夜の少女がその胸に光を抱くまで

久里

Ⅲ 結末

彼らが黄昏時の森で最後の別れを果たした日から六日が経った。
エマが、婚礼の儀を明日に控えている日のことである。


彼女は、夜の教会の中にいた。


物音一つしない、静謐な空間。
金色の細かい刺繍のなされている青い絨毯が扉から祭壇にかけて真っ直ぐに伸びており、その絨毯の両脇には木製の椅子がずらっと並んでいる。


染み一つない白い壁。
祭壇の周りの壁には色鮮やかで大きなステンドグラスが三枚ほど嵌めこまれている。その祭壇の隣には夜の神の遣いが神聖な漆黒のローブをまとって立っていた。


その日の教会には、エマと彼の他だれもいなかった。


「エマ。あなたもついに明日、婚礼の儀を果たし大人となるのですね」
「……ええ」


人の良さが染み出ているような柔和な顔立ちの夜の神の遣い、ノーチェが優しく彼女に語りかける。


エマは、明日に婚礼の儀を控えているにしてはどこか浮かない顔をしていた。彼はそれを疑問に思ったが、これから未知なる新しい世界に飛び込んでいくという時につきものの不安を抱いているのだろうと解釈した。


彼女は目を閉じて、六日前に最後の別れを遂げたエルのことを思い浮かべた。


黄昏時の金色に染まる森の中で、彼はいつも優しい微笑みをくれた。


光の国からやってきた彼は、彼女に光の国のことを落ち着きのある甘い声でたくさん教えてくれた。


反対に夜の国の特産品を持っていってあまり話すのが得意ではない自分が一生懸命に説明をすると、彼は最後まで自分の拙い説明に耳を澄ませてじっくりと聞いてくれた。それから目を輝かせて、まるで宝物をもらうみたいに喜んでくれた。


不安や心配なことがあった時には、彼女を落ち着かせるためにその腕で優しく抱きしめてくれた。だから彼女はこの十年間、どんなに辛いことがあっても明日からもまた頑張ろうと思えた。


けれど、明日この教会で自分と婚礼の儀を果たすのは、エルではない。
彼女の鼻の奥がつーんとして、翡翠の瞳から透明の粒が流れ落ちそうになったその時だった。


教会の扉が、ゆっくりと開いた。
弾かれたように、彼女が振り向く。
そこに立っていたのは、他でもない、今正に彼女が思い出していた彼だった。

エマは目の前で起こった光景がどうにも信じられなくて、自分があまりにもエルを愛おしんだばかりに自分自身が作り出してしまった幻覚を見ているのかと思った。


「金の……髪……」


しかし、自分の後ろに立っているノーチェが乾いた声でそう漏らしたのを聞いて、彼女はやっと今目の前に立っているのは紛れもない彼自身だと気づいた。


エルは、おぼつかない足取りでふらふらと彼女に向かって歩いてきた。エマはわけが分からなくなって自分は夢を見ているのではないかとも思ったが、そんなことはどうでもよかった。これが夢でも現実でも、こうして光の民である彼が自分に会いに夜の国まで来てくれたということが一番大切だった。


彼が、彼女の前にたどり着く前に苦しげな顔をして絨毯に膝をついた。瞬間、彼女は夢中で彼の元へと駆けより、泣きそうな顔をして彼の肩をゆすった。


「エル!! どうして、どうして……あなたが、ここに……いるの?」


――ちゃんと、触れる。夢じゃない。これは現実なんだ。


彼の肩をゆすりながら、エマはやっとこれは現実だと受け入れることができた。 しかし、何故光の国の民である彼がこんなにもふらふらになってまで夜の国に来たのか。あまりにも無謀すぎる。彼女にはわけが分からなかった。


「ごめん……エマ。色々と説明する時間は……もう、ない……みたい」


とぎれとぎれに放たれた彼の言葉が、彼女の胸に突き刺さる。
それはまるで彼がこのまま消えていなくなってしまうことを予感させるような、弱々しい言い方だった。


エマがくしゃりと顔を歪めた時、彼は彼女を安心させる時に浮かべるいつもの穏やかな微笑を作った。けれど、その微笑みはいつもよりも儚げだった。


「一つだけ、聞くよ。君の、昔に言っていた夢は……今も、変わって、いない?」


その時、彼女の頭の中に走馬灯のように七年前の記憶が色鮮やかに蘇った。


今よりも随分と幼くて、あどけなかった彼が甘い笑顔を浮かべている。

『ねぇ。エマの、夢って何?』


その時の自分は、まるで虫の鳴くような小さな小さな声で、顔を真っ赤にしてこう答えた。


『………………エルの、お嫁さん』


エルはずっと、彼女の夢を覚えていてくれたのだ。
胸が震えて、堰を切ったようにエメラルドの瞳から涙が溢れ出る。


「……変わって……ないわ!」


彼は、彼女の答えを聞いて力なく、けれど幸せそうに頷いた。
エルは力の入らない足に一生懸命力を入れて何とか立ち上がると、ただただ呆然と彼らの様子をうかがっていたノーチェに声をかけた。


「そこの……夜の神の遣いさん。どうか、僕らの婚礼の、儀を果たすために……見守っていて、いただけませんか?」


ノーチェの慈愛の滲んだ柔和な瞳と、彼女の切れ長の翡翠の瞳が同時にこぼれ落ちてしまいそうなほどに大きく見開かれる。


夜の神の遣いの瞳に次に浮かんだのは困惑だった。
彼は、エマが明日の日に別の男性との婚礼の儀を控えていることを知っている。


ノーチェは弱ってその漆黒の瞳をちらりと彼女にやった。
彼女はすぐにノーチェが言いたいことを察したようで、泣きながら彼に向かって訴えた。


「ノーチェ、お願い! 彼と私との婚礼の儀の見届け人となって! 私は本当は……彼以外の誰とも……婚礼の儀を、果たしたくなかったの……」


エマの、つがいを失いかけている鳥のような痛切な叫びに、ノーチェの心も震えずにはいられなかった。


事情はよく分からない。


どうして光の民であるはずの青年が夜の国に来ているのかも、何故夜の民である彼女が出逢うはずのない光の民の彼を知っているのかも。
しかし、彼女のこの青年に対する心が本物であることだけは、火を見るよりも明らかだった。


だからこそ、夜の神の遣いは頷いた。


「…………ええ、分かりました。私が、あなた方の婚礼の儀の見届け人となりましょう」


泣いている彼女の顔に、希望の光がにじんでゆく。力なくしなだれている彼にも、柔らかい微笑が浮かんだ。


ノーチェは一つ咳払いをすると、柔和な顔を引き締めて、荘厳な重々しい語り口で彼らに尋ねた。


「貴方方は夜の神に誓って永遠に互いを愛し抜くことを誓いますか?」


彼らはお互いに顔を見合わせて頷いた。


「「誓います」」


ノーチェもまた彼らの一つとなって返ってきた返事に、重々しく頷いた。


「それでは、誓いのキスを」


エルとエマは再びお互いの顔を見合わせた。


エルが、エマの花弁の唇に顔を寄せる。彼の顔が近づいてくるにつれて、彼女の鼓動は彼の耳に届いてしまうのではないかというくらい高鳴っていた。キスをするのが初めてというわけではなかったが、これは婚礼の儀を果たすための神聖なキスなのだと思うといつもよりもずっと緊張した。


エルの唇が、優しくエマの唇に重なる。
涙に濡れた彼女の唇は、少し塩辛かった。


彼が彼女から顔を離して、優しく微笑んでみせた。

「……ありがとう」


それが、光の民である彼の限界だった。


エルから、白い燐光がひらひらと浮き始めた。柔らかそうな金の髪、彼女を穏やかに見守る綺麗な顔、彼女を抱きしめる腕、弱々しく彼を支えている細い脚、指の先に至るまで、その全てからほのかな白い光が浮かび上がってくる。


彼は、自分の命が夜という闇に吸い込まれていこうとしているのを直感的に感じていた。


「もう……時間が来たみたいだね」


彼女にも、分かってしまった。
夜の闇が、光の民である彼を遠いところへ連れていってしまおうとしていることを。


「嫌っ……! エル、エルっ。行かないで……!」


エマが泣き叫ぶのを、エルは淡い微笑みを浮かべて見守る。彼には彼女の気持ちが痛いほどに分かった。自分がもし彼女の立場だったら同じように泣き叫んだだろうから。


「泣かないで、エマ」


彼の細い指が優しく彼女の白い頬を滑り落ちる真珠の涙をぬぐいとる。
彼は、彼女の耳に口を寄せて、ささやくように言った。


「ばいばい、エマ。僕の……わがままに付き合ってくれて……ありがとう」


彼は最後にいつものとびきり綺麗な笑顔を見せて、ふわりと夜の闇に溶けていった。


後に残されたのは、泣き叫ぶ彼女とそんな彼女を労わるように見つめる夜の神の遣いだけだった。



その翌日、突然、婚礼の儀を取り消すと言い出した娘に怒った彼女の両親は、敬虔な夜の神の遣いに言いつけた。しかし、彼らの娘を説得してほしいという思惑からはずれ、『彼女のためにも、今はそうしてあげてください』と神妙な顔つきで言わてしまったので、彼女の両親は相手方に頼みこんで婚礼の儀を取り消したという。



そうして、時間は巻き戻り、今へと戻る。


当時よりも大人びて更に美しくなった彼女が、長い銀の髪を梳きながらゆっくりと語る。


「本当はあの時、私も死んでしまおうと思ったのよ。彼が私との婚礼のために命をかけてくれたのなら、私もそうするべきではないのかと思ったの」


でもね、旅人さん。と彼女は続ける。


「彼が、命を懸けてまで婚礼の儀を果たしてくれたのは何故なのかってずうっと考えていたの。そしたらある時、ふっと思い浮かんだのよ」

彼女の翡翠の瞳に優しい光がにじむ。


「彼はわたしの中に生きていくことを選んだんじゃないかしらって」


あの時、彼が夜の協会に苦しげな顔をして立っていた時、彼女は強烈に胸を打たれたのだと。彼女は、泣きながら彼とキスした時のことを今でも昨日のように思いだせるという。


「エルは、私が別の誰かと婚礼の義を果たしてやがて自分以外の誰かを愛し、自分のことを忘れてしまうのが怖かったんじゃないのかしら」


だからこそ彼は命を賭してまで自分と婚礼の儀を果たしたのではないかと、彼女は思った。そうすることで彼は彼女の記憶の中に自分を鮮烈に焼き付けたのではないか、と。
たとえ、そうすることによって自分の命が途絶えてしまうと分かっていてさえ。


「……今でも彼は、私の中で生きているわ。だから、わたしが彼の後を追うだなんて言って死ぬことは許されないんじゃないかなって思ったの。だから私は、彼を胸に抱いてとことん生きていくことに決めたわ」


――そうしてその彼の願いは彼女に届いたのだな、と旅人は彼女が語るのを聞いていて思った。


彼女は長らく昔のことを想起していたせいで疲れたのだろう、ふぅと息をついた。


彼女は長い間過去の記憶に浸っていたせいで、違和感なく目の前の旅人に向かって今の自分の思いまで語った。しかし冷静に思い返してみると、自分はただ昔話を想起していただけで、彼に自分の思い出話を語って聞かせたわけではない、ということに気づいて赤く頬を染めた。


「ごめんなさい、つい余計なことまで喋ってしまったわ……」


そして、彼女はずっと疑問に思っていたことを口にする。


「……それにしても、どうして私に自分にとって一番印象的だった過去を思い出してほしいなんて、言ったの?」


旅人は淡く微笑んだ。


「それは、秘密です。幻想的で……少し苦いけれど、とても美しい物語を聞かせていただいて、本当にありがとうございました」


彼女は目を丸くした。


自分は一言も語っていないのに、どうして彼に自分の過去の話が伝わったのだろうかと。


旅人は、人が過去を想起している時にその過去に入り込み、その過去に出てくる人々、つまりは登場人物の気持ちを追体験することができるという能力を持っていた。


つまりは、人の過去の物語の読み手となることができるのだった。


彼は彼女に一礼をし、彼女の家から出て行った。


月光が彼のフロックコートを照らす中、彼は澄み切った夜空の下を颯爽と歩いてゆく。


旅人は今日も、美しい物語を求めて世界を旅をし続けている。

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