名無しの魔法使い

さとう さん

#8 嬉しすぎて

 戯れていた青年の口元からふっと笑みが消え、耳に届いた音を辿るように目の前の少女を見つめました。
「名無しだから、ナナ。……って、」
 単純すぎかな、とナサリが言い切る前に青年は膝をついて背中を曲げ、少女を抱きしめました。両腕で、壊してしまわないように丁寧に、苦しめないよう優しく。
 唐突な抱擁と共に耳元に届いた、泣くのを我慢するような声はナサリの胸をぎゅっと締め付け、気付けば泳いでいた両手を背中に回しました。小さく短い腕で精一杯抱き締める様は、まるで迷子が親を見つけたときのようで、ジェンからするとナサリも泣いているように見えました。事実、ナサリは泣いていました。もちろん青年の抱き締める力が強すぎるわけではありません。むしろ優しすぎるくらいです。
「…………いい、名前だ。これからは『ナナ』って名乗るよ」
 青年は____ナナは、いつも通りの笑顔で、目尻にほんの少しだけ涙を浮かべていました。
(どうして……?)
 ナサリは疑問は口に出せないまま、ナナは自分の席に戻り食事を再開し、ジェンはただ無表情でそれを見守りました。


 食事を終えて落ち着いた頃、ナナは自室から一つの木箱を持ってきてナサリに渡しました。中には銀色の硬貨のようなものと、赤いガラス玉が。どちらもナサリの手に収まるほどの大きさです。硬貨のようなものは上部に穴が開いており、中心から外側に向けて文字が刻まれていましたが小さ過ぎて所々読むことができません。
「これは?」
「身分証。失くしたって聞いたから作ってきた」
「えっ」
「あとはお守り。身分証の方は俺たちの仲間だよ〜って証明も入ってるから大事にしてね。首からぶら下げてもいいし、ストラップにしてもいいし。俺はポケットに入れてるけど」
 身分証は国民の誰もが持っていて当たり前で、自分には無かったもので、恐らく簡単には貰えないだろうと不安だったもの。それが今、ナサリの手に収まっていました。ナサリが考えていたよりもスムーズに、あっさりと。お守りというおまけ付きで。身分証が無いことで多くの不便さを体験してきたナサリにとって、手の中のこれは輝いて見えました。
「もらっていいの? 本当に?」
「ああ、もちろん。それはナサリのものだよ」
 ナサリのもの。
 クロティカの国民であるという証明。
 ナサリがずっとずっと欲しかったもの。
「……ありがとう」
 どうやって作ったのかとか、代わりになにを払えばいいのかとか、何も疑問に思わなかっわけではありません。けれどそれ以上に喜びが勝り、今は感謝以外の言葉が出ませんでした。
「……持ち歩けるようなものを取ってくる。お前も来い」
 ジェンは満足げなナナを廊下へ引っ張り出します。もともと寒い廊下でしたが、ジェンの冷めた視線のせいでまるで真冬のように冷えきっていました。
「報連相って言葉知ってるか?」
 中にいるナサリに聞こえないよう配慮した音量で、しかし威圧的にナナに詰問します。
「あは、ごめんごめん」
 物置部屋へ足を進めるナナも合わせて小声で返しますが、言葉とは裏腹に全く反省していないようで廊下の温度がさらに下がりました。
「あの子は出生記録も入国記録も無い、どこの誰かもわからない。なのに身分証を用意しただと? 昨日の今日で?」
 本来ならばナサリは然るべきところに送り詳しく調べてもらって身元を明らかにしたり、養育の必要があるなら新しい身元保証人を探すか施設を頼ったりするところです。しかしそれらを受け流し保護をするとナナは決め、着々と進めています。早すぎるくらいに。
「言っただろ。あれはナサリのものだって」
 


「何か知っているのか」
 ナサリのいる居間からは一番遠い物置部屋。ここなら大声でなければ声は聞こえません。

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