ハイタ

水雲

彼女の話

その日は寒くて目が覚めた。
気付けば寝る前にかけた毛布が、床に寝転んでいるではないか。
仕事をしろ、仕事を。
命なき温もりに愚痴を言ってもしょうがない。

時刻は7時、毎日セットしている目覚まし時計は、今日はお休みだ。

最近、仕事をしていても寒さが消えず、咳鼻水がとめどなく出る始末だったため、先輩が気を利かせて休みをくれたのだ。

昨日病院へ言ったが、ただの風邪とのこと。
あんなに具合が悪かったのに、ただの風邪だと分かると、どこからともなく力が湧いてきて、さっきまでの咳は元気をなくした。

寝起きで喉がかわいたため、一人暮らしにしては大きい冷蔵庫からお茶を出し、コップに移して一気に飲み干した。

寒い中で飲む冷たいお茶は、体の中で凍るようだった。

「ううう、たまらないね。」

空っぽになったコップを眺めると、なんだか愛おしく見えてきた。

充電器に差しっぱなしの携帯電話の画面がピカっと光った。
朝のニュースの時間だ。
ニュースアプリの機能で、毎日7時半に、その日のニュースを流してくれる。

「あ、そっか。今日か。」

目に飛び込んできたのは、1ヶ月前に日本中のテレビ局を地獄に突き落とした、あの件だった。

『拳銃100丁配布!?
    警察庁、国民へ警戒を呼びかけ。』

赤文字で照らされるこの文面の異様さは言うまでもない。
拳銃なんて、世界で1番馴染みのない日本国民に配ってどうするのか。

ここで1つの疑問が浮かんだ。
果たしてどうやって届くのか、まさか宅急便なんかで来ないだろう。
そんなの、すぐ分かってしまうだろと。

ふと、玄関ドアのはめ込み式の郵便ポストを見ると、それは外の光を飲み込んでいた。
まさかと思い、ポストのところまで行って差し込まれているものを手に取った。

それはA3サイズの大きめな封筒で、宛名、宛先は記載されていなかった。
触った感じからして、書類では無いことは確かだった。

俺は途端につま先が痺れるような感覚に襲われた。

「ま、まさか、俺。俺のところに。...まじか。まじかよ。」

封筒の上から中のものの触感を確認する。
ゴツゴツとして固く、そして、その形は、映画とかで使われるモデルガンそのものだった。

震える手で封を外す。
うまく剥がれないことが、さらに緊張感を高まらせた。

上部がビリビリになった封筒の中を半目になって覗く。
このまま目をつぶってしまえば夢だったのかもしれないと笑えるくらい、脳は活動をやめていた。

真っ黒い塊が入っていた。

塊はなんども目にはしたことはあるが、持つのは初めてなもので、なんと表現したらいいだろうか。
そう思ううちに歯はガタガタと音を立て、足からは感覚がきえていった。

「ほ、本当、じゃん。え。どうしよう。せ、先輩に、先輩。」

もちろんだが拳銃なんか持ったことは無いし、そもそも心構えもしてなかった。
すぐに頼りになる人、と考えて先輩に連絡をするため携帯電話を手に取るも、すぐに置いてしまった。

「だめだ。」

先輩は、動画が放送された日、拳銃が届いたら奥さんを撃つと言っていた。
いや、冗談だとは分かっているが、この、目の前の恐怖を先輩が手にした時、心が喰われ、どんな行動をとるか分からない。
いや、冗談だ。分かっている。
だが、俺自身、もうどうしようもないくらい喰い尽くされてしまっている。
怖い。
怖いんだ。
だって、たったこれだけで、これを、指で引いただけで、人が死ぬんだぞ。

前に何かで見たことがある、引き金には約7キロの力が必要だと。
7キロと命が天秤にかけられて平行になるはずがないじゃないか。

「やめろよ、なんで俺なんだよ。」

警察に渡せばいいのか、でも、それでは俺が銃砲刀剣類所持等取締法とかなんとかで捕まるんじゃないか。

ひとまず落ち着かなければと思い、鼓動に合わせて震える手で拳銃を封筒に戻した。

その時、ヒラヒラと1枚の紙が床に落ちた。

綺麗な和紙が折りたたまれたもので、その紙を開くと、達筆で俺の名前が書かれていた。
名前の下には、4行の文字が書かれていたのを覚えているが、この紙を見たあとの記憶は凄く曖昧で、気付いたら自分のベッドで、黒い塊を抱き抱えて眠っていた。

北風が吹き荒れる中、毛布もかけずに寝ていたのに、体が汗でベタついていた。



「次は、新橋、新橋です。」

単調な声が電車の中に響く。
この声を、もう何度耳にしただろうか。

抱き合っているのかと思うくらい隣に立つ人の体臭が鼻をつく。
戦争。
細長い金属の塊の中に、どれだけの人が詰め込まれてるのか知らないが、身動きひとつ取れないではないか。

ほら、おばあちゃん、今にも倒れそう。

ああ、死にたい。

「死にたいな。」
ふと思ったことが口に出てしまった。
はっとして顔を上げて辺りを見渡すが
隣のおやじも、前のサラリーマンも耳に鍵でもかかっているのか、当然私のことなど気にしてない様子だった。

いや、他人というものに興味が無いのか。
それが私を落ち着かせてくれる。

ため息をひとつついて、目の前のサラリーマンの頭を見ていると、コートの端っこをちょんちょんと引っ張られる感覚がした。
狭苦しいこの体勢では振り返ることは出来ないが、なんとか首を向けると、そこには小学校低学年くらいの男の子が立っていた。
小さな手で私のコートの裾を掴んでいた。

「どうしたの?」

男の子は私の方をじっ。と見ながら全く動かない。
私が声をかけると男の子は首を横に振りながら、コソコソ話をする時のように手を口元に持ってきて言った。

「お姉ちゃん死んじゃうの?」

いよいよ気持ちが悪いというような表情の男の子は、私の目を必死に見ていた。

この子はなんなのだろうか。

「きみ、聞いてたの」

満員電車の中、異様なその男の子は大きな頭を上下に大きく振った。

こんな子に私の独り言が聞かれていたのかと恥ずかしくて、顔が熱くなるのが分かった。

「いいのよ、気にしないで、冗談だから。」

善意に溢れた視線に耐えられなくなった私は、この男の子の興味を私から離すことに徹した。

「お姉ちゃん、死んじゃうの?」

それでも男の子は負けじと聞いてくる。
その声は大勢の人の背中に飲み込まれたけれど、ちゃんと私の耳に刺さった。

男の子の方を向こうと体を捻る。
途端に舌打ちが聞こえてくる。

棘のように刺さる舌打ちの音が、世界と私を切り離したかのように思えた。
ただ一つだけ、足元にいる男の子だけが残っていた。

「うん、死にたいなあ。」

男の子に向かって、私はついに口を割ってしまった。

男の子は私の言葉を聞くと、今までの表情をさっと引いて、満面の笑みを浮かべたのだった。

そして、ぎゅうぎゅうになった車内で一生懸命リュックサックを背中から腹の方に持ってきて、私に差し出した。

「あげる。」

嬉しそうな声で男の子は私にリュックサックを受け取るよう促した。
そのリュックサックは男の子には重いのか、手がプルプルと震えだした。

その様子を見て、つい手を伸ばしてリュックサックを受け取ってしまった。
真っ黒の、小さなリュックサックだった。

男の子は、私がリュックサックを受け取ると、安心したように一息付き、両腕をほぐした。

「お姉ちゃんが、助けてって言ってるように聞こえたから。だからあげる。」

リュックサックの中身がなんなのか、皆目検討もつかないが、男の子は純粋な眼差しで私を見ていた。
その嬉しそうな表情に、私は少しの間、見とれていた。

「いや、でも、これは何?」

少し時間が経つと、この異様な体験に違和感を感じた。
頭が日常、現実に戻ってきた。

男の子は私の持っているリュックサックを指さした。

「それはね、ぼくの勇者!だけど勇者は必要なくなっちゃったの。ボスはもっと強いボスに倒されちゃったから。」

随分不思議なことを言う子だと思った。
ここでようやく男の子をよく見てみると洋服は1週間は洗っていないできていたのではないかと思うほど汚れ、体は細く、肌には若さ特有の艶がなかった。

育児放棄された子供。
そんな印象だった。

それでも、男の子の表情はどこか清々しく、綺麗。とでも感想が書けそうだった。

男の子の言うことは半分も理解出来なかったが、謎の‘ 勇者’なるものを受け取ってしまうのは、良いのか悪いのかで言ったら悪い気がした。

「でも」

私が声を出しかけたところで、電車が停車し、大量のトーテムポールが右に傾いた。
その傾きに合わせて男の子はどこかへ去ってしまいたいようだった。

「君は!君は!」

男の子はすぐに見えなくなったが、薄汚れた小さな手が私に向けて振られていたことだけはなんとかわかってあげられた。

気付けば、自分でも驚く程の大声をだしてしまったようで、これには流石のおやじもサラリーマンも反応せざるを得ないのか、顔をこちらに向けてあからさまに嫌な顔をした。

「ちっ。」

誰かの舌打ちが聞こえた。
途端に、私は男の子と2人きりの世界から引き戻された。 

やっぱり男の子はもういなかった。

現実に戻ると私の手には黒いリュックサックが残っていた。
何故か暖かく感じた。

会社の最寄り駅でいつも通り電車から降り、いつも通り、改札口へ向かうが、いつもと違うのはその足でトイレへ向かったことだった。

男の子がくれたリュックの中身が気になって気になって仕方がなかった。

仕事まではまだ時間もある。
いや、休んでしまおうか。
という考えまで浮かんだ。

駅のトイレには個室が3つあり、1番奥に入った。
利用者はいなかった。

個室に入ると、私は小さなリュックを便器の蓋の上に置き、それをじっと眺めた。

開けるべきか、開けないべきか。
いや、開けるのだが、今開けるべきなのか、という所で気持ちの踏ん切りがつかないでいるのだ。

数分悩んだところで、隣の個室に誰かが入る音がした。

何故か私はリュックを守るかのようにサッと抱きかかえた。
これを、誰かに取られまいとするかのように、無意識な行動だった。

隣の人がいなくなったら開けよう。
そう決めた。

隣の個室から人が出て、洗面台で手を洗い、トントンと足音が遠のいていく。

今しかない、と思った。
少し錆び付いたリュックのチャックを引っ張り、ゆっくりと開ける。

黒いリュックの中にはさらに黒いゴミ袋のような物が入っていた。

その袋は口が縛られており、開けようとするとカサカサと音がした。

「やめてよ、静かにしてよ。」

私は袋に向かって小さく無意味な注意をした。
心無しか音が小さくなった気がしたが、袋を開いた瞬間、さらに周りは静かになった。

「な、に、これ。」

開けた袋の中は、ベトベトした何かで汚れ、写真が1枚裏返しに入っていた。
その写真は大きさや形から、チェキだと分かった。
恐る恐る袋の中に手を入れると、ベトベトした感覚が手に伝わり、手を引っ込めてしまった。

「ひっ、ぁ!」

情けない声を上げて引っ込めた先の手を見ると、赤黒い液体がベッタリとこびりついていた。

「くさい..」

その液体からは腐った魚の臭いがした。



だと思った。

スーツの袖口が汚れてしまっているのをみて、今日は休もうと決心した。

会社を休もうと決めた途端、何故か今の恐怖やベトベトした感覚に対する嫌悪感がどこかへ消えてしまった。

私はベトベトな手で携帯電話が汚れるのも気にすること無く取り出し、体調不良を上司に伝えた。

なんだ、簡単じゃん。

案外上司は私の体調を気にしてくれた。
初めて休んだのが仮病でごめんなさい。
あなたがこんなにいい人だとは思いませんでした。まる。
もう二度といきません。まる。

「まーる。」

小学生の作文かのような上司への感謝を心の中で唱えた。
タカが外れた。のか。随分と頭の中がきれいさっぱり片付いた。

リュックを赤ちゃんを座らせる椅子の上に移し、便器の蓋を開けて携帯電話を便器の中に落とした。

ぽっしゃん

と軽快な音と共に、上司との唯一の繋がりが水に沈んでいった。

さてと。

気持ちがスッキリしたので、リュックに正対し、黒いゴミ袋の中に手を突っ込んだ。

まずは裏返しになっているチェキをとり、表に返してみる。

そこには、リュックをくれた男の子と、母親だろうか?
私より10歳くらい年上の女性が写っていた。

「ああ、なんだ。」

ピースをしてあどけなさ残る満面の笑みの男の子の左隣には、素人目で見ても死んでいると分かるほど顔面が鬱血した女性がピースをさせられて写真に写っていた。
てを輪ゴムでとめられて。

女性の薬指には指輪がはめられている。

でも、どうしてだろう。
この写真の不自然さに、写真を持つ手が震えたのだ。

しかし、何が不自然なのか、いや、不自然もなにも異常な写真ではあるのだが、私が抱えているのはそんなことではなかった。

スッキリした脳みそを必死に回転させながら私はひとつのことに気づいた。

チェキ
なのだ。

この写真は、誰かに撮ってもらわないと撮れない写真なのだ。

男の子に共犯者がいたのか?
いや...それとも

「もしかしたら」

ぶるっと体が酷く震え、トイレの床に膝が落ちた。

男の子の満面の笑みが、『悪者を倒したもの』なのか『諦めのもの』なのか分からない。

「ボス..倒した...もっと強いボスが...」

男の子の言葉を思い返してみる。
もしかしたら、男の子は、今私がこうしている間に、命を絶たれているのかもしれない。

そう考えた瞬間、唇が震え、喉の奥が熱くなった。

私は、ベチャベチャと音が鳴るのも、袖口が汚れるのも気にせず、リュックの中身を無我夢中で探った。

かちゃり、と、冷たい音と、手に触れる硬さを感じ、その物を引っ張り出した。

生臭い液体で汚れたその物体は、正しく拳銃そのものだった。
拳銃の構造こそよく知らないが、玉を込める部分、銃装を確認すると、金色に輝く塊がひとつ、はめ込まれていた。

拳銃を持つ手に震えはなかった。
私は、遂に大粒の涙を流した。
そして拳銃を胸に当て、誰にも聞こえないように叫んだ。

「あ..ぁ..ありがとう、ありがとう、ありがとう!!!!!!」





『豚小屋には五月蝿い豚が30匹いる。そいつらは何をしている?ただただ泣き喚いているだけだ。それ以下ともなると、この人間どもは糞と同等、生きている価値なんて、ゼロに等しいではないか。だが忘れては行けないゼロとは尊い存在だ。これからなんにだってなれるし、はたまたなににもなれない。言わば無限大の可能性を含め..』

昼休み、教室のど真ん中で『心ノート』に言葉を綴っていたというのに、豚どもがボールとかいう低俗な遊び道具を僕の右手にぶつけてきたせいで、手が止まってしまったでは無いか。

「お前、またそんなの書いてんのかよ。」

謝りもしなければボールも取りにこない少年が、僕のノートを覗き見ては笑った。

「お前のようなやつに関係ない。」

僕はノートをパタリと閉じた。
少年は呆れたようにため息をついてボールを拾った。

「おい、たまには一緒に遊ぼうぜ、前はよく遊んでたろうが。」

教室の床に柔らかいボールを弾きながら、少年は僕を異世界へと誘った。
僕はこの少年だけには弱い。

「和樹、もう構わないでくれ。前とは違うんだ、僕はお前が嫌い。」

少年に向かって僕は小さく話した。
和樹、というのはこの少年のことで、僕とは家が隣りの幼馴染だ。

運動神経がよく人当たりのいい和樹の周りにはいつだって人が寄ってきた。
そんな彼を羨ましいと思ったことはないが、僕は彼とは正反対だった。

「お前さ、俺の事嫌いじゃないだろ。」

和樹はどこか嬉しそうに声を弾ませた。

「何言ってんだ。嫌いだ。さっさと消えてくれ。」

僕の酷く冷たい氷のような言葉も一瞬で溶けてしまいそうな笑顔を残して和樹は友人の輪に戻って行った。

なんたって、あいつはこんな僕なんかをいつまでも態度を変えず接してくれるのか。
いや、接して“ くれる”などと言わない方がいいか。

とにかく、僕があいつを嫌うわけがないのだ。
唯一の、友達なのだ。
だけど関わるな、お前は不幸になる、僕といると。
その事がどれだけ僕を苦しめ、変え、そしてお前を傷付けてきただろうか。

...。
僕は心ノートに書いていた言葉の9割を塗りつぶし、こう続けた。

『...無限の可能性を含め、無限の中で滅ぶことも出来ずに彷徨い、絶望する。有限であるからこそ、尊いのだ、何事も。』

冬だと言うのに耳の奥では、嫌という程染み付いた、蜩の声が響いていた。

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