夜の少女がその胸に光を抱くまで

久里

Ⅱ 夢






翌日、少女はまた家の外から出る口実として母からのお使いを引き受けると外に飛び出した。腕時計に目をやると、ちょうど長針が五の字を指している。世界が黄金色に染まる、黄昏時がやってくる頃だ。


エマは息を切らして金色に染まる森の中を駆け抜けていった。
彼女が走る度に銀色の髪がさらさらと靡き、銀の粒子を散らしているようにも見える。森の地面を踏む度に、土の香りがふわりと彼女の鼻をくすぐった。


エルにまた会えるのだという喜びと、彼が約束を破るかもしれないという恐怖が同時に彼女の胸で渦巻いていた。


――彼は、どこ? どこにいるの?


言葉にならない心の悲鳴が、彼女の足を駆り立てる。
少女が夢中で彼を探して走っていた、その時だった。


「エマ。そんなに焦ってどこに行くの?」


聞き覚えのある、甘く、優しい声。


エマが咄嗟に振り返ると、エルが昨日と変わらず見る者を安心させるような穏やかな笑みを浮かべて、目の前に立っていた。その瞬間、彼女の心は母に抱きしめられた時のようにほっとした気持ちで満たされた。


けれど、同時に自分がこんなにも息を切らして懸命に彼を探していたのだと本人に知られることはどうにも恥ずかしくなり、エマはそっぽを向いて素っ気なく答えた。


「……べ、別に。何でもない」

彼は目を丸くして、その後、くすりと笑った。
すぐに、彼女の頬が薄紅色に上気していたことに気づいたからだ。


エルは彼女の素っ気ない返答に対してあえて何も言わずに、ただ青い瞳を細めて彼女をじっと見ていた。その紺碧の瞳には、少女を愛おしむ気持ちが滲んでいた。


「ねぇ、エマ。今日は、君に見せたい物があるんだ」


そう言って彼は、手につまんでいた物を彼女に掲げて見せた。
彼女はそれを目にした瞬間、息を呑んだ。


彼の白魚の指につままれていたものは、実の部分が絵本で見たお日様のような黄色をしているチェリーだった。彼女は呼吸をすることも忘れて、彼の指元で揺れているチェリーを食い入るように見つめていた。


夜の国にも、似たような果物はある。けれど、エマの見たことのあるチェリーはいつも黒ずんだ赤い色をしていた。こんなに鮮やかな黄色のチェリーなんて見たこともない。


「これは、ルクスチェリーという果物だよ。光の国の特産品なんだ」
「ルクス、チェリー……」


光の国の特産品、という言葉に彼女の耳はぴくりと反応する。
自分には永久に行くことのできない場所にしか成らない果物。
そう思ったら途端に目の前で揺れているこの果物がひどく神聖なものに思われた。
口にしたらどんな味がするのだろうか、と考えて彼女が唾を飲み込んだ時、エルが彼女の目の前にそれを差し出した。


「これ、エマにあげる。食べてみて?」
「いいの……?」
「もちろんだよ。僕はいつでも食べられるからね。君に食べてほしくて、持ってきたんだよ」


彼に優しく微笑まれて、また彼女の胸はどぎまぎした。彼女がおずおずと手を差し出すと、彼は彼女の小さな掌の上に優しくルクスチェリーを載せた。
少女はそれをつまむと、そろそろと自分の口の中に入れた。
瞬間、幸せな甘さとほのかな酸味が口いっぱいに広がり、彼女は目を瞠った。
ルクスチェリーは、彼女の知っている皮の分厚いチェリーとはまるで別物のようだった。それは、皮が舌の上で溶けるように柔らかく、甘みがとても強かった。
あまりにもおいしくて、エマの目元は知らず知らずの内に緩んでいた。


「どう?」
「とっても、とってもおいしかったわ。エル、ありがとう」
「それなら良かった。そんなに気に入ったなら、また持ってくるよ」


『また持ってくる』という何気ない彼の一言が、彼女の心臓を鷲掴みにした。
またエルと会えるのだ。
彼がさり気なく次の約束をくれたことが嬉しくてたまらなくて、エマは今までエルに見せたどの顔よりもとびっきりの笑顔で、彼に告げた。


「ええ。その時には、私もあなたに見せたいものを持ってくるわ」



こうして二人にとって、黄昏時に会うことは日課になっていった。


少女は、毎日お使いに出かけるふりをしてエルに会っていた。家に帰る前にちゃんと言われたものを買ってくるようにしていたので、家族から不審がられることも咎められることもなかった。たまに帰りが遅くなると、心配した母が何かあったのかと聞いてくることもあったが、途中で友達と会って立ち話をしていたと答えればそれ以上の追及は免れることができた。


初めの内は、互いの国の特産品を持って行き、交換することが多かった。段々打ち解けていくにつれて物がなくとも会話がはずむようになり、互いに自分の国の話を語り聞かせるようになった。聞いた話は、互いの胸の中でかけがえのない宝物となった。


毎日会えたわけではないが、会える日にはなるべく会おうと互いに務めていた。
そうして、初めて二人が出逢ったあの日から、三年の月日が経った。


ある時――蜂蜜色に染まった木々の下で、二人肩を並べて座っていた時のことだ。
一旦話が落ち着いて、エマが小鳥のさえずりや木々が風に揺れる音に耳を澄ませていたその時、エルは何気なく問いかけた。


「ねぇ。エマの、夢って何?」


すると、彼女の太陽を知らぬ白い頬が、突然朱を差したように赤く染まった。


エマはもじもじとうつむくと決心したかのように小さく頷いて、彼の方へ向き直る。エルは、彼女に真正面から真剣に見つめられてどぎまぎした。


「…………笑わない?」
「うん。どんな夢でも、絶対に笑わないよ」


彼女は再びうつむくと自分の膝に顔をうずめたまま、彼の耳に届くか届かまいか危ういくらいの小さな声で、ぼそりと呟いた。


「………………エルの、お嫁さん」


清々しい朝の空を映しこんだような青い瞳が、大きく見開かれた。


見ると、彼女の耳は、身の回りのあらゆる物に宿っている全ての熱を吸いつくしてしまったのではないかというくらい真っ赤になっていた。


エルは、胸に暖かい光が流れこんでくるような幸せな気持ちでいっぱいになった。


照れ屋な彼女が頑張って自分の気持ちを口にしてくれたこと、口にしてしまったことで見ているこっちが心配になるほどに耳を真っ赤にさせている彼女がとても愛おしくて、彼はこのまま時が止まってしまえば良いのにとすら心のどこかで願っていた。


「……そう。エマの夢が叶ったら、僕も、とても嬉しいよ」
「本当に? 本当に、そう思っている?」


エマがパッと顔をあげて、彼に矢継ぎ早に問いかける。
彼女の深い緑の森を映しこんだ瞳は、不安そうに揺れていた。


だからエルは、彼女に自分が今どれだけ幸せな気持ちでいるかがちゃんと伝わるようにと願いを込めて微笑んだ。


「うん。本当だよ」


それは、女の子ならば誰でもとろけ落ちてしまいそうな、綺麗な笑顔だった。
この時二人は、世界中の恋人同士の誰もが羨むほど、幸福な気持ちで満たされていた。







時の流れは早いもので、あっという間に七年という月日が経った。
初めて彼らが会った日から、もう十年も経った。


二人とも、初めて会った時に比べるとすっかり大人びていた。エマは凛々しい顔立ちのスレンダーな美人に、エルは優しい顔立ちの美青年に成長した。


それでも彼らは子供の時と変わらず、黄昏時になると森の中で会っていた。
忙しくて会えない日が続く時もあったが、二人ともずっと会わないでいると気持ちが破裂してしまいそうなほどに膨れ上がっていたので、最低でも週に一回は会っていた。

しかし、そんなある時、約束していた日にエマが森に姿を現さなかった。


彼がどんなに森を駆けずり回って叫んでも、あの涼やかな透明な声は返ってこない。ついに森をぐるりと一周しても彼女が見つからなかった時、彼の心はひどく動揺していた。


彼らは何かがあって急に来られなくなった時には、森のとある大木の幹に伝書鳥を飛ばし相手に事情を伝えるという約束をしていた。しかし、その伝書鳥もいつもの大木の幹に止まっていない。


彼女が約束の日に彼に何も知らせることなく来なかったことは、今まで一度たりともなかった。
もしかしたら彼女に何かあったのかもしれない、という考えが彼の頭をよぎる。冷たいものを直接心臓に押し当てられたような気分だった。

もうすぐ夜がやってきてしまう。
光の民である彼は何としても日が暮れる前には自国に帰らなければならない。
その日、彼は大木の下に腰かけて黄昏時が終わるギリギリまで彼女を待ったが、ついに彼女は姿を現さなかった。彼は彼女のことが心配できりきりと痛む胸を手で押さえながら、重い足を何とか引きずって森を後にした。


その翌日、エルは今日こそは彼女に逢えるだろうと期待して、森の中に足を踏み入れた。


彼はその日も黄昏時が終わる直前まで彼女を探したが、彼女はとうとう姿を現さなかった。


その日も、伝書鳥は大木の幹に止まっていなかった。


エルは、心が擦り切れるほどに彼女のことを思い、心配した。


せめて彼女の安否だけでも確認したくて伝書鳥を飛ばそうと思ったが、彼は彼女の家の所在を知らなかった。勿論、彼が知らないものを伝書鳥が知っているはずもない。今までは、森の大木に飛ばせさえすればそれで事足りた。彼らはそれくらい深くお互いのことを信頼しきっていたのだ。
しかし、十年もかけて作り上げてきたその絆も今や風前の灯なのかもしれないと、彼は絶望した。

初めてエマが約束を破った日から、二日が経った。


その日は、細い雨がしとしとと降っていた。


エルは、半分以上今日も彼女と逢うことはできないのかもしれないと諦めかけていたが、もしかしたらまた逢えるかもしれないというわずかな希望を捨てきれずにその日もまた森に顔を出した。


雨独特の匂いが彼の鼻をかすめる。水たまりを踏み、跳ねた土でズボンが汚れてしまったことも気にならないくらい、彼は放心していた。


ここ二日間、彼女のことを探し続けた彼は身も心もやつれきっていた。もう、忙しく森を駆けずり回る体力なんてない。彼女の名前を呼び続けることすらできなかった。


細い銀の雨がしとしとと降りしきる中をとぼとぼと歩いて行って、彼は大木の前に辿りつくと、自分の頭の上に手にしていた傘を載せ、くたびれたように座り込んだ。


もう、このまま彼女とは一生逢えないのかもしれないという絶望が彼の頭をかすめたその時、彼女がふいにエルの前に姿を現した。

エルは、信じられない気持ちで自分の前に立っている彼女の姿を見上げた。


再び彼女の顔を目にした瞬間、また逢うことができたという喜びと安心感が噴き出すのと同時に、どうして一切の連絡もくれずに約束を破ったのだという怒りと哀しみが湧きだした。あらゆる感情が嵐のように吹き荒れて、彼の胸は張り裂けそうだった。


しかし、彼女が傘も差さずに息も絶え絶えで彼の前に立っていることに気づいた時、エルの中では何よりも彼女を心配する気持ちが強くなった。


「エル……! 何も伝えずに、ずっとここに来れなくて……ごめんなさい」


彼女があまりにも悲痛そうな声で、哀しげに目を伏せてそう言うものだから、彼は彼女をますます心配せざるをえなかった。


走ってきたのか長く美しい銀の髪は振り乱れており、傘を差さなかったせいでその身にまとった漆黒のワンピースはすっかり濡れてしまっている。何よりも、いつもエルと会うと少し恥じらったような可憐な笑みを見せていた彼女が、ひどく浮かない顔をしている。その顔は、幽霊よりも蒼白い。


「エマ……。何か、あったの?」
「エル。……私達が逢えるのは、今日で最後になるわ」


あまりにも唐突すぎる別れの言葉。


――彼女は、今、何て言った? 私達が逢えるのは、今日で最後だと……そう、言ったのか? そんな、そんなことがあるわけ……。


彼の頭は、今彼女の発した言葉を完全に拒絶した。
そんなの嘘だ、冗談に決まってる、と考えることで彼はどうにか精神を保った。


彼が凍りついた表情をして呆然と彼女を見上げているのを見て、彼女の心臓は引きちぎられるようだった。けれど、エマはどうにか心が痛いのをこらえて、何とか無理に笑おうとした。


「エル、そんな顔をしないで。……そんな寂しい顔をされたら、別れが辛くなるわ」


彼は、もう我慢できなかった。


傘を地面に叩きつけてそろそろと立ち上がると、彼女の細い肩を激しく掴んだ。
彼女は驚いたように彼を見て、肩をこわばらせる。


その時の彼の瞳には、いつも穏やかな彼からは想像もつかないほど、激しい怒りが燃え盛っていた。

「…………どういうことなの? 何も伝えずに約束を破って、やっと姿を見せたと思ったらわけも話さないまま僕の前を立ち去るっていうの? そんなの、絶対に許さない……!」


叩きつけるような激しい感情のこもった彼の言葉に、彼女の胸はひどく震えた。


エルは、彼女の細い肩に食い込むほどに指に力をこめた。
彼女の肩を掴む彼の指からは、エマを離すまいと叫ぶ彼の心が直接彼女の胸に流れこんでいくようだった。


彼女も、もう、限界だった。


ここに来て、彼と再び顔を合わせる前までは、何もわけを話さずに彼の前から姿を消すのだと、心に堅く誓っていた。


しかし、そのことが今彼をこんなにも苦しませているのだと思うと、彼女はもう何も言わずに立ち去ることはできなかった。


彼の指が疲れてきてしなだれたその時、彼女はたっぷりと間をおいて、今にも風にさらわれて消えてしまいそうな頼りない声で、彼に残酷な真実を突きつけた。


「…………私ね、結婚するの」

「夜の少女がその胸に光を抱くまで」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く