夜の少女がその胸に光を抱くまで

久里

Ⅰ 出逢い

「旅人さん。今から思い出すのは、どこにでもありふれていそうで、ちょっぴり風変わりな男女の恋物語よ」


腰辺りまで伸ばした長い銀の髪を梳きながら、彼女はそう告げた。


「もう何年も前のことになるのに……私は今でもあの日々を、昨日のことのように、鮮明に思い出せるわ」


そう語る彼女の翡翠の瞳には、優しい慈愛がにじんでいた。
ゆっくりと、彼女のまぶたが落ちてゆく。
目の前の彼女が記憶の波にその身を沈めてゆく様を、旅人は穏やかな気持ちで見つめた。







時は、十五年程前に遡る。


夕日で黄金色に染まる木々の中を、一人の銀髪の少女が歩いていた。
齢は八歳程度。月の光を紡いで作ったような、銀の髪。エメラルドグリーンの切れ長の瞳。白い木綿のワンピースからは、しなやかな四肢が艶めかしく覗いている。


彼女の名前はエマ。夜の民の少女である。


夜の民とは、夜という特別な環境の下にしか生きられない不思議な民族のことである。彼女の肩下あたりでさらさらと揺れる銀の髪も、夜の民特有のものである。


世界には、等しく日が昇って朝がきては、日が暮れるとともに夜が訪れる。


しかし、わずかながらにその例外も存在する。
その一つが、夜の下でしか生きられない民族が暮らしている、夜の国である。


夜の国には、朝や昼といった概念が存在しない。そこには常に夜だけが存在している。いくら世界が清々しい朝を迎え、黄金に染まる夕方を迎えたとしても、夜の国だけは常に宵闇に包まれており月光がしんしんと降り注ぐ。だからこそ、夜の国は、夜の民が安心してずっと暮らしてゆける世界で唯一の国である。

夜の民が国外に出ることを許される時間帯は、限られている。


一つは、世界に月が姿を現し始める頃。


もう一つは、日が正に暮れてゆく最中。
人々は、世界が黄金色に染まるわずかその一時間のことを、黄昏時と呼ぶ。


「本当に、どこもかしこも金色に染まっているわ……とても、綺麗」


凛とした、それでいてまだあどけなさの残る声が、しんとした森の中にすっと溶けてゆく。知らず知らずの内に、彼女の細い喉から感嘆の息が漏れていた。
いつも彼女の見てきた夜の森とは、全く違う。蜂蜜色の光がとっぷりと流し込まれた森は、まるで絵本を見ているかのように美しかった。


生まれてから八年間、彼女は夜しか知らなかった。


勿論、国の外の世界には毎日、日が昇っては沈み、朝、昼、夕方が来て、そしてやっと夜が訪れるのだということは知っている。授業で先生が言っていたからだ。
しかし、いくら頭の中に知識があったところで、実際に目で見て身体で体感しないことには本当の意味で知ったことにはならない。そういう意味では、彼女は今まで夜しか知らなかった。


といっても、夜の民が、夜しか知らないのはごく自然なことである。
彼らは、ほとんど国の外に出ない。


夜の国には国外に出ずとも、民が十分に暮らしていけるだけの資源が豊富にある。
どうしても国外に出ることが必要な場合だけ稀に、完全に世界から日が落ちた頃を見計らって外に出ることもあるが、それも夜が明ける前までに必ず自国に戻れる保証がある時だけだ。


しかし、エマは授業で習った、朝、昼、そして夕方というものにとてつもなく惹かれた。


先生は、世界が朝や昼の時間帯に国の外に出ることは自分たち夜の民にとって命を落とすことに繋がるが、夕方――世界が金色に染まる黄昏時には、外に出ても大丈夫だと言っていた。いつも皆が見ている夜の闇に包みこまれている国の近くの森も、その時ばかりは優しい黄金色に染められて、とても美しいのだと。


頬を淡く桃色に染めてうっとりと語った先生は、あどけない瞳を大きく開いて先生の話を興味津々に聞き入っている生徒たちを見て、ハッと我に返った。


そして、取り繕ったように慌てて「だからといって、黄昏時には国の外に出ていいっていうわけじゃないのよ。もし、少しでも時間帯を間違えて、まだ黄昏時になる前に国の外から出たりしたら、大変なことになっちゃうからね」と付け足したのだが、時、既に遅し。

黄昏時という言葉は、不思議とエマの心を捉えて離さなかった。


世界が金色に染まるという、優しい時間。


黄昏時ならば夜の民の血を受け継ぐ自分でも、国の外に出ることができるのだ。
考えるだけで、胸が甘くうずいて、ドキドキした。


少女は、何としても黄昏時に国の外に出てみたいと思った。
そして、この目で実際に確かめて、感じるのだ、と。


その時間帯に家の外に出る口実は、お母さんからのお使いを引き受ければ住む話だ。その足でそのまま国の外に出ればいい。少し経ったらちゃんと言われた物を買って家に帰れば何の問題もない。


かくして少女は、初めて夜以外の時間に、国を飛び出した。
この日、少女は初めて黄昏時というものを本当の意味で知った。

エマの胸が、感動でうずいていたその時だった。
彼女の前方の木々が、ざわざわと揺らめく。彼女の肩がびくっと跳ねた。そして、瞳に警戒の色を滲ませながら前の木々をじっと見つめた。


やがて、その木々の間からひょっこりと姿を現したのは、一人のまだあどけない少年だった。


その姿を捉えた瞬間、彼女の翡翠の瞳が大きく見開かれた。


彼は、彼女が生まれてこの方見たこともなかった、金色の髪をしていたのだ。
それに、絵本で見た朝の清々しい空を写しこんだ様な青い瞳をしていた。
そして、その大きな瞳は、彼女と同じように大きく見開かれていた。


「銀の……髪」


少年の、まだあどけなさの残る、透き通った声がぽつりと静粛な森に零れ落ちた。


彼は、彼女の肩下辺りまで伸びた美しい銀の髪にすっかり目を奪われている。彼女もまた、彼の柔らかそうな金の髪に目が釘付けになっていた。


「君はもしかして……夜の、民なの?」


やがて、お互いの髪の色に目を奪われていた青の瞳と緑の瞳が相手の顔を見ようとしてぎこちなく交差して、彼女の胸は高鳴った。


――なんて、綺麗な青い瞳なのかしら。絵本に出てきた朝というものの空と、全く同じ色だわ。


エマはその瞳を見て相手に敵意がないと悟り、おずおずと頷いた。
そして、勇気を振り絞り、震える声で彼に尋ねた。


「……あなたは、誰? どこから来たの?」


彼の形の良い唇が、優しくほころんだ。
エマが、自分に心を開こうとしてくれているのを感じ取ったのだ。


「僕はエル。光の国から来た、光の民だよ」


光の民。
彼女のエメラルドの瞳が、零れ落ちてしまいそうなほど大きく見開かれた。


授業で、先生が言っていた。


世界には等しく日が昇り朝がきて、日が暮れるとともに夜が訪れる、と。
しかし、わずかながらにその例外も存在する。
その一つが、夜の民が暮らしている、夜の国。


そしてもう一つが、太陽の下にしか生きられない光の民が暮らしている、光の国だと。そこでは、夜の国とは正反対に、永遠に朝と昼しか訪れない。
そこに暮らす光の民もまた、夜の民と全く正反対の性質を持っている。光の民は朝、そして昼という特別な環境の下にしか生きられない。逆に言えば、彼らにとって夜の下に出るということは命を落とすことを意味する。


夜の民と光の民。
本来ならば、絶対に出逢うはずのなかった二人。


「私は……エマ。夜の国から、来たのよ」
「そう。ならば、君も世界が黄金色に染まるこの時を、見にきたのかな?」


エルが花が開くように笑って首をかしげたのを、彼女はどこか夢見心地で見ていた。


そよ風にさらされてふわふわとなびく、日の光を編んで作ったような金の髪。優しい光をにじませた、深く青い瞳。抜けるように白い肌。男の子にしては華奢な体つき。


おとぎ話に出てくる王子様みたいな男の子だと、彼女は思った。


エルが、彼女が呆けたような顔つきで自分を見ていることに首をかしげた時、エマはようやく我に返った。彼女の頬が、淡く朱色に染まる。


「うん。本当は夜にしか国の外に出ちゃいけないけど……どうしても、世界が金色に染まるこの時を、見てみたかったの」
「僕も。夜はダメだけど、黄昏時ならば光の民の僕らでも外に出て大丈夫だと聞いたから」


エルはそう言って、腕時計に目を落とした。
彼の瞳に哀しげな色が浮かんだのを見て、彼女の瞳は不安げに揺れる。


「でも、もう時間みたい。そろそろ、国に帰らなきゃ」


そう言われて、エマも慌てて自分の腕時計に目をやる。長針はそろそろ六の字を差そうかという頃だった。黄昏時が終わりに近づき、世界に夜が訪れる頃だ。


エルは彼女を見て、口元に儚げな笑みを浮かべると


「じゃあね、エマ」


彼女から背を向けて、遠ざかってゆく。
エルが彼女に背を向けたその時、彼女の胸に、雷で撃たれたような衝撃が走った。
このまま別れてしまったらもう二度と会えないという予感が、彼女の胸をひどくざわつかせる。


それは、嫌だと心が叫んでいた。
どうにかして絞り出した掠れた声で、彼を呼び止める。


「ま、待って……!」


彼が、ゆっくりと振り返る。
彼女は鼓動が高鳴るのを感じながら、心細そうに、彼に尋ねた。


「また……明日もここに、来てくれる?」


エルに少しでも自分と同じ気持ちが芽生えていることを手に汗握るほど祈り、彼女は彼のサファイアの瞳をじっと見つめる。
すると、彼の顔にふわりと穏やかな笑みが滲んでいった。


「うん、いいよ。世界が黄金色に染まる頃、またここに来るね。約束だよ」


こうして、出逢うはずのなかった二人は出逢い、約束を交わした。

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