本日は性転ナリ。
72.再会
「あれで良かったのかな」
夕陽に染まる坂道を下りながら、私は小さく呟いた。
「瑠衣っぽいじゃん。まぁ、天堂さんが居なかったらただの近所迷惑だけどっ」
莉結は前を向いたままそう答えて微笑んだ。私はそんな莉結を見て、勝手に勇気づけられたような気持ちになってしまう。
「それでも良いよっ、きっと伝わったからさ」
「何それっ、自信満々」
ただのエゴかも知れない。だけど私はそれでいいって思った。何もしないよりいい。彩ちゃんだって何もされないよりもこうやって自分に迷惑をかけてくるやつがいた方が何かしらの刺激になるはずだ。それがもし悪い刺激になってしまったって、それよりももっと頑張って良い方向に持っていけばいいんだから。……だって私は知ってるから。何もされない辛さや寂しさを。
「ねぇ莉結、おごるからどっかでご飯食べてこうよ」
「分かった、ありがと。お婆ちゃんに言っとく」
坂道の半ば、ふと視線の先に見えた水平線へと沈んでいく夕陽。明暗のコントラストに彩られた街並みを今の彩ちゃんはどんな気持ちで見るのだろうか。もしこんな綺麗な景色がその胸に何も残さないのなら、その素晴らしさを感じられるようになるくらいには私も力になりたいって思った。この世界は綺麗なものばかりじゃない。だけどそれに対になるものがなければその良さは分からない。この夕陽と影、新しい家と古い家、他人と莉結。そして二人の彩ちゃん……。その影の部分が必要なものならしょうがない。だけど彩ちゃんに"必要の無いもの"なら私は全力で支えになる。
そんな気持ちを知ってか知らずか、莉結は小さく"頑張れっ"て言った。
"これだから幼馴染ってのは……"
「莉結は何食べたい?」
そんな私の問い掛けに莉結はグッと親指を立てる。ちょうど目の前に馴染みのあるファミレスの看板が見えたのだ。莉結もそれを分かっての返答だった。だって莉結が好きな店や頼むであろうメニューだって予想がつくくらいだ。意味も理由もない会話を嫌というほどしてきた私達は、いつのまにか互いが自分の事のように分かる程になっていた。今だってそんな事聞かなくても分かったことだけど、なんだか無性にそんなありふれたような会話をしたくなったのだ。でももし、そんな事まで見抜かれていたのなら私はもう言葉を発する事すらしなくなってしまいそうだ。
ドアを開け店内に入ると、そこには空腹を煽るような香ばしい匂いが充満していた。人の想像力とは凄いもので、その匂いを感じ取った瞬間にお腹から空腹の合図が響く。入り口付近に置かれた椅子には順番待ちをする家族が楽しげにメニューを眺めている。
「あ、先生……」
私はその中のひとりを見るなりそう呟いた。
白髪混じりの短髪に薄らと生えた無精髭。小柄な体型にも関わらず、ピンと張った背筋から伝わる威厳。それは私の担任だった五年前から何も変わらず、夕方にも関わらず、あの頃みたいに"おはようございます"とついつい頭を下げてしまいそうになるくらいだった。先生は奥さんであろう白髪混じりの女性と小さな男の子を連れていて、優しさに溢れたその顔は学校の時とはまた少し違っていた。
「金原先生っ」
先に呼び掛けたのは莉結の方だった。そういえば莉結も同じクラスだったっけ、と思いつつも、私も続けて呼び掛けようと口を開きかけたその時。
「おう、高梨か。久しぶりだな」
先生がそう口にした瞬間、私の方を一瞥して莉結だけに微笑んだのだ。それで私は察したのだ。
先生の卓越した記憶力は有名な話で、新任だった遥か昔の教え子の名前ですら未だに忘れる事はないという。そんな馬鹿げた話がある訳がないと思うかもしれないけどそれにはちゃんとした根拠があって、とある放課後、正門の外に何人かの壮年の男女が訪れたそうだ。勿論、こんな御時世だからその人達は生徒から"不審者がいる"なんて先生に伝えられた。そこで正門に向かったのが金原先生を含む数人の教師だ。すると金原先生はその人達を一目見るなり険しい表情を一変して笑顔を見せたそうだ。そしてそのまま歩み寄ると、会話をする前にそこにいる全ての人の名前を当てて見せた。と、ここまでは偶然にも印象深かったその人達の名前を覚えていたに過ぎないのかもしれないけど、金原先生の人柄故か、そんな事が複数回起こるうちに、その逸話は"金原先生が覚えていない生徒はいない"なんて飛躍した学校中に知れ渡る程の有名な話になったのだ。
そしてそんな先生が莉結だけに微笑んだ意味。それは簡単な事だった。
"私は先生の教え子ではない"から。
再会を喜ぶ二人の影で、私は不器用な笑みを浮かべるしか出来なかった。
……食材の買い出しに行った時もそうだった。"私"が"俺"だった頃、行きつけのスーパーのレジのおばさんはいつも一人で食材の買い出しをする私に対して何かと話し掛けてくれた。それは労いの言葉や明日から始まるセールの話、時には自分の息子の愚痴なんかも聞かされた。でもこんな身体になってからは、私も他と変わらないただの客。掛けられる言葉は合計金額とお釣りの金額だけだ。
その時は"しょうがない"って言い聞かせていたけど、今回の事で世間から私、……如月瑠衣の存在は消えたんだって事実を突きつけられたような気がして、胸の奥がギュッと締め付けられた。
夕陽に染まる坂道を下りながら、私は小さく呟いた。
「瑠衣っぽいじゃん。まぁ、天堂さんが居なかったらただの近所迷惑だけどっ」
莉結は前を向いたままそう答えて微笑んだ。私はそんな莉結を見て、勝手に勇気づけられたような気持ちになってしまう。
「それでも良いよっ、きっと伝わったからさ」
「何それっ、自信満々」
ただのエゴかも知れない。だけど私はそれでいいって思った。何もしないよりいい。彩ちゃんだって何もされないよりもこうやって自分に迷惑をかけてくるやつがいた方が何かしらの刺激になるはずだ。それがもし悪い刺激になってしまったって、それよりももっと頑張って良い方向に持っていけばいいんだから。……だって私は知ってるから。何もされない辛さや寂しさを。
「ねぇ莉結、おごるからどっかでご飯食べてこうよ」
「分かった、ありがと。お婆ちゃんに言っとく」
坂道の半ば、ふと視線の先に見えた水平線へと沈んでいく夕陽。明暗のコントラストに彩られた街並みを今の彩ちゃんはどんな気持ちで見るのだろうか。もしこんな綺麗な景色がその胸に何も残さないのなら、その素晴らしさを感じられるようになるくらいには私も力になりたいって思った。この世界は綺麗なものばかりじゃない。だけどそれに対になるものがなければその良さは分からない。この夕陽と影、新しい家と古い家、他人と莉結。そして二人の彩ちゃん……。その影の部分が必要なものならしょうがない。だけど彩ちゃんに"必要の無いもの"なら私は全力で支えになる。
そんな気持ちを知ってか知らずか、莉結は小さく"頑張れっ"て言った。
"これだから幼馴染ってのは……"
「莉結は何食べたい?」
そんな私の問い掛けに莉結はグッと親指を立てる。ちょうど目の前に馴染みのあるファミレスの看板が見えたのだ。莉結もそれを分かっての返答だった。だって莉結が好きな店や頼むであろうメニューだって予想がつくくらいだ。意味も理由もない会話を嫌というほどしてきた私達は、いつのまにか互いが自分の事のように分かる程になっていた。今だってそんな事聞かなくても分かったことだけど、なんだか無性にそんなありふれたような会話をしたくなったのだ。でももし、そんな事まで見抜かれていたのなら私はもう言葉を発する事すらしなくなってしまいそうだ。
ドアを開け店内に入ると、そこには空腹を煽るような香ばしい匂いが充満していた。人の想像力とは凄いもので、その匂いを感じ取った瞬間にお腹から空腹の合図が響く。入り口付近に置かれた椅子には順番待ちをする家族が楽しげにメニューを眺めている。
「あ、先生……」
私はその中のひとりを見るなりそう呟いた。
白髪混じりの短髪に薄らと生えた無精髭。小柄な体型にも関わらず、ピンと張った背筋から伝わる威厳。それは私の担任だった五年前から何も変わらず、夕方にも関わらず、あの頃みたいに"おはようございます"とついつい頭を下げてしまいそうになるくらいだった。先生は奥さんであろう白髪混じりの女性と小さな男の子を連れていて、優しさに溢れたその顔は学校の時とはまた少し違っていた。
「金原先生っ」
先に呼び掛けたのは莉結の方だった。そういえば莉結も同じクラスだったっけ、と思いつつも、私も続けて呼び掛けようと口を開きかけたその時。
「おう、高梨か。久しぶりだな」
先生がそう口にした瞬間、私の方を一瞥して莉結だけに微笑んだのだ。それで私は察したのだ。
先生の卓越した記憶力は有名な話で、新任だった遥か昔の教え子の名前ですら未だに忘れる事はないという。そんな馬鹿げた話がある訳がないと思うかもしれないけどそれにはちゃんとした根拠があって、とある放課後、正門の外に何人かの壮年の男女が訪れたそうだ。勿論、こんな御時世だからその人達は生徒から"不審者がいる"なんて先生に伝えられた。そこで正門に向かったのが金原先生を含む数人の教師だ。すると金原先生はその人達を一目見るなり険しい表情を一変して笑顔を見せたそうだ。そしてそのまま歩み寄ると、会話をする前にそこにいる全ての人の名前を当てて見せた。と、ここまでは偶然にも印象深かったその人達の名前を覚えていたに過ぎないのかもしれないけど、金原先生の人柄故か、そんな事が複数回起こるうちに、その逸話は"金原先生が覚えていない生徒はいない"なんて飛躍した学校中に知れ渡る程の有名な話になったのだ。
そしてそんな先生が莉結だけに微笑んだ意味。それは簡単な事だった。
"私は先生の教え子ではない"から。
再会を喜ぶ二人の影で、私は不器用な笑みを浮かべるしか出来なかった。
……食材の買い出しに行った時もそうだった。"私"が"俺"だった頃、行きつけのスーパーのレジのおばさんはいつも一人で食材の買い出しをする私に対して何かと話し掛けてくれた。それは労いの言葉や明日から始まるセールの話、時には自分の息子の愚痴なんかも聞かされた。でもこんな身体になってからは、私も他と変わらないただの客。掛けられる言葉は合計金額とお釣りの金額だけだ。
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