茜色の錬金術師と餓えた少年が出会い事件を起こすまでの顛末

アウトサイダーK

第1話 ぼくと茜色のお姉さんとの出会い

ウィルバー・アンセレットは腹を空かせていた。空腹になること自体は育ち盛りである十一歳の男の子として一般的なことだ。しかしながら、ウィルは良家の子息であるにもかかわらず、朝から何も口にしていなかった。
昼食の時刻もとうに過ぎている。空腹に耐えかねたウィルは、歩くのも億劫であったが屋敷のちゆうぼうへ行くことにした。


自室の扉を静かに開け、ふわりとした金髪に覆われている頭部だけを出して二階廊下を覗きこむ。見えるのは赤いじゆうたん、一定間隔ごとに置かれたびんとそれにけられた花、日光を取りこむ窓。人影はない。少年は部屋から抜け出した。


足音を立てないように歩き、階段を下り、誰にもくわさずに厨房にたどり着く。食事の準備中は三、四人がせわしなく動き回る場所だ。ウィルは部屋を見回してみたが、召し使いの男ががちゃがちゃと食器の触れあう音を立てながら皿を洗っている背中が見えるだけで、彼の食事が置いてある様子はなかった。


「ねえフィリップ」


少年が名を呼ぶが召し使いは手を止めず、声の主の方を向く気配も見せない。


「フィリップ、ぼくのご飯は?」


男の舌打ちがキッチンに響いた。


「トニーが運んでいきましたよ、坊ちゃん」


皿洗いの手も止めずに召し使いはそれだけ言った。


「……そう」


ウィルは事情を悟る。あお色の目が悲しげに下を向いた。
召し使いのトニーは食い意地が張っているというのは、この屋敷の誰もが知っていることだ。ぼくのご飯はあいつに食べられちゃったんだ。ウィルはそう結論付け、自分の本来の昼食を手にすることを諦めた。


「ねえ、何か食べる物を分けて欲しいんだ。ぼく、朝から何も食べてない」


「残念ですが、何も残っちゃいませんよ」


「お願いだよ、何でもいいから。生の野菜でも、何でも」


ウィルは必死に懇願したが、召し使いは彼にいちべつをくれることすらなく、返事もしなくなった。


お腹が空いた。食べ物が欲しい。


ウィルの頭を空腹が埋め尽くす。ふらふらし体の節々が痛むが、ウィルは食事を求めて外に出ることにした。家の中では何かを食べられる見込みはないと判断したからだ。


のろのろと玄関に向かう。豪華に飾り立てられた明るい正面玄関ではなく、召し使いのための暗く質素な勝手口へ。
勝手口の扉を開ける姿を使用人の一人に見られたが、何も言われなかった。






外はだるような暑さで、ただでさえ体力の低下しているウィルに残された力をじりじりと奪い取る。少年は暑さに我慢できず、服の袖をまくり上げた。


何でもいいから食べ物が落ちていないだろうか。そんな考えを抱きウィルは歩きながら道の隅へ目を向ける。しかしながら高級住宅地であるウィルの屋敷前の道は綺麗に清掃されており、彼の腹を満たせるような物がある見込みはなかった。


道が円形に広がっている場所で、旅芸人の一団が見世物をしている。日傘を差した婦人や目を輝かせている子供達に囲まれているため、今何がもよおされているのかウィルには見えなかった。
人混みを遠巻きに通り過ぎようとしたとき、旅芸人のものと思われる口上が述べられ、色とりどりの光のつぶが観客の、そしてウィルの頭上に降り注いだ。魔法だ。子供達が歓声を上げる。
しかしながら、ウィルはちらりと上を見ただけで、特に反応も示さずに通り過ぎていった。


しばらく歩いて、雑多な店が建ち並んでいるエリアに至る。ウィルの家の周囲とは違い、くたびれた服を着た人々の姿が目立つ。
飲食物を提供している店からは良いにおいがただよってくるため、ウィルは大いに苦しんだ。
空腹のためによろけて壁に手を突きながら、ウィルは店の裏手にもぐりこんだ。日陰となっている裏路地にざんぱんが捨てられていないか、店の外壁沿いに放置されている物を身をかがめて探る。
食べられる物は見つからない。


「あっ、お前、何してるんだい!」


ウィルは驚き、ばっと身を起こす。急に動いたことで目眩が起こる。
肉をそぎ、中の髄も利用し尽くした後の牛骨を持ったじよがウィルを不快そうに見ていた。


「あっちへお行き、この乞食め! 衛兵さん! 来ておくれ! 学校にも行っていないこの不良小僧を捕まえて!」


ウィルは逃げ出した。後ろも見ずに駆ける。本当に衛兵がいるのか、自分を追ってきているのかも確認できないまま、少年はもつれる足を動かし続けた。






気が付くと、ウィルは知らない道に迷い込んでいた。足を止め、足りない空気を取り入れるために荒い呼吸を続ける。心臓がバクバクし、痛みを感じるほどだった。


しばらくして落ち着いてから周囲を見回してみる。曲がりくねった狭い道だ。遠くまで見通すことができない。住宅街であるようだが、ウィルの屋敷のある場所のような大きな建物ではなく、一けん一軒が小さい。空気も澱んでいる気がした。
このような場所にウィルは来たことがなかった。空腹により頭が働いていない状態でなければ動揺していただろうが、今のウィルは激しい運動をしてさらに腹を空かせていた。


食べ物を求め、見知らぬ家々の間をさまよい歩く。


少しして、ウィルは奇妙なにおいをいだ。
知覚したことのないにおいであったが、不快なものではない。ひょっとしたら知らない食べ物かもしれないと思い、ウィルはにおいの出所を探した。


たどり着いたのは、一けんの家の脇に置いてある大きな箱。高さはウィルの背丈よりほんの少し低い程度だ。彼一人であれば中に隠れることもできるだろう。
箱のふたに手をかける。ギギギギギと大きな音を立てながら蓋をゆっくりと跳ね上げた。においがきつくなる。
ゴミ箱はちょうど家の陰に入っている。それに加えてウィルの身長では中がよく見えなかった。そのため、ウィルは右上を伸ばし、箱の中に突っ込んでみた。中身に触れる。箱の中にはいっぱいに物が詰まっているようだ。
手を動かす。紙に触れた。ウィルはそれに興味を持ち、しばらくいじってみた。


「痛っ」


突然痛みを感じ、右手を引っ込める。手のひらから血が出ていた。大した出血ではないが、傷口がじくじくと痛む。


「あ、あ、ああ……」


自分の血が流れている。血を止めなきゃ。どうやって? ウィルはどうすればいいのか分からなかった。


「そこの少年、私の家のゴミ箱で何をしているの」


ウィルの背後からみようれいの女性の声。女性としてはやや低い声だった。ウィルは体を硬直こうちよくさせる。
怒られる。逃げなくちゃ。ウィルはそう思ったが足が動かない。空腹と疲労に痛みと恐怖が加わり、彼の足を縛っていた。
足音が近付いてくる。ウィルは震えながら待つしかなかった。


「……怪我をしているの?」


淡々とした声と共に、声の主はウィルの正面に回りこんできた。


一瞬、ウィルは呼吸をすることすら忘れた。ウィルの右手から滲んでいる血の赤よりも沈んだあかね色をした長い髪と、同じ色の目。その顔立ちは整っており、ウィルが異母弟の絵本を盗み見たときに目にした氷の女王のような冷たい美貌を有していた。体は黒いローブにより肩から足先まで隠されている。
その顔には何の表情も浮かんでおらず、冷ややかな視線を見知らぬ少年へ向けている。しかしウィルは、綺麗な人だと心から思った。


「なるほど」と感情を読み取れない単調な声が言う。「ゴミ箱をあさって、びんの破片でをしたのね。ゴミの回収者が誤って破片に触れないよう、紙で包んでおいたはずなのだけど、わざわざ覆いを外して」


「あ、あの、ごめんなさ――」


「腕にあざ。それも複数」


ウィルは慌てて服の袖を下ろし、両腕を隠した。慌てていたため、服の左腕部分に血が付着してしまうが、気にしている余裕はなかった。


「右手を出して」


心のもっていない声で命じられ、ウィルはびくりと体を震わせた。逃げる手段はない。ゆっくりと腕を持ち上げ、正面に立つ茜色の女性に対して右手を伸ばす。


女性は左手で少年の右腕を掴んだ。力を入れられていないので痛くはなかった。女性は自身の右手を少年の怪我をした右手にかざす。女性の右手から柔らかな光が発せられた。
数秒後、光が収まる。女性はウィルの腕を掴んでいた手を離した。


ウィルの傷の痛みは消えていた。恐る恐る、ウィルは左手の指で右手のひらに触れてみる。血は残っているが、傷口はもうなかった。


「それは治しておく。瓶を捨てたのは私だから。子供にゴミを漁られるとは思わなかったけど」


少年は女性を見上げた。相変わらず表情はない。しかしこの人は魔法を使って自分を癒やしてくれた。ひょっとしたら優しい人なのかもしれないとウィルは思う。


「これにりたのであれば、ここには二度と近寄らないこと」


それだけ言うと、女性はきびすを返して自宅へ帰ろうとした。


「あ、あの!」


ウィルの呼びかけにより茜色の女性は足を止め、向き直る。


「あの、その、ご飯を、少しでいいから分けてくれませんか?」


ウィルの空腹は既に限界を迎えていた。哀れっぽく慈悲を請う。


女性は思案した。ウィルのことを上から下まで眺めてみる。


「薬の被験者になるなら、食べ物を分けてあげる」


「はい!」


女性が静かな声で提案した言葉に、ウィルはすぐさま肯定を返した。「ヒケンシャ」という言葉が何を意味しているのか分からなかったが、このまま何も食べられないよりはマシだと思ったのだ。やっとご飯が食べられるという誘惑にはあらがえなかった。


「それなら付いてきて」


先に行く女性の後をウィルは従順に付き従う。彼女に続いて、彼女の家の中に入った。
一歩中に入るや、ウィルは驚きあんぐりと口を開けた。廊下に物が散らかっている。それに奇妙なにおいもする。
家主は器用に物と物の間に足を着き歩いているが、体格で劣るウィルは彼女が歩く通りに進むこともできず、物を踏まないように細心の注意を払いながら廊下を進んだ。


廊下と部屋の間に扉はなく、部屋の中は廊下よりさらに散らかっていた。何かが書き殴られている紙や積み上げられた本が床の大部分を占めている。
ウィルはどろぼうが入ったのかとすら思ったが、女性が平然としているのでこれが自然な状態なのだろうと考えを改めた。
部屋の中央には木製の机と椅子が一脚ずつ。他にはキッチンと階段、そして壁に立てかけられてある大きなせんついが目に付いた。誰の武器なのだろうとウィルは疑問に思った。


「座って」


そう言われても、ウィルは座っていいのか迷った。椅子の上には物は置かれていない。けれども机の上は筆記具やインク壺、丸められた紙くず、白紙の紙、本などで埋まっている。それに、自分が座れば彼女が座る場所がなくなる。


「スープを作るから、座って待っていて」


着席しない少年を見て、茜色の女性は部屋の壁際にあるキッチンに向かいながら言う。
空腹にあえいでいるウィルの喉が鳴った。家主に指示されたのだからと自分を納得させ、椅子に座る。大人サイズに作られている椅子はウィルには大きく、座ることはできたが足は床に届かない。


「スープができるまで、これでも食べていて」


いつの間にか机の側まで来ていた女性は、机上の雑多な物を強引に手で押し退けて空いたスペースを作り、そこに布袋を置いた。袋の口をほどき、中身を少年に見せる。ウィルがそれを認識したことを見ると、女性はスープ作りに戻っていった。


ウィルは困惑していた。袋の中は黒っぽい小石が詰まっているように見えた。食べていてと言われたが、食べ物なのだろうか。
ちらりと女性の方を見る。背中のなかほどまでの長さがある茜色の髪を、下の方でゆるくってあった。こちらを振り向いてくれる様子はない。
「小石」を一つ摘まんでみる。ウィルの小さな指でも無理なく摘まめる程度の大きさであるその物質は、袋の外に出して見てみると赤黒色だった。そして硬い。しかし、力をこめてみると歪んだ。噛むと歯の方が折れるという事態にはならなさそうだ。
鼻に近付け、においを嗅ぐ。この家の中は独特の奇妙なにおいがするからか、この小さな物体のにおいを知覚することはできなかった。


お腹が鳴る。


ウィルは覚悟を決め、それを食べてみることにした。舌先に置き、ゆっくりと口の中に格納する。そして、一口噛んでみた。


――甘い。


ウィルは目を白黒させた。甘い。ほのかに甘いのだ。それはウィルの予想のはるか上を行った。
一つ目はすぐにしやくされ、しまれつつも飲みこまれた。
二つ目からは複数個まとめて口内に放りこみ、勢いよく噛み、すぐ飲みこむことを繰り返した。舌に感じる甘みは知覚する度にウィルを喜ばせた。
三、四十個は食べただろうか。その頃からはいくらか余裕を持ち始め、ゆっくり味わって食べられるようになっていた。ただし手は止まらない。袋の中身を全て食べ終え、それでもまだウィルはお腹が空いていた。


「スープができた。……そんなにお腹が空いていたの。干しぶどうが全部なくなっている」


「ぶどう? これが?」


ウィルは驚いた。彼が知っているぶどうは紫色か緑色をしたすずりのくだもので、決して小石のような物ではない。しかし確かに、滅多に食べられない果物のように甘かった。


「スープができた。ぬるめに作ったつもりだけど、急いでかきこまないように」


にゆうはく色の液体をたたえた大きく深いスープ皿とスプーンが机に置かれる。
女性の手が離れるや否や、ウィルはスプーンを手に取った。スープをすくい、ぱくっと口に運ぶ。柔らかい、優しい味がした。


「実験する薬を用意しているから、好きなように食べていればいい」


少年と目を合わせることもなくそう言って、女性は部屋の隅にある階段を上へ上っていった。


ウィルは次々とスープを口にかき入れる。具をみしめ、名残惜しさを感じながらも飲みこみ、次の一口へ。十一歳の少年には多すぎるかと思われたスープは全て彼の胃袋の中に収まった。


空腹は癒えていた。女性が消えていった階段をぼんやりと見てみる。ふわふわとした夢心地は、茜色の女性が下りてきたことで中断された。


「……まだいたの」


女性は無表情のままつぶやいた。


「え?」


「何でもない。いるのであれば、薬を飲んでもらう」


女性が両手で大事そうに抱えているのはガラス瓶。彼女の手の中に大部分が隠れるくらいの大きさの透明な容器の中に、どろっとした緑色の液体が入っている。
机の側まで来た女性は、底が平らになっている瓶を机上に置いた。


「飲んで」


ウィルはごくりと喉を鳴らす。


「えっと、これは何ですか?」


「実験において先入観を排するため、効能は教えられない」


どうやら「ヒケンシャ」というのは薬を飲むことらしい。ウィルはそう思いながら、瓶に手を伸ばした。
口に挿されているせんを抜く。奇怪なにおいがウィルの鼻をついた。不快というほどではないが、変なにおいだ。思わず顔をしかめる。


女性は表情を変えずに、じっと少年を観察している。


ウィルは自分の口元に瓶の口を触れさせ、瓶を上に傾けた。ねんの高い液体がどろりと少年の口内に侵入する。
ものすごく苦かった。
ウィルは反射的に口から瓶を離した。しかし、薬を吐き出すのは何とか耐える。苦みを早く消し去るためにごくりと飲みこんだ。ねばっこいものが食道を下っていく感覚がする気がした。


「足りない、もっと飲んで」


女性に言われるまま、ウィルは瓶の中身を見つめる。苦いものを口にするための心の準備を整え、一息に全て飲み干した。


女性はいつの間にか手元にペンと紙を用意しており、時々何かを書きこんでいる。


「瓶はもう机に置いていい。そのままじっとしていて。何か体に変化があったらすぐに言うこと」


変化は即座にやって来た。


「うえ、なに、これ? 体が、変……」
体内の違和感に耐えるように、ウィルは自分の体をぎゅっと抱きしめた。


「どのように変なの?」


「むずむずする。何か……何かがぼくの体の中で動いているような」


「魔法薬を飲むのは初めて? 術を受けた経験は?」


「薬は、初めて……。治癒術って、怪我とかを治す魔法だよね。それは、さっきお姉さんにやってもらったのが初めて」


「なるほど。なら、薬の効果に体が驚いているのだと思う」


記録を取る手を休めずに女性は淡々と述べた。


「今の体の具合は?」


「うん……あれ……? 痛くない……?」


ウィルはいつの間にか生じていた体の変化に驚いていた。体の色々な所が痛かったのに、今は痛くない。


メモを取るのを止めた女性は、少年に寄ってきた。ウィルが何かを言う前に、左腕の袖をまくり上げる。あざ一つない、健康的な白い肌がさらされた。


「効果が出る速度はきゆうだい点といったところかしら。効果そのものは合格。飲み心地はどうだった?」


「え、ええと……苦かった、です」


正直に答えると、女性はメモを取っていた紙の方へ戻った。茜色の髪が揺れるのをウィルは目で追った。


「味は改良の余地ありか。分かった。もう帰っていい」


女性は少年への興味をなくしたようだった。空になったスープ皿を手に取り、厨房の流し場へ持って行く。


「え、あ、あの……」


「帰っていいと言った。私は食事を与えたし、その見返りとして薬のえと要改良点を知ることができた。私は自分の錬金術研究をより進めることができる。契約はこうされた。だから帰りなさい」


有無を言わせぬ圧力にウィルは逆らえなかった。椅子から飛び降りる。


「ありがとうございました」


ぺこりと頭を下げてから、ウィルは廊下を通り、家の外に出た。太陽はいくらか傾いているが、日はまだ明るい。


ウィルはどうしたらよいか戸惑った。思案の末、出てきたばかりの家に入る。


「お姉さん、お姉さん」


女性は先程メモを取っていた紙に何かを書き加えているところだった。戻ってきた少年に対し、顔を上げる。茜色の冷たさを感じさせる目が少年の姿を捉えた。


「何」


「えっと、ごめんなさい、家に帰る道が分からなくて」


「……家はどこにあるの?」


「市役所の近くの――」


女性は少し考えた。少年の薄汚れてはいるが仕立ては良い服といい、上流の施設や家しかない市役所の周辺に住んでいるということといい。道を教えただけで無事に帰ることができるとは思えない。


「それならば市役所まで連れて行く」


「あ、ありがとうございます。ごめんなさい」


女性は何も言わずに立ち上がり、壁に立てかけてある物を手に取った。彼女の身の丈ほどもある無骨なせんついだ。長いの先に、重厚な金属が取り付けられている。その片面は平らで、もう片方の面は鋭くとがっていた。ローブに隠されておりよく見えないが、女性は決して筋骨隆々としているようには思えない。その彼女が片腕で重そうな戦鎚を支え持っていることの異常さに、まだ幼いウィルは気付けなかった。ただ、あれはお姉さんの物だったのかと思っただけだった。


「お姉さん、それは……?」


「この辺りは治安が良いわけではない。まだ昼間だから何も起こらないとは思うけど、用心するに越したことはない」


重そうな戦鎚を軽々と手にした女性は、ローブをまとっている背中に、つちがしらを下にして戦鎚を近付けた。女性が手を離しても戦鎚は背中に張り付いたままだ。


「えっ? えっ? 落ちないの?」


「持ち運びを楽にするために、そういう魔法が付与されている。行くよ」


家を出ようとする女性を、ウィルは慌てて追った。






市役所へは何の問題もなく到着した。その道中、戦鎚を背にしたローブ姿の女性に奇異なものを見る目を向けてくる者もいたが、彼女が気にしているりはなかった。


「ここからなら帰られるかしら」


「は、はい」


「ではさようなら」


ウィルが引き留める間もなく、茜色の女性は通りの人混みの中へ消えていった。
しばらくウィルはその場に突っ立っていたが、やがて自宅へ向かって歩き出した。

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