名無しの魔法使い

さとう さん

#7 名前を呼ぶ

「わかった! ドア開けて!」
 即答でした。さっき叩かれた青年が余程心配のようです。
 もともと鍵はかかっていないのでドアはすぐに開かれ、青年が出てきました。
「大丈夫!?」
 ナサリが湿布を差し出し詰め寄ります。湿布はつい先程まで冷蔵庫に入っていたため冷たく、湿布特有の透き通った匂いが青年の鼻を通りました。
「湿布貼るから背中こっちに向けて」
 湿布を両手に持ち、準備万端のナサリを見た青年は両手で顔を覆い肩を震わせました。
「えっあのっ、」
 ナサリには痛くて泣いているようにも見えましたが、
「ふっ、本当に湿布持って、ふふふっ」
 ただ笑いを堪えているだけでした。
「叩いただけだから湿布はそんなに効かないぞ」
 冷やすだけなら氷嚢でいい、と付け足し部屋から出たジェンは、ナサリから湿布を受け取りリビングへ去って行きました。
 ナサリは行き場を無くした手を見つめ、青年はしばらく笑い続けるのでした。
「湿布……ふふ」
「笑いすぎ!」

 ようやく笑いが収まった青年は、目尻に薄く浮かぶ涙を指先で拭き取り、一息ついてナサリに向き直りました。
「それにしても、結構あっさりなくなったね。敬語」
「あれ? たしかに」
(いつもジェンさ……、ジェンみたいに直らないのに)
 敬語どころか、今朝は無理やり苺を押し付けた青年の頭を叩いています。
 年上には敬語、が染み付いているナサリにしては珍しいです。
 ナサリは頭を捻り、一つの結論を出します。
「年上に思えなかったから、とか……?」
「ぶはっ」
 青年が吹き出し、ナサリはハッと顔を上げました。
「あっいや、その、可能性の話で!」
 必死に否定しますが、ジェンが二人を呼ぶまで青年は笑い続けました。

 お昼はペペロンチーノとコンソメスープで、準備は青年が帰ってくる前に済ませてあり、食卓に置かれた料理はナサリと青年が廊下で話している間にジェンが仕上げたものです。氷嚢は用意されていません。
 美味しそうに食べるナサリでしたが、突然、何かを思い出したかのようにピタリと動きを止め、ごくんと一飲みし、深刻な面持ちで口を開きました。
「……すごく、言いにくいんだけど……」
 言い淀むナサリに、ジェンがいち早く反応します。
「何かアレルギーだったか?」
「いえ、それは無いので大丈夫で……大丈夫。そうじゃなくてね、」
 言葉を切り、ナサリはちらりと青年を見ました。
 ちょうどスープを飲み干したところで、ナサリからの視線に気づくと「ん?」と首を傾げます。
 ナサリは申し訳なさそうな表情で言葉を続けました。
「お名前は、何でしょうか……?」
 『迷いの森』で尋ねようとしたのですがゴーレムによって阻まれて以来、機会を失っていた疑問でした。
 青年は待ってましたと言わんばかりに、にんまりと笑みを浮かべて答えます。
「ずばり! 俺の名前は無い!」
「ナイさん?」
 『無い』を『ナイ』と受け取ってしまい、青年の隣に座るジェンは呆れたように溜息を吐きました。
「ナサリ。こいつに名前は無い。名無しなんだ」
「えっ!」
 ジェンの補足でようやく理解したナサリは驚きを声に出しました。

 身寄りのいない子供や捨てられた子供など、様々な理由で施設に預けられるような子供であれば一度名前を失うことがあります。しかしそれは一度だけ。大抵は預けられた施設で新しい名前を授かり、労働が許可される十五歳まで育てられるのが一般的です。
 現在のクロティカの子育て支援体制は万全で、この五十年の施設行きの子供は減少傾向にあり、逆に出生率は増加傾向にあります。保護が必要な子供は軍によって直ちに施設へ預けられるため、名前が無い、なんてことはまずあり得ません。
 そんな国で、青年は名前が無いと言うのです。

 捨てたのか本当に元々無いのか、ナサリにはわかりませんが、触れてはいけない部分に直に触れてしまったことは理解できて、罪悪感で胸がいっぱいになりました。
「そんな深刻そうな顔しないで。大したことないから、ね?」
「考えても無駄だ。適当に呼んどけ」
 本人が気にしていなくても、仲間が気にするのをやめていても、ナサリは諦めきれませんでした。
 皆んなにあって当たり前の国で産まれて生きていて、一人だけ持っていなくて呼んでもらえないなんて、孤独が隣にくっついているようで、胸が痛い。ナサリ自身が驚くほど心が震えました。____悲しい、と。
(呼ぶならきちんと名前で呼びたい)
 ナサリにもジェンにもある、自分だけの特別なものを彼にも与えたい、せめて自分から呼ぶときだけでも特別な名前で呼びたいと、ナサリは思考を巡らせます。
 真剣に考え込むナサリと場を和ませようと、考えさせてる張本人は「お兄ちゃんと呼んでもいいよ!」とふざけジェンから無言の制裁を食らいました。ナサリはその間にも考えます。
(名無し……名前…………)

「____ナナ」

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