本日は性転ナリ。

漆湯講義

2.本日は性転ナリ。

    その夜は、暦上ではとっくに春だというのに、再び冬へとその足を戻した様に一段と冷え込んでいた。
 俺は見渡す限りの花畑の中に一人ぽつんと立ち尽くしていた。温かい風がそよぐその場所で俺は何故だか裸足のままぴょんぴょんと跳ねていて、その度にふわりふわりと白いブラウスの裾が風に膨らんだ。
 妙な事に俺はそれを夢だと理解しているのに、過去の記憶を見ているような懐かしさを感じていた。
 そして俺は直後に強い風が吹くという事を何故か知っていて、びゅうと音を立てて向かってきたその風に乗るようにめいいっぱい空へと跳んだ。
 そして俺を空へと押し出した風に運ばれるがままにどんどんどんどん上空へと飛ばされていって……。

「うあぁぁぁッ!!」

 断末魔のような自分の叫び声で目を覚ました。
 部屋中に響いた"それ"は、俺を一瞬にして夢の世界から引き摺り出すと、現状を把握する間も与えないままに一つの巨大な塊を無造作にぶつけた。……痛覚だ。
 想像を絶する程の激痛と恐怖が同時に俺を襲う。全身の骨に荊棘が生えたかのように身体の内部から突き破るような激痛、そして家が軋むようなギシギシという気味の悪い音が絶え間なく俺の鼓膜に伝わる。
 そしてその痛みに耐え兼ねた手足が勝手に暴れ出し、ベッドのフレームへとその四肢を叩きつけたが手足の感覚は無く……、いや、全身の痛みがそれに勝(まさ)っていた。
 俺の思考は既に痛覚によって支配され、治まる事のないその地獄に"意識を失って楽になりたい"、"いっそ死んだ方が"なんて考えが拷問の中で一瞬空いた隙間に浮かぶ。
 そしてそんな荒れ狂う苦痛の波だけが犇めき合う中、唯一の変化が起きた。
 心臓が大きく鼓動した後、追加されたのだ……、新たな痛みが。

 超える事のないはずの痛みの限界に更に加わったもの、それは頭皮への焼き爛れるような熱。熱とはいえどもそれは到底人間の生み出せるような温度では無く、業火の中で真っ赤に熱せられた鉄の兜を被せられるに等しく、俺の神経の根本までを焼き尽くしてしまうようだった。
 その地獄は俺の意識を失わせてくれる事なく永遠に思える長い時間続いた。
 俺の意識は終わらない苦痛にもう何も考えられない程に衰弱していった。
 するとその地獄のような痛みの中、心臓が一際大きく鼓動した。身体全体の血液が一度に送られるような大きな鼓動……。
 その瞬間から先程の痛みが嘘のように治まっていき、それと引き換えに心臓がリミッターの切れたエンジンの様にみるみるうちに鼓動を加速していく。
 ドクドクと大きく脈打つその鼓動は喉や顔面を内部から圧迫し、先程とはまた別の苦痛へと変わっていく。
 そして圧迫された気管支を無理矢理に行き来しようとする息がギュポギュポと異様な音を立て始め、俺の意識が薄れ始めていく。
 その時だった。痛みや苦しみだけが伝わり続けていた脳に、なんだか懐かしく、温かくて優しい感触が伝わった。

 俺……、泣いてるのか。

 それは頬に伝う涙だった。つうっと滴るその温かい粒は、俺の皮膚をなぞるようにして顳顬(こめかみ)へと染み込んでいく。
 そして俺はそんな感触を噛みしめるよう大切に心に刻み込むと、それと引き換えに訪れるであろう"終わり"を悟った。

 呆気ない人生だったな……。でも、あんな苦痛から解放されるんならいいや。

 すると、全てを諦めた俺の意識に津波の如く何かが物凄い勢いで押し寄せてきた。それは俺を一瞬にして飲み込むと、そのまま一気に遥か上空へと昇っていく。
 そしてフワッと上空で時が止まったような感覚に襲われると、同時に俺を包み込んできたふわふわとした柔らかな粒みたいなものがスッと俺の中へと入り込んだ。
 そしてその粒は頭の中でパチリと静かな音を立てて弾けたのだ。するとその瞬間、俺の頭の中にあるものがフワッと辺りへと広がっていった。そう、それは俺の記憶に残る、過去の想い出たちだった。
 それを皮切りに次々と俺の中に入り込んで来た小さな粒は、脳内でパチリと弾けては忘れかけていた過去の記憶を蘇らせて消えていく……。
 刹那に繰り返されるその不思議な光景を、俺はただただ見つめていた。するとまた一つの粒が俺の中へと入り込んでくると、一際大きな音を立てて弾けた。かと思うと、同時に俺の前にひとりの人物が姿を現した。それは……、"あいつ"だった。

「莉結……」

 俺の前に現れた莉結は、何も言わずに穏やかに微笑み、静かに、そしてゆっくりと遠ざかっていく。

「莉結……、一人にさせてごめんな」

 ふとそんな言葉が漏れた。

 "いや、一人になっちまうのは俺か"

    そして俺の意識は、部屋の照明を落とすかようにパチッと音を立てて漆黒の闇へと吸い込まれていった。

 

    …………



    鳥の囀りが聞こえる……。
 目の前に広がる赤い光が俺の意識をだんだんと鮮明なものへと導いていく。そして重い瞼をやっとのことでゆっくり持ち上げると、眩い真っ白な光が俺の瞳へと差し込んできた。
    俺は目を細めて視線を動かす。見覚えのある風景……。どうやらここは自分の部屋のようだった。確証は無いけど、話に聞く天国や地獄ではないようで俺は一先ず胸をそっと撫で下ろす。そしてぼうっとする頭のまま、見慣れた天井の一点を見つめながら考えた。
    あれは、ただの夢だったのか……。俺は自分の置かれている状況を飲み込む為、身体を起こそうとした。しかしズキンと全身に痛みが走ってあれが夢なんかじゃないのだと気付かされた。
 ……胸の上に何か重い物が乗せられているかのように息苦しい。少し汗ばんだ顔には、何かが貼り付いていて気持ちが悪い。
    俺はゆっくりと顔の"何か"を取り除こうとしたが、全身に痛みが走って呻き声と共に腕を下ろした。
    状況が把握できない。部屋は特に変わった様子もなく、俺の身に何かが起きた事は明白だった。ひとまず落ち着くことが最善策だと、俺は深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出した……。すると息苦しさとは少し違う不思議な違和感がしたのだ。その違和感の正体を考えていると、顔の"何か"が鼻をくすぐった。俺はその得体の知れない物に恐怖を覚え、歯を食いしばり痛みをこらえつつ顔を払った。
    ……すると、俺の視界に指に絡みつく、細くしなやかな金色の糸のような物が映った。その瞬間、枕元へ無残に抜け落ちた髪の毛が脳裏に浮かび、俺の心臓がギュウと締め付けられる。軽いパニック状態へと陥った俺は痛みも忘れて視界の端に消えた髪の毛を掴むと、泣き出してしまいそうな気持ちを抑え頭上へと掲げた。

 「痛っ……」

 するとおかしな事に頭皮に痛みを感じたのだ。胸の上に落ちていたはずの髪の毛。それを掴み上げたはずなのに……。
 そこでふと一つ疑問が浮かんだ。俺の髪である訳が無い。何故なら俺の髪はせいぜいこめかみの辺りまでの長さしかないはずだからだ。その瞬間、俺はただならない恐怖に包まれる。
 衝動的に身体を起こした俺は激痛に顔を歪ませた。しかしそんな事に躊躇している余裕は無い。この"異常事態"を確かめるべく、俺は勢いに任せてベッドから足を下ろした。
    しかし、立ち上がろうと足に力を入れたものの何故か足を踏み外してしまった。それはこの身体の痛みとは関係の無い、どこか感覚的なものの異変を感じさせた。昨夜の後遺症か何かとも考えたが、動きを止めたその身体の感覚すらもおかしいのだ。……まるで自分の身体じゃ無いみたいに。
 更なる恐怖が全身へと溢れ出し、身体が大きく震え、呼吸が荒くなる。叫び出しそうになるのを抑えつつ慌てて洗面台の前へと走った俺は……、鏡を見て呆然と立ち尽くした。
 そこには見たこともない女がぽかんと口を開けたままこちらを見つめていた。
 胸元まで長く伸びた髪。華奢な身体から伸びる細い手足。そして、胸元を膨らませている遠慮がちに膨らんだモノ……。
 俺は我に返って後ろを振り向いた。しかしそこには誰も居ない。当たり前だ……。俺の頭は混乱しつつもこの状況をきちんと理解しているのだから。
    俺は再び鏡に映る女へと視線を戻す。そして徐に自分の胸へと手を伸ばしてみると、やはり目の前の女も同じように自らの胸へと手を伸ばし始める。念の為、後ろを振り返ってみるも、やはり誰も居ない……。
 そして俺は呆然としたままに、その遠慮がちに膨らんだモノを二、三回握ってみた。
 ……それは噂に通りに柔らかく、絶妙な弾力を俺の手のひらへと伝えた。それは今までに触れた事の無い感触で……。

「じゃねぇよ!」

    俺は再び我に返った。今度は自分の置かれた状況が徐々に理解でき始めたこともあって、だんだんと混乱が支配し始め、頭が回らなくなっていく。そしてその時、俺は気付いてはいけない事に気付いてしまったのだった。
    俺は息を飲み、恐る恐る震える手を……下半身へと伸ばした。
 ゆっくりと膀胱の辺りから恥骨へと指を滑らしていく。でも、俺の切なる願いは届かず、指は緩やかな曲線を描くように股下へと円滑に移動していった……。
 その瞬間、全身に寒気とも熱気ともとれる未知の感覚が走り……、俺の身体はその場へと崩れ落ちた。
 俺は砕け散ってしまいそうな気持ちを必死に抑えつつ、もう一度、今度は下着の中へと手を忍ばせ、ゆっくりと同じ動作を繰り返すも、やはりそこに突起物は愚か、凹凸すら見つからなかった……。
 そして俺の心には大きな穴が開き、それと一緒に自制心すらも消えていってしまった。俺の目から大粒の涙が次々と溢れ出してくる。その粒は止まる事を知らず、見開いたままの目がぼうっと霞み始める。そして発作でも起きたかのように呼吸が荒くなったかと思うと、産まれたばかりの赤ちゃんみたいに大声を上げながら涙を流したのだった。
    ……こうして、この日から俺の"性転した人生"が幕を開けてしまったのだった……。


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