとんどには鐘楼がある。そしてその鐘楼のドアの上には、しばしば顔の彫刻が見受けられる。
 それは時にグロテスクな見た目をしており、全てに共通し”悪魔を追い払う為”といった理由があるのだけれど――

 ここ、フォルモーザ教会の鐘楼が設ける扉、その上にある彫刻は中でも最もグロテスクな見た目をしており、前を通る観光客を驚かせている。
 ただグロテスクだと理由の他に、幾つか逸話やミステリーじみた話もあることから有名なのだ。

「夜になって悪魔が近付くと唸り声を上げる、実はこれが悪魔そのもの、目が動く――といった話がありますね」

「眉唾物ですけれどね。木彫りと同じ彫り物が、パーツだけ動くとは思えません」

「あら夢のない」

「現実的だと言って欲しい。どこかに証拠でもあれば、信じもしますよ」

 幽霊やオカルトだって似たようなものだ。

 どんな表情をしているのか気になって、ふと葵の方を見ると、

「殴られたみたい」

 との感想を漏らす顔は無表情。
 そう、グロテスクというのは、これがとても”歪んでいる”ことにある。
 左の瞼は大きなコブを作る程に腫れ、右目は白目をむいている。加えて口元も左に大きく歪み、その見た目はまさしく、誰かに殴られた絵をそのまま彫刻におこしたようだ。

 声や悪魔のオカルトと言えば、場所は随分と遠いところにある、ヴェネツィア発祥の地と言われるトルツェッロ島にも”悪魔の橋”なるものがある。
 まだオーストリアが支配していた時代、ある女性が一人の兵士と恋に落ちた。秘密で付き合うもやっぱり話さなくてはと家族に明かしたところ、兵士は殺されてしまう。
 悲しみ、行き場のない感情を胸に、女性はこの橋で魔女に助けを求めた。
 二人はここで兵士を世もが選らせ、見返りとして女性は七年に一度のクリスマスイヴに、死んだばかりの赤子を引き渡すことを約束させられてしまう。

 ――といった逸話があって、トルツェッロ島の運河に渡された橋には、死んだ赤子の魂を求め、よく悪魔が通うようになったらしい。
 九十年代の終わりから、イヴに幽霊の目撃情報が増えているらしいけれど、こちらも酔っ払いか見間違い、眉唾物だろう。

 などと思い出している僕の横で、桐島さんは好奇心を隠しきれていない表情。
 嫌な予感がしてならない。

 しかし、そうは言っても桐島さんが動かないことには始まらないわけで。

「あの、桐島さん?」

 控えめに聞くと、

「すいません、私、ここの謎がどうしても――」

 と言いかけた刹那。

『う、うぅ……うぅ…』

 と、僕でも桐島さんでも、まして葵でもない、女性の高い声が響いた。いや、女性というよりかは女の子といった方が適切か。 
 耳に届いた瞬間、桐島さんは無邪気に目を見開いて口元を緩めたが、これは――

 成熟しきっていない声帯から洩れたようなそれは、低くはならず、苦しく細くなっているだけ。丁度、小学校の祭りやイベントで有志のお化け屋敷に参加した、お化け役の女の子が出しているような、そんな未発達な声。

 とどのつまり、

「桐島さん」

 と、僕はスマホを取り出して文字を打つ。
 その短い簡単な文章をイタリア語に翻訳するよう頼んで、

「C'è qualcuno qui?」

 と、周囲に聞いてもらった。

 一秒、二秒、三秒。反応はない。
 もし誰かいて、丁寧にも僕らをターゲットに語り掛けていたのだとしたら、気付かれたことに動揺や何かしらの色が出て、アクションの一つでもあっていいものなのだけれど。
 これは勘違いだったか。

 いやしかし、途中で話をやめたということは、桐島さんにも聞こえていたということに――

『うぅ…』

 と、今度ははっきりと、教会の角を曲がったすぐの方から声がした。
 厄介事なら面倒なのでと慌てて走り、逃がさぬように角から顔を出し、

「そこ!」

「ひゃっ…!」

 少々強引に声を出すと、鬼は可愛い抵抗虚しく倒れ込んだ。

 数日前の葵のように尻もちをついたところを摩りながら、何やら小さく呟くのはイタリア語。
 飛び出しておいてあれだが、早くもここは選手交代だろうか。

 溜息を吐き、一度桐島さんに声をかけようと振り返った時、一瞬間だけ突風が巻き上がった。
 自然、両腕を顔を覆い保護をするのだが、そのすぐ後で――わなわなと小鹿のように震えていた少女が目の前に立ち、胸元程から僕を見上げていた。
 小さく華奢な体躯で支えられる顔の中心には、アンバランスとも言えるまでに大きく丸い、青色の瞳が揺らいでいる。
 が、どこか様子がおかしい。

 不思議そうに向けられたその瞳は真っ直ぐで、淀みがない。それだけなら何も不思議ではないのだけれど、少女の髪は、その一本に至る一切が、乱れていなかった。
 あの突風で、あの唐突な出来事に、髪を梳かす余裕はなかった筈なのに――と気付くや、様々な情報、その一つとして、桐島さんと葵までもが「何が起こった?」といった様子で僕を見ていることに気がついた。

「な、なにか…?」

 と問うた僕に、二人と追加で一人は、こちらが聞きたいのだけどと目で訴える。

 一先ずは状況の確認をしたいのだけれど、雰囲気は普通ではない。
 僕だけ、時間が切り取られたみたいに。

「え、っと……桐島さん、この女の子は一体…?」

「そうですね――Come si chiama?」

 少女の方に歩み寄り放たれた言葉は、昨夜ガイドブックを躍起になって頭に叩き込んだ甲斐あって、辛うじて「貴女の名前は?」と言っているのだと理解出来た。

 優しく穏やかにかけらた言葉に、しかし少女は首を傾げる。
 少しの間を置いて、咳払いを一つ。

「日本語、だいじょぶです」

 と語った。

 鈴の音のように澄んだ声を聞いた瞬間、通りにまた風が吹き抜けたように僕の胸を揺らす。
 直線的で、迷いのないその声音は、どこか――そう、何がとははっきりとしないのだけれど、どこか、言いようのない不安だけを残していった。

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