本日は性転ナリ。
85.降り止まぬ雨
足を進める度に心臓の鼓動が大きくなっていく。私は何を怖がっているんだろう。何に怯えているのだろう……。小刻みに震える指先をぎゅっと握って彩ちゃんの部屋のドアの前で立ち止まる。
「彩ちゃん……、お風呂ありがとねっ。入っていい?」
私がドア越しに声を掛けると、ドアノブがゆっくりと回り、静かに開いたドアの隙間から彩ちゃんが姿を現した。
「早かったのね」
私の安堵から生まれた笑みにも彩ちゃんは無表情のままだった。それを見て私には不安が押し寄せてくる。
「久しぶりだねっ」
そんな私の言葉にも彩ちゃんは"そうね"と答えただけ。明かりも点けず薄暗い部屋の中、彩ちゃんは部屋の中央に置かれた小さなテーブルの横へと腰を下ろす。そして私も彩ちゃんの横に座ろうと屈みつつ「今日は誘ってくれてあり……」そう言いかけた時だった。柔らかな衝撃と共に私の身体が床へと倒れたのだ。次に視界に映っていたのは薄暗い天井。そしてそれを遮るように彩ちゃんの顔が私の視界を満たした。
彩ちゃんの匂いに包まれた私の頬を彩ちゃんの髪が撫でる。彩ちゃんは私に覆い被さるようにして私をジッと見つめたまま動かなかった。そしてその瞳は視線を逸らせないほどに力強く、そして今にも泣き出してしまいそうなほど寂しげに見えた。
次の瞬間、私の視界が黒に覆われる。そして彩ちゃんの香りが強くなったかと思うと、私の唇に柔らかく……温かいものが優しく触れた。
私は突然のその行動に驚いて目を見開き、身体が強張ってしまう。でも私は遠くにいってしまったような気がしていた彩ちゃんからそうしてくれた事が嬉しく思えて、ゆっくりと瞼を閉じると床へとその身体を預けたのだった。
鼻に滑らかなものが擦れる。私の唇が柔らかなものに触れ、挟まれ、時に吸い上げられていく。戸惑いと恥じらい、嬉しさと罪悪感のようなものが入り混じり、身体が熱を増していくのを感じる。でも……、ふとした瞬間に私は微かな彩ちゃんの異変に気付き、覆い被さる小さな身体を引き寄せた。そして私が小刻みに震えているその背中をぎゅっと抱きしめると、私の耳元で小さな声が響いた。
「ごめんなさい……」
その彩ちゃんの声は震えていた。そしてそれと同時に私の顳顬(こめかみ)に温かいものがつうっと伝っていくのを感じた。
その瞬間、私は自分の軽率な行動に後悔をした。私は彩ちゃんの気持ちなどこれっぽっちも考えていなかった。ただ彩ちゃんの行為から嫌われていなかったのだと安心し、安易な考えのまま応じただけではないのか。何故彩ちゃんがあんな事をしたのか。何を想い、何を求めていたのか。
その真意は分からないけど、私が自分のことばかり考えていたのは明白だった。
彩ちゃんは私にぎゅっと抱きついたまま私の横へと顔を埋(うず)めている。
自責を感じている場合では無い。私は彩ちゃんの頭を撫でながら"どうしたの?"と優しく訊ねた。そして彩ちゃんは何度も鼻を啜りながらもそっと口を開き、掠れたような小さな声で答えた。
「私……、酷いことをしたわ。衣瑠の事が好きで堪らないのに」
私は"今の事?"と思いつつも小さく相槌を打って"うん、それで?"と囁き言葉を待った。
「私は時々自分が分からなくなる……。自分が自分でないような、思ってもいない事を口にしてしまったり行動に移してしまったり」
もう一人の"アヤ"の事だ、そう思った。あの動物園での出来事も……、とも。彩ちゃんは自分の意識がありながらも身体は"アヤ"に支配されていたっていう事なんだろうか。
そして私の服を握る手に力が入り、彩ちゃんが頬が私の頬に触れた。
「私は衣瑠が好き。だけど私が本当にそう思っているのか信じられなくなる時があるの」
私は黙ったまま頷き、彩ちゃんの髪を撫でた。静まり返った部屋の中、降り注ぐ雨音が強くなった。まるで彩ちゃんの心を投影しているみたいに。
「私が私で無くなる。そんな事が時々あるの」
「それってもう一人のアヤちゃん……の事だよね」
私がそう言うと彩ちゃんは小さく頷いた。
「アヤは……、唯一の理解者。そして私が一番嫌いなトコロ」
「一番嫌いな……ところ?」
その表現に私は違和感を感じた。私は自分なりに調べて彩ちゃんが"解離性同一症"ではないかと思っていた。それには人格が入れ替わり、その様を傍目から見ているような"非憑依型"なるものもあると知った。それは彩ちゃんに重なるものがあるのだけれど、今の言葉から察するに"アヤ"は自分自身であり、嫌いな"一面"ということになる。それは"アヤ"が別人格では無いと認識しているともとれるし、単なる感情の起伏であるように聞こえる。でも彩ちゃんはその一時的な性格の変化を"アヤ"と呼んでいる……。もしかしたら彩ちゃんは"解離性同一症"というものでは無いのかもしれない。もちろん私も専門家じゃないからあくまでも推測でしかないのだけれど。
ただ、"アヤ"の存在はもっと複雑なものなのだという事実だけは分かった。
「そう。嫌いなトコロ……」
そう言うと彩ちゃんは私の胸へと手のひらを置いた。
「わかっているの。たとえアヤが私の意に反する事をしたってそれは私が望んでいる事だって。だってそうでしょ? 所詮私は私でしか無い。私がした事は私がしたかった事。私が衣瑠にした事だって……」
そう言うと彩ちゃんは溢れ出た涙で私の頬を濡らした。それなのに私は優しい言葉を掛けてあげることもできずに、震える肩を抱きしめてあげる事しかできなかった。
……雨音が更に強くなっている。部屋の中はすっかりと暗くなって窓の外から街灯の光が薄らと差し込んでいる。
「だから……」
長い沈黙の後、彩ちゃんは絞り出すような声でそう言って顔を上げた。
暗闇に彩ちゃんのシルエットが浮かび上がり、私に向かって垂れた長い髪が微かな光を遮る。
「短い間だったけど私の人生でいちばん幸せな時間を過ごせたわっ。ありがとう……衣瑠。大好きよ」
濃紺の世界に彩ちゃんの満面の笑みが微かに浮かぶ。……そしてその目元からは大粒の涙が私の頬へと零れた。
「彩ちゃん……、お風呂ありがとねっ。入っていい?」
私がドア越しに声を掛けると、ドアノブがゆっくりと回り、静かに開いたドアの隙間から彩ちゃんが姿を現した。
「早かったのね」
私の安堵から生まれた笑みにも彩ちゃんは無表情のままだった。それを見て私には不安が押し寄せてくる。
「久しぶりだねっ」
そんな私の言葉にも彩ちゃんは"そうね"と答えただけ。明かりも点けず薄暗い部屋の中、彩ちゃんは部屋の中央に置かれた小さなテーブルの横へと腰を下ろす。そして私も彩ちゃんの横に座ろうと屈みつつ「今日は誘ってくれてあり……」そう言いかけた時だった。柔らかな衝撃と共に私の身体が床へと倒れたのだ。次に視界に映っていたのは薄暗い天井。そしてそれを遮るように彩ちゃんの顔が私の視界を満たした。
彩ちゃんの匂いに包まれた私の頬を彩ちゃんの髪が撫でる。彩ちゃんは私に覆い被さるようにして私をジッと見つめたまま動かなかった。そしてその瞳は視線を逸らせないほどに力強く、そして今にも泣き出してしまいそうなほど寂しげに見えた。
次の瞬間、私の視界が黒に覆われる。そして彩ちゃんの香りが強くなったかと思うと、私の唇に柔らかく……温かいものが優しく触れた。
私は突然のその行動に驚いて目を見開き、身体が強張ってしまう。でも私は遠くにいってしまったような気がしていた彩ちゃんからそうしてくれた事が嬉しく思えて、ゆっくりと瞼を閉じると床へとその身体を預けたのだった。
鼻に滑らかなものが擦れる。私の唇が柔らかなものに触れ、挟まれ、時に吸い上げられていく。戸惑いと恥じらい、嬉しさと罪悪感のようなものが入り混じり、身体が熱を増していくのを感じる。でも……、ふとした瞬間に私は微かな彩ちゃんの異変に気付き、覆い被さる小さな身体を引き寄せた。そして私が小刻みに震えているその背中をぎゅっと抱きしめると、私の耳元で小さな声が響いた。
「ごめんなさい……」
その彩ちゃんの声は震えていた。そしてそれと同時に私の顳顬(こめかみ)に温かいものがつうっと伝っていくのを感じた。
その瞬間、私は自分の軽率な行動に後悔をした。私は彩ちゃんの気持ちなどこれっぽっちも考えていなかった。ただ彩ちゃんの行為から嫌われていなかったのだと安心し、安易な考えのまま応じただけではないのか。何故彩ちゃんがあんな事をしたのか。何を想い、何を求めていたのか。
その真意は分からないけど、私が自分のことばかり考えていたのは明白だった。
彩ちゃんは私にぎゅっと抱きついたまま私の横へと顔を埋(うず)めている。
自責を感じている場合では無い。私は彩ちゃんの頭を撫でながら"どうしたの?"と優しく訊ねた。そして彩ちゃんは何度も鼻を啜りながらもそっと口を開き、掠れたような小さな声で答えた。
「私……、酷いことをしたわ。衣瑠の事が好きで堪らないのに」
私は"今の事?"と思いつつも小さく相槌を打って"うん、それで?"と囁き言葉を待った。
「私は時々自分が分からなくなる……。自分が自分でないような、思ってもいない事を口にしてしまったり行動に移してしまったり」
もう一人の"アヤ"の事だ、そう思った。あの動物園での出来事も……、とも。彩ちゃんは自分の意識がありながらも身体は"アヤ"に支配されていたっていう事なんだろうか。
そして私の服を握る手に力が入り、彩ちゃんが頬が私の頬に触れた。
「私は衣瑠が好き。だけど私が本当にそう思っているのか信じられなくなる時があるの」
私は黙ったまま頷き、彩ちゃんの髪を撫でた。静まり返った部屋の中、降り注ぐ雨音が強くなった。まるで彩ちゃんの心を投影しているみたいに。
「私が私で無くなる。そんな事が時々あるの」
「それってもう一人のアヤちゃん……の事だよね」
私がそう言うと彩ちゃんは小さく頷いた。
「アヤは……、唯一の理解者。そして私が一番嫌いなトコロ」
「一番嫌いな……ところ?」
その表現に私は違和感を感じた。私は自分なりに調べて彩ちゃんが"解離性同一症"ではないかと思っていた。それには人格が入れ替わり、その様を傍目から見ているような"非憑依型"なるものもあると知った。それは彩ちゃんに重なるものがあるのだけれど、今の言葉から察するに"アヤ"は自分自身であり、嫌いな"一面"ということになる。それは"アヤ"が別人格では無いと認識しているともとれるし、単なる感情の起伏であるように聞こえる。でも彩ちゃんはその一時的な性格の変化を"アヤ"と呼んでいる……。もしかしたら彩ちゃんは"解離性同一症"というものでは無いのかもしれない。もちろん私も専門家じゃないからあくまでも推測でしかないのだけれど。
ただ、"アヤ"の存在はもっと複雑なものなのだという事実だけは分かった。
「そう。嫌いなトコロ……」
そう言うと彩ちゃんは私の胸へと手のひらを置いた。
「わかっているの。たとえアヤが私の意に反する事をしたってそれは私が望んでいる事だって。だってそうでしょ? 所詮私は私でしか無い。私がした事は私がしたかった事。私が衣瑠にした事だって……」
そう言うと彩ちゃんは溢れ出た涙で私の頬を濡らした。それなのに私は優しい言葉を掛けてあげることもできずに、震える肩を抱きしめてあげる事しかできなかった。
……雨音が更に強くなっている。部屋の中はすっかりと暗くなって窓の外から街灯の光が薄らと差し込んでいる。
「だから……」
長い沈黙の後、彩ちゃんは絞り出すような声でそう言って顔を上げた。
暗闇に彩ちゃんのシルエットが浮かび上がり、私に向かって垂れた長い髪が微かな光を遮る。
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