Waif of Boundary

ねこてん

1-4-2

 黄昏時、という言葉がある。
 夕刻の、ちょうどあたりが薄暗くなる時間帯を表す言葉だ。 暗くもなりきらず、かといって明るいとはもう言えない頃合いを指す。不思議とこのくらいの光量の中では行き会う相手の顔がわかりにくくなり、そのことを「誰そ、彼」という言葉で表したのが始まり、と言われている。
そのためか見知らぬ相手…余所者、あるいは人ならざるもの…からの災いへの警戒から大禍刻、もしくは逢魔ヶ刻とも呼ばれることもある。

どっちにしろ、と前置きをした上で。警戒が必要なのは道理だと大月八雲は思う。今時魔的なものを恐れる人間は少数派かもしれないが、人間自体に用心しておくのは無駄ではないだろう。特に、薄闇の中出会う見知らぬ相手とは。
もっともその夕刻は過ぎ、どちらかというと夜と言っても差し支えがない時間帯になりつつある。これはこれで物騒ではあるので、一人で人気のない場所をうろつくのはやめておいた方がいいだろう。夜の校舎に踏み入ろうとしている自分が、言えた筋合いではないが。
 そんなことを考える一方、八雲は同行者の様子をそれとなく観察する。厄介なタチには見えないが外見だけで判断するのは危険であり、落ち着いているようでもいつ豹変するかわからない。そのため内心だけでも警戒は忘れないのが定石だ。この辺も生きた人間とさして変わらない。
「…何か気になるのか?」
先程からどこか考え込んだ風な『彼』に何気ないように尋ねる。答える内容はもちろん、質問への反応が自分の中のセンサー…危険を知らせる感覚に触れないかどうかに注意を払う。
「…いや、大したことじゃないんだけれど。さっき校舎の前に女の子が…」
「二人連れの?」
「うん。少し距離はあったけど『見られて』ないかな」
校舎の中で見えるはずもないが昇降口の方を気にする『彼』の様子に合点がいく。まったく気にしないのは難しいにしても目に見えて気にかけた上に、口にまでするのは『彼ら』の中でも珍しい方だ。
「気にしなくていいさ」
「いいのか?」
頷いて歩を進める。後に続く『彼』の気配を感じながら振り返らずに話し続ける。
「俺のことは見られたにしても、君が見られたとは限らない。とりあえず忘れ物で教室に戻ったとでも言って誤魔化すさ」
 いつもの対応を説明してはいるが、『彼』の懸念がそこではないことはわかっている。ここまでの内容で納得してくれればそこで終いなのだが、そうはいかないというのも気にするタイプにはよくある話だ。納得できる答えが、残酷なものになることも。
八雲にもそれは理解できる。だが、それでも彼は『御役目』のためなら事実を突きつけることも辞さない。
「『君たち』が見えているとしても。周りから見間違いだ、気のせいだ、と断言され続ければ大抵引き下がるよ。そういうものだ」
ふと、足が止まる。『彼』が歩むのをやめたからだ。勘取られないよう横目で窺った後方、俯いて立ちすくむ姿を捉えて八雲は警戒の度合いを上げる。
「…そうか」
呟く彼の声からも、心中を察することはできなかった。荒事になるかと、八雲は周囲を確認する。二人がいる廊下は、八雲には『少し狭い』が何とかできる。人目は、と続けて探る思考の中に思った以上に落ち着いた、穏やかな声が届いた。
「…うん、わかってる。わかってるつもりだった。…けど、やっぱり堪えるな」
向き直った『彼』の諦めたような、困ったような静かな笑み。自分がどういう存在か、あらためて突きつけられて、内に秘めた感情を全て押し殺したような、そんな表情だった。
形は違えども、八雲はそれを何回も見てきた。それぞれに違った事情を持ち、『想い』を抱えて『彼ら』はここに有る。その全てにかけられるような万能の言葉は、きっとないのだろう。
「…行こう」
けれど。いや、だからこそ。八雲は先を促す。今は目の前の『彼』への『御役目』を果たすことが自身にできる唯一のことと信じて。


空っぽになった教室というのは何故かとても広く見える。机や椅子は昼間と変わらないのにそう感じるのはやはり無意識に教室には生徒がいて当たり前と考えるせいだろうか。あるはずのものがない、というのは認識しにくくいものだが程度の差はあれ確実に違和感として伝わるものだ。
『彼』を伴って自分の教室へと入ったときの感覚を思考の隅で整理しつつ、八雲は教卓の前に進む。『御役目』のやり方は人それぞれであり、今回も大方の方策は考えてある。とりあえずは教室の中を眺めて回る『彼』をしばし待った。
興味深げなような、あるいは感慨深げなような。普通なら珍しくもない光景を眺める表情から読み取れるのはそんなものだ。内心がどう感じているのかはわからない。本人以外にわかるものなど、誰かいるのだろうか。とりとめない物思いに浸りながらしばし待つこと少し、時間にして十五分くらいだろうか。不意に『彼』がぽつりと呟いた。
「もう、いいかな。充分だ。」
教室は一通り見尽くしたのか『彼』は窓に立ち、外を眺めていた。昼間の風景を想像しているのか、最後の景色を目に焼き付けているのか。想像だけならいくらでもできる。 
「そっか。じゃあ、始めようか」
もたれ掛かっていた教卓から背を離し、八雲が教壇の上、黒板の前に立つ。その姿を見て『彼』が少しだけ不安な表情を浮かべる。
「詳しくは聞いてないけど…。君たちの『御役目』っていうのは、その」
「よく聞かれるんだが、痛かったり苦しかったりはしないらしいぞ」
少なくとも後から文句言われたことはない、と付け足した一言に『彼』が苦笑する。
冗談を言ったつもりはないが笑いを取れたなら幸いだと思った。
「それに大したことをするわけでもない。『君』の願いはここに来た時点で半分以上叶ってるようなものだしな」
だからもう一つ。『彼』の『想い』を鎮めるにはあと一つだけ必要なことがある。
「ちょっとこっちに…そう、そこだ。その机に座ってくれ」
彼を誘導し、中央近くの―八雲が今日から使っている―机に着席させる。意図は伝わっていないにしても、『彼』は黙って従ってくれた。
準備ができたことを確認し、八雲は教卓に一度、目を落とす。本来そこにあるべき、出席簿を見るように。
「それでは、出席を取ります」
前置きをして。どこの学校でもするように、どんな教師でもするように。今はただ一人の生徒―『彼』―の名を呼ぶ。読み上げてから本人の在席を確認するように視線を上げ、目が合った瞬間、小さく『彼』に頷いた。
「…はい」
少しだけ震えていたけれど。それでも、『彼』はしっかりとした声で点呼に答えて。
そして、これで今回の『御役目』は終わりだった。


教室の中、微かに燐光が浮かぶ。放っておいても消えていくそれを見つめながら、八雲はぽつりと呟いた。
「『高校に行ってみたい。高校生になってみたい』だったな。君の『想い』は」
誰もいなくなった闇の中で言葉を紡ぐ。届かないとわかっていても、何故か口にせずにはいられなかった。
「拙い手際ですまなかったけれど。これが俺の『御役目』だ。君の『想い』をほどくことはできたかな」
普段の八雲ならこんなことは口にしないのだけれど。誰にも聞かれることのない問いかけを今回だけはしてみようと思った、その理由について思いを巡らせ、すぐに八雲は答えにたどり着く。
「…勝手な話、かな」
 我ながら、と嘆息しつつ周囲を確認する。今回は穏やかに済んだ分、特に後片付の必要もないかもしれないが、それでも毎回現場を一通り確かめてしまう。こういうのを習い性、というのだろうか。案の定、痕跡は『彼』が座っていた椅子の位置くらいで。元通り整りにしてから八雲は教室を後にした。

 

灯りのない廊下、自分の足音だけが響く暗闇を進み、誰知れずもう一度呟く。
「勝手な話だ。本当に」
自分が何気なく叶えてしまった願い。それに焦がれ、叶ったと納得して消えていった『想い』。『彼』と向き合ってみて、八雲はほんの少しだけ、申し訳ないと、そう思ったのだ。

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