転生少女は王子様をハッピーエンドに導きたい

久里

第25話 急変

談話室を飛び出してから、心臓を潰れるんじゃないかってくらい酷使して、走りました。


彼の背中が吸い込まれていった方へと、ありったけの力を足に込めて、全速力で城の廊下を駆け抜ける。すれ違った見回りの兵士にぎょっと目を剥かれたけれど、そんなの構っていられません。


さっきのエルシオ様の瞳は――今まで見たことがないくらい、紅く濡れていた。
まるで血塗られたようなその赤は、彼の背負う過去を彷彿とさせる赤だった。


早く、早く、エルシオ様に追いつかなくちゃ。
今の彼を放っておいたら、取り返しのつかないことになってしまう。
悪い予感が足元から黒い霧のように立ち昇ってきて、尋常でないくらいに汗が湧きだしてくる。
全力で走っているせいで、息苦しくて、肺が痛い。それでも、止まれない。


無我夢中で廊下を突き進むとやがて王城の中心部へとたどり着いて、視界が大きく開けました。中心部の丸い空間に入ったところから直線状に伸びている真っ赤な絨毯の敷かれた階段を猛スピードで駆け昇っていった彼は、私が階段に足をかけた瞬間、颯爽と振り返りました。


その瞬間、火がついたように走り続けていた足は即座にぴたりと止まり、身がびくりと震えました。階段の上から私を睥睨する彼の瞳には、いつになく激しい憎悪の炎がゆらめき、燃え盛っていました。


「………………来るな!!!!」


地獄から這い上がってきたような低いその声は、空間そのものを振動させるかのようで。
その声にこめられたありったけの激情が、急速に私の心臓を締め上げる。


「………………これまで何も知らずにのうのうと過ごしてきた愚かな私を、憐れみにでも来たつもりか?」


どうして……………?
喉に熱い塊がこみ上げてくるのを、無理やりに呑みこんだ。
私は彼の……こんな、苦しみに満ちた顔が見たかったんじゃないのに。


「エ、エルシオ様っ? なにを言ってっ」
「この期に及んで、まだしらばっくれるつもりなのか? ………こんなことになると分かっていたならっ! いっそのこと、こうなる前に全てを焼きつくして、永遠にしてしまえば良かったっ」


狂おしげに吐かれたその言葉は、私の胸を鋭く刺しぬいた。


私が誰よりも幸せにしたかった目の前のこのお方は今……真っ黒い闇に呑みこまれて、今まで見たこともないほどに絶望している。彼の絶望が、私の胸にまで直接なだれ込んでくるようで、目の前が真っ暗に染まっていく。


「でも…………もう、終わりだ。真実を知ってしまった今は、何もかもが……虚しい。…………金輪際、二度と私の前に姿を現してくれるな。今、すぐに、私の前から立ち去れ!」


他でもない彼がその言葉を放ったその瞬間、私の世界の全ては、バラバラに崩れ去った。


「っっ」


死ぬ気で歯を食いしばって振り返り、言われるままに、彼に背中を向けて走った。


熱い涙が滝のようにこぼれ落ちるのを、どうやっても止められない。泣きすぎて、このまま干上がって、死んでしまうかもしれない。それでも構わない。いっそのこと、このまま一思いに死んだ方が、この哀しみに耐えるよりもずっとずっと楽かもしれない。


『金輪際、二度と私の前に姿を現してくれるな。今、すぐに、私の前から立ち去れ!』


耳の奥で、何度も何度も、彼の言葉がリフレインする。
そのたびに、私の心臓は真っ赤な血を噴き上げる。頭がかち割れそうなほどに痛い。灼熱の火のナイフで、身体中を抉りまわされているかのようだ。


さっき、『そんなの嫌です』って彼に泣きつくことができていたら、何かが変わっていたのだろうか。
でも、そんなこと言えなかった。言えるわけがなかった。
他でもないエルシオ様に、私は本当の意味で拒絶されたのだから。


身体を何度も踏みつけられて、引き裂かれて、果てには魂まで抜き取られてしまったようだった。完膚なきまでに身も心もボロボロになって、底の見えない闇の深淵に堕ちていく。


どうにかして部屋まで辿りついた私はそのままベッドに倒れこむと、身を震わせながら、眠りにつきました。呪詛のように脳内にこびりついた彼の拒絶の言葉から、逃げるようにして。



エルシオ様に完全に拒絶された翌日も、その翌日も、そのまた翌日も残酷なほどに等しく朝はやってきました。カーテンの隙間からこぼれ落ちる清らかな朝日は私を嘲笑っているようでした。


あの日から、私の世界は死に絶えました。
目に映る景色の全てが、以前よりも色褪せて見えました。
何を食べてもあまり味がせず、食事とはこんなにも味気ないものだったかと首を傾げました。


それでも仕事を休むわけにはいかなくて、ぽっかりと大きな穴の空いた心を抱えながら、どうにか手だけは動かしていました。


本日の最初の仕事は、洗濯です。


よろよろと軍人さん達の大量の洗濯物をつめこんだ籠を手にして、物干し竿がずらっと並んでいるバルコニー部分に出ます。お日様の光が柔らかに降り注いでいて、風が気持ち良いです。あたたかい外の空気を吸いこみ、空っぽになった心が温まりかけた、その瞬間。


このバルコニーは庭園側へと張り出ているので、目を凝らすと、庭園の様子がよく分かるのですが――


私の良く知る人物二人が肩を並べて庭園に訪れてきたのが目に入った瞬間、私は危うく手にしていた洗濯物を取り落すところでした。


――それは他でもない、エルシオ様と、ティア様なのでした。


その光景の絶望的なまでの吸引力に、このまま目玉がこぼれ落ちてしまうのではないかと思う程に、凝視しました。


心拍数が、瞬く間にあがっていく。


エルシオ様はともかくとして……ティア様ともここ二日間、ほとんどまともにお話しできていない状態だったのです。


というのも、私は今まで通り彼女を見張るためにも彼女の仕事の手伝いを進んで申し出たのですが、ティア様の方からやんわりと断られてしまっていました。仮にもあの日私は、シャルロ様のことが気になると口にしていたティア様を堂々と邪魔したようなものですから、その後ろめたさもありなんとなく彼女とも気まずくなっていたのでした。彼女はお優しいから顔には微塵も出さないけれども、心の中では死んでほしいと願われているかもしれない……と、内心びくびくしておりました。


しかし、まさか、私の預かり知らぬ間に、エルシオ様とティア様の間に進展があったとは。


びっくりしすぎて肝がつぶれるかと思いました。


私はお二人に見つからないように小さく屈んで、バルコニーの柵をしかと握りしめました。
息を潜めて、二人の様子をじっとうかがいました。


エルシオ様とティア様は、庭園の噴水の前にあるベンチに二人並んで腰かけました。お互い隣に座っているというのに相手の顔をきちんと見ようとせず、前を向いているのがぎこちないです。しかし、その拙さが、まさに淡い恋の芽生えかけを現しているかのようで、私は胸倉を強く掴まれたかのようでした。


残念ながら、ここからではどんなに耳を凝らしたところで、二人がどんな会話をしているのかまでは全く分かりません。


しかし、確実に二人の間に変化が起きたことだけは、火を見るよりも明らかなのでした。数日前までは、前代未聞の険悪ぶりだったらしいのに、一体二人の間に何が起きたというのでしょうか。


突然の急展開に、頭をぐるぐると混乱させながらただただお二人の姿を呆然と眺めていたら、エルシオ様が、その綺麗なお顔をティア様の耳に顔を寄せて、心臓をぎゅっと握りつぶされるかのようでした。


ともすれば、そのまま耳に口づけしかねない、近すぎる距離。


驚きすぎて石になってしまったかのように固まっていたら、やや彼女から離れたエルシオ様が今度はそっとティア様の頭に手を載せたのでした。


心臓が割れるかと思いました。


ティア様がエルシオ様のことを恐々と見つめ返して――


――もう、もう、これ以上は、見ていられませんでした。


私は息も絶え絶えに、その光景から逃げるようにして城の中に戻りました。そのまま廊下を突っ走り、ただ自分の部屋を目指して走り抜ける。その激走ぶりは、廊下を行く人たちを何人振り返らせたことか分からないほどでした。洗濯籠も放置来てしまう程に、パニック状態でした。


自分の部屋に到着するなり、ドアを背にしてへなへなと座り込みました。


二人の間に何が起きたのかは分からない。


けれども、経緯はどうあれ、お二人の間柄に何かしらの変化があったことだけは確かでした。


彼らの距離は確実に縮まりつつあったのです。

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