79.華を見て花を見ず

　……風が少しひんやりとしたものへと変わり、花見客で埋め尽くされていた広場が不規則な市松模様みたいになった頃、すっかり熟睡してしまっていた二人がようやく目を覚ました。と言ってもそれは痺れを切らした麗美がすやすやと寝息を立てていた二人の頬をこれでもかと叩いたからであって、肝心の莉結は未だにその寝顔を私の膝下へと伏したままだ。
　それから、起きた二人が落ち着くのを待ってから先程の事の真相を聞くと、少し考える素振りをしてから莉結を見て、こんな事態で済んだのは莉結のお陰なのだと二人が言った。そこでどう言うことかと詳細を訊ねた私に、表情を強張らせながらも二人はそっと口を開いてくれた。
　なんでも私たちがこの場所を離れてすぐ、突然男たちがやってきて許可も無くこのシートへと上がると座っていた美穂と佳奈に絡みだしたのだそうだ。そして警戒する二人の横に図々しくも腰を降ろした男たちは、変な掛け声と共にその手に持った紙コップを無理矢理に口へと押し付けだしたという。そこで少し離れて座っていた莉結がすぐに止めに入ってくれたそうなのだが、男たちはそんな莉結に対して、"じゃあこのコップの中の飲み物を一気飲み出来たら大人しくこの場を去ってやるよ"なんて提案をしたそうなのだ。そんな常識の無い人間の言う事なんて信用できそうにないけど、それに対して莉結はいつものように強気に言い返す事はせず、二つ返事でその怪しい提案を飲んだらしい。それはきっと初めて顔を合わせた二人が居るこの状況で話をややこしくするよりも、平和的に解決した方が周りに迷惑も掛けず穏便に済ませる事ができる、という判断だったのかな、と私はいつの間にか莉結が大人になっていた事に感心した。だけどそれから莉結は言葉の通り躊躇いもなく一気にコップの中身を飲み干したというのだ。もちろんその中身が酒だと知っていればさすがの莉結もその条件をのまずに有無も言わさずその合気道の実力を行使したはずだ。だから躊躇いもなく一気したという事は、たぶんその紙コップの中身がただのジュースか何かだと思っていたに違いないのだ。私がそう確信するのにも理由があって、過去に莉結から聞いた話の中に"とある友達"が部活の先輩との何かの勝負に負けて"ジュースを一気飲みしろ"と強要されている所を見掛け、代わりに一気飲みして助けたのだという話と重なったからだ。その時は"てかそれ助ける必要あった？　たかがジュースの一気飲みなんだから逆に迷惑だったんじゃね？"なんて揶揄するような事を言ってしまったけど、たかがジュースを飲まされるという状況でも実際にはその友達が本当に困っているように見えたからこその行動だったのかな、と今更になって反省する。
　それに非行グループとの接点が無い莉結からすれば、見るからに未成年者であるその男たちが酒を飲ませてくるなんて夢にも思っていなかったと思うし、先に述べたようにそういった悪ノリに近いものなのだと勘違いしたんじゃないかと思えた。
　まんまと男たちの策略にハマった莉結は、それを一口飲んだ時点でその中身の正体に気付いたであろうに、今更引けないとでも思ったのか咽(む)せそうになりながらもそれを堪えて一気に飲み干すと、空になった紙コップを男たちに突き出したという。だがその手が紙コップを握りしめたままゆっくりと下へと落ちていき、二人が異変に気付いた時には顔は真っ赤に染めあがり、次の瞬間には電池が切れたかのように首の力が抜けたかと思うとそのまま下を向いたまま黙り込んでしまったそうなのだ。　
　それを見た二人は慌てて駆け寄ろうとしたそうなのだけれど、それを遮るように男の腕が行く手を塞ぎ、その男が不気味に笑ってこう言ったという。"次はお前らな"と。
　その理不尽な言葉に美穂は勇気を出して"話が違う"と抗議したそうなのだけれど、無言のまま鋭い目付きで睨みつけられてしまい、そこからは恐怖が勝って言う事を聞かざるを得なかったのだという。それを話している美穂が涙目になっていた事からも、その恐怖は相当なものだったんだと思う。声は微かに震え、麗美の腕に縋り付くような姿の美穂が不憫でならない。
　そして美穂と佳奈は最後の力を振り絞るように口を開いた。それからは言われるがままに紙コップの中身を無理矢理飲みこむと、その匂いと不思議な感覚に気持ち悪さと目眩が襲い、男たちの笑い声が頭の中に鳴り響くのを感じながらも段々と意識が薄れていって……、あとはうろ覚えなのだと。そして二人は自分の不甲斐無さを恥じるように小さな声で謝ったのだった。

「私が居たら逆にその男たちを酔い潰させてやったのに」

　麗美が突然そんな事を言って笑い飛ばした。私には空気が読めていないようにしか感じられなかった。しかし場の重い空気も一緒に吹き飛ばしてしまったみたいにその言葉で二人の表情が緩んだのだ。

「麗美は居なかったから分かんないよ。めっちゃ怖かったもん」

　そう言った佳奈も口元には笑みが戻っていた。

「美穂と佳奈は乙女だもんなっ。もう私から離れちゃダメだぞっ」

「いやいや、麗美こそ心配なんだけどっ」

　たったそれだけの会話で二人に笑顔が戻っていた。それは長年の連れ合いの仲だからなのか、麗美の不思議な力によるものなんだろうか。それでもやっぱり私は麗美のセンスというのか、その生まれ持った性格が大きく影響しているのだと思う。だって莉結と私も長年の付き合いになるけど、私が麗美みたいに上手く空気を変えられるかといったら答えはノーだから。
　すると私の膝下へと視線を向けた麗美が優しく微笑んでこう言った。

「ほんと可愛いよね。衣瑠ちゃんが惚れるのも頷けちゃうよ」

　私はつい"そうだね"なんて答えそうになったけど慌てて「別に可愛くなんかないしっ」と言い換えた。すると麗美はそれを聞いて他の二人にアイコンタクトをとると、三人揃って意味有り気な笑みを浮かべたのだ。

「何っ、今の！」

　それは私の事を言っているのだとすぐに分かった。別に私は変な事なんて言っていない……はずだ。すると今まで静かに話を聞いていただけの稚華さんまでもが「今のは分かりやすいよっ」と私を茶化したのだ。
　"分かりやすい"の意味が分からない。だって私は"別に可愛くない"と言っただけだし、幼馴染だからって"可愛い"って認めなきゃいけないなんて事も無いはずなのに。
　私が"答え合わせ"に必死になっていると、麗美が"ねぇ"と私を呼んだ。そしてわざとらしく視線を上に向け、下唇へと人差し指を当てながらこんな事を言い出したのだ。

「そろそろキスでお姫様を起こしてあげる時間なんじゃない？」

　麗美がそんな事を言ったせいで、変に莉結を意識し始めてしまう。よくよく考えれば膝枕なんて恥ずかしい事をごく自然な流れでやってしまっていた自分が信じられない。今もなお膝下で静かに寝息を立てる莉結の透き通った頬には艶やかな髪が疎らにかかり微風に揺れていた。そしてその髪の隙間からは潤った桜色の唇がひっそりと煌めいている。

「ちょっと、まじまじ見過ぎっ！　こっちが照れちゃうよっ」

　そんな麗美の声に私は慌てて視線を逸らした。"キスしてお姫様を……"と麗美の言葉が脳裏に過ぎる。"別にそんな事しようとなんて思ってない"そう自分に言い聞かせているのに高鳴る胸の鼓動は収まることなく規則的なリズムを伝えてくる。

　"麗美が変なこと言うからだ"

　私はそうやって無理矢理に自分を納得させた。そしていつの間にか莉結の肩へと置いていた自分の手のひらが視界に映って、それが見つからないようにゆっくりと後ろに隠すと、私は思い出したかのように頭上に広がる満開の桜の花へと視線を移したのだった。

「それじゃぁ私がキスしちゃおっかな。衣瑠ちゃんとっ」

　やっと心を落ち着かせることができると思っていたのに、麗美がまた突拍子のない事を言い出した。驚いた私は眉を顰めて麗美を見る。しかし麗美は相変わらず悪戯な笑みは浮かべていたけど、何故かその視線は私ではなく莉結に向けられていた。そしてその視線が麗美だけでなくみんなの視線も同じ方向に向けられていると気付いた時……。

「はいっ、時間切れっ」

　麗美が両手を合わせて乾いた音が響くと、ゆっくりとその身体を私の横へと移しだす。ひんやりとした風に甘い香りが混じり、麗美の長い髪が私の肩へと触れる。

「それじゃぁ……」

　そう言って麗美がおもむろに瞼を閉じた。私は大きく鼓動する心臓と裏腹に微動だにもできずにゆっくりと私へと近づいてくる麗美の唇から視線を離せずにいた。
　"どうしよう、どうする？　このままじゃ……"
　その時、突然下の方から手が伸びてきて麗美の唇と私との間に割り入った。その手に当たったのか、麗美の口から"むにゃ"と力の抜けた声が漏れる。

「セーフっ」

　すると周りからそんな声が上がり、私は訳も分からず呆然と辺りを見回す。そこには先程まで暗い顔をしていた二人が別人のように笑顔ではしゃぎ、稚華さんも私の方を見て微笑んでいる。そして肝心の麗美はというと……、何故か少しぎこちない笑顔で私を見つめていた。
　すると不意に私の視界にふわりと何かが映り込んだ。それは風を含むように放物線を描き、私の前へと舞い落ちる。同時に胸を落ち着かせるような優しい香りが私を包みこんだ。そして次に私の目に映ったのはその髪を靡かせながら振り向く莉結の姿。

「えっ……、あ、おはよ」

　目前の出来事への理解が追いつく前に私の口からそんな言葉が出ていた。しかし私を見る莉結の表情は何故だか怒っているような、拗ねているようなそういったものだった。

「お・は・よ・うっ！」

　莉結はわざとらしく低い声でそう言うと、ひょいと身軽に立ち上がって私の正面に居た美穂の横へと足を進めていく。何をそんなに怒っているのか私には理解できない。もし怒っていないんだとしても起きて早々この態度は如何なものか。こっちは恥ずかしい思いをしながら膝枕までしてあげてたっていうのに。そんな事を思いつつ莉結の背中を目で追っていると、横から麗美の小さな溜め息が聞こえた。それになんとなく目を遣った私はその麗美の姿に違和感を覚えた。何故なら麗美が薄く開いた目でシートの一点を見つめ、仄かに頬を染めていたからだ。莉結といい麗美といい、やっぱり女ってのは今一よく分からない生き物なのだと改めて女の思考ってやつの難しさを考えさせられたのだった。
　それからまたみんなで今日の出来事についての話をしているうちに、いつの間にか莉結も麗美もいつも通りに戻っていて、私の中で"女は気分屋なのだ"という結論に辿り着く。"女は"なんて一括りにしたら怒られるかも知れないけど……、"今の私も含めて"女は気分屋だと思うのだ。
　……辺りを取り囲む桜たちみたいに話の花を咲き乱した私たち。ひゅうと吹き抜けた風に舞った花弁を視線で追うと、桜の樹々の形影が私の目に映る。

　"もうこんな時間かぁ"

　夕陽を背にくっきりと浮き出た桜の樹々のシルエットが何ともいえない情緒を感じる。
　"形影相同"。ふとそんな言葉が頭に浮かんで、莉結にぴったりの言葉だと思った。それと同時に、私は私なのだ、男であろうと女であろうとそれはただの個性に過ぎない。つまり"私"というものはそれらに干渉されない"心"そのものだという事。私は性別なんかに左右されずに自分を貫けるようにならなきゃな、なんて柄にも無い事も思った。それでも"この事実"を隠し続けなければいけないのが現実で、何だか胸にモヤモヤとしたものが立ち込めた。
　でも私には唯一の莉結という理解者がいる。もちろんあの日"私が私に戻った日"にそんな事まで想定できた訳じゃ無い。だけど一人で抱え込もうとしないで誰かに……、いや莉結に打ち明けて本当に良かったと思った。そうでなければ今頃私はたった一人でこの問題に立ち向かわなければならなかったんだから。
　……そんな事を私が考えているなんて知る由もなく、また莉結の笑い声が耳に届いた。いつの間にか頭上の提灯には光が灯り、周囲の騒がしい声も薄れ、辺りはすっかり大人の雰囲気だ。終演ムードの漂い始めた私たちのシートに見直って"今日は来て良かったな"と私は心からそう思った。
　四季の彩りの一つ、満開に咲き乱れる桜の花弁が私の数奇な人生にも淡い色を差してくれた、そんな気がした。