茜色の錬金術師と餓えた少年が出会い事件を起こすまでの顛末
第3話 ぼくは先生さえいれば幸せ
一ヶ月が経ち。二ヶ月が経ち。
季節が次へ移り、またその次へ。
学びの日々が積み重ねられていき、ウィルが茜色の女性の教育を受け始めてから二年が経過した。
十三歳となったウィルが学ぶ内容はより高度になっていた。
テーマについて考えをまとめ、文章にして書く練習。教師はウィルが自分の考えを表明すると特に褒めた。
自然界に存在する様々な法則を教えられた。生き物の身体と霊魂の仕組み。魔法の初等理論。自然な状態における物体の挙動。女性は博識で、ウィルが尋ねるどのようなことにもすぐ答えを返すか、答えを導き出すために適切な案内を与えた。
この社会の成り立ち。帝国が興る前のこと。帝国が成立してから今へ至るまでの経緯。帝国の統治方法。市民が構成する経済活動や、裏で生きる者達の知られざる掟。ウィルは先生に教わって初めて、自分の父親の「騎士」という身分が何であるのかを知った。
そして、武器の振るい方や魔法の使い方。ウィルは剣術と変性術に適性を見せた。そのため教師は長剣と盾の用い方、変性術で皮膚を硬化させ鎧を着ずとも防御力を上げる方法などを教えた。彼女は錬金術も教えたかったが、ウィルはどうしても上手くできなかったため、苦手な分野で無理をすることはないと諦めた。
実戦訓練も行われるようになった。教師はお金を稼ぐ手段として、錬金術で有益な薬を作り、それを薬屋に販売するという手法を取っている。その材料は店で買うこともあったが、周辺地域で採取できるものであれば彼女は自らの足でそれを取りに行った。数ヶ月前からウィルもその素材採取遠征へ同行することが許され、武器を手に取り市の城壁の外へ出向くようになっていた。
今日は人間と同程度の体高を持つ巨大アリの外骨格と毒袋を採取するために城壁の外へ行った。ウィルがアリ一匹を相手に辛勝を収めたのに対し、先生は十匹以上を相手取っても臆せず戦鎚を振り回し、大した苦労をせずに殲滅していた。
市内で先生と別れた帰り道。夕日が伸ばす自分の影を見ながら、ウィルは言われた言葉を頭の中で反芻する。「殺意が足りない」と先生は言った。殺さなければ素材は手に入らないのであるし、巨大アリは人間を見つけるや捕食しようとしてくる。だから殺す気で行かなくてはいずれ死ぬことになると先生はウィルに言い聞かせた。
彼女と共に素材採取へ行くようになり、ウィルは城外で幾度かモンスターを殺した。しかしながら、命を奪うことをどうしても躊躇してしまい、剣さばきが鈍くなってしまうのだ。
経験を積めば慣れると先生は言う。ウィルは、どれだけの経験を重ねる必要があるのか見当も付かなかった。
鎧を着て盾を背負い、剣を腰から提げたままウィルは自宅に帰った。
疲れた足を引きずりながら自室に入る。そのままベッドに飛びこみたい衝動を何とか抑え、部屋が完全に暗くなる前に武装を解いていく。先生があらかじめ用意していてくれた薬を浴びていたので蟻酸による攻撃は有害な影響を及ぼすことこそなかった。しかし対抗薬と蟻酸とが混じりあった結果、悪臭を発した。泉で水浴びをして大体は落としてきたのだが、まだにおう気がする。体を拭くために湯を持ってこようと、ウィルは自室から出た。
「おい、ウィルバー」
赤い絨毯が敷かれた廊下を過ぎ、一階へと続く階段を下りようとしていたところでウィルは声をかけられた。体が硬直する。
「なにしてるんだよ。うわ、くっせえ」
異母弟のデフロットは臭気に顔をしかめた。確か彼は今年で十歳のはずだとウィルは曖昧な記憶を探る。
「臆病者のあんたが剣と盾、それに鎧を着て、騎士見習いにでもなったつもりか? アンセレット家を継ぐつもりなのか? あんたにできるわけねえだろ、この家の次期家長はおれだ」
半分血の繋がった弟になじられるが、ウィルには家督を継ぐつもりなど全くなかった。デフロットにのみ教育を施している父の態度を見れば、どちらを後継者として考えているかなど明白だ。強くなったら家を出て、先生が読み聞かせてくれたような冒険者になりたいと、ウィルは漠然と夢見ていた。
「見た目だけかっこつけて、どうせ何もできないんだろ。あの武具一式だってどこかで盗んできたんじゃねえのか? 盗人め」
三歳も歳が離れており、身長とてウィルの方が高い。それでもウィルは抵抗できなかった。ただ俯いてじっと耐えて、異母弟が飽きるのを待っていた。
「何も言えねえのかよ」
デフロットはウィルに近寄ると、その体を押そうとした。体勢を崩させて、馬乗りになり、気分が晴れるまで殴りつけてやるつもりだった。
しかし、ウィルは反射的に半身の構えを取り、異母弟に対して体を斜めにすることで彼の攻撃をかわした。先生が暴漢から身を守るために何度も繰り返し教え込んだ、回避の技だ。
よろけたデフロットが蹈鞴を踏む。異母弟の前に下り階段が迫る。
「危ない!」
ウィルはデフロットの手を取った。自分より軽い少年の体を自分の方へ引き寄せる。
不幸にも、それによって入れ替わるかのようにウィルが体勢を崩してしまった。階段の手前で尻餅をついた異母弟の眼前で、ウィルが階段を転がり落ちていく。
音を立てながら、ウィルは一階まで落ちた。
痛い。痛い。痛い。
悲鳴こそ上げなかったが、ウィルは痛みに呻いた。
近くにいた召し使いが何事かと様子を見に来たが、倒れ伏しているのが要らない方の坊ちゃんであるのを見ると、興味を失い持ち場へ戻っていく。
ウィルは起き上がろうとした。利き手に力をこめようとするが、激痛に襲われる。左腕で何とか上体を起こし、右腕を確認する。本来曲がらないはずの方向へ曲がっていた。
他の箇所も痛むが、右腕ほどではない。ウィルはのろのろと立ち上がると、階段の手すりを左手で掴み、登り始めた。
何とか自室に戻る。部屋はほぼ暗闇に侵されている。目を凝らし、脱いだばかりの装備の中からポーチを取りだし、片手でその中を確認する。回復薬を使い果たしているのを見て、がっくりと項垂れた。治癒術も初歩的なものは学んでいたが、巨大アリとの戦闘で変性術を多用したため、今はマナが切れている。
ポーチをもう少し漁って、小瓶を一つ見つけた。先生が作ってくれた鎮痛剤だ。
これ幸いと鎮痛剤の瓶の蓋を苦労しながら片手で開け、中身の液体を飲みこむ。苦いが、効果は即座に現れた。痛みを感じなくなっていく。
ウィルはベッドに寝転がった。一晩眠ればマナもいくらかは回復する。早朝に回復したマナで治癒術を唱えればいい。痛みを感じない間に眠ってしまえ。
疲れゆえに眠気は横になるやすぐ襲ってきた。
ぼんやりした意識の中でウィルは実母のことを考えた。彼が物心付く前に死んだ母親。肖像画の一枚も残っておらず、家にいる誰も彼女のことを話してくれないため、どんな人だったのかまるで分からない。
もしも生きていたら家族はどのようになっていたのだろう。ウィルは朦朧としながら考える。父さんと母さんとぼくが笑いあっていたのだろうか。父さんは、デフロットにだけ見せる愛情をぼくに注いでくれたのだろうか。
もしも母さんが生きていたら。もしも家族が幸せだったら。――ぼくは先生に出会えなかった。
先生。ぼくのことを気にかけてくれる、ただ一人の人。まだぼくは子供だけど、大人になったら……ぼくが先生に相応しくなったら……。
夢も見ない眠りへウィルは旅立っていった。
翌朝。茜色の女性は薄明の中ウィルを玄関に迎え、わずかに目を見開いた。
教え子の右腕が奇妙な方向に曲がっている。
「え、えへへ……ちょっと、転んじゃいまして。薬を――」
ウィルが最後まで話す前に、先生は家の中に駆けこんだ。即座に戻ってきたその手には二リットルは入りそうな大瓶。
「飲んで」
「全部ですか?」
「……経口では五口くらいでいい。後は直接患部にかける」
「は、はい」
ウィルは渡された瓶から薬を飲んだ。さらさらとした液体だ。言われた通りの量を飲んで口を離すと、瓶を先生にひったくられる。それをどぼどぼとウィルの右腕に注いだ。腕が元の方向へ戻る。
「良くなったかしら」
「あ、はい! さすがは先生の薬です!」
ウィルは痛みの消えた右腕を少し動かしてみた。痛くない。大きく動かしてみる。何の問題もなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。さあ入って」
勧められるままに先生の家の中に入り、自分の椅子に座る。茜色の女性も彼の正面に座った。
「それで、どういう事情で利き腕の骨を折ったのかしら」
「へ? ですから、転んで――」
「正直に言いなさい」
ウィルは困ったように眉をしかめる。先生には昔から嘘が通じない。しかし、この事情を説明しようとすると、これまでずっと触れてこなかった自分の家庭事情について触れなければならなくなる。
逡巡して、ウィルは真実を話すことにした。知ってもらい、自分の不幸を分かって欲しかったのかもしれない。
「なるほど」と、全てを聞き終えた教師が言った。「あなたはこれまでそういう環境で暮らしていたの」
「……はい」
いつも通りの無表情であるため、先生が何を考えているのかはウィルにはさっぱり分からなかった。ただ、深く考え込んでいるらしいことは察した。
沈黙のまま数分が過ぎた。
「一つ提案がある」と先生が沈黙を破る。
「は、はい。何でしょうか」
「あなた、私の養子になる気はないかしら」
ウィルは衝撃のあまり、何の行動も取ることができなかった。構わず先生は話し続ける。
「今の家族に無視され、暴力を振るわれるのなら、縁を切ってしまえばいい。その代わり、私があなたの養母になって、独り立ちするまで見守ってあげる」
「先生が……お母さんに……?」
「ええ」
「ぼく、ここで暮らしてもいいんですか?」
「そうね、いや、二人で暮らすには狭いから引っ越した方がいいかもしれない」
ウィルは状況を把握すると、ぱあっと顔を明るくさせた。どうせぼくはアンセレット家では要らない子なんだ。だったら、家を出たって構わないはず。そう彼は考えた。
先生とずっと一緒に暮らせることはとても魅力的だった。子供としてではないが、彼は先生の家族になりたいと思っていた。それに、四六時中一緒にいれば、もっと先生にアピールできるかもしれない。
「も、もし先生さえよろしければ、よろしくお願いします」
「いいと言っている。……これまでよく頑張った」
おいで、と教師が両腕を広げた。ウィルはその胸に飛びこんで、強く強く抱きついた。
季節が次へ移り、またその次へ。
学びの日々が積み重ねられていき、ウィルが茜色の女性の教育を受け始めてから二年が経過した。
十三歳となったウィルが学ぶ内容はより高度になっていた。
テーマについて考えをまとめ、文章にして書く練習。教師はウィルが自分の考えを表明すると特に褒めた。
自然界に存在する様々な法則を教えられた。生き物の身体と霊魂の仕組み。魔法の初等理論。自然な状態における物体の挙動。女性は博識で、ウィルが尋ねるどのようなことにもすぐ答えを返すか、答えを導き出すために適切な案内を与えた。
この社会の成り立ち。帝国が興る前のこと。帝国が成立してから今へ至るまでの経緯。帝国の統治方法。市民が構成する経済活動や、裏で生きる者達の知られざる掟。ウィルは先生に教わって初めて、自分の父親の「騎士」という身分が何であるのかを知った。
そして、武器の振るい方や魔法の使い方。ウィルは剣術と変性術に適性を見せた。そのため教師は長剣と盾の用い方、変性術で皮膚を硬化させ鎧を着ずとも防御力を上げる方法などを教えた。彼女は錬金術も教えたかったが、ウィルはどうしても上手くできなかったため、苦手な分野で無理をすることはないと諦めた。
実戦訓練も行われるようになった。教師はお金を稼ぐ手段として、錬金術で有益な薬を作り、それを薬屋に販売するという手法を取っている。その材料は店で買うこともあったが、周辺地域で採取できるものであれば彼女は自らの足でそれを取りに行った。数ヶ月前からウィルもその素材採取遠征へ同行することが許され、武器を手に取り市の城壁の外へ出向くようになっていた。
今日は人間と同程度の体高を持つ巨大アリの外骨格と毒袋を採取するために城壁の外へ行った。ウィルがアリ一匹を相手に辛勝を収めたのに対し、先生は十匹以上を相手取っても臆せず戦鎚を振り回し、大した苦労をせずに殲滅していた。
市内で先生と別れた帰り道。夕日が伸ばす自分の影を見ながら、ウィルは言われた言葉を頭の中で反芻する。「殺意が足りない」と先生は言った。殺さなければ素材は手に入らないのであるし、巨大アリは人間を見つけるや捕食しようとしてくる。だから殺す気で行かなくてはいずれ死ぬことになると先生はウィルに言い聞かせた。
彼女と共に素材採取へ行くようになり、ウィルは城外で幾度かモンスターを殺した。しかしながら、命を奪うことをどうしても躊躇してしまい、剣さばきが鈍くなってしまうのだ。
経験を積めば慣れると先生は言う。ウィルは、どれだけの経験を重ねる必要があるのか見当も付かなかった。
鎧を着て盾を背負い、剣を腰から提げたままウィルは自宅に帰った。
疲れた足を引きずりながら自室に入る。そのままベッドに飛びこみたい衝動を何とか抑え、部屋が完全に暗くなる前に武装を解いていく。先生があらかじめ用意していてくれた薬を浴びていたので蟻酸による攻撃は有害な影響を及ぼすことこそなかった。しかし対抗薬と蟻酸とが混じりあった結果、悪臭を発した。泉で水浴びをして大体は落としてきたのだが、まだにおう気がする。体を拭くために湯を持ってこようと、ウィルは自室から出た。
「おい、ウィルバー」
赤い絨毯が敷かれた廊下を過ぎ、一階へと続く階段を下りようとしていたところでウィルは声をかけられた。体が硬直する。
「なにしてるんだよ。うわ、くっせえ」
異母弟のデフロットは臭気に顔をしかめた。確か彼は今年で十歳のはずだとウィルは曖昧な記憶を探る。
「臆病者のあんたが剣と盾、それに鎧を着て、騎士見習いにでもなったつもりか? アンセレット家を継ぐつもりなのか? あんたにできるわけねえだろ、この家の次期家長はおれだ」
半分血の繋がった弟になじられるが、ウィルには家督を継ぐつもりなど全くなかった。デフロットにのみ教育を施している父の態度を見れば、どちらを後継者として考えているかなど明白だ。強くなったら家を出て、先生が読み聞かせてくれたような冒険者になりたいと、ウィルは漠然と夢見ていた。
「見た目だけかっこつけて、どうせ何もできないんだろ。あの武具一式だってどこかで盗んできたんじゃねえのか? 盗人め」
三歳も歳が離れており、身長とてウィルの方が高い。それでもウィルは抵抗できなかった。ただ俯いてじっと耐えて、異母弟が飽きるのを待っていた。
「何も言えねえのかよ」
デフロットはウィルに近寄ると、その体を押そうとした。体勢を崩させて、馬乗りになり、気分が晴れるまで殴りつけてやるつもりだった。
しかし、ウィルは反射的に半身の構えを取り、異母弟に対して体を斜めにすることで彼の攻撃をかわした。先生が暴漢から身を守るために何度も繰り返し教え込んだ、回避の技だ。
よろけたデフロットが蹈鞴を踏む。異母弟の前に下り階段が迫る。
「危ない!」
ウィルはデフロットの手を取った。自分より軽い少年の体を自分の方へ引き寄せる。
不幸にも、それによって入れ替わるかのようにウィルが体勢を崩してしまった。階段の手前で尻餅をついた異母弟の眼前で、ウィルが階段を転がり落ちていく。
音を立てながら、ウィルは一階まで落ちた。
痛い。痛い。痛い。
悲鳴こそ上げなかったが、ウィルは痛みに呻いた。
近くにいた召し使いが何事かと様子を見に来たが、倒れ伏しているのが要らない方の坊ちゃんであるのを見ると、興味を失い持ち場へ戻っていく。
ウィルは起き上がろうとした。利き手に力をこめようとするが、激痛に襲われる。左腕で何とか上体を起こし、右腕を確認する。本来曲がらないはずの方向へ曲がっていた。
他の箇所も痛むが、右腕ほどではない。ウィルはのろのろと立ち上がると、階段の手すりを左手で掴み、登り始めた。
何とか自室に戻る。部屋はほぼ暗闇に侵されている。目を凝らし、脱いだばかりの装備の中からポーチを取りだし、片手でその中を確認する。回復薬を使い果たしているのを見て、がっくりと項垂れた。治癒術も初歩的なものは学んでいたが、巨大アリとの戦闘で変性術を多用したため、今はマナが切れている。
ポーチをもう少し漁って、小瓶を一つ見つけた。先生が作ってくれた鎮痛剤だ。
これ幸いと鎮痛剤の瓶の蓋を苦労しながら片手で開け、中身の液体を飲みこむ。苦いが、効果は即座に現れた。痛みを感じなくなっていく。
ウィルはベッドに寝転がった。一晩眠ればマナもいくらかは回復する。早朝に回復したマナで治癒術を唱えればいい。痛みを感じない間に眠ってしまえ。
疲れゆえに眠気は横になるやすぐ襲ってきた。
ぼんやりした意識の中でウィルは実母のことを考えた。彼が物心付く前に死んだ母親。肖像画の一枚も残っておらず、家にいる誰も彼女のことを話してくれないため、どんな人だったのかまるで分からない。
もしも生きていたら家族はどのようになっていたのだろう。ウィルは朦朧としながら考える。父さんと母さんとぼくが笑いあっていたのだろうか。父さんは、デフロットにだけ見せる愛情をぼくに注いでくれたのだろうか。
もしも母さんが生きていたら。もしも家族が幸せだったら。――ぼくは先生に出会えなかった。
先生。ぼくのことを気にかけてくれる、ただ一人の人。まだぼくは子供だけど、大人になったら……ぼくが先生に相応しくなったら……。
夢も見ない眠りへウィルは旅立っていった。
翌朝。茜色の女性は薄明の中ウィルを玄関に迎え、わずかに目を見開いた。
教え子の右腕が奇妙な方向に曲がっている。
「え、えへへ……ちょっと、転んじゃいまして。薬を――」
ウィルが最後まで話す前に、先生は家の中に駆けこんだ。即座に戻ってきたその手には二リットルは入りそうな大瓶。
「飲んで」
「全部ですか?」
「……経口では五口くらいでいい。後は直接患部にかける」
「は、はい」
ウィルは渡された瓶から薬を飲んだ。さらさらとした液体だ。言われた通りの量を飲んで口を離すと、瓶を先生にひったくられる。それをどぼどぼとウィルの右腕に注いだ。腕が元の方向へ戻る。
「良くなったかしら」
「あ、はい! さすがは先生の薬です!」
ウィルは痛みの消えた右腕を少し動かしてみた。痛くない。大きく動かしてみる。何の問題もなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。さあ入って」
勧められるままに先生の家の中に入り、自分の椅子に座る。茜色の女性も彼の正面に座った。
「それで、どういう事情で利き腕の骨を折ったのかしら」
「へ? ですから、転んで――」
「正直に言いなさい」
ウィルは困ったように眉をしかめる。先生には昔から嘘が通じない。しかし、この事情を説明しようとすると、これまでずっと触れてこなかった自分の家庭事情について触れなければならなくなる。
逡巡して、ウィルは真実を話すことにした。知ってもらい、自分の不幸を分かって欲しかったのかもしれない。
「なるほど」と、全てを聞き終えた教師が言った。「あなたはこれまでそういう環境で暮らしていたの」
「……はい」
いつも通りの無表情であるため、先生が何を考えているのかはウィルにはさっぱり分からなかった。ただ、深く考え込んでいるらしいことは察した。
沈黙のまま数分が過ぎた。
「一つ提案がある」と先生が沈黙を破る。
「は、はい。何でしょうか」
「あなた、私の養子になる気はないかしら」
ウィルは衝撃のあまり、何の行動も取ることができなかった。構わず先生は話し続ける。
「今の家族に無視され、暴力を振るわれるのなら、縁を切ってしまえばいい。その代わり、私があなたの養母になって、独り立ちするまで見守ってあげる」
「先生が……お母さんに……?」
「ええ」
「ぼく、ここで暮らしてもいいんですか?」
「そうね、いや、二人で暮らすには狭いから引っ越した方がいいかもしれない」
ウィルは状況を把握すると、ぱあっと顔を明るくさせた。どうせぼくはアンセレット家では要らない子なんだ。だったら、家を出たって構わないはず。そう彼は考えた。
先生とずっと一緒に暮らせることはとても魅力的だった。子供としてではないが、彼は先生の家族になりたいと思っていた。それに、四六時中一緒にいれば、もっと先生にアピールできるかもしれない。
「も、もし先生さえよろしければ、よろしくお願いします」
「いいと言っている。……これまでよく頑張った」
おいで、と教師が両腕を広げた。ウィルはその胸に飛びこんで、強く強く抱きついた。
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