本日は性転ナリ。

漆湯講義

52.虎穴に入らずんば

 林間学校からもう一週間が経とうとしている。もちろん相変わらずに私は"衣瑠"のまま。まぁ変わった事といえば、少しずつだけど母さんと会話をするようになった事くらいだ。
 あれ以来、母さんは週に二、三度くらいは私が起きている時間に帰ってくるようになった。今までは殆どその存在を感じる事が無かったくらいなのだから、母さんが私に歩み寄ってくれようとしているのは明白だと思う。しかも帰ってきた時には真っ先に私の部屋の前まできて"ただいま"と声を掛けてくるようになったのだ。まぁ……、それもまだドア越しだけど、以前に比べたらそれは考えられないくらいの大きな変化だと思う。あぁ、あともう一つ変わった事があった。それは何故かあの麗美も一緒に登校するようになったって事。

「おっはよぉ! 昨日のアレ見たっ?」

 大概、麗美はこのフレーズから始まる。確かに朝から今日の授業の話なんてしたくはないし、共感もできそうで何となく話題になりそうなものと言えば昨日見たテレビ番組の内容くらいだ。それでも麗美の話すソレは、同じ話題だとしても私には到底真似できない程に面白く話を纏め上げている。そんな麗美の面白おかしい、いたって普通の話を聞きながら登校するのが新しい日課となりつつあった。
 そんな麗美も、告白された立場である私が意識しないといえば嘘になるけど、それでも私にとっては珍しく、"特別気を遣うこともなく自然体で接せられる人間である"という事は間違いなかった。未だ麗美さんの"正体"についての疑問は残っているけど、今はこれでいいんだ、そう思う事にしている。
 そして学校では、授業も真面目に受けて少しずつ慣れてきたクラスメイトとちょっとした会話をしたりもして、"衣瑠"としての一日を送っていた。そしてまた今日も問題なく一日が過ぎ 
ていく……ハズだったのに。

「衣瑠と莉結、ちょっといいかぁ?」

 帰り支度をしていた私たちを呼び止めたのは担任の榊原先生だ。どうせ何かを運ぶのを手伝ってくれとかそういう事だろうなと莉結に目配せをして苦笑いをし合うと、先生の手に持たれた数枚しかないプリントに疑問を抱きつつ先生の側へと歩み寄った。

「悪いなぁ。これ、天堂のプリントなっ」

 突然先生の口から発せられた"天堂"という名前に私はつい"えっ?"と声を漏らした。

「天堂って……、何の事ですか?」

 すると先生は不思議そうに私たちを見つめながら、「あれっ、天堂のとこに届けてくれるんだろ?」と言ったのだ。もちろん私はそんな約束はした覚えもなく、あんな事があった訳だしなんだか会いたくもなくて、私は教卓に手をついて反論する。

「天堂さんって……、他のクラスじゃないですか! 何でわざわざ私たちが? そもそも私たちそんな事やるって言った覚えないです!」

 すると先生はフッと笑ってから私にプリントを無理矢理渡すと、この理屈に合わない依頼の真相を口にした。 

「お前たちと仲のいい隣のクラスの麗美っているだろう? 天野麗美。その麗美は"家も知ってるから三人で渡しに行ってきますよっ"って言ってたぞ? もしかして聞いてないのか……。でもなぁ、これ俺が担当でなぁ、提出期限あるやつだからどうしても今日渡してもらいたいんだよ。渡すだけ渡してくれれば俺に責任は無いからなぁ。いやっ……、今のは冗談として俺の授業の成績上げてやるからお願いできんか? なっ?」

 その頼み方は教師としてどうかと思うけど、麗美にあの出来事を話す訳にもいかないし、かと言って麗美に嘘をつきたくもなくて、私は渋々頼まれてあげる事にしたのだった。

 ……そんな訳でその日の放課後、私の家とは反対方向へと向かい三十分程かけて私たちは閑静な住宅街の端に到着した。
 学校から少し離れた高台に位置するこの住宅街は"フォレストタウン"と名付けられているようだ。大きな土地分譲の看板にはメルヘンチックな文字で"Forest town"
と書かれていて、その先には見るだけでため息の出てしまいそうな長い坂のメインストリートが真っ直ぐに伸びている。
 歩くには勾配のキツい坂道を息も切れ切れに登っていくと、その名の通り森に囲まれた静かな住宅地が広がっていた。そこに建つ家はどれも立派で、展示場みたいなお洒落な庭先には高そうな車が並んでいる。そしてその中でも一際目立つ三階建ての地中海を思わせる白い家。麗美はその家を指差して"ここだねっ"と言った。

「コレが天堂さんの家……?」

「そうみたい! 私もクラスの子に"行けばすぐ分かるよ"って聞いただけだけど、表札にも天堂って書いてあるし間違いないでしょっ」

 思わず私と莉結は顔を見合わせた。麗美が家を知ってるなんて言うからこんな事になったのに。麗美もそんな曖昧な情報しか知らなかったとは……。
 すると麗美がいつの間にか大きな門袖に取り付けられたインターホンを押していた。私たちに緊張が走り、こちらをジロリと見つめるようなインターホンのカメラからつい目を逸らした。今更ながら天堂さんはあの時私を崖の下へと落とそうとしていたくらいだ。未だに怨恨があると思って間違いない……。あの事件から今までその姿を見ることは無かったけど、わざわざその相手にプリントを渡しに来てしまった私は本当に馬鹿だと思った。

 森の中で囀る小鳥の鳴き声が妙に大きく聞こえる。すると麗美が反応の無いインターホンを覗き込み、もう一度呼び鈴を押す。

「天堂さん、同じクラスの麗美だけどプリント届けに来たよ」

 しかし、その言葉にも反応は無く、私がポストにプリントを入れて帰ろう。そう言おうとした時だった。大きな門扉の鍵の部分から"カチャ"と開錠される音がしたのだ。
 三人で目を見合わせると、麗美が"入っていいって事……? "と困惑気味に呟く。私は得体の知れない恐怖がこみ上げてくるのを感じた。

「でも……、やっぱ居ないのかも知れないしポストにプリント入れて帰……」

 そこで私の言葉を遮ったのは、静まり返った辺りに僅かに響いた階段を降りる足音だ。すると私の背筋に緊張が走り、額には変な汗が滲む。

「やっぱ居るんじゃんっ」

 そう言って門扉を開き玄関へと足を進める麗美。そして私が"ちょっ……、麗美さん"と、麗美の手を引こうと一歩踏み出した時、玄関のドアがゆっくりと開いたのだった。
 少しだけ開いたドアの隙間……。その奥の薄暗い空間には、フランス人形みたいな綺麗に整った顔が浮かびあがっていた。

「ごめんね天野さん。少し横になっていて気付かなかったの」

 あの時とは別人のような、お淑やかで女の子らしい小さな声が聞こえた。私と莉結はその場から動けずに麗美と天堂さんのやり取りをただ眺めているだけだ。それが本物の天堂さんなのかを見極めるかのように。しかしそれはすぐに証明される。突然、ドアが更に開き、透き通った蒼い瞳と目が合った。それは私の中にすうっと入り込んでくるように真っ直ぐ私だけを見ていて、その視線から逸らすことができずにいると、ゆっくりと白い目蓋が蒼い瞳を覆った。

「如月衣瑠……。良かったら中へ」

 足元を見つめていた私に声が掛けられる。でも私がハッと顔を上げた時には天堂さんの姿は無く、代わりにドアを開きながら私に手招きする麗美の姿があるだけだった。

「大丈夫……、だよね?」

 莉結が不安そうに私を見つめている。それでも私は、ここで逃げたら何も変わらない、そう思って覚悟を決め大きく深呼吸をした。

「大丈夫だよ、きっと。自分の家で変な事する程馬鹿じゃないよ」

 自分に言い聞かせるようにそう言うと、私は手のひらに滲んだ汗をスカートの裾で拭って足を進めた。

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