鏡面世界のインタプリタ

loys

初めて見た日本人

『お前にしか頼めない仕事がある』

ウティカ市内でも貧民窟に近いラトゥーサ地区の喫茶店で旧知の兄貴分からそのように切り出された時、ノイス=カーティスは厄介ごとの臭いを感じ取り、頼られたことによる興奮や感激よりも、得体の知れない不安が先に立っていた。

そもそも吝嗇の気がある兄貴分のダリルが喫茶店などという小洒落た店で『今日は俺の奢りだ』などと言いだしたあたりから悪い予感はしていたのだ。

癖のある黒髪にイタズラ猫のような瞳を持った語学研修所時代のこの先輩が、研修所を出た後にどのような職に就いたのかノイスは知らない。
しかし、語学研修生としてこのメティス王国ウティカ特別市にノイスが派遣されて来た際にふらりと現れ、未成年の自分に度々食事や酒を集りにくる様子からは真っ当な職に就いているようには見えない。

さりとて食い詰めて母国であるファルセル皇国を離れて大陸浪人をしているというわけでも無さそうだった。
語学研修生としてノイスが世話になることもある在ウティカ公使館の職員と談笑している姿を度々見たことがあるので、外務省にコネでもあるのかも知れない。

いずれにせよ、身寄りのない幼い貧民を集めて語学を習得させる通商連合コムーネ語学研修所を出た卒業生達は時には後ろ暗い仕事を任せられることがあるのだ。
平凡な在外商館勤めを希望するノイスにとっては、ダリルは少なからず気後れする相手だった。

「おい、ノイス。研修所であれだけ面倒を見てやった俺がここまで頼み込んでいるのに、あからさまに嫌そうな顔をするんじゃない。傷付くぞ」
「確かにダリル先輩にはお世話になりました。ですが、僕も通商連合コムーネの語学研修生の身分でここにいるので、先輩のお仕事を手伝えと言われても出来ることは限られますよ」

大袈裟な身振りで嘆いてみせるダリルに正論をぶつけてみるが、まるで予想していたとばかりに猫のような眼が上張月に釣り上がる。

「心配はいらない。お前さんは俺の仕事を手伝っている間、通商連合コムーネのすべての業務から解放される。まあ、商館長殿には事後承諾になるがな」
「困りますよ、事後承諾だなんて。大体、商館長にどうやって承諾を貰うつもりですか?」

出来るはずがない、と気軽に尋ねたノイスだったが、ダリルから突如表情が抜け落ちたかと思うと、冷徹な声で断言した。

「承諾させる。在ウティカ駐箚公使であるメルカルト閣下の内諾は頂いている」

突然出てきた大物の名前にノイスは思わず絶句する。
何しろウティカ特別市で生活するファルセル皇国民にとっては雲の上の存在だ。
悪ふざけで出せるような名前ではない。

「いいか、ノイス。この仕事にお前を巻き込むのは俺の本意ではない。だがな、他に適任者がいないんだ。悪いがどうあっても付き合って貰う」
「僕にしかできない、と言われても……ウティカ在住のファルセル人が多くないとはいえ、僕にそこまでするような特技なんて……」
「あるだろう? 俺が語学研修所にいたころ、殆ど受講者の居ない講座に一緒に参加していたじゃないか。俺は不真面目の極みだったから大して覚えちゃいないが、お前さんが講師から絶賛されるくらい、その希少な言語を習得していたことは良く覚えてるよ」

少し記憶を巡らせば容易に思い出せる。
ダリル先輩と僕が接点を持つようになったきっかけとも言える講座。
この世界において圧倒的に話者が少なく、商業の現場では殆ど使用されないため通商連合コムーネの講座としては全く人気がないが、ファルセル皇国において学術分野では重要になる為に念のため受講したその言語。

ダリル先輩が再びイタズラ猫のような笑みを浮かべて片言のその言語で語りかける。

『ニホンゴ、ハナセマスカ?』
『はい、少しだけなら……』

ノイスは気のない返事を返しながら嘆息した。

日本語。
それはノイス=カーティスにとっても特別な意味を持つ、あまり思い出したくもない言語だった。


………
……




「ここが俺の寝ぐらだ」

あまり治安が良いとは言えないラトゥーサ地区の裏道を何度も曲がって方向感覚も怪しくなってきたころで、ダリル先輩が指し示した建物は三階建の古ぼけた商店だった。
一階部分は代書屋だろうか、羽ペンとアルファベットの看板が掲げてある。
しかし長い間店を開けていないのだろう。
玻璃越しに見える店内は随分と埃をかぶっているように見える。

「二階が事務所、三階が住居だな。まあ、見ての通りぼろっちい建物だが住み心地は悪くない。街灯があるような表通りから遠いのだけが難点だ」

そういうとダリルは一階の店舗正面からではなく、建物の裏にある裏口へと向かった。
先導されるままに裏口の前に立ったノイスだったが、ダリルはいつまでたっても扉を開けようとしない。

「ダリル先輩?」
「……悪いが、もう少しだけ待っててくれ」

意味もわからないまま立ち尽くしていると、事務所があるという二階の窓でチカチカと何かが光るのが見えた。
恐らくそれが合図だったのだろう。
ダリルが押しひらけばすんなりと扉は開いた。

「尾行されていないかどうかを二階の仲間が確認していた。悪いが、家に入る場合はいつもこんなだから覚悟しておいてくれ」

覚悟とはどういうことかと韜晦してみたところで意味はない。
仕事を手伝うことになれば自分も頻繁にこの家を訪れることになるということなのだろう。

「二階は後で案内するとして、お前さんに付き合って貰いたいのは三階に居る」

階段を登って行くと三階の扉が待っていた。
ダリルは鍵束を取り出すと迷いもせずに一本の鍵を差し込む。

「さて、ついにご対面だ。正直言うと記憶の隅っこにしかない日本語の知識だけで何とかしようと難渋していたんだ。お前さんには通訳を頼みたい」

ことここに至ればどういう仕事なのかは明白だった。
そう、公式には存在しないはずの母国語を日本語とする生粋の日本人がこの先にいるのだろう。

「もはやいうまでもないかも知れんが、ここで見聞きしたことは全て口外するな。お前のためでもある、わかるな」

ノイスは黙って頷くと意を決して部屋へと足を踏み入れる。
扉の先は少し広めの居間になっていた。
建物の古さに比べれば室内の調度品は真新しく見窄らしい様子もない。
どうやら改装したのだろう。

そんな居間の中央にある座椅子に腰掛けていた青年が目に止まる。
黒い髪は縮れもなく直毛で、瞳の色は黒に近い濃い茶色。
年の頃はノイスと同年代にも見えるが、黄色人種は若く見られやすいというので年上だろうか。

ノイスは伝聞でしか聞いたことのなかった日本人を目の当たりにして、感慨深く回想する。

そう、日本語講座を開講していた教師は深い尊敬の念を日本人という存在に捧げていた。
曰く、日本人は礼儀正しく、謙虚で、深い知性を持ちながら、勇気と行動力を兼ね備えた優れた人種だと。

しかし、目の前の男から漂う雰囲気は何処か刺々しく、あまり思慮深げな様子はなかった。
その上、その男はノイスと共に入室したダリルを見つけると、大声をあげながら訳のわからないことを喚きだした。

『おい、いつまで待たせるつもりだ⁉︎ 俺はさっさと説明しろと言っているんだ! どういう目的で召喚したのかは知らないが、俺は"世界を救ってくれ"なんて言われてホイホイと頷くような男じゃないからな‼︎』

思わず絶句してしまったノイスに、ダリルがうんざりとした様子で囁いた。

「ずっとこんな様子でな。俺の語彙力じゃ何を言っているのかサッパリ理解できん。なぁ、お前さんならこの御仁が何を言っているのか、分かるか?」

早くもダリルの依頼を受けたことを後悔しつつも、ノイスはこの訳のわからないことを喚き続ける男の通訳という大役をどうやったらこなせるのかと、途方に暮れつつあった。

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