錫メッキ短編集

錫メッキ

夢に落ちる





私は寝る前に濃ゆいコーヒーを一杯だけ飲む。

コーヒーにはカフェインという成分が入っており、神経を興奮させる作用がある。

まぁ簡単に言うと、
睡眠の質を落とし眠りを浅くするからだ。

最近発見された深く眠ったまま起きない病気…
先日WHOで正式な名称が発表されたが【明晰夢症候群】という、
要するに深く眠ったまま起きられなくなる病気がある。

私の知り合いにも何人か症状を発症した人間がいた。
正直ショックだった。
明晰夢症候群を発症した知り合いの中には当時私が婚約していた女性もいたからだ。

彼女以外の知り合いの何人かに話を聞いてみたが全員、
最初はただの軽い睡眠不足だったらしい。

しかし眠る回数を重ねる毎に

「自分は今夢を見ている。」

という自覚があるのに眠りから起きられなくなっていく、
まさに明晰夢を見ていたようだった。

この話をした知り合い達はもう眠りに付いたまま全く起きる素振りを見せない。
…そして彼女も。

そして遂に、私も夢に落ちて出られなくなる夢をよく見るようになってしまった。

私はこの時初めて明晰夢を体験したが、
今まで体験したことの無い不思議な感覚だった。

しかも、覚えている夢の内容はとても楽しいと言えたものではなく、
寧ろ心に鉛を流しこんだようなドロリとした不安がある夢だ。

どちらが上か下かもわからない、
真っ暗な空間をひたすら落ちる夢。

暗闇をゆっくりと落ちていく私の体はピクリとも動かず、
ただこれが夢である事だけは何故かはっきりと理解できる。

その何もない暗闇の中を暫く落ちていくと、
突然私の目の前に目と口がポッカリと黒く塗りつぶされた彼女が目の前にスッと現れる。

彼女は体をゆらゆらと揺らしながら両手をこちらに向けて降り、嗤う。

動きは変則的だが規則的に振られた青白く細い両腕は「貴方もこちらにいらっしゃいよ」
とでも言っているようで、
彼女の見た目をした"何か"の歪て空虚な顔をを不思議と美しい、と感じてしまう。

しかし本当の彼女は三年前から寝たままで、今まで一度も起ていない。

「もしかしたら夢の中に現れる"何か"は本物の彼女なのかもしれない。」

と最近ふと思うようになった。

彼女はあまりに長く夢の中に浸っていたせいで夢に溶けてしまったのではないか、と。

夢の中で少しずつ私との距離が縮まっていく手を振る彼女を見ながら考える。
「私もいつかは夢に落ちて出てこれなくなるのだろうか。
そして彼女のように夢に溶けてそのまま無くなっていくのだろうか。」と。

私は最近、夢を見ることが怖い。

またあの不可解でいて、恐ろしくそして空虚で美しい彼女に会うことが怖い。
もしも次、彼女にあった現実に帰って来ることは無いのだろう。

前回夢を見たとき、彼女との距離はほんの3センチ程…
彼女の目の奥がはっきりと見えるくらいに近かった。

彼女の中には真っ暗な空洞しか無く、ニヤニヤと嗤う彼女の顔を見てやはり彼女はもういないのかと思った。

私は夢が怖い。
眠ることが怖い。
そして何より1度寝てしまったら起きられないことが1番怖い。

だから私は、今日もコーヒーを飲んで大嫌いな眠りにつく。




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