異世界で美少女吸血鬼になったので”魅了”で女の子を堕とし、国を滅ぼします ~洗脳と吸血に変えられていく乙女たち~

kiki

Ex6-3 ゲームの始まり

 




「はい……はい、それでお願いします。ええ、今のところは――ですが見つかるのも時間の問題かと」

 駅で電車を待つ間、巫里はずっと”本家”と電話をしていた。
 隣に居る扇里にも、微かに野太い男性の声が聞こえてくる。

「わかっています、ですが今の私には妹を守るので精一杯です……こちらに派遣を? 分家の方からですか、ですがあちら側は大丈夫なのですか?」

 身内が上司にへりくだる姿というのは、あまり見ていたいものではない。
 電話先の相手の態度がやけに高圧的となると、余計にだ。
 姉はこんなにも頑張って自分を守ろうとしてくれていると言うのに、なぜこの状況で叱責出来るのか。
 どうせ自分たちは安全な場所でふんぞり返っているだけのくせに、と、扇里は駅で買ったホットレモンのペットボトルで手を温めながら毒づいた。

「私は私に出来る限りのことをするつもりです。ええ、連中が次に何を仕掛けてくるか全くの未知数ですので、場合によっては本家の位置も把握されてしまう可能性が……っ!? も、申し訳ありません。配慮の足りない発言でした。はい、そちらのご無事を祈っています、それでは」

 最後に巫里は頭を下げながら言い、電話を切った。
 そして端末の画面を眺めながら、大きくため息を吐く。
 白い呼気が薄暗い駅の構内に舞った。

「おつかれさま、お姉」
「あはは……ただ話すだけで疲れるってのも変な話だけどね。どうしても苦手なの、無条件でこっちを見下してくる人っていうのがね」
「得意な人なんて居ないって。私たちなんか襲わないで、吸血鬼も本家の方に行けばいいのに」
「聞かれてたら大変なことになるわよ?」
「盗聴でもされてるっての?」
「やりかねないわ。ま、私も扇里に同感だけどね」

 さんざんな言われようだが、それだけ言われるのに相応しいだけの理由がある。
 あまり好ましくないとは思いつつも、電車が到着するまでの10分間、2人は本家への悪口で盛り上がった。
 そのおかげだろうか、家を出た時よりは恐怖感は和らいでおり、ちょっとした旅行気分すらしてくるほどだ。
 だがそれも、まだ吸血鬼の姿を実際に見てはいないので、実感が湧いていないだけなのだろう。
 消耗するよりはマシである。
 笑える間に笑っておくべきだ、追い詰められた状況下ですり減っていくのは体だけじゃない、心も例外では無いのだから。



 ◇◇◇



 本家が手配したホテルは、自宅の最寄り駅から3駅ほど離れた場所にあった。
 正直、どこが完全でどこが危険なのか、そんなことは誰にもわからない。
 今晩2人が泊まるホテルが選ばれたのは、周辺地域で被害者が出たという報告が無く、半吸血鬼デミヴァンプたちの行動範囲外地域であると考えられたからだ。
 もっとも、だからこそ次の標的に選ばれやすいとも考えられるのだが、それを言い出してしまうとキリがない。
 吸血鬼による犠牲者はすでに全国に広まっている。
 どこであろうと、可能性はつきまとうのだ、割り切るしか無い。

「……もしかして、ここ?」

 電車を降り、駅から歩くこと2分。
 目当てのホテルは、文字通り目と鼻の先にあった。
 扇里はその建物を見上げ、露骨にがっかりしながら言った。

「うっはぁ、ゴリゴリのビジネスホテルだね」
「贅沢言わないの、この時間から部屋が取れただけラッキーだと思いましょう」
「そだね。奴らもこんな地味ぃーなホテルに私たちみたいな可憐な姉妹が潜んでるとは思わないだろうしっ」

 巫里は、本調子を取り戻しつつある妹を見て微笑んだ。
 家を出てからしばらくは、すっかり怯えた様子で、ずっと姉の袖にしがみついていた。
 それもそれで可愛いのだが、やはり扇里は普段通りで居てくれた方が安心出来る。

 2人はホテルに入ると、フロントでの受付を済ませる。
 名前はもちろん偽名、この手の工作は本家が得意とする所である。
 それでも、偽名での宿泊に慣れていない2人は、受付が終わるまで緊張した様子だった。
 手続きを終えて、カードキーを受取り、エレベーターに乗り込むとほっと一安心。

『はあぁぁ……』

 ドアが閉じた瞬間、2人はほぼ同時に大きく息を吐いた。
 そして互いにきょとんと見つめ合い、どちらからともなく笑い出す。
 非常に下らないやり取りではあったが、扇里は腹を抱えながらも、やはり自分らは姉妹なのだ、と確認していた。
 そうこうしているうちにあっという間にエレベーターは4階に到着する。
 巫里は扇里が前に出ないように片手で制しながら、慎重にフロアに踏み出した。
 まずは廊下に誰も居ないかを確認する。
 その後、目を瞑り、感覚を研ぎ澄まし気配も探った。

「お姉?」

 しかし扇里にしてみれば、目を閉じて黙り込んでいるようにしか見えない、困惑するのも当然だろう。
 だが、説明するにしても部屋に入った後だ。
 一見して落ち着いているように見える巫里だが、心臓はバクバクと大きく脈打っていた。
 彼女には実戦経験がほとんど無い。
 訓練では似たようなシチュエーションに遭遇したことはあったが、あの時は守るべき相手など居なかった。
 どこでどう動くのが正しいのか、手探りでやっていくしかないのだ。

「……ひとまずここは大丈夫みたいね。扇里、まずは非常口を確認しましょう」
「う、うんっ」

 素人である扇里は、巫里の後ろにぴったりと離れずに歩き、階層の端にある非常口への扉を確認した。
 鍵はかかっているが、問題なく開けられるようだ。
 扉の向こうには金属で作られた無骨な階段があり、地上まで続いていた。
 できればここを使うような事態に遭遇することは避けたいが――しかし、巫里が祈る程度で結果が変わるものでもない。
 結果は吸血鬼のみぞ知る。
 脱出路の確認を終えると、ようやく2人は部屋に向かう。
 廊下の真ん中あたりに位置する403号室。
 ノブ近くにあるスリットにカードキーを差し込み鍵を開けると、素早く部屋の中に入る。
 ドアが閉まり、オートロックによりガチャンという音が部屋に響いた。
 2人はほっと一息つく。
 閉鎖空間が、”ここには敵が居ない”と言う安心感を与えてくれるのだろう。
 部屋が広いとこうは行かなかったろうが、幸い2つ並んだベッドが面積の半分以上を埋めてしまうほどの広さしかない。
 残りの部分には、棚とテレビと小さな冷蔵庫が設置してあるだけの、実に質素な内装だ。
 風呂はユニットバス形式で――この場合は風呂が付いているだけでもありがたく思うべきなのだろう。
 扇里は部屋に入るなり部屋の角にある棚に近づき、そこから伸びるLANケーブルに触れた。

「今時有線なんだ……安定はしてるけどさあ」
「ネット回線が繋がってるだけありがたいと思いなさい、安宿なんだから」
「はーい。ま、さすがに今はパソコン弄る気にはなれないけど」

 扇里が家から持ち出してきた荷物の中には、ノートパソコンも入っていた。
 一世代前のロースペックな代物だが、簡単な作業ぐらいならこれでこなせる。
 部屋の内装チェックも済んだ所で、心の平穏を得ると同時に、扇里の体にどっと疲れが押し寄せてきた。
 なんだかんだ、張り詰めていた気分が肉体的な疲労を誤魔化していたのだろう。
 体の気だるさに身を任せ、ふかふかのベッドにダイヴする。
 ぼふっ。
 うつ伏せの状態で顔を布団に埋めながら、扇里はそのまま動かなくなった。

「寝るならちゃんと布団を着てからにしなさい、風邪ひくわよ」
「うん、わかってるぅー」

 と言いつつも彼女は動かなかった。
 まったくもう、と呆れながらも、巫里は口元に笑みを浮かべてそんな妹の様子を眺める。
 見ているだけで癒やされるのだから、彼女も中々のシスコンである。
 扇里はしばらくベッドの上で毛虫のようにもぞもぞと動くだけだったが、さらに時間が経つとゆっくりと起き上がり、緩慢な動きで布団の中に潜り込んでいく。
 服は皺になってしまうだろうが、着替えまでは準備していない、ひとまず今日はこのまま寝るしかあるまい。
 妹が寝息を立て始めたのを確認すると、巫里も明かりを消してベッドに入った。
 いつもに比べればまだ寝るには早すぎる時間だが、明日に向けて体力を蓄えておかなければ。
 寝る前に携帯端末を手に持ち、本家からの連絡が無いか確認をする。
 通知は一件。

『明日の朝そちらに向かう、必要なものは無いか?』

 と言う、巫里の部下にあたる男性――庵寺からのものだった。
 大柄で坊主頭で仏頂面で、スーツの良く似合う無口な彼の事は、正直あまり得意ではなかったが、飛び出すように家を後にしたので、必要なものは大量にある。
 食料、下着、変装道具、武器、その他諸々、思いつくだけ羅列して、返信を送る。
 優秀な男なので、この時間からでも平然とリクエスト通りに物を集め、朝には届けてくれるはずだ。
 問題は、途中で吸血鬼の妨害を受けないか、だが。
 それは明日になればわかることだ、彼が時間通りに来なければ何かがあったということなのだから。



 ◇◇◇



 夜が明ける。
 疲れの影響か、2人は想像していたよりもずっとぐっすりと寝ることができた。
 特に目覚ましのアラームも設定していなかったため、扇里と巫里はいつもならすでに起きている時間になっても起床することはなかった。
 そんな2人を起こしたのは、少し大きめのノック音だった。

「んぅ……うるさいわねぇ、今何時だと思って……」

 体を起こし、寝ぼけ眼を手の甲でこすった巫里の顔色は、時計を見た瞬間にさっと青ざめた。

「やっば、もう9時じゃない!? つまりこの音は――」
『巫里様、居られないのですか? これ以上返事が無い場合は非常事態と判断し扉を破壊して侵入致しますが』
「ああぁぁっ、待った! 待って! ストップストップゥッ!」

 大慌てでベッドから転げ落ち、四つん這いの状態からどうにか立ち上がってドアへとダッシュする。
 その向こうで待っていた男は、寝癖だらけでボサボサ頭の巫里を見ても、表情1つ動かさない。
 その無表情さが、余計に圧迫感を感じさせるのだ。
 頬の傷に細い目、そしてやけに似合っている黒いスーツと相まって迫力は相当なものだった、と言うかどこからどう見てもヤクザにしか見えない。

「あはは、ごめんなさいね庵寺、思ってた以上に疲れが溜まってたみたいで……」
「……これ、頼まれたものです」
「ありがと、量が多くて大変だったでしょう?」
「いえ、特には。それでは私は本部からの命令がありますので」

 そう言うと、彼はそそくさと部屋の前を去っていった。
「相変わらず愛想の無い男ねえ」とため息をつく巫里。
 彼女は渡された2つのビニール袋の中身を覗き込んだ。
 一方には日用品のたっぷり入っており、もう一方には朝食が入っている。
 いや――量から察するに、昼の分も一緒になっているのだろうか。
 コンビニで買ってきた物ばかりで栄養価は偏っているが、カロリーが高いものばかりをチョイスしているように思える。
 彼も彼なりに、いざという時のことを考えているのだろう。

「食料も確保出来ない状況には追い込まれたくないものね……」

 部屋の入口で1人つぶやく。
 そしてドアを閉めて振り向くと――

「お姉、誰か来てたのぉ……?」

 眠そうな顔をした扇里が、こちらを見ていた。
 一連のドタバタ音で起こしてしまったようだ。
 とは言え、すでに9時を過ぎているのだ、いくら休日はだらしない扇里であってもそろそろ起きても良い時間だろう。

「昨日連絡を取ってた本家の人から物資を預かってたの。朝食もあるから、ここで食べましょう」
「もしかして、コンビニ飯?」
「ええ、普段はあまり口にしないものだけど……扇里はこういうの好きでしょ?」
「うんうんっ、ジャンクフードばんざーい!」
「はぁ。いつか絶対に病気になるわよ……」

 呆れる姉の気持ちなど露知らず、大はしゃぎで朝食の入った袋を預かる扇里。
 彼女は早速袋の中身をベッドの上に広げると、どれを食べるべきかと顎に手を当てながら吟味し始めた。
 すると、食事の中に1つ、書簡が混ざっていることに気づく。

「これってもしかして……お姉、本家って所からの手紙じゃない?」
「あら、ほんとね。庵寺ったら何も言わずに混ぜてたのね、気づかなかったらどうするつもりだったのかしら」

 仕事だけはきっちりこなす彼らしくない。
 巫里は首を傾げながら、その白い封筒を扇里から受取り、訝しげに裏と表を確認した。
 表には何も書いていない、まっさらだ。
 しかし裏には、ただ一言――

「”開けるな”……?」

 とだけ記してあったのだ。

「なにそれ、渡しておいて開けちゃいけないって変じゃない?」
「そうよねえ、私もおかしいと思うわ」
「ひょっとすると、吸血鬼を倒すお札が入ってるから、来るべき時が訪れるまでは絶対に開けてはならぬー! みたいなノリのやつ?」
「そんな重要な物を下っ端の私に渡す意味がわからないわ」

 試しに透かして中を見てみたが、紙切れが一枚入っているだけのようだ。
 巫里の”目”で見ても力を持ったお札が入っているようではないので、扇里の説も違うことになる。

「……とりあえず、ご飯でも食べましょうか」

 2人は書簡の中身を気にしながらも後回しにし、まずは腹を満たすことにした。
 巫里は塩おにぎりと昆布おにぎりを一つずつ。
 扇里はフライドポテトにメロンパン、さらにはツナマヨおにぎりを手に取った。
 明らかに不健康そうなチョイスに眉をひそめる巫里だったが、扇里が幸せそうなので今日のところは何も言わずに目をつむることにした。

「んー? お姉、レンジ使うの?」
「おにぎりは温めた方がおいしいじゃない、扇里のツナマヨも一緒でいいわよね」

 言いながら、扇里のおにぎりを貰おうとする巫里。
 しかし彼女はそれを必死で拒否した。

「だめだよぉ、温めたら海苔のパリパリ感が無くなっちゃうし! 大体、コンビニのおにぎりは冷たくても美味しく食べられるようにできてるんだからね!?」
「そうは言っても、おにぎりって基本的に温かいほうが美味しいじゃない」
「ジェネレーションギャップってやつだね」
「同学年の妹が何を言ってんのよ。わかったわ、そう言うなら私も1個は冷たいまま食べてみようじゃない」

 結局、レンジの中で回ることになったのは塩にぎりだけだった。
 こちらならば、海苔はついていないので扇里も文句は無いようだ。

 部屋には2人で座れるテーブルが無いので、自ずとベッドに腰掛けて食べることになる。
 扇里はメロンパンの袋を開き、それを右手に持ちながら、左手には携帯端末を握りしめていた。
 日課であるSNSのチェックのためだ。

「扇里、行儀悪いわよ」
「例の吸血鬼からのダイレクトメッセージ、どうなってるか確認しとこうと思ったのー」

 そう言われてしまうと巫里も文句は言えない。
 実際それを確認しているかどうかは怪しいものだったが、扇里にとっての精神安定剤になるというのなら、非常時だけは黙認してもいいのかもしれない、と考えられる程度には巫里の思考は柔軟だった。
 黙々と食事は進み、気づけば姉の方はおにぎり2つをぺろりと平らげていた。
 元々運動部の彼女は、中々の大食漢だ。
 食べ過ぎると動けなくなるかもしれない、と言う可能性を考慮して今日の朝食はいつもの半分以下の量に抑えてあった。
 一方で妹の方は、ようやくメロンパンを1つ完食した所だった。
 いや――正確には、少し前にすでに食べきっていたはずなのだが。

「……扇里?」

 だがなぜか、彼女は空になった袋を握りしめたまま止まっている。
 心配になった巫里が声をかけるも、反応はない。
 視線が注がれているのは――携帯端末。

「まさか、あの千草とかいう吸血鬼からまた何か送られてきたの?」
「ち、違うんだけど……その、タグが……」
「たぐ?」

 機械に弱い巫里が、扇里の使うネットに関する用語を理解できるはずもない。
 これは実際に見るしか無いと考えたのだろう、巫里は画面の中を覗き込むように身を乗り出した。
 ずらりと並ぶ画像と文章の数々に目眩を覚えそうになる。
 そんな中に1つ、彼女は見覚えのある文字列を見つけた。

『白金扇里を探しています』

 まるで迷い猫の情報でも探すような文言。
 それが扇里の持つ端末の画面上にはずらりと並んでいる。

「どうして扇里の名前がこんなに沢山あるのかしら」
「探してるんだ……あたしのこと。目撃情報を集めて、場所を突き止めようとしてるんだ」
「そんなの誰が付き合うっていうのよ、情報提供する理由が無いじゃない」
「でもっ!」

 扇里は画面に指で触れながら、流れ行く文字を食い入るように見つめている。

「写真も出てるし、学校名だって――それに住所も」
「誰かが教えてるってことなの?」
「だと、思う。愉快犯? いや、それにしたって普通他人の顔写真なんてそう簡単に乗っけたりはしないはずだし!」
「……まさか」

 巫里がふいに想像してしまったのは、最悪の状況だ。
 まさかそんなはずがない、だがそれなら理屈が合う。
 すなわち――書き込み、情報を提供している人間全てが、すでに吸血鬼化している可能性。

「扇里、書き込んでる人の性別はわかる?」
「文章を見た感じ、女性が多いと思う」
「やっぱり……」
「やっぱりって何? 性別が何か関係あるの?」
「吸血鬼たちは男性だけを殺し、女性は味方に引き入れてきたわ。ネットに扇里の情報を書き込んでいるのが吸血鬼だとするなら、全員が女性じゃないと辻褄が合わないのよ」
「これが、全部吸血鬼……? けど地元だけじゃないよ? 日本中色んな場所に住んでる人が、写真から私の居場所を突き止めようとして話し合ってるんだよ!?」

 額に汗を浮かべ、目を見開く扇里。
 彼女はその後もゆっくりとSNSの画面をスクロールし続け、そしてとある画像が表示された所で動きを止めた。
 指先と唇が震える。
 文章による脅迫だけだった、ネット越しに脅されただけだった、だから今まではある程度心の平穏を保っていられた。
 だが、今彼女が直面したものは違う。
 ”自分は追い詰められている”、その実感が圧倒的な質量を持ってずしりと扇里を押しつぶそうとしていた。

『偽名を使ってますが、その子なら今、私が働いてるホテルに止まってますよ。これが監視カメラの映像です』

 それは、紛れもなく2人が現在泊まっているホテルの画像だった。
 そこには、チェックインの手続きを進める扇里と巫里の姿が鮮明に映し出されている。
 ”誰がこんなことを”、などと考える必要すらない。
 わかりきっていた。
 彼女だ――同じく画像に映っている、フロントの受付の女性。

「なんてこと……もうここにも吸血鬼が居たってこと? 本家が確保したホテルのはずなのに、あいつらは何をしてたのよっ!?」

 画像を見て、取り乱す巫里。
 だがそこでふと、強烈な違和感を覚える。
 すでにこのホテルが吸血鬼の手に堕ちているというのなら、庵寺はなぜ普通に入ってこられたのか。
 ここに来た時点で敵の手に落ちていた?
 だとするのなら、食事に毒でも仕込んでおくはずだ、だが今のところそんな様子はない。
 無表情で無感情で素っ気ないのは今に始まった話ではなく、だとすると疑うべきは――『開けるな』と記された、あの封筒だけだ。
 巫里は飛びつくように白い包みを手に取ると、乱暴に引きちぎり中の手紙を取り出した。
 二つ折りの薄っぺらい紙を開くと、そこには一言。

『お前のせいだ』

 とだけ印刷されていた。
 何が言いたいのかさっぱりわからない、だが無機質なゴシック体で記された一文が巫里の不安を増長させる。
 ただのイタズラだろうか。
 だが、ここまで追い詰めておいて何の意味も無いイタズラなどここで仕掛けるだろうか。
 ヒントである可能性、罠である可能性、思考を巡らせ推理するも……彼女が答えに辿り着く前に、正答は示される。
 窓の外、上から下へと落下する何かの影に反応して、巫里は反射的にそちら側を見た。
 ほんの一瞬の出来事だ。
 だが確かに、その瞬間に彼女は――ホテルの屋上から飛び降りる庵寺と、目が合ってしまっていた。
 珍しく表情には焦りを浮かべ、口も微かに動いていたような気がする。
 ひょっとすると『助けてくれ』とでも言っていたのだろうか。
 しかし無意味だ、いくら巫里が優れた身体能力を持っていようとも、重力には抗えない。
 直後。

 ――バァン!

 硬い何かが破裂したような音が、ホテルの外に響いた。
 手紙の内容も、庵寺の存在も知らなかった扇里が、音に反応してびくっと肩を震わせ、窓の外を見る。

「お姉、今のは……? どう考えてもヤバい音だったと思うんだけど」

 扇里の問いかけにも、巫里は答えない。答えられない。
 人が死んだのだ、自分の知る人が、目の前で。
 連中が人殺しであることは理解していたつもりだ、自分が命の危機に瀕しているということも。
 だが、実際にこうして”死”を突きつけられると、心が折れる、体が竦む。

「庵寺……嘘、よね……?」

 おそらく今頃、彼はホテルの下の地面で無様な死に姿を晒していることだろう。
 高速でコンクリートに叩きつけられた頭部は粉微塵になって飛び散り、周囲をピンク色の脳漿と赤色の血で塗りつぶしているはずだ。
 そこに白い骨片とこれまた白い眼球と黄色い脂肪と赤い筋肉、あるいは白い筋を適度にデコレーションしているかもしれない。
 辛うじて残った肉体はどうなっているだろう、跳び箱の着地に失敗した小学生のように、尻を突き出して情けない体勢になっているだろうか。
 これは報いだ。
 彼は男である、そして生きていた、だから死なねばならなかった。
 どうせ死ぬならついでに、少しでも自分たちの役に立ってもらおう。
 その程度の思いつきにすぎない。
 だが、その効果は覿面だった。
 少なくとも、吸血鬼と戦うつもりでいた巫里の心をへし折るには十分すぎた。

「死んだ……? あの庵寺が、こんな簡単に……? そんなことが、あるわけが、あっていいわけが――」
「どうしたのお姉、顔真っ青だけど、そんなにマズイ状況なの? 逃げた方がいい?」

 どう説明するべきか熟考する巫里。
 おそらく扇里はまだ庵寺の死に気づいていない、人の死とは縁遠い場所に生きてきた少女だからこそ、あの音が人が地面に叩きつけられて壊れた音だとは理解できないのだ。
 巫里は、できればそのままで居て欲しいと願った。
 碌でもない世界に沈むのは自分だけで十分だ、と。
 ならばどうする、現状をどう形容したらいい。
 顔を手で覆い、同時並行で心の落ち着きを取り戻そうとするも、人の死というイレギュラーによる乱れからは中々復帰できない。

 庵寺が死んだ、おそらく洗脳の類を使って、彼の体を操って。
 彼が購入したコンビニの袋に封筒が入っていたと言うことは、あの時点ですでに体の自由は奪われていた。
 そして開いた瞬間に、まるで巫里に罪を押し付けるようなタイミングで飛び降りたことを考えるに――この部屋だって、すでに監視されている。

 落ち着けと言う方が無茶な話だ。
 どんな理屈を行使すれば、庵寺を操って手紙を仕込み、なおかつ部屋を監視しつつ手紙を開いたタイミングで彼を自殺させることが出来ると言うのか。
 そして、それが可能な化物相手に、未熟な巫里がどう戦えと言うのか。
 思考に思考を重ねるほどにどツボにはまっていく。
 いや――そもそも彼女の実力では突破口など開けやしないのだから、袋小路こそが正しい結論ではあるのだが。
 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。
 巫里だけならともかく、守るべき扇里だっているのだから。

 考え耽る巫里の耳に、微かな足音が聞こえた。
 部屋の外、誰かが廊下を歩いて近づいてくる音だ。
 緊張が走る。
 彼女は咄嗟に言えから持ち出した長い筒状の鞄を手に取ると、ファスナーを開き中身を取り出した。
 白色に近い木製の鞘に収まった、二尺三寸の日本刀。
 巫里はベッドから降りると、ドアに向き合ってまっすぐに立ち、清らかな銀色の刃をゆっくりと引き抜いた。

「それって……」
「退魔の太刀、だってさ。実戦で使ったことはあんまり無いんだけど――」

 鞘を床に捨て、腰の高さに刀を構える。

『お客様、少しお伝えしたい事があるのですが、開けていただいてもよろしいでしょうか?』

 コンコン、とノックしながらそんな声が聞こえた。
 なんと白々しいことか。
 確かに、外から響いた異音に関する伝言ならばタイミング的におかしくはないが――しかし、フロントの女性がすでに人間ではないことを、巫里はとっくに知っているのだ。

『お客様、お客様ぁー?』

 しつこく女性はノックを続けた。
 その音も徐々に強くなってきている、苛立ちが巫里にまで伝わってくるようだ。
 ドンドン、ドンドンドンドン! と、もはや正体を隠すつもりもないのか、続けざまに拳をドアに叩きつける。
 そしてついには痺れを切らし、鋭い針のような何かが分厚いドアを貫いた。
 見るからに丈夫な材質で出来ているはずなのに、まるで羊羹のように切断されていくそれを見て、巫里は緊張から唾をごくりと飲み込んだ。
 やがて円形の切れ端がゴトリと床に落ち、その向こうから女性が部屋の中を覗き込む。

「……お客様、居るじゃないですか」

 そこで巫里は初めて、ドアを切り裂いたそれが”爪”であることに気がついた。
 だが、人間との違いなどその程度だ。
 他は、どこからどう見てもただの綺麗な女性にしか見ええない。

「(あの人を、斬るの? できる? 庵寺が死んだだけで動揺してるような私が……!)」

 巫里は自問する。
 どんなに”人殺しではない”と言い聞かせても頭が納得できない程度には、目の前に迫りつつある化物は人間だ。
 彼女の目をもってしてもそう見えるのだ、あれが町を歩いていても、吸血鬼だと判別できる者は居ないだろう。
 だからこそ、侵食は誰にも気づかれることなく、だが大胆に行われた。
 そんな相手に勝てるのか。

 彼女は胸に渦巻く2つの感情を天秤にかける。
 1つは恐怖、どうあがいても勝てっこない、そんな諦めから来る合理的な判断。
 1つは勇気、何があっても最愛の妹を守る、そんな決意から来る勇敢で無謀な炎。

「ふふっ」

 ああ――それなら・・・・、考えるまでもないじゃないか。
 巫里は刀を握りしめる両手に力を入れ直し、闘気に満ちた表情で吸血鬼を睨みつけた。
 足の位置を調整し、踏切に最適な位置を探す。
 その動きがぴたりと止まると、つま先からふくらはぎ、太ももへと伝導させるように力を込め、地面を強く踏んだ。
 スキニー越しに、巫里の足の筋肉がきゅっと引き締まる。
 弓の弦を引くように限界まで張りつめた彼女の脚力は、吸血鬼が一歩こちらへと踏み出し、その足裏が接地するのと同時に一気に放出された。
 バギィッ!
 床板を破砕しつつ、巫里は弾丸のように前進する。
 入り口からベッドが並ぶ部屋までは狭い廊下の一直線、回避するほどの空間は無い。
 だが、それは巫里にとっても同じこと。
 吸血鬼は焦った表情を浮かべながらも爪を構え、彼女を迎え撃った。
 だが――いくら身体能力が人間離れしようが、経験や技で勝るのは巫里の方である。
 文字通り目にも留まらぬ速度で吸血鬼に接近すると、刀のリーチ内に捉えた瞬間から2人がすれ違うまでの間に、巫里は四度刀を振るった。
 扇里はもちろん、吸血鬼ですら目視できない速度の斬撃。
 これだけのスピードが出ていると着地も容易ではなく、巫里は残心を取りつつも背中をドアに打ち付けようやく停止した。

「1対1なら、私だって戦えるんだから……」

 そう言いながらも、声が震えている。
 巫里の前に転がっているのは、分断されいくつかの肉片と化した人体の成れの果て。
 手にはまだ肉と骨を切断した感触が残っている、おそらく一生消えることはないだろう。
 だが、どのみちいつかは、背負わなければならなかった咎。
 ”妹のため”という大義名分がある今で良かった、と巫里は安堵した。

「お姉、そ、それ……死んでる、の?」

 顔面蒼白の扇里が、ベッドの上で腰を抜かしながら言った。

「扇里、あまり見ない方がいいわ」
「うん……っ」

 姉にそう注意を受けて、彼女は強く目を瞑る。
 できれば死体も見せたくは無かったのだが、非常事態だ、仕方あるまい。
 しかし、こうして部屋に直接襲撃があったということは、すでにホテルは安全地帯ではない。
 いや、安全地帯というものは、この町にはもう存在しないのかもしれない。
 巫里は自らの手のひらを見つめた。
 守りきれるのか、自分の力で。
 こうして無傷で吸血鬼を撃破できたことで、各個撃破ならば問題は無いという確証がモテた。
 伊達に幼いころから鍛錬を積んできていない、人間離れの度合いで言えば、吸血鬼よりも彼女の方がおそらく上だろう。
 退魔の血族は古くから歴史の裏で暗躍してきた。
 長い年月を経て積み上げられてきた剣技は、表の世界に伝わる技術とは全く次元が異なる。
 ――ただしそれは、身体能力・・・・に限った・・・・・だが。

「痛い……痛いよぉ……」

 地面に落ちた首から、そんな声がした。
 最初は空耳かと思ったが、どうやら扇里も全く同じ音を聞いたようだ。

「そっか、だから、千草様は無理はするなって……ああ、怒られちゃうかなぁ……褒められたかっただけなのに、無茶したって、おしおきされちゃうのかなぁ……」

 そして巫里は、床に落ちた生首の口が動いているのを見た。
 心臓を潰すとか、頭を潰すとか、化生の類はそういった手段を講じなければとどめを刺すことは出来ないと言う話を聞いたことはあったが。
 相手が人型をしていたことで油断していたのだろう。
 巫里は慌てて頭部に近づき、刀の先端を突き立てた。
 だが――

「くっ、何よこれ……黒いもやもやが、邪魔して……っ!」

 先端が影に邪魔をされ、刺すことができない。
 そうこうしている間にも、吸血鬼の肉体は影と影につなぎ合わされ、再生していく。
 自分の力では、この影を祓うことはできない。
 そう判断した巫里は、未だ目を閉じたままの扇里に駆け寄った。
 鞘を広い、刀を仕舞い、強引に彼女の体を抱き上げる。

「ひゃわっ!?」
「逃げるわよ、扇里! 今の私じゃあれは倒せない!」
「わ、わかった。でもあたしだって走れるんだけど!?」
「こっちの方が早いのよ、大人しくお姉ちゃんを信じて捕まってなさい! あと、地面は絶対に見ないように、私が許可を出すまで空だけを見てるのよ、いい?」
「うん!」

 お姫様抱っこの体勢で窓のそばまで移動、両手が塞がっているため扇里に開けさせる。
 窓の位置は腰よりも高いため、巫里はジャンプして外へと飛び出した。
 もちろんその先に足場はない。
 ビル4階からのフリーフォール。
 扇里は恐怖のあまり、口を開いたまま声すら出せない様子だった。
 あまりに冷たい風に巫里は顔をしかめる。
 そのまま着地。
 地面を足裏が打つ音に、べちゃりという飛び散る液体の音が交じった。
 ちょうど真下には庵寺の死体があったのだ。
 巫里の足はその血溜まりをしっかりと踏んでしまっていた。
 直接、体や飛び散った内臓らしき物体を踏まなかったのは幸いだった。
 周囲に漂う臭いも酷いもので、血液と糞尿が混じり合っているようだ。

「うわ、酷い臭い……なんだろこれ」

 扇里が勘づく前に、巫里はその場を走り去る。
 ちょうどその場所は、ホテルの横にある細い通りだった。
 見渡しても人気はない。
 元からあまり人通りの多い場所ではないが、さらに進み駅前の通りに出ても人っ子一人居ないのは、明らかに異様だった。

「ねえお姉、まだあたし、この体勢で居る必要ある?」
「しばらくこのままでお願い、いつどこで襲われるかわからないから」
「わかった……っていうかお姉、思ってたよりずっとすごいんだね。ビルから飛び降りて無傷とか人間じゃないって」
「そういう場所なのよ、うちの家はね」
「……そうなのかもしれないけど」

 扇里は、せっかく近づいた姉が、遠くに離れてしまったような気がしていた。
 と言うより、最初から違う世界の住人なのだと気付かされてしまったというか。
 巫里との間にあるどうしようもなく分厚い壁は、最初から壊そうと考えることすら無駄だったのかもしれない。

「最初から袋の鼠だったってわけね、この光景を見ると痛感するわ」
「確かに田舎だけど、誰も居ないなんてことはないもんね。まるでゴーストタウンみたい……いや、この場合はヴァンパイアタウンになるのかなー、にひひ」

 駅前のロータリーを見ながら、2人は各々に感想を述べた。
 特に何がおかしいのか自分でもわからないのに笑っている扇里は、受けているダメージが大きいらしい。
 人の姿どころか、車一台だって停まっていない、まるで別世界にでも迷い込んだかのようだ。

「これからどうするの、お姉」
「まずは安全な場所を探しましょう、必ずどこかにあるはずなんだから」

 巫里は叶うことを信じて願望を言葉にしつつ、歩き出す。
 すると、扇里がちゃっかり持ってきていた携帯端末が、ポケットの中で震えだした。
 ブウゥゥゥ――と言う独特の振動音に、すぐに足を止める巫里。
 くすぐったい感触に、扇里はすぐさまポケットに手を突っ込んでそれを取り出す。

「扇里……ちゃっかり持ってきてたのね」
「にひひ、反射的にだと思う。気づいたらポケットに入ってたんだ。紗綾から着信みたいだけど、どうする?」
「あなたの友達だったわね、出た方が良いと思うわ。ひょっとすると学校はまだ安全かもしれないし」

 姉の許可ももらった所で、扇里は緊張した面持ちで通話ボタンに触れた。
 さらにスピーカーフォンモードに変え、会話の内容が巫里にも聞こえるようにする。

『あっ、出た。扇里、学校サボってどうしたの?』

 開口一番、紗綾は違和感しか無い口調で喋った。

「何その話し方、まさか例の女の人とまた会ってたの?」
『うん、こっちのが可愛いでしょ?』
「可愛いっていうか普通っていうか、紗綾らしくはない」
『扇里は酷いな、友達が頑張って変わろうとしてるってのに』

 言いたいことはわからないでもない。
 だが、いかんせん変化が急すぎる。
 ほんの数日で口調がここまで変化すれば誰だって訝しむだろう。

『ところで、結局なんで休んでるの?』
「紗綾、その前に確認しておきたいんだけど――」
『なに?』

 扇里は表情から一切の笑みを消して、落ち着いた声で問いかけた。

「今、授業中だよね」

 だというのになぜ、紗綾は堂々と扇里に電話をかけているのか。
 後ろから聞こえてくる環境音で、彼女が自宅に居ないことはわかる。
 場所は学校なのだ、それは間違いない。

『自習だよ自習、先生がいらなくなったから』
「先生が居なくなった? 一限目って誰だったっけ……」
「扇里、違うわ。よく聞いて」
「へ?」
『そうだよ、違うよ扇里。私は、いらなく・・・・なったって言ったの』

 いらない。
 先生が。
 その2つの言葉が、いまいち扇里の頭の中で結びついてくれない。
 いらないかいるかで言えば、確かに居ない方が嬉しい類の教師ではあったが。
 しかし――それを決める権利など、生徒には無いはずなのだが。

「紗綾、それどういうこと? 先生はどうしたの?」
『実験室で解剖やってるよ』
「一限目って日本史じゃなかったっけ、あの先生、生物なんて教えられたんだ」
『あはははっ、扇里ったら面白いこと言うんだね。違うよ、解剖されてるのは先生。いらないから有効活用しようって他の先生が提案してくれたの』

 紗綾の言っている事が、扇里はやはり全く理解できない。
 先生が、必要ないから、解剖した。
 誰を? 何が? どうやって?
 詳しく話を聞けば聞くほど泥沼にはまりこんで、扇里の頭は混乱していく。
 彼女の困惑をよそに、教室では女生徒数人がじゃれあうような声が聞こえている。
 平和だ。
 誰も居ない駅の前と比べると、向こうにはあまりに平和な日常が広がっているというのに。
 そのギャップが余計に、扇里を真相の理解から遠ざけていた。

『ねえ扇里、もしかして”まだ”なの? お姉さんも一緒に居るんだよね、じゃあ2人で学校に来なよ、みんなでしてあげるから』
「して、あげる?」
『そう、うんと気持ちよくしてあげる。人間じゃ絶対にできないこと沢山して、そして今まで仲良く出来なかった子たちとも仲良くしようよ。友達が増えるよ、もしかしたら恋人かもしれないし、夫婦かもしれないけど、とっても楽しいよ、幸せだよ、気持ちいいよ?』
「紗綾、それは……」

 さすがにここまで来ると、扇里だって気づく。
 学校はとっくに、安全な場所などではないのだ。
 唇を噛み締め、苦しそうな表情を見せる妹を見かねて、巫里は耳元で「もう切りなさい」と諭した。
 まだ紗綾は何やら話している様子だったが、扇里は力ない動きで通話終了ボタンに指を重ねる。

「学校……ダメみたいだね」
「そうね、出入りが簡単な上に人が多い場所だもの、真っ先に狙われても仕方ないわ」
「他、どこいこっか……警察署、とか?」

 扇里の頭に浮かぶのは、香菜の顔だった。
 陽気で、明るくて、けど警察官らしく正義感もあって、もちろん武術だって嗜んでいる。
 彼女ならあるいは、と希望を抱くも――まるでそのタイミングを待っていたかのように、端末がメッセージの到着を示す音を鳴らした。
 差出人は、香菜だ。

「扇里、私が見よっか?」
「ううん、いい。2人で見よう」

 扇里は通知を示すアイコンに指先で触れる。
 画面が変わり、映し出されたのは、『とっても嬉しいことがあったから扇里ちゃんにもおすそ分け』という楽しげな文章。
 そして一緒に送られてきた写真が、画面いっぱいに表示される。

『初めての人殺し記念』

 そう題された写真は、笑顔でピースをしながら血まみれになった香菜と、顔の半分から上が千切り取られた男性の頭部が、ツーショットで並んでいるものだった。
 男性の首にかかっているネックレスの話は聞いたことがある。
 確か、香菜がプレゼントしたものだ。
 つまりこの男性は――彼女の彼氏、なのだろう。

「ううぅ……」

 あまりに凄惨な写真に、扇里は思わず手から端末を落とし、空いた手で口を抑える。
 せり上がる嘔吐感はどうにか抑えたが、しかし記憶にはアップになった男性の死体が焼き付いている。
 グロ画像を見たことは何度もあったが、それが知っている人間が映っている写真となると事情が違う。
 しばらくは忘れられそうにない。
 巫里は扇里の頭に触れながら慰めようとしたが、彼女自身も大きなショックを受けていることは言うまでもない。
 もちろん死体が衝撃的だったこともある。
 しかし巫里の場合、正義感の強い香菜が人殺しになってしまったという事実が、どうしようもなく悲しかったのだ。

「吸血鬼……どうしてこんなことを」

 巫里は怒りに燃える。
 だが、自分たちだけでは何も出来ない、味方を探さなければ。
 香菜がこの有様ということは警察もダメだ。
 おそらくだが、例の風邪をひいた後輩、あれが原因だろう。
 本当は風邪などではなかったのだ。
 すでに吸血鬼化した女性が、香菜をおびき寄せるための口実に使ったに違いない。
 そして紗綾の方も、最近よく話に出てきていた女性の話が原因と考えられた。
 男の恋人が居ると聞いて扇里は安心していたが、庵寺のように何らかの手段で男性を好きに操ることも出来るのだとすれば、おそらくそれは、自分が吸血鬼ではないと言うことをアピールするための人形のようなものだったに違いない。
 もっと早くに気づけていたら――2人はそう悔やんだが、早く気付けたと言って、何が出来ると言うのだろう。
 大量にひしめいているであろう吸血鬼たちのうち、1体すら殺すことが出来ない、非力な人間2人に。

「扇里、スマホ借りても良いかしら」
「……壊れてないなら、好きに使っていいよ」

 巫里は扇里を降ろすと、しゃがんで地面に落ちた端末を手に取った。
 幸い、傷が付いた程度で画面は割れていないし、故障もしていないようだ。
 記憶を頼りに、電話番号を入力していく。
 画面上に表示されているのは、本家でも地位の高い重役の番号だ。
 本来、彼女の方から許可も取らずに連絡を取って良い相手ではないのだが、この際だ、怒られようが罰を受けようが安全の確保が最優先である。
 なぜわざわざ、数ある本家の人間の中から彼を選んだのか言えば、筋金入りの卑怯者だから。
 絶対に自分だけは安全域から出ようとしない、自分の身の安全を確保するためなら他の幹部を平気で蹴落とす、そんな彼のことを巫里は心から軽蔑していた。
 非常時用に、特注のシェルターを用意しているなんて話も聞いたことがある。
 今回のように人外の輩が襲い掛かってきた時も想定して作ってあるらしく、もしシェルターに逃げ込めていればあるいは――巫里はそう考えたのだ。

 コール音が鳴り始める。
 プルルルル、プルルルル、プルルルル――
 電子音は虚しく鳴り響く、彼はまだ出ない。
 四回、五回、六回、。
 ひょっとすると、画面に表示された番号を見てあえて出ていないだけなのかもしれない。
 七回、八回、九回。
 このタイミングでの電話など、面倒事以外にありえないからだ。

「お願い、出て……!」

 それでも巫里は祈った。
 端末を握りしめる手に汗をにじませながら、電話の向こうに居るはずの大嫌いな男にすがる。
 そして、二十回目のコール音が鳴った時。
 プツッという音と共に電話が繋がった。

「あっ、あの、白金巫里です! 退魔の巫女の! 今、お願いしたいことがあって!」

 必死に語りかける巫里だったが、帰ってきた声は期待していた男性のものではなかった。

『これでお話ができるのですか? 素晴らしいですね。え、もう向こうに聞こえているのですか!? それは失礼いたしました、ですがどうしたらいいのです? これを耳に当てて、話す、ですか。……あ、逆? こうですか? ああ、上と下が……なるほどこうしたらいいのですね。う、ううん、おほんっ、あーあー……なんだか緊張してしまいますが、こちらの世界の文化にも慣れなければなりませんものね。では……いよいよ、話しますね。いきますよ……っ、ごきげんよう、白金巫里さん。わたくしは半吸血鬼デミヴァンプのナナリーと申しま――』

 巫里は有無を言わさず通話を止め、端末を地面に投げつける。
 珍しく感情を露わにする姉を見て、扇里は不安そうな表情を見せた。

「お姉……?」
「くっ……本家もダメだった。あいつがやられてるってことは、もうどこもかしこも終わってるわ。全滅よ」

 核から生き延び、化物の侵入も防ぐというご自慢のシェルターも、吸血鬼の前には無力だった。
 そんな相手に、一体誰が勝てるというのか。
 例え本家であっても、警察が――いや、軍が動いたって、敵うはずがない。

「じゃあ、あたしたちはどうして無事なわけ? おかしいよね、本家ってとこも、学校も、警察も! ぜーんぶ吸血鬼になってるのに、あたしたちだけ人間のままだなんて不自然だよ!」

 扇里の言う通りだ。
 あまりに不自然、あまりに不可思議。
 考えられる可能性は1つだけ。

「私たちは生きてるんじゃない……生かされてるのよ」
「どうしてあたしたちだけそんなことをっ! あたしたちが何をしたって――」

 他の人間と違う部分ならあるはずだ。
 吸血鬼に対して、積極的に妨害を仕掛けたこと。
 噂を広め、動きを抑制しようとしたこと。
 そして――姉が、吸血鬼と敵対する退魔の血族の人間だったこと。

「そんな……まさか、たったあれだけで。あんな、些細なことだけで……?」

 崩れ落ち、膝をつく扇里。
 巫里は右手で左の二の腕をぎゅっとつかみ、悔しそうに下唇を噛んだ。
 生きる人間の音が消えた駅前に、文字通り完全なる沈黙が満ちる。
 何を言おうとも、何を考えようとも、もはや無力である。
 無事な場所などこの世界には存在しない――それを知ってしまった今、崩れた虚勢を再び立たせることは難しいだろう。

「あたしがあんなことしなければ、みんなが巻き込まれることなんて無かったのかな……」
「お願いだから自分を責めないで、扇里。頼んだのは私だもの、攻められるべきは私なのよ……!」
「それは少し違いますよ、巫里」
「っ!?」

 巫里の耳元で、甘く気だるげな声が囁いた。
 咄嗟に振り向き、後方へと飛び退く。
 空中にいる間に、握っていた刀の柄に手をかけた。
 だが、そこには誰もいない。

「罰は罰に違いありませんが、あなたたち姉妹の、と言うよりは一族の、と言った方が正しいですね」
「誰なのっ!?」

 また背後から声がする。
 しかし、同じように振り向いてもそこにはやはり誰もいない。

「扇里には見えてる?」
「ううん、居ない……誰も居ないの、なのに耳元で声が聞こえてくるっ」

 扇里にも耳元で聞こえているということは、位置などは関係なさそうだ。
 だが、自分たちが見えるどこかに居るに違いない。

「で、出てきなさいよ化物……! どうせ私たちには勝てないんだから、そんな卑怯な手を使ってないで姿を見せなさい!」
「せっかちですね、少し演出というものをしてみたかったんですが」

 ”声”がそう告げると、2人の視線の先に黒い影が集まりだす。
 やがてそれは人の形を作り、体の輪郭を、凹凸を、そして色を取得し、小柄な少女へと変貌する。
 高校の制服を身にまとった、長い黒髪の、薄幸そうな顔をした色白の美少女は、姉妹の方を見て年不相応に驚くほど色っぽく笑った。
 桃色の唇が湾曲し、笑顔を形作ると、扇里と巫里はほぼ同時に、背筋にゾクリとした寒気を感じた。
 そして、特別な目など持っていない扇里ですら、その姿を見た瞬間に直感する。
 あれは――人知を超えた生物だ、と。

「やっと会えたわね……あんたが、日向千草、なの?」
「その通り。日向千草17歳、元高校二年生です」
「高校……? 普通に学校に通ってたっていうの!?」
「割と最近までは普通の人間でしたから、色々あって今は半分吸血鬼の体になりましたが」
「だったら! なんでこんなに人間の命を粗末に出来るのよっ!」
「私、粗末にしましたか?」
「してるじゃない、沢山の人が死んだわ! 庵寺だって、香菜さんの彼氏だって!」
「ああ、男性の話ですか。それなら必要無いから捨てただけです。あんなのが生きてたって邪魔じゃないですか、面積と酸素の無駄遣いです」

 罪の意識を感じていない様子で言う千草を前に、巫里は絶句した。

「……そっか、そうよね、化物なんだもん。話が通じないのも納得だわ」
「あの……千草、だっけ」

 対話を諦めた巫里に変わって、扇里が千草に話しかける。
 千草は体の向きごと彼女の方を見ると、「どうしましたか?」と笑顔で返事をした。

「何のために、こんなことをしたの?」
「理由ですか? それでしたら、私……いえ、私たちはただ、みんなを幸せにしたいだけです。電話口でも、あなたの友人が誘ってませんでしたか? あれが全てですよ。変わる前は拒んでいても、変わってしまえばみな幸せになれる、そういうものなんです」
「幸せって、何?」
「哲学的な質問ですね。私が思うに、他人を愛せること、だと思いますよ」
「それは、別に人間でも出来ると思うんだけど」

 扇里の言葉を聞いて、千草は口に手を当てて笑った。

「確かに、出来るんでしょうね。でも、みんながそうじゃないことぐらい、扇里にもわかるでしょう? 幸せな人間が居れば、不幸な人間も居る。人は人を幸福にする以上に、不幸にしたがる生き物ですから」
「それは違うわっ!」

 口を挟む巫里に、

「本家と呼ばれている人々を知っている巫里はわかるんじゃないですか?」

 千草は強めの語気でそう返す。
 それは紛れもない事実だ、反論は出来ない。

「人は人である限り、幸福と不幸に二分されてしまう。だから私は、みんなが幸せになるためのお手伝いをしているんですよ。人間がみな、少しずつ他人を愛すことが出来れば悲劇は起きない。けれどそれが出来ないからこそ人間なんです。だったら人を辞めるしか無い。半吸血鬼デミヴァンプは同族を愛している、全ての生きとしい生けるものが幸福になる条件を備えているんです、人間と違ってね」
「そんなのありえない……嫌いな相手が居るから好きな相手も出来るんじゃん! 好きばっかりじゃ、何が本当の好きなのかわかんなくなっちゃうよ!」
「だから、不幸な人間が生まれてしまう。ほら、やっぱり人間には無理じゃないですか」

 直後、千草は黒い霧になって消えたかと思うと、瞬時に扇里の背後に移動した。
 そして彼女の髪に手を伸ばし、触れる。
 突如背後から感じるくすぐったさに、扇里の全身にぞわりと鳥肌が立った。

「ひっ……」
「扇里ッ!」
「巫里、あまり刀を振り回すと危ないですよ。安心してください、私は女性に危害を加えるつもりはありませんから」
「そう言いながら、さんざん私たちのことを追い詰めてたじゃないッ!」
「それは罰ですよ」
「……ネットに噂を流したことの?」

 扇里がそう言うと、千草はこくりと頷いた。

「確かにそれもあります。ですが一番の理由は、巫里のお仲間が私たちの仲間を問答無用で斬っていたことです。幸い、治療が間に合って死者は出ていませんが、さすがに仲間を傷つけられたら私だって怒りますよ」
「それで……あたしと、お姉を」
「斬りつけてきた人たちはその場に居た仲間がとっくに吸血を済ませていまして。罰を与えようにも出来なくなっていたんです。そこであなたたちに白羽の矢が立ったというわけですね。要するに……八つ当たりです」

 まるで”軽くいたずらを仕掛けてみました”とでも言わんばかりに説明する千草を、巫里は睨みつけた。
 両手足にはすでに力が篭っている、いつでも斬りつける準備は出来ていた。
 だが――彼女が本当に吸血鬼の親玉と言うのなら、ホテルで襲ってきた女性を仕留められなかった自分で、果たして勝てるのか。
 不安が、少しずつ彼女の”せめて一太刀でも”という蛮勇を削ぎ落としていく。

「ああ、あと言い忘れていましたが」

 そんな巫里の葛藤を知ってか知らずか、千草はピンと人差し指を立てると、今日一番の笑顔で言った。

「まだ罰は終わっていませんよ」
「えっ?」

 声をあげる巫里の足元に、黒い円形の影が広がる。
 次の瞬間、彼女はその中に落ちて姿を消していた。

「お姉ッ!」
「大丈夫、すぐに会えますから」

 続けて、扇里の足元にも影が広がった。
 彼女は逃げようと咄嗟に足を動かしたが、すでに足首まで飲み込まれていて身動きが取れない。

「もっとも、次に再会出来る時には――人間では無くなっているでしょうが。くすくすくす」

 暗闇の中に落ちていく。
 寸前に千草が何かを言っていたような気がしたが、極限状態だった扇里の耳には何も届いていなかった。



 ◇◇◇



 扇里が目を覚ますと、そこは打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた、灰色の部屋だった。
 天井には通気口が1つ、前方に鉄製の頑丈そうなドアが1つ、壁にはモニターが設置されており、窓は無い。
 自分が寝ているのは、ダブルサイズのパイプベッド。
 部屋の質素さとは裏腹に、上等な布団を使っているのか寝心地は悪くなかった。

「もう、わけわかんない……ここどこなんだろ……?」

 部屋を一通り見回した扇里は、ベッドに仰向けで寝転がり、額に腕を当てて天井を眺めた。
 自然と瞳から涙がこぼれてくる。
 母が居て、父が居て、巫里が居て、紗綾が居て、香菜がいる。
 友人は多い方ではなかったが、あれはあれできっと幸せだったのだ。

「望んだのが、悪かったのかな……」

 家族の中で、自分だけが浮いているような気がしていた。
 退魔の血を継ぐ母と姉に、全ての事情を知って協力している父。
 そして、扇里。
 みんなは彼女に優しくしてくれたが、それが余計に疎外感を強めていった。
 そのままずっと涙を流し続けていると、ギイィと軋みながらドアが開いた。
 部屋に入ってきたのは、橙色のショートヘアをした見知らぬ外国人の少女だ。
 身長はあまり高くないが、スタイルは良い。
 デニムのホットパンツからすらりと伸びる、白い太ももがやけに色っぽい。
 だがおそらく彼女も、吸血鬼なのだろう。

「お姉様は一般人だから丁寧に扱って上げなさいって言ってたけど、ほんとにそうなんだ」

 少女はベッドに横たわる扇里に馬乗りになると、頬を伝う涙を指で拭った。

「あなたは……」
「私はエリス。お姉様……じゃなくて、千草様からセンリの面倒を見るようにって頼まれたの。三日間だけだけどよろしくね」
「面倒を? 三日間?」
「まあ、そのあたりの説明はいまからやるからさ。ほら、涙を拭いて起き上がりなよ」

 人懐こいエリスに、少しだけ警戒感を解く扇里。
 彼女は腕で涙を拭うと、エリスの腕に引き上げられるようにして起き上がった。

「んで、あのもにたーってやつ? を見てて欲しいってさ」

 言われるがままに、壁に取り付けられたモニターに注目する扇里。
 すると、画面が明滅したかと思うと、似たような部屋の様子が映し出された。
 だが、同じ場所ではない。
 その部屋に居るのは、巫里と千草だった。

『扇里っ!』
「お姉!」

 互いに身を乗り出しながら呼び合う姉妹。

『さて、それでは説明を始めましょう』

 千草がカメラに近づくと、巫里の姿が見えなくなる。

『私たちに何をさせるつもりよ!?』
『簡単なことです、今日から三日間、”私を半吸血鬼デミヴァンプ"にしてくださいと自分から懇願しなければ、あなたがたの勝ち。もう二度と手を出さないと誓いましょう』
『そんなの、懇願するわけないじゃない!』
「そうだよ、あたしは吸血鬼になんて絶対にならないんだから!」
『ええ、その意気です。では――』
『なっ……』

 モニターの向こうの千草は巫里に近づくと、その顎をくいっと持ち上げた。

『まずは下準備と行きましょうか』

 そう言って、唇を重ねた。

『んーっ!? んー! んー! んううぅぅぅー!』

 じたばたと暴れて押しのけようとする巫里だったが、力ではまったく敵わないようだ。
 むしろ暴れれば暴れるほど、千草はさらに強く巫里を抱き寄せて、深く舌を挿し込んでいく。

『んごっ、ごぼっ……ぁ、お……おごおぉおっ!?』

 だが、どうも様子がおかしい。

「なるほど、ああやればいいんだ」

 エリスは顎に手を当てながら、千草を見て何やら納得している。

『おふっ、ふぐっ、ぐごおぉおっ!』
「お姉……? お姉っ、大丈夫なの!? ねえっ、それ以上やったら死んじゃうよ!」

 体を仰け反らせる巫里を見て、扇里は怯えながらも声を荒げた。

「大丈夫だって、むしろお姉さん、気持ちよくなってると思うよ。ほら、口元見てみなよ」

 千草と巫里の重なり合った口の微かな隙間から、黒い何かが漏れ出している。

「影を――要するに魔力を流し込んでるの。本来は魔力を流し込むことで相手を魅了して、半吸血鬼デミヴァンプに変えていくわけだけど、今回は違う」
「どう、違うの?」
「心は魅了せずに、肉体だけに魔力を満たして、”印”を浮かび上がらせる。それを使って、三日間たっぷり2人の心が折れるように愛でるってわけ」
「印……? 魅了……?」
「まあ、やってみればわかるって」

 エリスも千草と同じように扇里の顎を持ち上げ、顔を近づける。

「待って……」
「だめ、待たない。それに今日からはもっと恥ずかしいことするんだし、これぐらいでビビってたんじゃ後が辛いよ?」
「やだ……こんなの、おかしい……」
「それが人間の価値観ってやつだよね。すぐに塗りつぶして、もっと素敵なものを教えてあげる」
「や、やぁっ……んぐぅっ!」

 抵抗も虚しく、強引にエリスの唇が重ねられた。
 すぐさま舌がすべりこんでくる。
 ただでさえファーストキスだというのに、舌まで入れられて、扇里は未知の感覚に翻弄されるばかりだった。
 他人の体液が体内に流し込まれる嫌悪感。
 だが、それを打ち消すほどの甘い感覚。
 異性との交際経験がない彼女とて、自慰ぐらいはしたことはある。
 しかし、ただキスをしているだけだというのに、与えられる感覚は自分の指よりも鮮烈で。
 さらに彼女の口から、大量の液体のような何かが流し込まれると、甘い痺れは口だけに留まらず、さらに強くなって全身に広がった。

「んぐううぅっ、ご、ぼっ!」

 モニターの向こうの姉と連動するように、妹も獣のようなうめき声をあげながら、体をよじる。

「(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!)」

 太い何かが喉をお通り過ぎ、全身を満たしていく嫌悪感。
 何もかも吐き出してしまいたいのに、強制的に流し込まれてしまう。
 こんなものはいらない、助けて、早く解放して、彼女の意思はそう望んでいるはずだというのに――

「(でも……なんで、体は気持ちいいの……ッ!?)」

 心が拒もうとも強制的に与えられる快楽に、彼女は少しずつ蝕まれていくのだった。





コメント

  • トリュウ♪

    毎日の更新を楽しみにしています。これからも頑張ってください

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